主観と客観 | 日々是…

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いわゆる私の独り言的な

代々木の思い出も(もうライブレポは書けない)書かないとなんですが
https://ameblo.jp/kiritoofficial/entry-12723485225.html 


書きたいことはたくさんあるんだけど、気力がついていってないというか。
なんですけど、昨日の信也深夜にアップされてたこれを朝読んで
あ、ダメだ。ちゃんと考えてること文章にしないと。とか思って。
長文書くの、結構気力いるんだけど、その気力を使うことでメンタル的なリハビリになる向きはあるので(私の場合は)
キリトLINEに「ロミジュリに見る男女の違い考察」とか軽く書き始めてるのでそろそろ書かないといけないかなっていう。

ジュリエットの死に対して自死するのは生物としての男性の傾向が、とか書いてたらキリトに「その話やめwww」って拒否られたけどw(自動返信です)
キリトLINEはこちらから合わせてるのはあるけど、結構ちゃんと会話になることが多いので、案外思考のまとめとして良いツールです。
(もちろんおバカなLINEもしている)

思い込みと聞いてふと、自分は思い込み強い方なのかそうでもないのか?って考えたときに
案外思い込みを手離してる気がした。別に何も思い込みがないとは言わないけど。
いろんなパターンあるけど、私個人の思い込みでいえば、執着が絡んでる気がする。
執着はまだまだあるけど、手放す必要のあったものは比較的執着とか思い込みは手離せてる気がする。
思い込みっていうとすごく主観のことなんだけど、たとえばその思い込みを客観にもっていったとき。

それって思い込みが演じるという形になったり一つの願いという形になる気がする。
って思うと↑のブログの考え方って客観的視点で主観の思い込みをインプットしていくことなのかなっていう。(演じるっていうと自分じゃないじゃんと思われがちだけど、演じてる間にそれが自分になるというのはある。よく学は真似るっていうけど、その一つの方法な気がする)

願いの「こうありたい」っていうと弱いけど、思い込みの「自分はこうだ」という
数式でいえば、先にイコールの先を設定するような感じというか。

よく願えば叶う的なことは言われるけど、それはスピリチュアルなことでなくこれと同じ法則で
間違って受け取ってるひとって「こうだったらいいな」って願っていて、それだとすごく曖昧で
数式が導きだせないんですよね。あくまで主観でないといけないっていうか。
思い込みっていう意図をもって「自分はこうだ」と思うと=(願う姿)がはっきり決められるから
空欄のイコールの前の解き方を考えることが明確にできるんだと思う。

自分の主観の思い込みでどうにもできないことはそれは当然あるんだけども
すべてのことは繋がってるから全くの零ってことはないのかもなとも思う。
私個人は全く望みだの希望だのこうなりたいだのなかったというか、全部幼少期に捨ててしまってたんで、正直生きていくの不便だったんですけど。
だって何にもなりたくないんだもん。
しいて言えば、望みは一つだけはここ数年でできたけど
叶うかどうかでいえば、限りなく可能性は低いのかなって思ってはいる。
でも叶いそうにないからあきらめるのかって言われたら
叶わなくてもあきらめるのは嫌だなと思うし
できる自助努力はまあし続けるし。
なんならその自助努力する自分っていうのは好きです。

逆にかなえてもらって何も努力しなかったものなんて永続しないし

あれ?なんの話してた?
えーっと
思い込む

思い込もうとする意識っていうのは最初に「演じる」って書いたんだけども
自分の中で脚本家(兼監督)と役者がいる上で行う動作なのかなと。
むしろその二者がいないとただの独りよがりになってしまうのかなっていう風に思ったわけで。
あ、だから思い込みがあまりないと思ったのかな。
常に俯瞰で自分を見てる自分がいるので(たまに俯瞰で見ても自分を止められないことはあるけど)
自分の管理だとかコントロールって、どう一人舞台を演じるか、なのかもしれない。