◯フレージング考
歌舞伎の話を聞いて、思い当ることがありました。
「忠臣蔵」「千本桜」は義太夫狂言といって、義太夫節という音曲を使って上演されるそうです。これは、歌舞伎のためでなく、義太夫節の人形芝居のために創られた劇曲だそうです。歌舞伎に、大阪で大流行していた義太夫節の人形芝居を移入したわけです。
さて、この義太夫節、語りものの音曲ですから、音楽的に歌いあげられます。
ところが、高いところと低いところという指定があるだけなのです。
つまり、謡い手が自分の声域のなかで自由に高低を設定できるわけです。
しかも、小節の長さは決まっていても、個々の音符の長さは指定されていないのです。
「上方歌舞伎」で芸術選奨文部大臣新人賞を取った演劇評論家、水落潔氏は、
「春のうららの」を「ハールのうららの」と語っても
「ハルーのうららの」と語ってもよいと述べていました。
この自由さ柔軟さが日本の音楽の特徴です。
水落氏は、間と音との重要性を指摘しています。
間の巧拙によって、音楽が活きも死にもするということです。
私が述べたフレージングの考えも、まさに、この考えの上にあるわけです。
どちらかというと、現代の日本人の声に批判的で、世界の一流のヴォーカルやヴォイス、発声に忠実にヴォイトレを構築してきた私に、このことは、いろんな示唆をもたらしてくれました。
日本の古来の音楽にもある感性を現代的に生かしていけばよいという確信も与えてくれました。
所詮、根のところに何もなければ、他の国のアートをいくら真似たり研究しても何にもなりません。しかし、ここに一つ、確かに日本の音楽をインターナショナル的に発展させていけるルーツがあったのです。