本当は、日本語の文字と音も、
このような簡単な対応だけではありません。
アクセントをはじめ、様々な法則があるのですが、
外国語の複雑な発音 音声体系に比べると簡単だということです。
となると、ことばを発することがそのまま
彼らのような歌のレベルになることなど、
日本語に期待する方が無理なのかもしれません。
一音に一つの文字を当てていくような感じが、
歌の中で音符に対置してしまうのです。
音高も発音も、まさにそうでしょう。
歌うときに、フレージングを息の流れで大きく捉えることができず、
歌の表現やパワー、のり、しぜんな感情表現を欠く
大きな要因になっているようにも思うのです。
深いブレスとフレージング
外国人のヴォーカリストの歌をよく聞いてください。
彼らの歌には息つぎのときに深いブレス、
つまり息つぎの音がストレートに聞こえます。
日本人の歌は、きれいに流れて、ブレスなどほとんど入っていません。
すべてがそうではありませんが、
こんなことも外国人か日本人かの判断の基準になってしまうでしょう。
外国語らしく、あるいは歌らしく聞こえる要素の一つに、
息の流れ、息の線が見えるということを私は感じています。
外国人の吐き出す息の強さは相当なものです。
その前提として、しっかりした太い声、
ハスキーな声を魅力的に感じる外国人との感覚の違いがあるのかもしれません。
極端に言うと、歌はブレスであり、フレージングです。
歌のことばや発音よりも、歌その描き出す線、
そのフレージングに気持ちのよさを感じ、その歌を心地よく思います。
息の線
声がかすれようと、ことばがあいまいになろうと、
そこに歌を引っ張っていく息の線がつながっていたら、
その歌は生きている、命をもって働きかけてくると感じます。
たとえば、外国人のハスキーなヴォーカリストの声の魅力、
それは、喉声だからではありません。
日本では、世界で受け入れられたからと慣らされ、
理解されてきた本物のヴォーカリスト、その魅力がそこにあると思っています。
日本人というのは、そういう面では島国根性で、
日本からそういうヴォーカリストが出ても評価もしないのに、
世界でヒットを飛ばしたヴォーカリストに関しては、
頭から理解しようと受け入れ体制を整えるのです。
まだまだ音声文化に関しては発展途上国、
声に関しては後進国であることは否めません。