ヤマ(閻魔大王)、17世紀中頃、チベット
出典:Yama (Buddhism) - Wikipedia
フミ:
最初の質問と似ているのですが、
「閻魔様なんているわけないじゃん!」
という主張が現代では主流のように思うのです。
私もこのチベット死者の書の勉強するまでは、
死後の世界についてはあれこれ調べても、
死後の裁きについて関心をもったことすらありませんでしたからね🤔
フミ:でどうせならと、ネットでいくつか閻魔大王いるわけないじゃん!
という意見を拾ってきたので、ちょっと伺ってみようと思います。
元はバカっぽい記事だったのですが(失礼)
AIに要約させたら、わりと良いこといっている感じになりました😄
例えば、宇宙からの訪問者を助けた結果、その宇宙人によって人類が絶滅したとします。
これは荒唐無稽な話ではなく、植民地時代に同じようなことがおきました。
アフリカ、南米、インディアンは白人たちによって奴隷にされたり全滅、大変ヒドい目にあわされた。
異なる文化や国の人々は、死や道徳に対する考え方が異なる。
善悪の行為は、来世に影響するカルマとして残るという。
しかし、善悪の基準は誰が決めるのか?
時代や文化によって変わるのではないか?
そして、その善悪の基準を決める存在は一体誰なのか?
閻魔大王:…
善と悪は確かに存在するのだ。
この人間は、物事を善と悪という抽象概念で単純化して、その善と悪を誰が決めるのか?と問うからおかしくなるのだ。
やったことが、やったまま返ってくるというのが、因果の法則の趣旨である。
これを単純化して説明するときに、善行と悪行という表現になる。
その単純化した過程を取り上げて、屁理屈を言っているだけだ。
物事を抽象的な言葉に置き換えた上で、その抽象化作業によって理屈が通らないから、ありえないと主張している。
そういう意味では、実にバカバカしいと言える。
回答は簡単だ。
お前が人にやったことを今度はやられてみろ。 これらが因果の法則なのだ。
人に暴力を振れば、さらなる暴力の生が始まり、
人に親切にすれば、親切にされる生が始まる。
とは言え、即座に鏡のように完全に変換してしまっては、永遠に堂々巡りになるから、
その体験の間に干渉が入り、ある程度分割されて、
他の要素と入り交じったものが返ってくるのだ。
閻魔大王:
また別の観点でも答えてみよう。
なによりここでの焦点は閻魔大王の裁きだ。
そこで決定されるのは、死者が次に何処世界へ赴くのか、ただ一つだ。
ラクチャー・マンチャム、劇では、善人も自分の父親を殺し、ラクダも殺している。
だが、しかし、それ以上に良いことをしているから、大変善い世界。浄土へいけた。
そうお話ではなっている。
これを寓話的だと思っているようだが、そのようなことは実際に起こりうるのだよ。
善いこと、悪いこと、それを総合的に判断して、
死者は次にどこへ向かうのかを決定することは、そんなに不自然なことかな?
例えば、会社員が1年間働いた末に、昇進するのか、給料は上がるのか、下がるのか。
そういったことを人間界でも日常的に判断されているだろう。
例えば、一つの仕事で、成果を出したが、強引過ぎて翌年で減益になってしまった。
あるいは、失敗したと思われていた仕事が、急に利益をあげるようになった。
確かに、一つの仕事を正確に判定することは難しい。
しかし総合的に、その人の給与を上げるか下げるか。昇進するか、降格させるかの判断をすることは、可能だろう。
社員の仕事ぶりを正確に会社の利益になるかどうかを完璧に判断できないから、昇格・降格制度を作ることはできない。とはならないだろう。
そして、閻魔大王の持ち物には浄瑠璃鏡がある。
これは死後の世界では嘘は通用しない。
すべての行動は明らかにされる。
ならば、人間の住む世界の判断よりもずっとたやすいのがわかるはずだ。
まとめ
フミ:
転生があるとするならば、
転生先を決める仕組みが必要である。
また地獄から極楽まで、生まれ変わる世界を死者が自由に選べるという話は、聞いたことがない。
(両親や国、特徴などある程度の選択肢はある)
そのため、転生があるなら、閻魔大王に相当する仕組みが存在するだろうというのが妥当である。
そんな感じですかね。
しかし、閻魔大王は裁判官だから、妙に理屈っぽいですね😅