声、語り、歌、ヴォイストレーニング1日1話

声、語り、歌、ヴォイストレーニング1日1話

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『声を身体に入れ、歌を創造する』@036  294 

 

 

 ヴォーカリストに必要なのは、与えられた曲を正確に歌う力だけではありません。

 

 基本を土台に、どんな曲にも自分なりに対応できる応用力を身につけ、

声、身体、ことば、感情、音楽を一つにつなげていくことが必要です。

 

 『ばら色の人生』『枯葉』など、スタンダードな課題曲を通して、

楽譜にことばを当てはめるのではなく、ことばを身体から出し、

そこへメロディとセンスを加えていく方法を学びます。

 

 ステージでは、内側に凝縮したものを一気に開放し、

一人の客にも働きかける力が求められます。何かをうまくこなすことが目的ではありません。

 

 一度つくったものを壊し、そのなかに残った確かなものを手掛かりに、

さらに大きな表現へつくり直す。その繰り返しによって、

他人にはない自分の声と歌が生まれます。

 

 

 

 

 

 

はじめに

 

 歌を学ぶとき、多くの人はまず曲をうまく歌おうとします。音程を合わせ、リズムを覚え、歌詞を覚え、楽譜どおりに歌えるようにする。しかし、それだけではヴォーカリストとしての力にはなりません。

一曲のなかで、一つのことに気づく人より、十のことに気づく人の方が多くを学んでいます。同じ曲を聞いても、声の質、息づかい、身体の使い方、ことばの置き方、リズム、間、フレージング、感情、音楽的な流れなど、いくつものものを同時に捉える必要があります。

そのためには基本が必要です。

自分の得意な音域、自分の持ち味、自分の歌いやすい曲だけで力を発揮できても、それだけでは応用力とはいえません。ど真ん中に球が来たときだけホームランを打てるのではなく、少し外れたところへ来た球にも対応できる力をつける。歌も同じです。

 

 『ばら色の人生』や『枯葉』のような一見異なる曲に取り組むのは、そのためです。曲を覚えることが目的なのではありません。異なる曲のなかから、自分の声の問題、日本語の問題、メロディの問題、表現の問題を発見していきます。

特に日本語で歌うと、楽譜に言葉を一音ずつ当てはめるだけでは、ことばが死んでしまうことがあります。

 『アンジェリータ』なら、音符どおりに均一に歌えばよいのではありません。そこには呼びかけがあります。『アンジェリータ』という名前を、なぜ何度も呼ぶのでしょうか。なぜ歌にしなければならないのでしょうか。その意味を考える必要があります。

歌は、ことばをメロディに乗せるだけのものではありません。

ことばが身体から出て、そこにメロディが加わり、その二つを自分のセンスによって一つにしていくものです。

 

 そしてステージでは、内側に凝縮してきたものを開放します。二十人しか客がいなくても、一人でも相手がいるなら、そこにはコミュニケーションの空間があります。

大勢の客を前にしたから力を出すのではありません。一人に対しても、自分の歌によって何かを変えることができるかどうかです。

本当のライブは外にあるのではなく、自分の内側にあります。

自分のなかで問題を見つめ、凝縮し、それをステージで開放する。何度も歌い、できたものをまた壊し、そこから残った確かなものを手掛かりにして、さらに大きなものをつくる。

五十できたなら、その五十を守るのではなく、五だけ残して壊してみる。その五が本物なら、そこから次の百をつくることができます。

 

 歌を学ぶとは、完成品を保存することではありません。

壊しても残るものを探し、それを自分の核として育てていくことです。

その積み重ねによって、声にも歌にも、その人だけの人間観や世界観が表れてきます。

 

 

 

[1] 基本の上に応用力をつくる

 

1 得意な曲だけでは足りない

 プロのアーティストの歌を、よいものも悪いものも含めて、できるだけ多く聞くことです。

同じ曲を聞いて、自分ならどう歌うのかを考える。さらに、別の曲が来たときにも、自分なりの歌にできるかを考える。

ヴォーカリストに必要なのは、一つの型をうまく再現する力だけではありません。

自分の持ち味が生きる曲だけを選んでいると、自分の得意な範囲から出られなくなります。

ど真ん中に来た球だけを打つのではなく、少し外れたところに来たものにも対応する。そのためには、基本を広く身につける必要があります。

 

2 基本は応用の土台

 基本ができていないと、応用力は出てきません。

発声、呼吸、音程、リズム、ことば、身体の使い方など、一つひとつを身につけることは、自由になるための準備です。

基本を固めると自由がなくなると思う人もいますが、実際には逆です。

身体が声を支えられないと、高音へ行った瞬間に苦しくなります。ことばを身体から出せなければ、メロディに乗ったときに口先だけになります。

自由に歌うためにこそ、自由に使える身体と声が必要です。

 

3 一曲から十を学ぶ

 一曲を聞いて、一つしか気づかなければ、その一つを持ち帰ればよいでしょう。

しかし、十のことに気づける人は、同じ一曲から十倍のものを持ち帰ることができます。

声の厚み、息の流れ、ことばの処理、音の入り方、フレーズの終わり方、間、リズム、音色、身体、感情。

聞くときに、歌がうまいかどうかだけを判断してはいけません。

何が自分に使えるのかを探すことです。

聞く力が育てば、歌う力も変わります。

 

4 生身の身体で捉える

 息を思い切り身体から吐けば、それだけ反動で息が入ってきます。

身体を使えば、身体から反応が返ってきます。

これは理論だけで理解するものではありません。実際に身体を使い、声を出し、その反応を感じる必要があります。

歌は、頭のなかだけで完成するものではありません。

身体が動き、息が動き、声が動き、その結果として歌が生まれます。

身体を使っていない歌は、どこか薄くなります。声を大きくするという意味ではなく、声の背景に身体が感じられることが重要です。

 

5 感情を着飾らない

 感情表現でも、着飾りすぎると動けなくなります。

声をきれいに聞かせよう、悲しく聞かせよう、上手に聞かせようとするほど、本当に伝えたいものが隠れてしまうことがあります。

今は、裸になったものが勝ちです。

自分の感情を加工しすぎず、身体から出してみる。そこから、必要なものだけを整理していけばよいのです。

最初から完成された表現をつくろうとするのではなく、自分のなかにあるものを外へ出すことから始めます。

 

6 人間を感じさせる

 よい歌には、人間が存在します。

息づかいが聞こえる。声が聞こえる。身体が見える。そして、聞いている人の身体まで動かされる。

それが表現です。

なかには、人間を超えたような存在感を持つ人もいます。しかし、その前提には、人間としての生々しさがあります。

技術だけを前面に出すのではなく、声の奥に一人の人間がいることを感じさせる。

時代が変わっても、この部分は失ってはいけません。

どれほど有名なヴォーカリストを目標にしても、その人のコピーになるのではなく、まず自分という一人の人間の価値から出発することです。

 

 

[2] ステージで時空を変える

 

1 ステージでは変わる

 ステージに立ったら、普段と同じではいけません。

客席から、待ってましたという感覚が生まれるくらいの変化が必要です。

それは派手な動作をするという意味ではありません。声、目線、表情、身体、存在感によって、空間の空気を変えるということです。

その積み重ねが実績になります。

練習で一度できたことではなく、ステージで何度も空間を変えてきた経験が、ヴォーカリストをつくります。

 

2 一人でも客は客

 二十人程度の客席でも、一人でも相手がいればコミュニケーションの空間になります。

大勢の客がいるから頑張るのではありません。

一人に対して、自分の歌が何を起こすのかを考えることです。

一人の相手の表情が変わる。一人の身体がこちらへ向く。一人の人間が歌を聞こうとする。

そこまで働きかけられるかどうかが重要です。

人数に頼るのではなく、一人の人間と向き合うことから、ステージの本質を学びます。

 

3 本当のライブは内側にある

 外のステージだけを目標にする必要はありません。

自分のなかで問題を見つめ、それを凝縮する。そしてステージで開放する。

この内側の作業ができていれば、どこで歌っても、自分のライブをつくることができます。

場所が変われば自分も変わるのではなく、自分が変わることで場所が変わる。

その感覚を身につけることです。

 

4 客を賞賛者にしない

 ライブでは、客が必ずしも歌を真剣に聞いてくれるとは限りません。

演奏者が頑張ったことを評価して、それで終わることもあります。

それではヴォーカリストとしては充分ではありません。

歌を聞かせるというのは、頑張ったことを認めてもらうことではありません。自分の歌によって、相手のなかに何かを起こすことです。

客の反応を待つのではなく、自分から働きかけます。

 

5 客もアーティストも学び合う

 レッスンの場では、皆が客であり、アーティストでもあります。

他人の歌を聞いたら、感心して終わるのではなく、自分のなかへ取り入れるものを探します。

この人の声のここがよい。このフレーズのここがよい。この間の取り方がよい。

そして、自分ならどう変えるかを考えます。

他人のよいものを認めることは、自分の個性を失うことではありません。むしろ、多くを取り入れたうえで、自分に必要なものを選ぶ力が個性をつくります。

 

6 与えた人が一番得をする

 ここへ宝探しに来ても、宝はありません。

宝は自分のなかにあります。

そして、それを磨くには、他人に与えてみることです。

歌う。教える。聞かせる。意見を言う。誰かの歌について考える。

自分が与えることで、自分が一番学ぶことになります。

ヴォーカリストとは、自分のなかにあるものを歌によって他人へ与える人です。

与えたものは失われません。

むしろ、人に与えるほど、自分のなかで確かなものになっていきます。

 

 

[3] 歌でことばを生かす

 

1 外国語の名前を日本語として扱う

 『アンジェリータ』という名前は外国語だから発音が難しいのではありません。

問題は、その名前を一つの流れとして歌えているかどうかです。

特にリータの部分など、音のつながりを意識する必要があります。

『アンジェリータ 今も呼ぶよ』というフレーズを、一つの流れとして捉える。

音符を一つずつ処理していくのではなく、ことばとして聞いたときに何が伝わるかを確認します。

外国語の名前であっても、歌う人の身体を通して出てくる以上、自分のことばとして扱う必要があります。

 

2 ことばそのものを感情にする

 『アンジェリータ』という名前を発音するだけで、感情が伝わるところまで持っていくことが基本です。

この曲は戦争を背景とした反戦の歌です。

大げさに反戦を演じる必要はありません。しかし、その背景を知らずに、音符だけを追って歌ってはいけません。

なぜこの名前を呼ぶのか。なぜ何度も呼びかけるのか。

ことばそのものに感情が宿れば、歌として伸ばしたときにも、その感情が残ります。

 

3 音楽にすることでパワーを増す

 『アンジェリータ』と言うだけなら、ことばの長さで終わります。

しかし歌では、アンジェリータを伸ばします。

アーンジェリータ、と音楽にすることで時間が生まれます。その時間のなかには、当然、ことば以上のパワーが必要になります。

身体がついていて、感情が伝わる。

そこまでできて、ようやく基本的な歌として成立します。

そのうえで、同じ『アンジェリータ』でも、呼び方を変えたり、間を変えたり、音色を変えたりして、自分なりの音楽的なセンスを加えていきます。

 

4 発声より先にことばを立てる

 ことばが生きて聞こえない状態で、いきなり歌へ進んではいけません。

まず『アンジェリータ』と言ってみる。

次に『アンジェリータ 今も呼ぶよ』と言ってみる。

それが身体から出ているかを確認します。

口先だけで歌らしくつくろうとすると、発声の形だけが聞こえます。

発声はできているのに、何も伝わらない歌になる。

ことばが生きて聞こえることを先に確認し、その後でメロディへ進みます。

 

5 朗読から歌へ

 『今も呼ぶよ』を朗読するとき、いま、も、よぶ、よと均一に切ることはありません。

歌になった途端に、それを全部同じ長さで並べてしまうと、ことばの自然な流れが失われます。

『いまも、呼ぶよ』という日本語の感覚を残したまま、メロディを扱います。

特に、ぶ、よ、もなど、口のなかにこもりやすい音には注意します。

歌うために日本語を壊すのではなく、日本語を生かしたまま音楽へつなげることが必要です。

 

6 日本語の助詞を生かす

 日本語では、助詞の扱いが難しいものです。

『今も呼ぶよ』の、も、や、よなどを均一に伸ばすと、日本語としての意味が薄れます。

演歌など、日本語のことばを生かしている歌を聞くことも参考になります。

同時に、ゴスペル、ブルース、ヘヴィメタルなど、さまざまな音楽を聞き、フレージングや音声の感覚を広げます。

『いまもお呼ぶうよお』ではなく、『いまも、呼ぶよ』。

この違いを身体でつかむことです。

 

 

[4] フレーズを立体的にする

 

1 イ行を練習する

 『アンジェリータ いずこ行きし』では、イ行の処理が一つの課題になります。

母音によって声が細くなったり、口先へ逃げたりする人は少なくありません。

一つの母音だけを部分的に直すのではなく、フレーズ全体のなかで、その音がどう動くかを考えます。

いくつかのバウンドを持った流れのなかに、ことばを生かしていきます。

音一つではなく、フレーズとして声を捉えることが大切です。

 

2 音色を統一する

 『アンジェリータ 今も呼ぶよ アンジェリータ』では、フレーズが続いていきます。

そのとき、音域によって声の質を変えすぎないことです。

統一した音色を保ちながら、流れを失わない。

そのうえで、どこを大きくするか、どこを聞かせるかを考えます。

全部を均等に歌うのではなく、フレーズのなかに立体的な構造をつくります。

 

3 区切りすぎない

 一つひとつの言葉を明確にしようとして、全部を細かく区切ると、歌は小さくなります。

『アンジェリータ 今も呼ぶよ アンジェリータ』を四つの小さな塊に分けてしまうのではなく、全体の流れとして捉えます。

必要なところでことばを区切り、必要なところでは大きくつなぐ。

どこで聞かせるかを先に決めて、そのためにことばを配置します。

 

4 情景をイメージする

 『月だけが輝く』ということばを歌うなら、実際に月が出てきて、夜の大地が見えるようでなくてはなりません。

音程を合わせただけでは、月は見えてきません。

ことばが身体から出て、その声に具体的なイメージが乗ることで、聞く人のなかにも景色が生まれます。

歌詞を説明するのではなく、歌う人のなかにその景色を持つことです。

 

5 低音を身体で支える

 『オーオー』のような音は、口先で軽く歌うと簡単に薄くなります。

低音部だからこそ、どこまで太い声で言えるかが問われます。

音符に乗ることばかり考えず、まず身体から声を出す。

そのうえで、日本語としてのことばの感覚を加えていきます。

外国語の歌を聞いて、そのまま口先だけを真似してはいけません。外国人ヴォーカリストの声の厚みを聞き、その背景にある身体の使い方を考えることです。

 

6 声の質感を保つ

声の質感が途中で変わると、歌全体が不安定になります。

高くなったときに上へ逃げる、低くなったときに声が薄くなる、母音によって声が変わる。

こうした問題を一つずつ確認します。

声を音符に合わせるのではなく、音符のなかに自分の声を入れていく。

そのためには、まず自分の声を身体のなかで安定させる必要があります。

 

 

[5] スタンダード曲を日本語を歌う

 

1 歌詞を語る

『あなたゆえのわたしよ』を、そのまま音符へ当てはめると、わたーし、ゆえーの、あなーたよおーという歌い方になりやすくなります。

しかし、それでは日本語の自然な流れが失われます。

まず、ことばとして『あなたゆえ』と言ってみる。

その次にメロディを加える。

ことば、メロディ、センス。

この三つを順番に扱っていくことで、単に楽譜を歌う状態から離れていきます。

 

2 四つに切らない

『あなたゆえのわたしよ わたしゆえのあなたよ』を、四つの部分にぶつ切りにすると単調になります。

一つの流れに入れて、統一感を出します。

少し切る。少し伸ばす。どこかを強くする。どこかを軽くする。

そうした変化を自分でつくっていくことです。

楽譜に書かれていない部分を、自分のセンスでつくることが、歌い手の仕事になります。

 

3 ことばを先に歌う

メロディをつける前に、ことばだけで歌ってみることです。

『あなたゆえ』という日本語が、どういう感情で出てくるのかを確認します。

そのあとでメロディをつけます。

最初はメロディを少し切り気味にしてみる。次には少し伸ばしてみる。

聞いている人は、あなたの、の、たが言えているか、ことばが一つのフレーズに入っているかを聞きます。

歌い手自身も、録音して確認することです。

 

4 身体の見える声

歌っているときに、身体が見えるかどうかも大切です。

声だけが上へ逃げて、身体が置き去りになっていると、声に厚みがなくなります。

身体から出せる声を使い、その感覚を一度つかんでおく。

言葉は、ババボビブでも、ララレリリでも構いません。同じ太さで音声を統一してみます。

一つのことばを何度も繰り返し、身体で引っ張る感覚をつくります。

 

5 最初で使い切らない

『ばら色の人生』では、最初のラララで息も身体も使い切ってしまい、その後を上の響きだけで逃がしてしまうことがあります。

これでは、歌全体を支えられません。

最初の部分から身体を使い、最後まで声を保つ必要があります。

たかだか三度程度の音域であっても、声を十分に扱えなければ、音域が広がったときにはさらに口先へ逃げてしまいます。

小さな音域のなかで声をつくることが、広い音域を扱うための基礎になります。

 

6 外国人ヴォーカリストから学ぶ

自分の声の厚みが分からないときは、外国人ヴォーカリストを聞いて、一緒に歌ってみることも一つの方法です。

音量感、厚み、音質、声の太さなどを比較すると、自分の声との違いが見えてきます。

これは外国人の声をそのまま真似するということではありません。

日本語を歌うときにも、身体を充分に使って声を出せることを知るためです。

外国人の日本語歌唱と日本人の歌唱を比べることでも、日本語の処理と発声の違いが見えてきます。

 

 

[6] 壊して、残して、つくり直す

 

1 歌いこなす前に声をつくる

 ヴォイストレーニングとステージ上の表現は同じではありません。

ステージでは、声にさまざまな響きや脚色、感情表現が加わります。

しかし、その前に、声と息を充分に使い、それを一つのものとしてまとめる基礎があります。

歌いこなす前の歌をつくる。

プロとしての表現へ進む前に、プロになるための声をつくる。

この順序を忘れてはいけません。

 

2 完成したと思ったら壊す

 一度できたものを、そのまま守っているだけでは、成長が止まります。

できたものを、もう一度壊してみる。

それは怖いことです。せっかく身につけたものを失う可能性があるからです。

しかし、壊しても残るものがあります。

その残ったものこそ、自分の本当に確かな部分です。

 

3 五十から五を残す

 五十できたなら、その五十を全部保存しようとするのではなく、五だけ残して、あとは壊してみる。

その五が確かなものなら、そこから次は百をつくる。

そして、また壊す。

こうした作業を繰り返すことで、自分の表現の核が強くなります。

残る一割の部分が、確実なものになっていく。

創造とは、積み上げるだけではなく、壊すことでもあります。

 

4 ジャンルを全体で捉える

 ジャズやゴスペルを、単なるジャンルとして分類して避けないことです。

その音楽を通して、歌い手が何を見ているのかを考えます。

一人の歌い手を聞くときも、その人の声だけでなく、その背後にある歌の世界、人間の世界を見る。

印象派の絵を単なる風景画として見るのではなく、そこに凝縮されているものを見るように、音楽も全体から捉えます。

ジャンル名を覚えることより、その音楽のなかで人間が何を表現しているのかを見ることです。

 

5 日本人として何を伝えるか

 どこで歌っても、日本人には日本人としてのルーツがあります。

外国の音楽を学ぶことは、日本人でなくなることではありません。

むしろ、外の音楽を深く学ぶことで、自分が何者なのかが見えてきます。

何を伝えたいのか。

自分は何を経験してきたのか。

何を大切にしているのか。

歌のなかに、その人の人間観や世界観が見えてくることが必要です。

 

6 アーティストの活動拠点をつくる

 ここは、どこの誰よりも一所懸命にやっている人が集まる場所。

一人のアーティストがすべてを変える。

そのような人が何人か出てくれば、日本のヴォーカル界も変わります。

そのためには、互いの価値観を認めながら、互いに妥協しないことです。

ここで認められれば世界に通じる、少なくともどこのライブハウスを超える、というくらいの基準を持つ。

考え方、思想、精神において、本物のアーティストと同じところまで自分を高める。

そのために、ここを実験場として使うことです。

一度歌えたら終わりではありません。

何度でも歌えるようにする。

できたものを壊す。

残ったものを磨く。

また新しい歌をつくる。

その繰り返しのなかで、自分の声、自分のことば、自分の音楽が生まれてきます。

 

 

 

さいごに

 

 ヴォーカリストのトレーニングでは、うまく歌えることだけを目標にしてはいけません。

うまく歌うという言葉には、いろいろな意味があります。音程が正確であること、リズムが合っていること、歌詞を間違えないこと、声がきれいであること。それらは必要です。

しかし、それだけでは歌になりません。

一声を出したときに、その声から人間が感じられること。

その人が何を伝えようとしているのかが感じられること。

その声を聞くことで、聞いている人の身体や心に何かが起こること。

そこまでいって、初めてヴォーカルの表現になります。

 

 そのためには、基本が必要です。

身体を使う。

息を使う。

声を使う。

ことばを身体から出す。

音程とリズムを身につける。

音色をそろえる。

フレーズをつなぐ。

これらを繰り返すことです。

 

 そして、基本ができたら、そこから応用していきます。

自分の得意な曲だけではなく、苦手な曲にも取り組む。自分とは違うタイプの歌い手を聞く。ジャズを聞き、ゴスペルを聞き、ブルースを聞き、ヘヴィメタルを聞く。外国人ヴォーカリストも聞く。

一つの音楽に閉じこもらないことです。

多くを聞けば、自分のなかに比較する基準ができます。

そして、聞いたものをそのままコピーするのではなく、自分に必要なものを選びます。

 

 『アンジェリータ』なら、外国語の名前だからと構えるのではなく、まずことばとして言ってみる。

『アンジェリータ 今も呼ぶよ』ということばが、自分の身体から出ているか確認する。

そのあとにメロディをつける。

メロディをつけたときに、ことばが死んでいないかを確認する。

そして、最後に自分のセンスを加える。

ことば、メロディ、センス。

この三つを一つにすることが、歌をつくるということです。

 

『ばら色の人生』でも同じです。

楽譜に日本語をそのまま当てはめてはいけません。

『あなたゆえのわたしよ』ということばを、まず自分のことばとして言う。

その後でメロディをつける。

そして、身体から出る声を保ちながら、どこを伸ばし、どこを切り、どこを聞かせるかを考える。

この作業を繰り返すことで、楽譜を歌う人から、歌をつくる人へ変わっていきます。

 

 ステージでは、内側に凝縮してきたものを開放します。

一人でも客がいれば、その一人に働きかける。

大勢だから力を出すのではなく、一人の人間に対して、自分の歌で何かを変える。

その経験を積み重ねていくことです。

そして、ステージでできたことを、そのまま完成品として保存しないことです。

また壊してみる。

五十できたなら五だけ残す。

その五が確かなものなら、そこから百をつくる。

また壊す。

そうして残っていくものが、自分の本当の核になります。

 

 創造には耐え難い苦しさもあります。

せっかくつくったものを壊すのは怖いことです。しかし、壊さなければ、新しいものは生まれません。

歌い手として成長するとは、昨日よりうまく歌えるようになることだけではありません。

昨日の自分が正しいと思っていたものを疑えるようになることです。

一度つくった声を壊し、もっと自由な声を探す。

一度つくったフレーズを壊し、もっと自然なことばを探す。

一度つくった表現を壊し、もっと深い人間の感情を探す。

それを恐れないことです。

そして最後には、自分のなかに残ったものを信じる。

 

外に宝を探しに行く必要はありません。

宝は、自分のなかにあります。

それを自分で磨き、人に与える。

歌にして与える。

そのとき、自分が一番学んでいるのです。

 

 ヴォーカリストとは、自分の声を持っている人ではありません。

自分の声を通して、自分のことばと、自分の生きてきたものを、人に与えられる人です。

一人の人間として何を感じ、何を考え、何を経験してきたのか。

そのすべてを声に凝縮する。

そして、ステージで開放する。

その繰り返しのなかから、他人には代えられない一人のヴォーカリストが生まれます。

 

 本物のアーティストとは、完成した人ではありません。

つくり、壊し、残し、またつくる人です。

その創造を続けられる人です。

 

 そのために、声を鍛える。

ことばを磨く。

音楽を聞く。

身体をつくる。

そして、自分自身を深く生きる。

そこから生まれる歌こそが、どこへ行っても通じる、自分だけの歌になっていくのです。

 

 

『声を身につけ、歌を自分のものにする』@035  293  

 

 毎日のトレーニングからステージ実習まで

 

 

 ヴォーカリストに必要なのは、歌を一曲うまく歌うことではありません。

 

 毎日のトレーニングによって声を身体に定着させ、何度でも同じように使える声をつくり、

そのうえに自分の表現を重ねていくことです。

 

 発声、呼吸、子音、母音、レガート、ハミング、響き、

一オクターブの統一、高音、シャウトなど、基礎を積み重ねながら、

実際の歌では歌詞の意味を深く読み、誰に何を伝えるのかを考えます。

 

 ステージでは、音程やリズムだけでなく、表情、目線、身体、間、声の質感まで含めて、

自分の存在を客席に届けなくてはなりません。

 

 練習とは、ベターで妥協することではなく、一度出したベストを何度でも

再現できるところまで追い込むことです。

 

 グループレッスンもグレードもクラスも、目的ではありません。

 

 最終的には、トレーナーに依存せず、自分自身で課題を発見し、

練習し、表現をつくっていくことです。

 

 

 

 

 

 

はじめに

 

 ヴォーカルのトレーニングでは、歌をたくさん歌えばよいというものではありません。歌うことそのものが練習になる場合もありますが、歌う以前に身につけておかなければならないものがあります。それが声を支える身体であり、呼吸であり、発声であり、声を自由に扱うための基礎です。

毎日のトレーニングメニューをつくることには大きな意味があります。三十分程度でも、自分が何を目的として行っているのかを明確にして、毎日繰り返すことです。子音のトレーニング、あいうえおの歌、レガート、ハミング、響き、一オクターブをそろえる練習、高音、シャウトなど、さまざまな課題があります。さらに、なわとびや散歩をしながら呼吸を意識することもできます。

 

重要なのは、メニューの多さではありません。自分の身体と声に何が必要なのかを知り、それを毎日の生活のなかに組み込むことです。練習時間が取れないという人もいます。しかし、忙しいから練習できないという状態から、短い時間でも何かを行う生活へ変えていくこと自体がトレーニングになります。

 実際の歌になると、問題はさらに複雑になります。一曲を歌う場合でも、単に音程とリズムを合わせればよいのではありません。主人公は何を経験したのか、なぜ待ったのか、なぜ去るのか、なぜ友達に伝言を託したのか。その人物の内面を想像し、自分の経験や感覚と重ねながら、声と言葉にしていく必要があります。

 

そしてステージでは、練習でできたことを人前で再現しなくてはなりません。そこでは、歌詞を覚えているか、音程が合っているかだけでなく、客席に何を伝えるのかが問われます。歌い手が自分の世界に閉じこもってしまえば、客との関係は生まれません。

ステージ実習は完成品を披露する場ではありません。むしろ、失敗し、壊し、自分の足りないところを発見する場です。無難にまとめることよりも、何かを試してみることが大切です。

 

一曲を一度うまく歌えたことよりも、同じ歌を何十回、何百回と歌って、そのなかから新しい発見を得ることの方が大切です。時間をかけた人だけが見えてくるものがあります。

 ヴォーカリストは、検定を受けて合格する職業ではありません。グレードも、順位も、評価も、本来は目的ではありません。それらを利用して、自分の現在地を知り、次に何を身につけるべきかを考えるためにあります。

 

最終的には、トレーナーがいなくても自分で練習できる人にならなくてはなりません。グループレッスンも、個人レッスンも、そのための過程です。自分自身がアーティストとして立ち上がるために、声を身体につけ、歌を自分のものにしていくことが、このトレーニングの目的です。

 

 

 

[1] 毎日のトレーニングを組み立てる

 

1 練習を生活のなかに置く

 毎日のトレーニングは、三十分程度でもよいので、自分自身のメニューをつくってみることです。大切なのは、毎回同じことを漫然と行うことではありません。何のために行っているのかを理解して、自分の課題に合わせて組み立てることです。

子音のトレーニング、母音の練習、レガート、ハミング、響き、一オクターブをそろえる練習、高音やシャウトなど、基礎課題はいくつもあります。しかし、全部を一度に完成させようとする必要はありません。声の状態をみながら、必要なものを選んでいきます。

なわとびや散歩をしながら呼吸を意識することもできます。声だけを鍛えるのではなく、身体そのものを使える状態にしていくことが、ヴォイストレーニングの基礎です。

2 子音と母音を分けて扱う

 歌になると、言葉は旋律のなかに埋もれやすくなります。そこで、子音を独立して扱う練習が役立ちます。

子音が弱ければ、言葉の輪郭がぼやけます。反対に、子音だけを強く出そうとすると、歌全体が硬くなります。必要なのは、子音によって言葉を明確にしながら、母音へ自然につなげることです。

「あいうえおの歌」も、そのための基礎になります。母音の違いによって声が変わることを知り、それぞれの母音で無理なく声を保てるようにします。

言葉を明瞭にすることと、言葉を立てすぎることは違います。歌のなかで言葉が自然に聞こえるためには、発音そのものだけでなく、息と声の流れが必要です。

3 レガートと維持音

 受講生の問題には、スタッカートなら声が出るのに、レガートになると息が漏れてしまうというものがありました。これは声をつくるうえで重要な問題です。

短い発声なら一瞬の力で声を当てることができます。しかし、声を伸ばすとなると、身体と呼吸と声の関係がそのまま出てきます。そこで、維持音をつくる必要があります。

「ハッ」というスタカートが出ても、「ハー」というレガートでのどにかかるのであれば、まだ声が身体に定着していません。体調や空腹、満腹などによって声が変わることもあるでしょう。そうした変化を感じること自体は、自分の声を知る材料になります。

短い音だけでなく、伸ばした声を安定させること。そのなかに、声を支える身体の状態が表れます。

4 ハミングと響き

 ハミングは、声の響きを感じるための基本的な方法の一つです。声を大きく出そうとするのではなく、身体のなかで声がどう動いているかを感じます。

響きのトレーニングでも同じです。響かせようとして力を入れるのではなく、声がしぜんに響く条件を探します。

声を前へ出そうとして鼻や喉など特定の場所に力を集めると、かえって自由を失うことがあります。声は身体全体の状態によって変わります。

一つの響きを固定するのではなく、声の通り道を広げ、さまざまな音域や母音に対応できる声の器をつくることが大切です。

5 一オクターブをそろえる

 低音と高音で別の声になることは、初心者に限った問題ではありません。音域によって声質が変わりすぎると、一曲のなかで声の存在感がつながりません。

一オクターブをそろえる練習は、単に音程を合わせるためだけのものではありません。声の質をつなぎ、低いところから高いところまで同じ身体の感覚で扱えるようにすることが目的です。

高音になると大きな声になってしまう、声が裏返る、苦しそうに聞こえるという課題も、声の器が十分に育っていないことと関係しています。

高音を頑張って出すのではなく、高音まで支えられる身体と声をつくる。そのための時間が必要です。

6 ベストを再現する練習

 トレーニングの基本は、ベストを出していくことです。十回行って一回だけベストが出たなら、その一回を基準にして、残り九回もそこへ近づけていきます。

ベターで妥協してはいけません。一度だけよい声が出たことを喜ぶだけではなく、なぜ出たのかを考え、何度でも再現できるようにします。

一曲を一回歌えたことも同じです。一回でうまく歌えたから終わりではありません。百回歌っても崩れない人の方が、声と身体の関係を深く学んでいます。

練習とは、成功を記録することではありません。成功を身体に定着させることです。

 

 

[2] 歌詞を読み、歌の世界をつかむ

 

1 歌詞を読む

 一曲を歌うときには、まず曲の状況を考えます。『ジョニーへの伝言』なら、主人公の女性はジョニーを待っています。しかし、ジョニーは現れません。

二時間待った末に、主人公はその町を出ていきます。そこには寂しさがあります。しかし、悲しみに沈みきっているわけではありません。未練を抱えながらも、自分で別れを決め、新しい方向へ進もうとしています。

この強さと寂しさが同時にあることが、この歌の大切な部分です。

歌詞に書かれていないことまで想像してみることも必要です。ジョニーには来られない理由があったのかもしれません。二人の間には、長い時間のなかで少しずつ変化したものがあったのかもしれません。

歌う人自身が、その空白を埋めていくのです。

2 主人公の立場に入る

 課題では、自分が三人のうち誰に似ているかという問いも置かれています。ジョニーに似ている人もいれば、主人公の女性に似ている人、友達に似ている人もいます。

ある受講生は、自分自身をジョニーだと考えました。二人で過ごすことが当たり前になり、相手との約束を軽く考えてしまった。しかし、実際には会いに行こうとして車を出したものの、首都高速の渋滞に巻き込まれ、待ち合わせの時間に間に合わなかったという自分自身の経験を重ねています。

それが実際の歌の背景だったということではありません。しかし、自分の経験を通して歌詞を読むと、人物が急に身近になります。

歌の世界に入るとは、想像上の人物になりきることだけではありません。自分自身の経験と重ねて、言葉の奥にあるものを発見することです。

3 別れの痛みをつかむ

 別れの歌だから、最初から最後まで悲しく歌えばよいというものではありません。

主人公は、ジョニーを忘れたわけではありません。強い言葉のなかにも寂しさがあります。前へ進もうとする気持ちのなかにも、過去への思いがあります。

この二つが同時に存在するところに、歌の深さがあります。

感情は一つではありません。好きだけれど別れなくてはならない、未練があるけれど去らなくてはならない、悲しいけれど生きていかなくてはならない。こうした矛盾を一つの声のなかに置くことが、表現になります。

4 友達に伝える歌

 この歌では、主人公はジョニーに直接語るのではなく、友達に伝言を託します。

そのため、歌い方も独り言と直接的な呼びかけでは違います。目の前に友達がいるなら、その人に話しかけるように歌うことができます。

歌詞を客席全体へ投げるだけではなく、誰か一人に言葉を届けるようにする。そこから声の距離感が生まれます。

歌は、声を出しているだけでは成立しません。誰に向かっているのかが決まったとき、言葉の意味と声の方向が一致します。

5 言葉を言葉として届ける

 受講生に、自分の歌を聞くと、言葉が耳についてうるさく感じるという反省もありました。

これは発音が明瞭であることとは別の問題です。言葉が前面に出すぎると、歌の流れを止めてしまうことがあります。

一方、すぐれた歌い手では、言葉が言葉でありながら、耳障りにならず、さらりと聞こえることがあります。

歌詞を伝えるためには、言葉を強調するだけでは足りません。息、母音、子音、音程、声の質、フレーズが一つにつながっている必要があります。

6 歌詞の裏側をつくる

 歌詞は数行しかなくても、その背後には何百枚もの物語を置くことができます。

自分がその人物なら、何を経験してきたのか。相手といつ出会い、どんな時間を過ごし、なぜ今この場所を離れるのか。そこまで考えることで、一つの言葉に厚みが出ます。

歌詞を読むだけではなく、歌詞の裏側を書いてみることもよいでしょう。

一度、歌を壊してみる。そして自分の経験や想像を通して、もう一度組み直す。その作業によって、借り物の歌から自分の歌へ変わっていきます。

 

 

[3] ステージで表現を起こす

 

1 ステージは完成発表ではない

 ステージ実習では、完成度を期待していません。むしろ、練習期間中だからこそ、冒険する必要があります。

無難にまとめて失敗しないことだけを考えると、自分の弱点も可能性も見えません。一度壊してみることで、次のきっかけが生まれます。

音程やリズムが崩れてよいという意味ではありません。基礎的な音楽性は守る必要があります。そのうえで、表現については挑戦することが求められます。

ステージは、自分が何を持っているのかを試す場所です。

2 四フレーズを極める

 グループレッスンでは、歌のなかの四フレーズ程度しか扱わないことがあります。

しかし、その四フレーズを本当に自分のものにできれば、一曲全体へ応用できます。

一曲全部を何となく歌うよりも、一つのフレーズを何度も繰り返し、声、言葉、息、リズム、表情、感情を変えながら試す方が学ぶことは多いのです。

一つも聞かせどころがない歌より、一つでも明確な聞かせどころがある歌の方が強い。その一つをつくることから始めます。

3 客を意識する

 人前に立つ以上、客との関係を考えなくてはなりません。

受講生には、自分だけの世界で完結していて、見ている人を構っていないように見えることがあります。歌い手が何を感じているかだけではなく、その感情が客席に届いているかを見る必要があります。

表情や目線は、そのための大きな要素です。

ヴォーカリストには、検定試験のようなものはありません。それでもステージでは、自然に見られ、評価されます。そのとき、評価される側に回るのではなく、自分から客席へ働きかける姿勢が必要です。

4 課題曲から自由曲へ

 課題曲が終わった瞬間に、何も変えずに自由曲へ入れるのも不自然です。

一所懸命に一曲を歌ったなら、その後には身体も呼吸も感情も変わっているはずです。全く違う歌を歌うなら、その切り替えが必要になります。

自由曲は自分で選んだ曲です。そこで、ようやく自分の時間が始まる、自分の世界になるという感覚が見えてくることが望まれます。

課題をこなす歌と、自分が歌いたい歌では、空気が変わらなくてはなりません。

5 ピアノを引っ張る

 歌のメリハリをつけるとき、ピアノの音に乗るだけでは足りません。ピアニストを引っ張っていくような感覚を持つことです。

もちろん、伴奏と勝手にずれるという意味ではありません。音楽の流れを受けるだけでなく、ヴォーカリスト自身が流れを生み出すということです。

息を吐けば、次の息はしぜんに入ってきます。表情も、思い切り動かせば、その反動が次の表情を生みます。

歌も同じです。一つのフレーズを出したら、次のフレーズが生まれる状態をつくります。

6 表情を鍛える

 日本人は、日常生活で感情を大きく表に出さないことがあります。そのため、ステージでも顔の筋肉が動きにくい人がいます。

客が最初に見るのは、声だけではありません。表情、身体、衣装、立ち姿などを含めて、その人の存在を見ています。

外見の美しさだけが問題なのではありません。顔が硬いと、声にも硬さが出ます。

ルックスを気にするというより、表現する身体として顔を使うことです。笑う、怒る、悲しむ、驚く、思いを込める。その一つひとつを身体で経験しておくことが、歌にもつながります。

 

 

[4] 曲を深く身体に入れる

 

1 スタンダード曲から学ぶ

 『枯葉』や『バラ色の人生』のようなシャンソンやジャズの曲を課題にするのは、その曲を一生歌わせるためではありません。

異なる曲を比較することで、歌の仕組みが見えやすくなります。メロディ、リズム、コード、言葉、フレージング、感情表現など、一つのジャンルだけでは気づきにくいものが見えてきます。

歌は芸であり、アートです。一曲を二、三回歌って仕上げたから得をしたというものではありません。

時間をかけた分だけ、見えてくるものがあります。

2 二拍三連を身体に入れる

 二拍三連のようなリズムは、頭で理解しただけでは歌になりません。

合わせてカウベルをコンコンと叩くことも一つの方法です。しかし、それだけで終わってはいけません。

さまざまなジャンルを聞き、いろいろなリズムを身体に入れていく必要があります。

リズムを叩いて覚えることは形をつかむ助けになります。しかし、声の表情や質感まで出すには、音楽そのものをたくさん聞くことが必要です。

3 コードの変化を感じる

 マイナーからメジャーへコードが変わるとき、それを理論として理解するだけでなく、身体で感じることができます。

多くの歌を聞いていれば、音楽のなかで自然に感じ取れるようになります。

マイナーに弱い人が多いという指摘もあります。明るい曲に比べ、暗さや陰影を声に含ませるには、音楽的な経験が必要です。

コードの変化を説明できることと、歌のなかで表現できることは別です。聞いて、感じて、歌って、身体に入れていくことが大切です。

4 少しのくるいを恐れない

 形として覚えなくてはならないことはあります。しかし、形だけに縛られると歌が固まります。

ヴォーカリストには、音楽的な基礎を守ったうえで、ある程度の自由が許されます。

音程やリズムを崩してよいということではありません。基礎を保ちながら、そこへ自分の声の質感や表情を加えるということです。

正確さだけでは、歌は完成しません。正確さを土台にして、その上に何を加えるかが問題になります。

5 一声で何かを起こす

 ヴォーカリストなら、一声を発した瞬間に何かが起こらなくてはなりません。

一曲の最初の声を聞いただけで、その人が何を歌おうとしているのかが伝わることがあります。

日常生活では、感情をむき出しにすることは少ないでしょう。しかし、スタジオやステージでは、表現のために感情を使う必要があります。

歌に入ることを恐れず、自分のなかにあるものを声へ出していくことです。

6 一曲に時間をかける

 一曲に一年近くかけるという考え方は、単に時間を浪費するという意味ではありません。

一度歌っただけでは、自分の癖しか見えません。何度も歌っていくと、声の問題、言葉の問題、リズムの問題、表現の問題が分かれて見えてきます。

時間をかけた人ほど、他の人には見えないことに気づいてきます。

曲数を増やすことが目的ではありません。一曲を深く掘ることで、次の曲にも応用できるものが身につきます。

 

 

[5] グループの力を自立につなげる

 

1 グレードは現在地を知るためにある

 同じくらいのレベルの人たちが一緒にトレーニングできるように、グレードを設けてます。

しかし、グレードは絶対的な順位ではありません。あくまでその時点での相対的な位置づけです。しかも、実力そのものでなく、ここでの学び方での吸収力による程度分けです。

つまり、プロでも吸収力がなければ初心者扱いです。ですから練習をさぼれば、声が出なくなれば、下がることもあります。しかし、また上がればよいのです。

グレードを恐れる必要はありません。現在地を知り、次に何を学ぶかを考える材料として使うことが大切です。

2 個人差を評価する

 声がよく出る人、歌いこなしがうまい人、リズムが得意な人、表現力がある人など、それぞれに持ち味があります。

全員を同じ尺度だけで評価するのではなく、その人のよいところと足りないところを見る必要があります。

一人ひとりが違うからこそ、同じトレーニングでも課題は変わります。

グレードの意味も、優劣を決めることではなく、その人が次の段階へ進むための課題を明確にすることにあります。

3 仲良しクラブにしない

 グループレッスンには、一人では得られない学びがあります。

他人の声を聞けば、自分の声を客観的に聞けます。他人の失敗からも、自分の課題を発見できます。他人ができるようになる過程を見ることも刺激になります。

しかし、グループが仲良しクラブになると、学びはめっきり減ります。

力のある人は、孤立や孤高を恐れません。自分一人でも練習する姿勢が必要です。グループは群れる場所ではなく、お互いを刺激する場所であることです。

4 トレーナーに依存しない

 二年以上、通い続けている人には、乗り越えてきたものがあります。

長く続けることで、トレーナーに言われる前に自分で問題を発見できるようになります。

トレーナーがすべて答えを与えるのではなく、本人が考えることが重要です。

最終的には、ここにいるからできる、トレーナーがいるからできるという状態から離れなくてはなりません。

トレーナーの存在感がなくなることが、よいトレーニングの一つの結果でもあります。

5 グループから個人へ

 最初は個人レッスンよりもグループレッスンの方が、気づきや学びが多いことがあります。

他人の声を聞くことで、自分の声を相対的に知ることができるからです。

しかし、最終的には一人でやっていかなくてはなりません。

大勢の力を借りて、自分一人ではできないことを学ぶ。そして、その学んだものを一人で再現できるようにする。

グループは依存する場所ではなく、自立するための場所です。

6 苦労を表現へ変える

 歌を聞いていると、歌そのものだけでなく、その人がどんなことで苦労してきたのかが伝わってくることがあります。

人間として苦労していることは、必ずしもマイナスではありません。笑顔も、泣いた経験を重ねることで深くなることがあります。

人前に出る表現には、その人が生きてきた背景が表れます。

豊かな環境のなかでは、精神的な飢えを自分からつくることは難しいかもしれません。だからこそ、日常のなかで感じたこと、失敗したこと、悩んだこと、傷ついたことを、表現の材料として蓄えていく必要があります。

 

 

[6] アーティストとして自立する

 

1 声だけでは足りない

 日本人のヴォーカリストの場合、声が出るようになってから考えなくてはならないことがたくさんあります。

声や音楽的基礎以外の部分が大きな比重を占めます。何を歌うのか、なぜ歌うのか、誰に伝えるのか、自分は何を経験してきたのか、どんな表現をしたいのか。

声は楽器のように整えれば終わりではありません。

声を身につけたうえで、その声に何を語らせるのかが重要です。

2 音程に質感を加える

 音程が合っていることは必要です。リズムも崩してはいけません。

しかし、音程が合っているだけでは、ヴォーカルとして充分ではありません。

同じ音程でも、声の質感、息、言葉、表情によって、歌は変わります。

この質感を加えるには、声そのものを身につける必要があります。音程を正確にする練習と、声を自由に扱う練習は、別々でありながら最後には一つになります。

3 自分の歌を客観的に聞く

 録音は、自分を知るための重要な方法です。

歌っているときには気づかなかったことが、録音を聞くと分かります。声が苦しそう、言葉が耳につく、高音で大きくなる、鼻にかかった声になる、声が裏返る、息が続かないなど、自分では意識していなかった問題が出てきます。

風邪をひいている、生活リズムが乱れている、練習不足だったという事情も、録音には表れます。

録音は自分を責めるためではありません。現状を正確に知るために使います。

4 生活そのものを整える

 練習時間が取れないという問題は、技術だけの問題ではありません。

生活のリズムを自分でつくる必要があります。毎日少しずつでも続けることが、声を身体に定着させます。

柔軟体操をする、呼吸を行う、散歩する、声を出す、録音を聞く。大きな時間が取れなくても、生活のなかにトレーニングを置くことはできます。

トレーニング中心の生活が理想でも、それができないなら、できる範囲で生活そのものを変えていくことです。

5 ベストを持ってステージへ立つ

 ステージに立つときには、このなかで自分が一番練習してきたという自信を持ってほしいものです。

それは他人より優れているという意味ではありません。自分自身ができることをやり切ってきたという感覚です。

精一杯やってきた人は、他人の歌もよく見えるようになります。自分の不足を知っているからこそ、他人のよいところも見えてきます。

練習は、自信をつくるためだけではありません。他者を理解する力もつくります。

6 アーティストの実験場をつくる

 ここで行うことは、最終目的ではありません。

グレードも、ステージも、課題曲も、トレーナーのコメントも、自分がアーティストとして自立するための材料です。

グレードというニンジンだけを追いかけてはいけません。評価されるために歌うのではなく、自分の可能性を実験するために利用することです。

自分の歌を一度壊し、またつくる。人の歌を聞き、自分の歌と比較する。失敗し、原因を考え、もう一度行う。

そうした繰り返しのなかで、トレーナーがいなくても自分で自分を育てられるようになります。

最終的に目指すのは、研究所に来ればうまくなる人ではありません。研究所で学んだことを、自分一人の生活と練習のなかで継続できる人です。

 

 

さいごに

 ヴォーカルのトレーニングは、一曲をうまく歌えるようになるためだけに行うものではありません。声を身体につけ、声を自由に使い、言葉を自分のものにし、歌を通して何かを伝えられる人になるために行います。

そのためには、毎日の小さな練習が必要です。

子音を練習する。母音をそろえる。レガートで声を伸ばす。ハミングをする。響きを確認する。一オクターブをつなぐ。高音を無理なく扱う。シャウトを研究する。呼吸を行う。身体を動かす。録音する。

一つひとつは小さな課題です。しかし、こうしたものを積み重ねていくことで、声は少しずつ身体のなかに入ってきます。

 声が安定しない日もあります。空腹と満腹で違うこともあります。風邪をひくこともあります。生活のリズムが崩れることもあります。練習できない時期もあるでしょう。

そのときに、自分は駄目だと決めてしまう必要はありません。何が原因だったのかを知ることです。

録音して、自分の声を聞く。昨日と今日を比べる。高音が大きくなることに気づく。言葉が耳につくことを知る。声が鼻にかかっていることを発見する。息が続かないことを確認する。

自分の弱点が見えることは、前進です。

 歌についても同じです。『ジョニーへの伝言』を歌うなら、歌詞を覚えるだけでは足りません。ジョニーとはどんな人だったのか。主人公はなぜ待ったのか。なぜ去ることを決めたのか。なぜ友達に伝言を託したのか。

そこまで考えていけば、一つの歌詞が自分自身の経験と結びついてきます。

歌の世界に入るということは、自分を消すことではありません。むしろ、自分の経験を通して歌の世界を理解することです。

 ステージでも、同じです。

音程とリズムを合わせることは必要です。しかし、それだけではヴォーカリストにはなりません。声に質感を加える。言葉を届ける。表情をつくる。目線を送る。客席との関係をつくる。ピアノに乗るだけではなく、音楽を引っ張る。

一声を発した瞬間に、何かを起こす。

それがヴォーカリストの仕事です。

そのためには、一曲を何度も歌う必要があります。一度できたから終わりではありません。十回のうち一回できたことを、九回でもできるようにする。さらに、その状態を百回繰り返せるようにする。

 時間をかけた人にしか見えないものがあります。

だから、曲数を増やすことを急がなくてよいのです。一曲を深く掘る。一つのフレーズを何度も研究する。一つの声を何度も聞く。一つの言葉を何度も言ってみる。

そのなかから、自分だけの聞かせどころが生まれます。

レッスンも、そのためにあります。

人の声を聞いて、自分の声を知る。他人の表現を見て、自分の表現を考える。よいところを学び、足りないところを知る。

しかし、最後には一人でやらなくてはなりません。

トレーナーに答えをもらうのではなく、自分で問いをつくる。何が足りないのかを自分で発見する。練習方法を考える。そして、試してみる。

その意味で、よいトレーニングとは、トレーナーの存在感が大きくなることではありません。本人が自分で考え、自分で練習し、自分で変化をつくれるようになることです。

 アーティストには資格がありません。

誰かに合格をもらう必要もありません。

それでも、人前に立てば、見られます。聞かれます。評価されます。そのとき、自分はこれだけやってきたと言えるものがあるかどうかが問われます。

自分が一番練習してきたという感覚を持ってステージに立つことです。

それは他人に勝つためではありません。自分自身に言い訳をしないためです。

精一杯やってきた人ほど、他人のことがよく見えます。人のよいところを認め、自分の足りないところを知り、また練習に戻ることができます。

声を身につけることも、歌を身につけることも、短期間で終わるものではありません。

二年たてば何でもできるようになるのではありません。二年かけて、ようやく自分で練習できるところへ近づいていく。

そこからが、本当のスタートです。

 ヴォーカリストとして、自分の声で、自分の言葉で、自分の経験を伝える。そのために、毎日のトレーニングがあります。

歌をこなすのではなく、歌を深く生きること。

声を出すのではなく、声に自分を宿すこと。

そして、一人で立つために、多くの人と学ぶこと。

それが、声を身につけ、歌を自分のものにしていく道です。

 

『日本語と声の音楽性』@034  292  

 

音節・拍・アクセントから考える日本人の声と歌

 

 

 日本語の歌が、ことばに忠実であろうとするほど、かえって間のびし、

音楽的な躍動を失うことがあります。

 その背景には、日本語特有の高低アクセント、拍を基準にしたことばの捉え方、

音節との混同があります。

 

 ここでは、山田耕作氏以来の日本語の歌のつくり方を出発点に、音節と拍、

シラビックとメリスマティック、強勢とアクセント、三拍子や強弱リズムの問題を考えます。

 

 また、外国語を学ぶこと、方言を利用すること、バイリンガルの発音、日本語の音楽的特性、

ロックのシャウトなどを通して、日本人の声とリズム感を見直します。

 

 日本語は音楽的でないのではなく、日本語を均等な拍に分解して扱うことによって、

音楽的な可能性を失っているのではないか。

 

 声を楽音として処理するのではなく、ことばを生きた音として扱い、

身体から自由に歌うための考え方を提示します。

 

 

 

 

はじめに

 

 歌において、ことばを大切にすることは当然です。歌詞が聞き取れなければ、何を歌っているのかわかりません。日本では、ことばを大切にするために、ことばのアクセントとメロディを合わせる方法が発達してきました。
 山田耕作氏は、日本語の高低アクセントをもとに、ことばの高低とメロディの高低を一致させる考え方を進めました。日本語には、音が同じでもアクセントによって意味が変わることばがあります。そのため、ことばとメロディの関係を整えることには、大きな意味がありました。
 しかし、それだけが日本語を歌う方法ではありません。


  歌い手が大きなフレージングを持ち、ことばをメロディの中で消化できれば、アクセントとメロディが完全に一致していなくても、ことばは伝わります。
 むしろ、ことばの一音一音に音符を当てはめてしまうことで、日本語の歌が不自然になっている面があります。
 日本語では、文字数や拍数を数える意識が強くあります。五・七・五という形式も、その典型です。ところが、音楽では、ことばを音節として捉えることによって、強弱やリズムをつけやすくなります。
 英語のJingle bellsを考えるとわかりやすいでしょう。英語では三つの音節として処理できるところを、日本語ではジ・ン・グ・ル・ベ・ルと六つの拍に分けてしまいがちです。
 この違いを理解しないまま、一音一拍、一音一音符で処理すると、原曲の持つことばの情報量やリズムが失われます。
  さらに、日本人は強弱リズムや奇数拍にも慣れていません。日本語は高低アクセントが中心で、英語などの強勢アクセントとは仕組みが違います。
 しかし、これは日本人に音楽性がないということではありません。日本語そのものには、母音の豊かさ、方言による音色の違い、独特の高低変化など、音楽的な可能性があります。


  問題は、それをどう扱うかです。
 日本語を日本語のまま均等に刻むのではなく、音として聞き、音節として捉え、強弱やフレーズをつけていく。そのためには、日本語をいったん外側から眺め、外国語や方言、異なる音楽文化から学ぶことも有効です。
 声を磨くとは、発声器官を鍛えることだけではありません。ことばそのものをどう聞き、どう感じ、どう音楽の中に置くかという感覚を磨くことでもあります。
 日本語の歌が抱える問題を、ことばの問題だけにしないことです。歌い手の声、身体、フレージング、リズム感まで含めて考える必要があります。
 日本語を音楽的に扱うことは、日本語を壊すことではありません。むしろ、日本語の持つ可能性を広げることなのです。

 

 

 

[1] 言葉に忠実にを問い直す

 

1 日本語とメロディの関係

 日本の歌では、ことばのアクセントに合わせてメロディをつけるという考え方が長く重視されてきました。
 日本語は高低アクセントの言語なので、ことばの高低をメロディの高低に合わせれば、歌詞の意味が聞き取りやすくなります。
 同じ音でもアクセントが違えば意味が変わることがあります。恵子と桂子のように、文字まで違えば別のことばだという意識も日本人には強いでしょう。
 この意味で、ことばとメロディを合わせる工夫には大きな意味があります。
 しかし、歌い手がフレーズのメリハリを自在に扱えるのであれば、必ずしもメロディの高低までことばのアクセントに合わせる必要はありません。
 歌い手の力によって、メロディとことばの関係を歌の中で消化することができるからです。

2 山田耕作氏の方法と歌い手の力

 山田耕作氏以来の日本語の高低アクセントに忠実な作曲は、日本語の特性に対応した重要な方法でした。
 ただし、それは歌い手が高低アクセントに忠実に歌うことを前提とした場合の解決策です。
 歌い手がフレージングをつくり、ことばにメリハリをつけ、メロディを大きく捉えて処理できる力を持っていれば、アクセントの違いを歌のフレーズの中で処理できます。
 演歌の歌手には、ことばの高低アクセントをそのまま前面に出さず、メロディに乗せて伝える技術があります。
 問題は、ポピュラーの歌い手にそこまでの技術が充分に育っていないことです。
 作曲側で問題を解決するのでなく、歌い手側が歌唱力で問題を解消できる力を持つことが必要です。

3 声の太さを統一する

 音の高さによって、ことばや発声が変わりすぎると、歌が音符に分断されます。
 低い音は太く、高い音は細く、さらに別の発声に変わるという状態では、一つのフレーズとしてことばを扱えません。
 音域の中で、声の太さをある程度統一して使えることが必要です。
 そのためには、太く、強く、大きくできる声をつくりながら、音色を統一していくことです。
 高い音になったとたんに別の声になるのではなく、同じ身体から出ている声としてつながっていることが重要です。
 これができれば、ことばのアクセントとメロディが多少異なっても、歌い手自身がフレーズとしてまとめることができます。

4 ことばのフレーズ

もう一つ大切なのは、ことばを一音ずつではなく、意味のまとまりとして捉えることです。
 歌詞には、ことばのフレーズがあります。
 そのフレーズに忠実にメロディを処理するなら、文字一つひとつに音符を置く必要はありません。
 「ハ・ル・コ・ウ・ロ・オ・ノ・ハ・ナ・ノ・エ・ン」と均等に区切って歌うより、「ハル コウローノ ハナノ エン」のように、意味のまとまりを保って歌った方が自然です。
 「カラタチノ ハナガ サイタヨ」も同じです。
 歌は、ことばを一つずつ読み上げるものではありません。ことばをフレーズとして音楽の中に置くものです。

5 シラビックとメリスマティック

 一音節に一つの音を当てる方法をシラビックといいます。
 反対に、一つの音節に複数の音をつけて歌う方法がメリスマティックです。
 日本の歌では、これまで一音節に一音という扱いが多く、一音節を複数の音に展開することや複数の音節を一つの音にまとめることが少なかったように思います。
 しかし、音楽では、一音節に複数の音をつけることも、複数の音節を一つの音にまとめることもできます。
 ことばを音楽に合わせて変形させることは、ことばを壊すことではありません。
 むしろ、音楽の中でことばを生かすための方法です。

6 言葉に忠実の意味

 言葉に忠実ということを、一音に一拍を当てることだと考えてしまうと、歌は読み上げになってしまいます。
 日本語の歌が間のびして聞こえる原因の一つは、文字と拍を必要以上に一致させることにあります。
 ミュージカルや日本語オペラで、歌がわざとらしく感じられる場合にも、歌い手の技術だけでなく、この一音一音符の発想が関係しています。
 ことばを忠実に伝えるとは、ことばの文字数を忠実に並べることではありません。
 意味、フレーズ、アクセント、音色、リズムを含めて、ことばを生かすことです。

 

 

[2] 音節と拍

 

1 拍とは何か

 日本語では、ことばを拍で数える意識が強くあります。
 手をパン、パンと叩きながらことばを言ったとき、何回手を叩くかというのが拍、すなわちモーラです。
 日本語の五・七・五という形式も、こうした拍の意識に基づいています。
 一方、音節、シラビームは音のまとまりです。
 この二つは一致する場合もありますが、必ずしも同じではありません。
 日本語を音楽的に扱うには、この違いを理解する必要があります。

2 音節と拍

 たとえば「音楽」は、ホン・ガ・クと三音節で捉えられますが、拍としては四つになります。
 「共同」はキョー・ドーという二音節ですが、長音を含めると四拍になります。
 「日本」はニッ・ポンの二音節ですが、四拍として捉えられます。
 「こいのぼり」は、コイ・ノ・ボリという三つのまとまりで考えられ、拍としては五つになります。
 つまり、文字や拍で数える感覚と、音のまとまりとして聞く感覚には違いがあります。
 歌では、この違いを意識するだけでも、ことばの扱い方が変わります。

3 英語の音節との違い

 英語のJingle bellsは、原曲では三つの音節として処理できます。
 Jin・gle・bellsです。
 ところが日本語では、ジ・ン・グ・ル・ベ・ルと六つの拍に分けて考えがちです。
 そのため、日本語訳では六つの音を必要とするように感じてしまいます。
 原曲の一つの音節に、日本語の一文字ずつを当てていけば、原曲が持っていることばの情報量が減ってしまいます。
 本来は、ジングルベルという音のまとまりを一つのフレーズとして扱えばよいのです。
 日本語訳を文字として考えるのではなく、音として聞くことが必要になります。

4 日本語を音として聞く

 外国語は、意味を知らない段階では、まず音として聞きます。
 英語を聞いたとき、最初から一文字ずつ分解して聞くわけではありません。
 日本語についても、本来は同じように音として聞く必要があります。
 ところが、日本人は自分のことばを知りすぎているため、音を文字や拍に分解して捉えがちです。
 そのため、歌でも一文字ずつを丁寧に発音し、結果として間のびしてしまいます。
 日本語を音として聞き直すことは、日本語を外国語のように扱うことでもあります。
 そこから、ことばのまとまり、強弱、リズムが見えてきます。

5 日本語の歌の間

 一音一拍を守ると、歌詞は明瞭になるように思えます。
 しかし、すべての音を同じ重さで発音すると、音楽の流れが止まります。
 ことばには、本来、強い部分と弱い部分があります。長く伸びる部分と、短く処理される部分があります。
 それを均等にしてしまえば、音楽としての動きがなくなります。
 歌い手は、ことばを削るところ、伸ばすところ、まとめるところを判断しなくてはいけません。
 明瞭さと均等さは同じではありません。

6 ことばと音楽の統合

 歌では、ことばとメロディを別々に扱ってはいけません。
 ことばを伝えるためにメロディを使い、メロディを生かすためにことばを変化させます。
 その間をつなぐのが、歌い手のフレージングです。
 楽譜に書かれた音符を一つずつ正確に歌うだけでは、ことばは生きません。
 声の太さ、息、アクセント、強弱、長さを含めて、一つのフレーズをつくる必要があります。
 歌い手の力があれば、ことばと音楽は対立しません。むしろ一体になります。

 

 

[3] 日本人のリズム感を考える

 

1 強勢とアクセント

 日本語と英語では、リズムの基本が違います。
 日本語は高低アクセントが中心で、英語などは強弱アクセントを持っています。
 そのため、日本人が外国語を聞くときと、英語圏の人が日本語を聞くときでは、音のまとまり方そのものが違います。
 日本語を速く発音しても、母音を中心に均等に聞こえやすいのに対し、英語では強く発音される部分と弱くなる部分の差が大きくなります。
 この違いを知らないまま外国の歌を歌うと、日本語的な均等なリズムになってしまいます。

2 三拍子が苦手な理由

 日本人がリズムに弱いという言い方があります。
 しかし、単純にリズム感が悪いと考える必要はありません。
 日本人は、奇数拍や強弱のあるリズムに慣れていないと考えた方がよいでしょう。
 農耕作業などで、一、二の三、四と偶数拍を取る身体感覚に慣れてきたので、三拍子には不慣れな感じがあります。
 ワルツのような三拍子は、均等に三つを数えるのではなく、強弱のまとまりとして感じる必要があります。
 日本語そのもののリズムと、音楽のリズムを分けて考えることが必要です。

3 マズルカとことば

 ポーランドのマズルカが弱強弱のリズムを持つ背景には、ポーランド語のアクセント位置が関係しているという指摘があります。
 ことばのアクセントは、音楽のリズムにも影響します。
 つまり、リズムは楽器だけで決まるものではありません。話していることばそのものが、身体にリズム感をつくっています。
 外国語を学ぶことは、単に単語や文法を学ぶことではありません。
 その言語の強弱、速度、間、身体感覚まで学ぶことになります。

4 五・七・五のリズム

 日本の五・七・五、五・七・五・七・七という形式は、拍の感覚と深く結びついています。
 しかし、これをそのまま音符に一つずつ置けば、音楽になるとは限りません。
 休符を含めて大きなビートとして考えることもできます。
 日本語の文字数を、そのまま音符の数にする必要はありません。
 五・七・五ということばのまとまりを、もっと大きな音楽の流れの中に置くことで、強弱や休止が生まれます。
 日本語の形式を壊すのではなく、形式をより大きなリズムの中で捉えることです。

5 話しことばとリズム

 ビートたけしの「赤信号みんなで渡ればこわくない」のように、ことばそのものがリズムにのりやすいものが受けます。
 これも文字数だけを数えれば、六、八、五などになりますが、テンポを上げたり、休止を取ったりすることで、実際のリズムは変わります。本当は、間も入れると、八、八、八なのです。
 ことばには、文字数だけでは捉えられないリズムがあります。
 歌い手は、楽譜からだけでなく、話しことばからもリズムを学ぶ必要があります。
 日常会話の中にある速度、間、強弱、語尾の処理を観察することが、歌のフレージングにもつながります。

6 リズム感を身体で育てる

 リズムは、頭で数えるだけでは身につきません。
 ことばを発し、歩き、手を叩き、身体を動かしながら感じる必要があります。
 日本人が苦手とする強弱や奇数拍を、外国語や外国音楽を通して身体に入れていくことも一つの方法です。
 ただし、外国人のリズムを表面的にまねるだけでは足りません。
 自分の身体の中に、新しいリズムの感覚をつくることが必要です。
 声と身体とことばを一体にすることで、リズムは初めて歌になります。

 

 

[4] 外国語と方言から学ぶ

 

1 バイリンガルの可能性

 人間の骨格の違いは、特定の言語しか話せないほど決定的なものではありません。
 日本人の両親から生まれた子どもでも、幼い時期から別の国で育てば、その国のネイティブと変わらないことばを話すようになります。
 赤ん坊の喃語には、さまざまな音が含まれています。
 しかし、言語形成期を過ぎると、自分の母語に必要な音を中心に使うようになり、他の音を発する機会が減っていきます。
 つまり、発音の可能性そのものが最初から限定されているわけではなく、環境によって使う音が選ばれていくのです。

2 言語形成期と発音

 言語の獲得は、母音と子音の分化から始まります。
 幼児がパパ、ママなどの音を発することにも、発音器官の発達と音の分化が関係しています。
 そこからさまざまな子音や母音の区別が生まれます。
 大切なのは、声や発音の可能性を早い段階から狭めないことです。
 外国語の発音を学ぶ際にも、自分にはその音が出せないと思い込む必要はありません。
 出せないのではなく、使っていないだけの音が多くあります。

3 外国語から日本語を見直す

 外国語を学ぶと、自分の母語の特徴がよくわかります。
 英語を話すときには、日本語では使わない口の動きや舌の位置、息の流れを使います。
 その結果、日本語を話すときにも声が変わることがあります。
 外国に行くと声がよくなって帰ってくる人がいるのも、その一例です。
環境と 外国語によって身体の使い方が変わり、それが声にも影響するのです。
 だから、外国語を学ぶことは、語学だけでなく、自分の声を見直すトレーニングにもなります。

4 方言の音楽性

 外国語の発音を学ぶ際には、日本の方言にも注目できます。
 関西弁と関東のことばを比べるだけでも、母音と子音の使い方の違いが感じられます。
 たとえば、「カッテキタ」と「コーテキタ」、「アカクナル」と「アコーナル」、「マッシロ」と「シーロイ」のように、同じ意味でも音のまとまりが変わります。
 関東のことばには、子音の輪郭を強く感じさせる面があります。
 一方、関西のことばには、母音が連続することで、やわらかく音楽的に聞こえる面があります。
 方言を比較することは、日本語の中にあるさまざまな音の可能性を知ることにつながります。

5 外国語の発音と声

 外国語の発音をまねるとき、表面だけをまねてはいけません。
 舌の動き、口の開き、息の使い方、声の位置など、身体全体の使い方を見る必要があります。
 英語のhatの母音のように、日本語にない音を発音するには、日本語の母音だけでは足りません。
 そうした音を出す経験によって、口腔や舌の使い方も広がります。
 外国語を学ぶことは、声の可能性を広げる方法にもなります。

6 外国人の日本語から学ぶ

 外国人が日本語を話したり歌ったりすると、日本人とは違った声のふくらみを感じることがあります。
 これは日本語そのものが原因ではなく、発声の違いによるところも大きいと考えられます。
 そこで、外国人が日本語で歌った日本の歌や外国の歌を聞いてみることです。
 日本語の発音そのものをまねる必要はありません。
 純粋に声のふくらみ、身体の使い方、息の深さ、声のポジションを学ぶのです。
 外国人の声で日本語を聞くことによって、日本語の歌を日本人の常識から外して聞くことができます。

 

 

[5] 日本語の音楽的可能性

 

1 日本語は本当に音楽的でないのか

 日本語は、外国語に比べて音楽的でないと考えられることがあります。
 しかし、それは日本語そのものの欠点ではなく、日本語の扱い方の問題でもあります。
 日本語には母音が豊富にあり、母音で終わることばも多くあります。
 イタリア語も母音で終わることばが多く、音楽的な言語だといわれます。
 その意味では、日本語にも充分な音楽性があります。
 問題は、母音中心のことばを均等な拍にしてしまうことです。

2 清音と濁音

 日本語では、カ、サ、タ、ハ行などの清音を美しく感じ、ガ、ザ、ダ、バ行の濁音を汚く感じることがあります。
 しかし、音声物理学的には、必ずしもその感覚と一致しません。
 何を表す音なのか、誰が使うのか、どのような文化的背景を持つのかによって、音の印象は変わります。
 金田一春彦氏も、日本語の音について、歴史や地域との関係から考察しています。
 音の美しさを固定的に決めつけないことが大切です。

3 アクセントを強弱に変える

 日本語は高低アクセントを中心とする言語です。
 しかし、歌では高低の変化をそのままメロディに合わせるだけでなく、強弱の変化として処理することもできます。
 本居長世氏は、山田耕作氏より早く、ことばのアクセントを固定的なものとして扱わず、日常のことばの調子まで考えていたとされています。
 語尾が自然に下がっていく会話なら、メロディがアクセントに反することがあってもよいという発想です。
 これは、ことばを音楽の中で生かすための柔軟な考え方です。
 日本語の高低を、歌では強弱やフレーズに変換する。ここに、日本語を音楽的に処理する一つの方法があります。

4 変化する日本語

  日本語の発音も変化しています。
 「そうです」が「そです」「そす」のように省略されることがあります。
 母音が弱くなれば、強弱の差がつきやすくなります。
 つまり、日本語そのものが少しずつ強弱リズムを受け入れているとも考えられます。
 ことばは固定されたものではありません。
 時代によって発音もリズムも変わります。
 歌も、その変化を受け入れる必要があります。

5 日本語の音の少なさ

 日本語は、音の組み合わせが比較的限られています。
 五十音を中心に考えると、多くのことばを少ない音の組み合わせで表現できます。
 そのため、外国語であっても日本語の音に置き換えれば書き表すことができます。
 一方で、日本人が外国語を学ぶときには、外国語を日本語の音の単位に置き換えてしまうため、原語の音のまとまりを捉えにくくなることがあります。
 外国人が日本語を難しいと感じるのも、同じように、音の捉え方が違うからです。

6 日本語を音楽として聞く

「日本」を日本人はニッ・ポンと四拍に近い感覚で捉えます。
 一方、外国人がJapanをジャ・パンという二つの音節として捉えるように、日本語も音節として聞けば、違う音楽性が現れます。
 「日本の着物」ということばも、拍で均等に並べるのではなく、音のまとまりとして捉えることで、強弱をつけやすくなります。
 「討論会」のようなことばでも、日本人が細かく拍に分けているものを、より大きな音のまとまりとして捉えることができます。
 日本語を音楽的にするために、日本語を変える必要はありません。
 日本語の聞き方を変えればよいのです。

 

 

[6] 声とリズムを未来へつなぐ

 

1 日本語感を崩すトレーニング

 日本語の固定した音感を崩すには、遊びながらことばを変形させることも有効です。
 『Dr.スランプ・アラレちゃん』の「ンチャ」「バイチャ」のようなことば、『伊賀野カバ丸』に登場する独特の発音などは、日本語を音として捉え直すきっかけになります。
 「おはようございます」を「オハヨーゴザイアス」「ゴザーマス」と変化させたり、「こんにちは」を「ウユース」「チワーッ」と崩したりする。
 こうした遊びは、正しい発音を覚えるためではありません。
 いつもの発音から身体を解放し、音の変化を感じるためです。

2 シャウトの身体性

 ロックのシャウトは、ことばを大きく叫ぶだけの技術ではありません。
 黒人のワークソングなどに連なる叫びの文化や、ロックの歴史の中で発展した表現があります。
 「ギャー」「イエー」などの短い叫びでも、ロックだと感じられるほど定着した方法です。
 しかし、日本人がシャウトをまねるとき、のどをつぶして声を出してしまうことがあります。
 本当のシャウトは、のどを無理につぶすことではありません。
 身体から出る声を、強い息とともに自由に使うことです。
 大声とシャウトは同じではありません。

3 歌は楽音ではない

 楽器は、音が出れば楽音になります。
 ピアノやヴァイオリンに対して、もっと歌え、歌心を入れろといいます。
 ところが、人間が歌う場合、声が出れば、それだけで歌になったと考えられがちです。
 近年は楽器に合わせて歌う傾向が強く、声そのものまで楽音化しているように感じられます。
 さらに、ヴォーカルがBGMのように扱われると、人間の声が持っていることばの力や身体性が弱くなります。
 歌は、楽器と同じ音を出すことではありません。
 人間の身体から出る声だからこそ、楽器にはない表現ができます。

4 平均律から自由になる

 西欧の平均律や和声理論は、音楽を整理する上で大きな役割を果たしてきました。
 しかし、それだけが音楽のすべてではありません。
 日本の古い歌や三味線の歌には、楽器と声が完全に調和しないことによって生まれる味があります。
 ジプシーの音楽やヨーデルにも、西欧の平均律だけでは説明しにくい魅力があります。
 民族ごとに異なる音階や楽器があるように、声の表現にも多様性があります。
 声を楽器に合わせるだけでなく、声そのものを一つの音楽として扱う必要があります。

5 歌うことの価値観

 日本では、体調が悪くても聴衆に義理立てして舞台に立つことが美徳とされる場合があります。
 しかし、外国では、不調の状態で歌うこと自体が聴衆に失礼だと考える文化もあります。
 最高の条件で評価されるように歌う。そのためなら公演を延期したり、キャンセルしたりすることも受け入れられる。
 フィッシャー=ディースカウが、公演のたびに新しい解釈を加えるという考え方を示したことにも、歌を固定されたものにしない姿勢が見えます。
 声を大切にするとは、毎回同じものを再現することだけではありません。
 その日の身体、その日の解釈、その日の表現を含めて、最高の状態をめざすことでもあります。

6 ことばを舌に乗せる

 話すということは、ことばを口から出すことです。
 Tongueが舌を意味し、Languageもラテン語の舌に由来するということを考えれば、言語と舌、声と身体が深く結びついていることがわかります。
 歌でも、ことばは頭の中にあるものではなく、舌、口、息、声帯、身体を通って外へ出てきます。
 だからこそ、ことばを声にするトレーニングが必要です。
 日本語を均等に刻まず、音として聞き、フレーズとして発し、強弱をつける。
 外国語や方言から音の違いを学び、ロックのシャウトから身体的な声を学ぶ。
 そうして声とことばを自由にしていけば、日本語にも本来備わっている音楽性が見えてきます。

 

 

さいごに

 

 日本語の歌について考えるとき、まず考えなくてはいけないのは、ことばに忠実であるとはどういうことなのかという問題です。
 歌詞を正確に発音することは大切です。しかし、一音一音を正確に発音することと、ことばを忠実に伝えることは同じではありません。
 日本語は、拍でことばを捉える意識が強い言語です。五・七・五のような音数律も、日本人の音感に深く入り込んでいます。
 それ自体が悪いわけではありません。しかし、音楽まで同じように均等な拍で扱ってしまうと、歌の中から強弱や躍動が失われます。


  英語のJingle bellsを考えれば、その違いは明らかです。
 日本語ではジ・ン・グ・ル・ベ・ルと細かく六拍に分けがちですが、英語ではJin・gle・bellsという三つの音節としてまとまっています。
 この差を知らずに、一音一音符で日本語を処理すると、原曲が持つことばの情報量もリズムも減ってしまいます。
 歌い手には、楽譜に書かれた音をそのまま再生する以上の力が必要です。
 声の太さを音域全体で統一し、ことばをフレーズとして扱い、メロディの中でことばを消化する力です。


  演歌の歌い手などが見せてきた、ことばの高低アクセントをそのまま出さず、メロディに乗せて伝える技術は、その一例です。
 ここでは、歌い手の力が重要になります。
 作曲家が日本語のアクセントに合わせてメロディをつくることも必要でしょう。しかし、それだけでは歌い手の可能性を狭くしてしまいます。


    歌い手自身が、ことばとメロディの関係を自由に扱えるようになることが大切です。
 そのためには、音節と拍の違いを理解しなくてはいけません。
 日本語では、音の数と拍の数が一致しないことがあります。長音や促音なども含めて拍を数えると、ことばが細かく分解されます。
 しかし、音楽では、もっと大きな音のまとまりで捉えることができます。
 この音節の感覚を身につけることは、外国語を学ぶことにもつながります。
 外国語を学ぶと、日本語では使わない舌や口、息の使い方を経験します。それによって、自分の声そのものが変わることがあります。
 

 バイリンガルの人が自然に外国語を話すことを考えても、人間の身体が特定の言語だけに固定されているわけでykはないことがわかります。
 幼児の喃語に多様な音が含まれていることを考えれば、後から特定の音しか使わなくなるのは、環境と言語形成によるところが大きいと考えられます。


  方言も同じです。
 関東と関西では、同じ日本語でも母音と子音の扱いが違います。関西のことばが音楽的に聞こえることがあるのも良く、母音の連続や音の柔らかさと無関係ではありません。
 日本語の中だけでも、さまざまな声の使い方があります。
 日本語そのものが音楽的でないのではありません。


  日本語には、母音の豊かさがあります。母音で終わることばも多くあります。イタリア語が音楽的だといわれる理由の一つも、母音で終わることばが多いことです。
 その意味では、日本語にも大きな可能性があります。
 問題は、その可能性を拍の均等さによって消してしまうことです。
 日本語は高低アクセントの言語です。英語などの強勢アクセントとは違います。
 だからといって、歌でも高低だけを守らなくてはいけないわけではありません。
 高低の変化を、強弱やフレーズの変化として処理することができます。
 本居長世氏が、日常のことばの調子まで考えながら歌詞のアクセントを扱ったことは、その先駆的な発想の一つといえるでしょう。


  ことばは生きています。
 時代によって発音も変わります。「そうです」が「そです」「そす」のように変化することもあります。
 母音が弱くなれば、強弱がつきやすくなります。
 つまり、日本語そのものも変化しています。
 歌い手も、固定された日本語観に閉じこもる必要はありません。
 日本語を音として聞き、音節として捉え、フレーズとして発し、強弱とリズムをつける。
 これによって、日本語の歌はもっと自由になります。


    さらに、ロックのシャウトからも学べることがあります。
 シャウトは、のどをつぶして大声を出すことではありません。
 身体から出る声を、強い息とともに自由に使うことです。
 人間の声は楽器ではありません。
 ピアノやヴァイオリンのように、決められた音を正確に出すことだけが価値ではありません。
 ことばを伝え、感情を伝え、身体そのものを伝えることができます。
 だから、声を楽音化しすぎないことが大切です。
 西欧の平均律や和声理論も重要ですが、それだけが音楽の基準ではありません。
 日本の三味線や古い歌、世界の民族音楽、ジプシーの音楽、ヨーデルなど、それぞれに異なる音の価値があります。
 声も同じです。
 日本語の歌を世界の音楽に合わせるだけではなく、日本語の中にある独自の音楽性を掘り出す必要があります。


  そのためには、外国語を聞くこと、外国人が日本語を話す声を聞くこと、方言を比べること、ことばを遊ばせること、シャウトを体験することなど、さまざまな方法があります。
 いつもの日本語感覚を一度崩してみることです。
 「ンチャ」「バイチャ」のような遊びことばでもよい。ことばを変形させてみることで、普段どれほど固定された音の感覚で話しているかに気づきます。
 発声のトレーニングも同じです。
 正しい声を一つ覚えるのではなく、自分の声をさまざまに動かしてみる。その中から、もっとも自由に使える声を見つけていくのです。


  結局、歌に必要なのは、ことばとメロディを別々に正確にすることではありません。
 声、ことば、身体、息、リズム、メロディを一つにつなげることです。
 そのためには、音符に声を合わせるのではなく、歌い手自身が音楽を動かす力を持つ必要があります。
 日本語だからリズムが弱い、日本人だから深い声が出ない、という考え方からも離れる必要があります。
 日本人の身体にも、世界の人々と共通する発声の可能性があります。
 日本語にも、充分な音楽性があります。
 必要なのは、それを制限している習慣を見つけることです。


  拍に縛られたことばを解放する。
 高低アクセントに縛られたメロディを解放する。
 のどに縛られた声を解放する。
 楽譜に縛られた歌を解放する。
 そうして初めて、歌い手の身体から、本当に生きたことばと声が出てきます。
 日本語を変える必要はありません。
 日本語の聞き方、話し方、歌い方を変えてみる。
 そこから、日本語の歌の新しい可能性が始まります。

 

 

 

 

 

 

 

『声を磨く理論と実践』@033 291 

 

 つくられた声から、身体に根ざした表現へ

 

 日本の舞台や歌を見ていて、くさい芝居、気恥ずかしい歌だと感じることがあります。

それは、練習したことがそのまま舞台に出てしまい、

身体を通したリアリティになっていないからです。

 

特に声は、発声練習の成果を聞かせるものではなく、

表現を支える身体の働きとして使われなくてはいけません。

 

 ここでは、日常の声を見直し、ナチュラルヴォイスを獲得し、

のど声や浅い声のくせを取り、耳を鍛え、自分に適した声を育てる道筋を示します。

 

 声楽とポピュラー、俳優の発声の違いにも触れながら、

理論は目的ではなく、自分自身のトレーニングをつくるための叩き台であるという立場から、

声を身体化し、自由な表現につなげていく方法を考えます。

 

 

 

 

 

 

はじめに

 

 舞台やステージを見ていて、なんて、くさい芝居なのだろう、気恥ずかしい歌なのだろう、と感じることがあります。出演している人たちは必死に練習してきたのでしょう。見たい人が見に行き、本人が満足すれば、それでよいという考え方もあります。外から余計なことをいう必要もありません。
    しかし、トレーナーとして評を求められるなら、話は別です。私が気になるのは、つくられたものが、つくられたまま舞台に出てしまっていることです。稽古した声、練習した表情、覚えたせりふ、覚えた歌い方が並んでいるだけでは、身体を通したリアリティにはなりません。
  特に声には、それがよく現れます。声は身体から出るものです。身体で体現できていないものは、声にも出てきません。いくら内面を語っても、いくら感情を込めても、声そのものが自由に使えなければ、表現はそこで止まります。


    歌や芝居に必要な声は、日常の声と同じではありません。不特定多数の人に内容を伝えるためには、鍛えられた声が必要です。しかし、日常からかけ離れた声でもありません。発声練習でつくったような声を、そのまま舞台に持っていくから不自然になるのです。
  めざすのは、日常の声そのものがとてもよい人のような声です。海外へ行くと、特別な訓練を受けていなくても、日常の声が深く、よく響き、身体から出ている人に出会うことがあります。そうした声の自然さを、日本人の身体で身につけていくことが、ヴォイストレーニングの出発点になります。
  そのためには理論が必要です。ただし、理論を信じ込む必要はありません。理論は実践のための叩き台です。理論が正しいかどうかを議論することより、それによって自分の声が変わり、表現が自由になり、舞台で結果が出ることの方が大切です。


  トレーナーには、多くの人に通用する一般的な理論が必要でしょう。しかし、一人ひとりの身体は違います。最終的には、その人に最も大きな効果をもたらすトレーニングを発見しなくてはいけません。
  声を学ぶとは、声について知識を増やすことだけではありません。自分の声を知り、他人の声を聞き、よい声とそうでない声を判断する耳を育て、実際に身体を動かし、繰り返し、身体化していくことです。


  ここでは、そのための考え方と方法を整理します。声を飾るのではなく、余計なものを取り、身体本来の働きを取り戻す。その先に、個性的で自由な声と表現があります。

 

 

[1] つくられた声とリアリティ

 

1 くさい芝居と気恥ずかしい歌

 日本の舞台やステージを見ていると、くさい芝居、気恥ずかしい歌だと感じることがあります。特にミュージカルなどでは、背筋がゾクゾクしたり、腰がムズムズしたりすることさえあります。
 もちろん、出演者がどれほど練習したかを外から批判する必要はありません。見たい人が見て、満足すればよいのです。
 しかし、トレーナーとして見るなら、問題は明らかです。練習したものが練習したものとして舞台に出ているのです。
 声も同じです。発声練習をしているときの声を、そのまま歌やせりふに使っている。感情を込めようとして声をつくり、表情をつけようとして身体を動かす。その結果、本人は一生懸命なのに、聞く側には不自然に感じられます。
 表現とは、練習したことを見せることではありません。練習したことが身体に入り、意識しなくても使える状態になって、初めて表現の中で生きてきます。

2 身体で体現する声

 リアリティのある表現には、身体が必要です。頭で理解したことを再現するだけでは、声にも芝居にも厚みが出ません。
 役者が感情を表現するとき、感情を強くしようとして声を大きくするだけでは足りません。歌手が歌詞の意味を理解していても、その内容を支える身体がなければ、声は表面的になります。
 声は、身体、呼吸、発声、共鳴、ことば、表現という流れの中で考える必要があります。
 特に大切なのは、声を出すことそのものを目的にしないことです。声は表現するための手段です。だからこそ、声そのものを自由に使える身体を先につくっておく必要があります。
 舞台に出てから感情をつくるのではなく、日頃から身体と声をつなげておく。そうすれば、本番の緊張やプレッシャーの中でも、声が表現から離れていきにくくなります。

3 日常から離れない舞台の声

 舞台の声は、日常の声とは違います。しかし、日常から完全に離れた声でもありません。
 不特定多数に同時に内容を伝えるためには、日常より強く、安定し、遠くまで届く声が必要です。それでも、聞き手にとっては人間の声として自然に感じられなくてはいけません。
 ところが、発声練習で習った声をそのまま使うと、声だけが浮いてしまいます。本人はよく声が出ているつもりでも、ことばや感情と結びついていません。
 めざすのは、日常の声がよい人のような舞台の声です。
 つまり、特別な声を新しくつくるというより、日常の声の中にある可能性を引き出し、それを舞台に耐えるところまで鍛えていくのです。

4 声のリアリティ

 声のリアリティは、声量だけでは決まりません。深さ、安定、音色、息、ことば、間、速度などが一体となって伝わることで生まれます。
 大きな声でも、のどだけで出していれば、聞き手には浅く聞こえます。反対に、それほど大きくなくても、身体から出ていて、ことばが生きていれば、強い説得力を持つことがあります。
 声を張ることと、声を使えることは違います。
 表現の中で必要なのは、必要なときに大きくでき、必要なときに小さくでき、速くも遅くもでき、音色も変えられる自由です。
 その自由を得るには、まず余計な力を取り、声を身体で支える基本を身につけなくてはいけません。

5 稽古を見せない技術

 よいトレーニングは、本番でトレーニングしているように見えなくなります。
 せりふを発するたびに発声を意識していたり、歌うたびに腹式呼吸を考えていたりすると、表現の自由が失われます。
 練習の段階では、細かく意識して構いません。しかし、本番では、それを意識しなくてもできるところまで身体化する必要があります。
 これはスポーツにも似ています。バットを振るたびにフォームを考えていては、実戦では対応できません。基本動作を繰り返して身体に入れ、その上で状況に反応するからこそ自由になります。
 声も同じです。発声を学ぶことと、発声を見せることは違います。

6 表現を支える基礎

 声の基礎は、表現の前段階にあるものではありません。表現そのものを支える土台です。
 声が自由でなければ、感情もことばも自由になりません。反対に、声が身体に入り、コントロールできれば、表現に使える余裕が生まれます。
 だから、歌や芝居の練習だけで声を完成させようとしないことです。歌う前に声を鍛え、せりふを演じる前に身体を整える。基礎の時間を独立させることが必要です。
 本番で声をどう使うかを考える前に、どのような声なら自由に使えるのかを身体で知っておく。その積み重ねが、くさい表現から抜け出す第一歩になります。

 

 

[2] 声を磨く理論

 

1 ヴォイストレーニングの必要性

 日本では、日常的に音声教育を受ける機会が少ないため、ヴォイストレーニングの必要性は大きいと考えています。
 多くの人は、自分の日常の声をしぜんな声だと思っています。しかし、その声も育った環境や周囲の人から大きな影響を受けています。
 発音や発声器官、呼吸器、筋肉、骨格は一人ひとり違います。本来なら自分の身体に合った使い方を身につけるべきですが、実際には周囲の話し方をまねたり、好まれる声に合わせたりすることで、自分の声を変えてしまいます。
 日本人には、意図的に高い声を出している人も多くいます。慣れてしまえば日常生活では問題がないように感じても、大きな声を長時間出すと、のどが疲れ、声が出にくくなります。
 役者やヴォーカリストなら、その負担はさらに大きくなります。

2 声を習得する十二段階

 声を習得する手順は、いきなり歌うことではありません。
 まず、声についての基礎知識を得ます。次に、よい声の実際を知り、自分の声を知り、自分の欠点を知ります。そして、自分の声の目標を設定します。
 その上でヴォイストレーニングのメニューをつくり、呼吸、発声、発音、ことばをチェックします。
 そこから、ことばで表現する段階に入り、フレージングをつけ、最後に音楽的表現力を育てます。
 この順序は、声を歌の付属物として考えないためにも重要です。声そのものを知り、使い方を身につけてから、表現へ進むのです。

3 理論と実践

 理論は必要ですが、理論そのものを目的にしてはいけません。
 理論は後からつくられた説明でもあります。疑問があれば徹底的に疑い、自分なりの代案をつくってもよいのです。
 恐れるべきなのは、理論が変わることではありません。理論だけがあり、実践のトレーニングが伴わないことです。
 どれほど立派な理論でも、声が変わらなければ意味がありません。
 トレーナーにとっては、多くの人に説明でき、ある程度の効果を見込める普遍的な理論が必要です。しかし、個人にとっては、自分に通用する方法があればよいのです。
 だから理論は、迷ったときに戻るための地図であり、自分のヴォイストレーニングをつくるための叩き台なのです。

4 声を磨く目的

 声を磨く目的は、美しい声をつくることだけではありません。
 もっと重要なのは、表現するために声を自由に使えるようにすることです。
 声楽では、美しく磨かれた声そのものが大きな価値になります。しかし、ポピュラーヴォーカルや役者では、内容を伝えることが第一になります。
 語学にたとえるなら、声楽は発音の正しさや美しさを重視する面があります。一方、ポピュラーや芝居では、多少の個性を残してでも内容が伝わることが重要です。
 ただし、美しさを否定するわけではありません。伝わる表現を支える声があり、その上で発音や音色が整っていれば、さらに強くなります。

5 声楽との共通点

 声楽とポピュラーの発声は、目的や表現スタイルに違いがあります。しかし、根本では、声を理想的に使おうとしている点で共通しています。
 声楽から学べることは多くあります。音声としてのことばの音楽的コントロール、音への感受性、テンポ、リズム、メロディに対するコントロール、音楽性などです。
 声楽家の発声には、完成された一つの声をめざすモデルがあります。そのモデルに近づくことが、歌唱の基準になります。
 一方、ポピュラーでは、その人の最もしぜんな声を見つけ、それを深めていくことが重要です。
 発声が一つであるという根本を共有しながら、表現の目的によって使い方が変わると考えればよいのです。

6 日本人のための発声

  外国で生まれた声楽の発声を、そのまま日本人に当てはめればよいわけではありません。
 外国人の場合、日常生活の中ですでに深いナチュラルヴォイスを使っている人もいます。そのため、深いポジションから深い息で声を出す基礎が、日常の中にある程度備わっていることがあります。
 日本人の場合、普通の声そのものがナチュラルでないことがあります。そこを飛ばして高度な発声を求めると、のどをつぶす危険も出てきます。
 まず外国人並みのナチュラルな声をめざし、その上で日本語、日本人特有の問題を克服していく。その体づくりに一年以上かけることもあります。
 役者なら、さらに二、三年単位で考える必要があります。急いで声をつくるのではなく、長期的に身体を育てることが重要です。

 

 

[3] 音声コントロールの基本

 

1 声を使い切る力

    役者のせりふも、ヴォーカリストの歌も、上達しない原因の多くは、声を充分に使い切れないことにあります。
 ところが、内面的な捉え方や感性、表情、間、心の問題ばかりを指導されることがあります。
 バッターが同じポイントに同じフォームでバットを振れないのに、ボールをよく見ろ、力を抜け、リラックスしろといわれても、それだけでは改善しません。まず毎日バットを振ることが必要です。
 声も同じです。体と声の強さ、コントロールを身につけないまま感情表現を工夫しても、つけ焼刃になりやすいのです。

2 基本を繰り返す意味

     声は、理解しただけでは使えるようになりません。
 毎日繰り返し、身体に覚えさせる必要があります。
 自分では、声が正しいのか、どこまで音域が使えるのか、と質問したくなります。しかし、実際にやってみなければわからないことが多いのです。
 九九パーセントの努力をした後に、判断力と実現力が伴ってきます。
 声について迷っていること自体が、まだ充分に声を使っていない証拠である場合もあります。
 頭で答えを探すより、声を出し、録音し、比較し、修正し、また行う。その循環が必要です。

3 音声コントロール

     声のコントロールとは、単に大きな声を出せることではありません。
 同じ声を安定して出せること、音量を変えられること、速度を変えられること、高さを動かせること、音色を変えられること、ことばを明瞭に扱えることが含まれます。
 一オクターブ程度を、さまざまなことばの中で安定して使えることさえ、日本では相当な実力になります。
 わずかなフレーズをシャウトしただけでも、プロとアマチュアの差は歴然とします。
 だから、音域の数字だけで実力を判断してはいけません。重要なのは、その音域をどれだけ自由に使えるかです。

4 声を使いこなす身体

     声を自由にするには、身体を自由にする必要があります。
 のどを固めて声を出している人は、少し声量を上げただけで負担がかかります。一本調子で、ゆうずうのきかない声になり、表現の幅も狭くなります。
 身体の中心で声を支え、深い息とともに声を扱えるようになることで、声に余裕が生まれます。
 この基本は、歌や芝居の中だけでは身につきにくいものです。歌う前、演じる前に、声を声として鍛える時間が必要です。
 それが表現の自由を支えます。

5 のど声からの解放

     のどで絞って声を出す状態からは、できるだけ解放されなくてはいけません。
 のど声は、一時的には大きく聞こえても、長く続けると負担になります。しかも、聞き手に強く伝わるとは限りません。
 声を押し出すほど、表現が強くなるわけではありません。
 むしろ、余計な力を減らし、身体から声が出る状態をつくることで、同じ声量でも伝わり方が変わります。
 声を出す力と、のどを締める力を混同しないことです。声を支えることは、のどを固めることではありません。

6 浅い声から深い声へ

    日本人の声は浅く、身体でコントロールしにくいことがあります。しかし、それは先天的な欠点ではありません。
 体からことばを表現する経験が少なかったことによって、浅い発声が習慣化している場合があります。
 富田浩太郎氏の『俳優の音声訓練』にも、浅い声と胸腔の共鳴についての考察があります。のどにかかった浅い声を除くために、腹部を使う方法にも危険があることを承知した上で、一時的に欠陥を移行させる方法が述べられています。
 重要なのは、方法そのものを機械的に行うことではありません。その方法によって、本人が声の変化を聞き分け、自分の欠点を自覚できるかどうかです。
 経験豊かなトレーナーには、可能性と危険の両方を見ながら課題を処方する力が求められます。

 

 

[4] 自分の声を知る

 

1 魅力的な声の基準

    自分の声を変える前に、魅力的な声とは何かを知る必要があります。
 自分の声だけを聞いていても、よいのか悪いのか判断できません。
 役者やヴォーカリストなど、その分野の第一人者の声を聞くことです。声楽だけでなく、ポピュラー、落語、芝居など、さまざまな分野の声を聞くとよいでしょう。
 美しい声と魅力ある声は同じではありません。
 表現するための声には、技術や美しさとは別に、身体の深さ、説得力、ことばの力、存在感など、共通して含まれているものがあります。
 世界各国の歌手の声を続けて聞いてみると、その声が全身から表現されていることに気づきます。同時に、日本人の声に対する感覚との違いも見えてきます。

2 日本人の声を考える

    日本人だから、世界に通用する声が出せないわけではありません。
 日本からも優れた歌手や、海外で評価されるオペラ歌手は出ています。
 問題は、日本人の身体そのものより、声の使い方、生活環境、言語、文化、声に対する意識にあります。
 だから、日本人の身体で、世界の人々に共通する発声の原理を学び、その上で日本語を処理していけばよいのです。
 外国に行くと声がよくなって帰ってくる人がいます。外国語を話すとさらに声がよくなることもあります。しかし、日本に戻ってしばらくすると、また元の声に戻ってしまいます。
 環境によって声が変わるということは、身体そのものに不可能があるのではなく、使い方に問題があることを示しています。

3 自分の声を録音する

    自分の声を知るには、録音が役立ちます。
 自分が頭の中で聞いている声と、他人が聞いている声は違います。自分の身体の内部を伝わる音を含めて聞いているからです。
 録音を初めて聞いたとき、自分の声を嫌だと感じる人は多いでしょう。しかし、それで落ち込む必要はありません。
 録音された声が、本当の自分の声のすべてではありません。そこには、まだ引き出されていない可能性があります。
 大切なのは、嫌だと感じたことを出発点にして、何が嫌なのかを具体的に聞くことです。高さなのか、音色なのか、浅さなのか、のど声なのか、速度なのか。
 漠然と嫌うのではなく、聞き分けることが、改善の始まりです。

4 モノトークによる自己発見

    歌や普通の会話よりも、ある物語を自作自演するモノトークを行うと、その人の性格、感情表現、声の特徴がよく現れます。
 強く感動したこと、傷ついたこと、ショックを受けたこと、幼い頃の印象に残る出来事などを文章にし、それを声で語ります。
 たとえば、ヴォーカリストを志したきっかけが仲間の死だったという体験を語れば、単なる歌唱技術とは違う、その人がなぜ歌うのかという根の部分が表れます。
 一分三百字程度として、二分以内、六百字程度でも充分です。
 重要なのは、何が起きたかだけではありません。それを今どう受け止め、なぜ伝えたいのか、聞き手にどう感じてほしいのかまで考えることです。

5 体験が表現になる過程

    モノトークでは、人にわからせようとしなくても、自分の体験の中で、そのときの感覚や心が再現されます。
 その結果、感情が自然にことばに現れます。
 事実には強さがあります。つくった感情より、自分が実際に体験したことの方が、聞き手の関心を引き、心を動かすことがあります。
 そこで、声についても粗探しをする必要はありません。
 その声がどう生きた表現と結びついているか、その人の魅力がどこにあるかを見るのです。
 人前で個人的な体験を語るのは抵抗があります。しかし、演じるということは、つくられたものであっても、その人の生身の部分が出ることです。
 その抵抗を越えたときに現れるものを捉えることが、表現力に早く気づく方法の一つになります。

6 個性とキャラクター

    モノトークでは、個性やオリジナリティ、表現の力、体験の共有、現実問題への関心などが見えてきます。
 身振り、間、語気、ことばの置き方などにも、その人らしさが現れます。
 ここで大切なのは、最初から個性的な声をつくろうとしないことです。
 個性とは、他人と違う声をつくることではありません。自分の身体を自然に使えるようになった結果として、その人にしかないものが出てくることです。
 だから、個性を探す前に、くせを取り、声を自由にします。自由になったところから、本人の個性が現れてきます。

 

 

[5] 耳を鍛え、くせを取る

 

1 他人の声を聞く力

    自分の声をチェックするには、判断する力が必要です。
 そのためには、他人と同じ課題を行うことが有効です。他人同士を比べ、自分も録音し、同じ条件で聞き返します。
 トレーナーの見本や指摘も参考にします。
 自分だけで練習していると、何がよいのか、何が問題なのかがわからないまま、同じことを繰り返すことがあります。
 他人の声を聞くことで、初めて自分の声の位置が見えてきます。
 声を鍛える前に、耳を鍛える。これは非常に重要な基本です。

2 二種類のよい声

     最初は、どれがよい声なのか、どれがよくない声なのかさえ、わからないことがあります。
 ここでいうよい声には二種類あります。
 一つは、今の状態で最も使いやすい声です。もう一つは、現在は使いにくくても、将来的に大きく伸びる可能性を持つ声です。
 歌手養成では、前者だけを評価することがあります。短期間で人前に出られるようにするには、その方が都合がよいからです。
 しかし、二、三か月で成果が出たからといって、それが将来にわたって伸びる声とは限りません。
 短期間の成果と、長期的な可能性を分けて考える必要があります。

3 アマチュア名人をつくらない

     二、三か月から一年ほどは、歌い方を覚えれば伸びているように感じます。
 しかし、その伸びが止まったとき、そこに残るのがカラオケ上級者的な技術だけでは、プロとしての発展は難しくなります。
 その日から成果が出るトレーニングは受け入れられやすいものです。しかし、声を長期的に育てるには、時間がかかります。
 トレーナーが見るべきなのは、現在の完成度だけではありません。
 将来的に伸びる声を見つけ、その可能性を引き出し、舞台や歌に使えるところまで育てることです。
 これは、短期的な評価よりも難しい仕事です。

4 声のくせの正体

     自分の声を録音して嫌だと感じる理由の一つは、声にくせがあることです。
 くせは、力が入ってはいけないところに力が入っているために生まれます。
 力が入ったところは響きます。その響きが強調されることで、ふしぜんで耳障りな声になることがあります。
 それは音声器官を統一して使えていない状態でもあります。
 だから、くせを個性と勘違いしないことです。
 くせを取ることは個性をなくすことではありません。むしろ、くせを取り、身体本来の働きを取り戻すことで、本当の個性が現れます。

5 ナチュラルヴォイス

     まず、自分が最も楽に出せる音の高さを探します。
 話している高さか、それより少し高いところを基準にします。五、六メートル離れた相手に話しかけるようにして、半音ずつキーを上下させます。
 そこで最も自然にできるところを探し、繰り返します。
 アー、アー、アー、アー。
 エー、エー、エー、エー。
 次に、歌うときの声で響かせます。
 中低音域では、話す声と歌う声をできるだけ分けたくありません。歌うように話し、話すように歌う方向が理想です。
 さらに、マーマーマーマー、モーモーモーモー、ミーミーミーミー、メーメーメーメーなどで、声とことばをつないでいきます。

6 声の高さ、速度、音色

     声を決める要素には、発声の状態、声の高さ、速度、音色があります。
 発声では、響きだけに頼らず、地声がそのまま外へ出るようにします。
 高さは、発声というと高くしがちですが、話し声と同じか、やや高いくらいから始めます。
 速度も速くなりやすいので注意します。長く伸ばすことが難しいからといって短くしすぎると、口先だけの声になります。
 音色は、落ち着いた感じをイメージします。大きくも小さくもでき、自由に変化できる声をめざします。
 こうした判断は、経験のあるトレーナーにつく方が早いでしょう。しかし、最終的には自分自身が自分の声に慣れ、自分でよりよい方向へ向けていく必要があります。

 

 

[6] よいところを伸ばし、表現へつなぐ

 

1 胸声から共鳴へ

    くせを取るトレーニングでは、首から上にある余計な響きを減らし、胸からしっかり声を出せるようにします。
 すると、胸だけでなく身体全体で出ているような声に聞こえてきます。
 肩や首から上がリラックスしてくると、声の響きは自然に上へ上がってきます。
 そこで初めて共鳴が生きてきます。
 最初から響きをつくるのではなく、まず身体に声のポジションをつくる。その上で自然に響きが上がってくるという順序です。
 この胸声での声のポジションを保ちながら、上の響きへ移っていくことが、声を自由にする一つのポイントになります。

2 リラックスとコントロール

     リラックスとは、力を抜いて何もしないことではありません。
 必要なところには力があり、不要なところには力がない状態です。
 声を支えるための身体の働きと、のどを固めることを区別しなくてはいけません。
 この感覚は、一度理解しただけでは身につきません。毎日の繰り返しが必要です。
 声の基本トレーニングは、演技や歌の中だけで完成させることが難しいものです。
 ヴォイストレーニングの時間を独立させ、そこでリラックスとヴォイスコントロールを繰り返す。そこまで粘り強く行って初めて、表現の中で自由に使える声になります。

3 トレーナーの役割

    ヴォイストレーナーにつく意味は、自分ではわかりにくい、自分にとって最高の可能性を持つ声を見つけてもらうことにあります。
 経験のあるトレーナーは、何年にもわたり、何十人、何百人という声を見ています。
 声の変化だけでなく、伸びる声と伸びにくい声、危険な方法と有効な方法を、経験として蓄積しています。
 もちろん、トレーナーの言うことを無条件に信じる必要はありません。
 重要なのは、トレーナーが自分の声をどう見て、どのような課題を与え、それによって自分の声がどう変化したかです。
 トレーナーには鋭い感性と、それをことばで伝える力、さらに具体的なトレーニング課題に変える力が必要です。

4 同じ課題から学ぶ

     同じモノトークを複数の人で行うことには、大きな意味があります。
 他人のモノトークを聞き、気に入ったものを選び、それを自分なりに行います。次に内容を自分なりにアレンジします。さらに、一つのモノトークを全員で行ってみます。
 歌で行ってもよいのですが、まずせりふで試します。
 そこで、ブレス、ことば、発音、アクセント、イントネーション、表現、読み方などを比較できます。
 何がうまく、何がうまくないのかを、自分の耳で判断する経験が積めます。
 その後でトレーナーから指摘されると、自分たちの判断と専門家の判断との差もわかります。
 学ぶとは、答えを与えてもらうことではなく、自分で判断できるようになることでもあります。

5 声の可能性を急がない

     声は、早く結果を出そうとすると、かえって遠回りになることがあります。
 特に十代などでは、身体そのものが変化しているため、何をどこまで急いで身につけるかの判断が難しいものです。
 声楽のように一つの完成された声をモデルにする場合と、ポピュラーのようにその人自身の声を探す場合では、成長の見方も違います。
 個性的な歌手の声をそのまままねしてはいけません。
 まねるべきなのは表面の音色ではなく、身体の使い方、息、声の支え、ことば、リズムなど、その人が自由に表現できる基盤です。
 自分の声の可能性を急いで決めず、長期的に見ていくことが大切です。

6 声から自由な表現へ

     最終的な目的は、よい声を持つことではありません。
 声を自由に使い、自由に表現できることです。
 声楽には声楽の強さがあります。完成された声のモデルがあり、音楽的なコントロールが高度に磨かれています。
 一方、ポピュラーや芝居では、声そのものが表現の素材になります。その人の自然な声を深め、さまざまな場面で使い分けられるようにする必要があります。
 声が自由になれば、歌もせりふも自由になります。小さな声から大きな声へ、低いところから高いところへ、速いことばからゆっくりしたことばへ、さまざまに変化できます。
 そのとき、声はトレーニングの成果を見せるためのものではなくなります。
 身体に根づいた声が、ことばと感情と音楽を支え、初めて本当の表現になります。

 

 

 

さいごに

 

    声について考えるとき、最初に必要なのは、声をつくることではなく、自分が今どのような声を使っているのかを知ることです。
 日常の声だから自然だと思い込んではいけません。私たちの声は、育った環境、周囲の人、言語、文化、習慣、コンプレックスなど、さまざまなものによってつくられています。
 高い声を好む人もいれば、男らしく聞かせようとしてのどに力を入れる人もいます。かわいいといわれて、その声を無理に保とうとする人もいます。しかし、声は化粧とは違います。無理につくったものは、身体に負担となり、長く続けるほど問題が出てきます。
 

    まず、自分にとって魅力的な声とは何かを知ることです。そのためには、世界中の優れた歌手、役者、語り手、落語家など、さまざまな分野の声を聞く必要があります。
 そこで見つけるべきなのは、単純な美しさではありません。身体から出ていること、深さがあること、ことばが生きていること、自由に変化できること、そして聞き手に何かを伝える力です。
 次に、自分の声を知ります。録音し、他人の声と比べ、モノトークを行い、自分の体験を自分の声で語ってみます。そこで初めて、自分の声の特徴だけでなく、自分自身の表現の特徴も見えてきます。
 声のトレーニングでは、悪いところを探して直すだけでは充分ではありません。将来伸びる可能性のあるところを見つけ、そこを伸ばす必要があります。
 今すぐ使いやすい声と、将来的に大きく伸びる声は違うことがあります。短期間で人前に出られるようにすることだけを目標にすると、アマチュア名人のような声をつくってしまうことがあります。
 

    トレーナーの仕事は、目の前の成果だけでなく、その人の声が将来どこまで伸びるかを見ることです。
 そのためには、声を聞く耳が必要です。自分の声だけでなく、他人の声を聞き、同じ課題を比べ、録音を聞き返し、差を判断する。耳が鍛えられていなければ、声の変化にも気づけません。
 そして、のど声や浅い声など、余計な力を使っている部分を少しずつ取り除きます。胸から声を出し、深い息とともに声を身体で捉え、そこから自然な響きを育てていきます。
 これは一日で完成するものではありません。毎日の反復が必要です。


    理論は、そのための地図です。しかし、地図だけでは目的地に着きません。実際に身体を動かし、声を出し、聞き、修正し、また行う。その繰り返しが必要です。
 理論そのものが変わっても構いません。別の方法を試しても構いません。大切なのは、自分にとって効果があるかどうかです。
 最終的にめざすのは、声楽の声をそのまままねることでも、外国人の声を表面的にまねることでも、人気歌手の声をコピーすることでもありません。
 自分の身体で、世界に通じる共通の発声の基礎を身につけ、その上で自分のことば、自分の文化、自分の体験、自分の表現を乗せていくことです。


    声は、つくり込むほど個性的になるのではありません。余計なものを取り、本来の身体の働きを生かしていくと、その人にしかない声が現れてきます。
 だから、声を磨くことは、声を飾ることではありません。
 自分の身体を知り、自分の声を知り、自分の耳を鍛え、日々のトレーニングによって声を身体化していくことです。
 その声が、歌やせりふの中で自由に動き始めたとき、初めてトレーニングは表現になります。
 練習している声ではなく、生きている声になる。
 つくられた表現ではなく、身体から出てくる表現になる。
 そのために、理論を学び、実践し、疑い、試し、自分自身のヴォイストレーニングをつくっていくのです。

 

『声を自分という楽器とする』@032 285  

 

  音楽、人生、そして自立

 

 

 音楽は、楽器や声によって生まれる振動から始まります。

 

 同じ楽器でも、鳴らす人によって音が違うように、

人間の身体も一人ひとり異なる楽器です。歌うことを始めて初めて、

自分という楽器を鳴らす訓練が必要だったことに気づく人もいます。

 

 ここでは、声への悩み、研究所での学び、バンド活動、ステージ、失敗、病気、

身近な人の死、好きなアーティストとの出会いなど、多くの体験が語られます。

 

 そこから見えてくるのは、技術だけでなく、センスとハートを含めて自分の声を育てることです。

 

 人並みの努力で満足せず、自分で課題をつくり、日々の生活そのものを音楽の学びに変えていく。

 

 最終的には、他人のコピーではなく、自分の人生からしか生まれない声を獲得することが、

ヴォーカリストとしての自立につながります。

 

 

 

 

 

 

はじめに

 

 音楽とは何から始まるのでしょうか。メロディでしょうか。リズムでしょうか。楽譜でしょうか。それとも歌詞でしょうか。
 もちろん、これらは音楽をつくる大切な要素です。しかし、そのもっと手前には音があります。さらにいえば、音を生み出す振動があります。


  古い時代には、音楽が治療に使われていたという話があります。楽器を鳴らしたり、人間自身が声を出したりすることで身体に振動を与え、回復を促したという考え方です。これは歴史的事実として単純に断定できる話ではありませんが、音楽の本質を考えるうえで興味深いものです。音楽は、耳で聴くものだけではなく、身体や心に働きかけるものだからです。
  ピアノを長く弾いてきた人の体験にも、そのことが表れています。
 子どものころ、ゆっくり一つの音を鳴らしては手の力を抜くという単調な練習を繰り返す。速いフレーズも、美しいメロディもありません。最初は退屈でも、何度も繰り返すうちに、音を出すことそのものに集中できるようになる。そして、同じピアノを弾いているのに、先生の音と自分の音が違うことに気づく。
 そこには、楽器を弾くことと、楽器を鳴らすことの違いがあります。
 音符を正しく弾けても、楽器そのものが鳴っていなければ、音楽としての核心には届きません。


  これは声にもそのまま当てはまります。
 人間は、生まれたときから声を出しています。話すことも、泣くこともできます。そのため、声を出すことは楽器を演奏するより簡単だと思われがちです。しかし、本当に自分の身体を楽器として鳴らそうとすると、事情は変わります。
 声は身体から生まれます。身体が楽器です。呼吸があり、発声があり、共鳴があります。そこに言葉や音楽や感情が加わっていきます。
 歌い始めて、自分の声にいらだつ人がいます。音程が不安定だから、高音が出ないから、声が弱いからという理由もあります。しかし、それだけではありません。そもそも自分という楽器を鳴らすための訓練をしてこなかったことに気づくからです。


     そこで初めて、ヴォイストレーニングの意味が見えてきます。
 トレーニングとは、歌を上手に見せるための小手先の方法ではありません。自分の身体を知り、声を知り、音楽を知り、自分で課題を発見し、それを日々の生活のなかで身につけていくことです。
 この道には、短い近道だけがあるわけではありません。半年で意識が変わる人もいれば、何年もかけて自分の方向を見つける人もいます。バンドを辞めることも、ステージから離れることも、目標を変更することもあります。それらも含めて、自分の音楽をつくっていく過程です。
 重要なのは、人と比べて早いか遅いかではありません。自分のなかにある可能性に対して、どこまで責任を持てるかです。


  自分の声で歌いたい。自分の気持ちをまっすぐ歌いたい。一生歌っていきたい。
 その思いがあるなら、今日が一番早い日です。
 二年でも三年でも、必要な時間をかけて、自分という楽器を育てていけばよいのです。

 

 

[1] 自分という楽器を鳴らす

 

1 音楽は音そのものから始まる

 音楽を考えるとき、私たちは曲、歌詞、和音、リズムなど、形になったものから考えがちです。しかし、その前に音そのものがあります。ピアノを長く練習した人が気づいたのは、どれだけ速いフレーズを弾けても、どれだけ複雑な和音を押さえても、楽器そのものが鳴っていなければ音楽にならないということでした。声も同じです。歌詞やメロディを覚えるだけでは、自分の声を鳴らしたことにはなりません。まず、自分の身体から音が生まれることを知ることです。声の質を表面的に変えるのではなく、身体、呼吸、発声の関係を学びます。音楽の原点を音そのものに置くなら、ヴォイストレーニングもまた、声そのものを扱うところから始まります。

2 ピアノの一音から学ぶ

 一音をゆっくり鳴らす練習は、一見すると音楽から遠いように思えます。しかし、そこには楽器を鳴らす基本があります。力を入れて叩くだけでは音はよくなりません。音を出したあとに力を抜くこと、音を聴くこと、自分の音と他人の音を比較することを繰り返していくことで、音の違いがわかってきます。先生の出す音と自分の音が違うことに気づくまでにも時間が必要です。これは声でも同じです。自分では声が出ていると思っていても、身体の使い方や息の流れには大きな違いがあります。まず違いを聴き取る耳を育てることです。自分の声を客観的に聴けるようになることは、トレーニングの大切な出発点です。

3 歌えば歌うほど見えてくる限界

 歌い始めれば、最初は楽しいものです。しかし、あるところまで行くと、自分の声の限界が見えてきます。高い音では喉が締まり、声が安定しない。音程やフレーズの問題は回数を重ねればある程度ごまかせても、歌そのものが音楽にならない。そこで初めて、自分という楽器を鳴らす訓練をしてこなかったことに気づきます。人間の身体は、ピアノのように鍵盤を押せば決まった音が出るものではありません。毎日の状態も違えば、呼吸も身体の使い方も変わります。だからこそ、声は身体から育てていく必要があります。歌の技術だけでなく、声そのものを育てる時間が必要なのです。

4 声の悩みを出発点にする

 ヴォーカリストにとって、声の悩みは避けて通れません。高音が出ない、安定しない、声が弱い、長く歌えない。こうした悩みを持つこと自体は問題ではありません。問題は、その悩みをただ嘆くだけで終わらせることです。悩みは、自分の課題を教えてくれます。高音が苦しいなら、なぜ苦しいのかを考える。声が安定しないなら、呼吸や身体の状態を見る。自分ではわからなければ、他者に聴いてもらう。そうして具体的な課題に変えていくことが必要です。声の悩みをなくすことだけを目的にせず、声の悩みから自分の身体と音楽を知っていくことです。

5 意味や理屈を越えた音をめざす

 声には、言葉としての意味があります。しかし、歌の魅力は言葉の意味だけではありません。声そのものの振動、響き、息、間、強さなどが、聴く人に伝わります。ある受講生は、自分という楽器で、意味や理屈を越えた本当の音、声を鳴らしたいと考えました。これは、言葉を軽視することではありません。言葉を支える声そのものを育てるということです。言葉を伝えるにも、声が必要です。感情を伝えるにも、身体から出る声が必要です。だから、声を磨くことは表現を磨くことでもあります。

6 始めるのに遅すぎることはない

 歌を始めた年齢を気にする人は多いものです。何歳から歌っていたとしても、まだ遅いのか早いのかわからないと悩む人もいます。しかし、声を育てるうえで重要なのは、過去の年月だけではありません。気づいた時点から何を始めるかです。長い年月をかけて身につけた身体の癖があるなら、それを知るところから始めればよい。遅いと思って何もしないより、今から始めるほうが早いのです。自分の声で歌いたい、一生歌いたいという思いがあるなら、その思いを毎日の行動に変えることです。

 

 

[2] 努力を自分のものにする

 

1 人並みの努力から出る

 大きな夢を持ちながら、人並みのことをして満足してしまうことがあります。ヴォイストレーニング、ダンス、ピアノなどを続けていても、本当にもうこれ以上できないというところまで取り組んでいるのかと問われると、答えに迷う。ここで必要なのは、自分を苦しめることではなく、自分の目標に見合った努力を考えることです。人並みの努力で人並み以上の結果を望むのは難しいでしょう。プロをめざすなら、プロとして必要な努力を生活の基準にしていく必要があります。努力を特別なことだと思わず、必要なこととして毎日行う。そこから結果が生まれてきます。

2 嘆く時間をレッスンに変える

 声が出ない、うまく歌えない、才能がない。そう考えて落ち込むことはあります。しかし、その時間を練習に変えられるなら、状況は変わります。嘆いている時間には声は育ちません。落ち込んでいる時間にも、身体は変わりません。そこで、もう一度レッスンに戻る。もう一度声を出す。できなければ、できるところから始める。難しいトレーニングに取り組めない日は、簡単な身体の使い方を確認してもよいのです。努力とは、いつも高い負荷をかけることではありません。止まらずに続けるための工夫を持つことです。

3 自分でトレーニングを組み立てる

   レッスンに通うだけでは、トレーニングは身につきません。レッスンで学んだことを持ち帰り、自分で課題を設定し、毎日の生活のなかで繰り返すことが必要です。一流のプロの歌を聴いて、何を学べるかを考える。本を読んで、自分の課題と結びつける。レッスンでできなかったことを家で確認する。そうして、少しずつ自分のトレーニングをつくります。最初から高度なことをする必要はありません。身体のフォームを確認すること、呼吸を整えること、声を聴くことなど、できることから始めればよいのです。大切なのは、自分で考えて続ける習慣です。

4 自分について考えすぎない

 自分の声について悩み始めると、際限なく考えてしまうことがあります。自分はダメなのではないか、才能がないのではないか、あの人より劣っているのではないか。ところが、自分だけを見つめていると、正しい答えにたどり着かないことがあります。そんなときは、自分から視線を外して、他人を観察することです。人の歌を聴く。本を読む。ステージを見る。自分と違う身体の使い方、違う表現、違う生き方を見る。そのなかから、自分に必要なものが見えてきます。自分を変えるために、自分だけを見続ける必要はありません。

5 他人との比較を成長に変える

 周囲の人が自分より上手に見えると、焦りや悔しさが生まれます。しかし、そこで競争だけを考えてはいけません。研究所で誰より上手いか、誰より高い声が出るかということだけでは、自分の音楽人生は決まりません。重要なのは、自分に何が足りないかを知ることです。人の力を見て落ち込むのではなく、自分の課題を発見する材料にする。優れた人を見て、自分も学べることを探す。そうすれば比較は成長のきっかけになります。

6 初心に戻り続ける

 学んでいくと、少しずつできることが増えます。そのとき危険なのは、自分はもうできると思ってしまうことです。最初は謙虚に人の話を聴いていた人が、少し経験を積むと、これは知っている、これはできる、と考えてしまう。すると学びが止まります。初心者のころの素直さを失わないことです。できると思っていることほど、もう一度確認する。簡単だと思う基礎ほど、深く行う。長く続ける人に必要なのは、初心を忘れないことです。

 

 

[3] 音楽と人生をつなぐ

 

1 自分のための歌から人のための歌へ

 歌を自分のためだけに歌ってきた人がいます。音楽は精神を支えるものであり、空気のように身近なものでした。人に聴かせるためでも、褒められるためでもなく、歌いたいから歌う。しかし、ある時点で、自分の歌に自分自身が満足できなくなります。自分が求める歌の基準が高くなり、思うように歌えないことがストレスになる。そこから、歌は少しずつ自分だけのものではなくなります。波の音や風の音や雨の音のように、自然に人へ届く歌を歌いたい。自分のための歌を深めた先に、人に何かを伝える歌が見えてくるのです。

2 コピーでは自分の音楽にならない

 優れた歌手を聴けば、同じように歌いたくなることがあります。しかし、他人の表面をコピーするだけでは、自分の音楽にはなりません。人に何かを伝えたいなら、自分自身の経験、自分自身の身体、自分自身の感覚を使う必要があります。ある受講生は、自分の音楽を獲得するまで努力すると決めました。自分がスロースターターであることを自覚しながら、それでも進む。時間がかかることを恐れない。むしろ時間をかけて自分の声を育てることで、他人にはつくれないものが生まれます。

3 技量、センス、ハート

 歌のアーティストには、三つの大切なものがあるという考えがあります。まず技量です。声を相手に伝えるための基本的な力です。次にセンスです。同じ曲をどう解釈し、どう味付けするか。言葉やメロディをどう扱うかという感覚です。そして最後がハートです。どのような心で歌うのかということです。技量だけでは、歌は人の心を動かしません。センスだけでも足りません。身体から声を出し、技術を使い、音楽を理解し、そのうえで自分が何を伝えたいのかを持つ。その三つが重なって、歌が人間の表現になります。

4 人生経験が声に残る

 身近な人の死を経験したとき、言葉にならない音楽を感じたという体験があります。葬儀に集まった人々の姿やその人が生きてきた時間に触れることで、心のなかに音のない波動が生まれる。歌も、それに似ています。声は言葉だけでは伝えられないものを伝えます。その人が何を経験してきたか、どのような思いを抱えているかが、声の奥に残ります。だから、ヴォーカリストにとって人生を生きることは、音楽から離れたことではありません。日々の経験そのものが、将来の表現の材料になります。

5 存在していることを無駄にしない

 仲間を事故で失った体験から、自分が生きていることの意味を考え直した人がいます。やりたい仕事があるのにできなかった仲間を思い、自分にはまだできることがあるのに、それを充分に行っていないことに気づく。人が自分を駄目にするのではなく、自分が自分を駄目にしている。だから、自分自身が変わればよい。これは音楽にも通じます。環境のせい、才能のせい、周囲のせいにする前に、自分にできることを考える。今ここにいることそのものを大切にし、自分の分の人生を充分に生きることです。

6 愛することも生きることの一部

 人を愛することや、自分の信じたものに身を投じることについて、極端な言葉で語った文章もあります。そこには、人生を中途半端に生きたくないという意志があります。ただし、恋愛に限らず、人間関係には相手の意思や尊厳があります。誰かを自分の基準だけで評価するのではなく、自分自身が何を大切にして生きるのかを問うことが重要です。音楽も同じです。中途半端に関わるのではなく、自分が本当に大切だと思うものには、自分の時間と力を使う。愛すること、学ぶこと、歌うことは、人生をどう生きるかという問題につながっています。

 

 

[4] 音楽活動で鍛える

 

1 バンドは自分を映す場所

 バンドに入れば、楽しいことだけではありません。他人がつくった曲を歌う難しさ、キーの問題、歌い回しの指示、ジャンルへのこだわりなど、自分一人では経験できなかった問題が出てきます。自分の曲なら、自分のキーで自分の好きなように歌えます。しかし、他人の作品ではそうはいきません。そこには、ヴォーカリストとしての対応力が必要です。自分の思い通りにならない環境に入ったとき、何ができるか。バンド活動は、自分の甘さや弱点を知る場にもなります。

2 バンドとトレーニングの時間軸

 バンドのメンバーから、ヴォイストレーニングをすればすぐに高音が出るようになると思われることがあります。しかし、声の基礎は短期間で都合よく変わるものではありません。まず身体と呼吸を整え、そのうえで声を安定させていく必要があります。基礎をつくることと、すぐに舞台で結果を出すことには時間差があります。そこを理解しないと、本人も周囲も焦ります。長期的に声を育てることと、現在の音楽活動をどう両立するか。これはヴォーカリストにとって大きな課題です。

3 失敗は実力を知る機会

 十数社のレコード会社などへデモテープを送って、すべて結果が出なかったという体験があります。しかし、その結果によって、自分の現在の実力を納得できた。これは大切なことです。評価されなかったことを失敗として終わらせるのではなく、現在地を知る材料にする。自分のヴォーカル、作詞、作曲の力がまだ足りないなら、そこを磨けばよいのです。外からの評価は厳しいものですが、自分の思い込みを壊してくれることがあります。客観的な評価を受けることも、トレーニングの一部です。

4 音楽活動は一つの形ではない

 バンドに所属していることだけが音楽活動ではありません。ライブハウスに出ることだけが音楽活動でもありません。研究所にいることで満足してしまうのは問題ですが、研究所で学び、考え、他人と交流し、自分の課題を見つけることも音楽生活の一部です。大切なのは、外にいるか内にいるかではなく、どのような意識で音楽に関わっているかです。所属しているだけで安心してしまうのではなく、学んだものを外へ持ち出し、実際の音楽活動につなげることです。

5 交流も音楽の力になる

 一人で練習することは必要ですが、一人だけでは見えないものがあります。合宿やレッスンを通して、さまざまな人と接することで、自分とは違う考え方や音楽への向き合い方を知ることができます。広く浅い交流から、もう少し深いコミュニケーションへ進みたいという反省もありました。人との関係をつくることは、ヴォーカリストにとっても重要です。歌は人に向かって伝えるものだからです。人を知ること、人と話すこと、人の歌を聴くことも、表現を広げる学びになります。

6 目標は変わってよい

 最初はプロデビューが目標だったとしても、活動を続けるうちに、何のためにプロになるのかという疑問が出てきます。肩書きや所属だけでは、自分の音楽の目的にはなりません。音楽で何をしたいのか、誰に何を伝えたいのか、どのような生活をつくりたいのか。そこまで考えて初めて、目標が自分のものになります。夢は変化してもよいのです。三年後までに方向性を確立する、と期限を決めることも一つの方法です。目標を持つことと、目標を見直すことは矛盾しません。

 

 

[5] 自分の未来の設計

 

1 成功の基準を自分で持つ

 成功とは何でしょうか。人に認められること、収入を得ること、好きな仕事をすること。さまざまな考え方があります。大切なのは、他人の成功イメージをそのまま借りてこないことです。自分が何を望むのかを明確にする。好きな仕事をし、それを人に認めてもらい、生活を成り立たせる。そこに自分なりの条件を加えていく。単純な基準ほど、長い時間を支えてくれることがあります。複雑な理屈を重ねる前に、自分が何を大切にするのかを決めることです。

2 師からシンプルに学ぶ

 師から学ぶということは、師のすべてをコピーすることではありません。必要なものを学び、自分の身体と経験に合わせて使えるようにすることです。シンプルな基本ほど、長く使えます。発声でも、呼吸でも、リズムでも、音程でも同じです。基本を深く学んだうえで、自分なりの表現を加えていく。先に飾りをつけてしまうと、何が本質なのかわからなくなります。まずシンプルに学び、シンプルなものを自分の身体に落とし込む。その後で個性を加えればよいのです。

3 マスタープランを持つ

 アーノルド・シュワルツネッガーの人生設計には、段階を追って目標を実現していく発想がありました。まず一つの分野で結果を出し、次に知識や教養を身につけ、さらに別の領域へ進む。重要なのは、夢を漠然とした願望で終わらせず、何をいつまでに行うかを考えることです。ヴォーカリストにも同じことがいえます。声を育てる。音楽を学ぶ。人前で歌う。作品をつくる。評価を受ける。活動を広げる。長期的な視野を持てば、今日のレッスンにも意味が生まれます。

4 個性を一つ育てる

 優れた人を見ると、自分には何もないように感じることがあります。しかし、すべての能力を人より上にする必要はありません。自分だけの強い個性を一つ持つことが、大きな武器になります。声域でも、声質でも、リズムでも、言葉でも、作曲でも、ステージでもよい。何か一つ、自分の特徴を育てる。そのためには、他人の個性を羨ましがるだけでは足りません。自分の可能性を探し、時間をかけて磨くことです。個性は最初から完成しているものではなく、努力によって形になっていくものです。

5 退屈と戦う

 入院中、何もできない時間が続き、退屈というものの怖さを考えたという体験談があります。忙しいことと充実していることは同じではありません。反対に、何も起きない時間でも、自分で何かを考え、学び、準備することはできます。退屈に身を任せると、自分の力が少しずつ抜けていきます。声のトレーニングでも同じです。やる気が出ない日があっても、完全に手放さない。身体を整えるだけでもよい。本を読むだけでもよい。音楽を聴くことでもよい。自分を前に進める小さな行動を持っておくことです。

6 今をフルに生きる

 人生には、事故、病気、別れなど、自分では選べない出来事があります。そうした経験を通して、生きていることそのものを考え直すことがあります。まだできるのに、やっていない。やりたいのに、言い訳をしている。そんな自分に気づくことがあります。そこで必要なのは、自分を責め続けることではありません。残された時間をどう使うかを考えることです。自分の分しか生きられないのなら、その自分の分を生きる。今日のレッスン、今日の練習、今日の人との出会いを大切にする。未来をつくる材料は、いつも現在にあります。

 

 

[6] 一流を聴き、自分の歌をつくる

 

1 一流から個性を考える

 マライア・キャリーの歌に憧れる人は、その声域や声質だけでなく、声、発声、ブレス、メリハリ、センス、感情移入、メロディ、アレンジ、リズム感など、さまざまな要素に魅力を感じています。しかし、憧れることとコピーすることは違います。彼女のような高音を出したいと思うことは、自分の理想を考えるきっかけになります。しかし最終的には、自分にしかない声をつくる必要があります。優れたアーティストを聴く目的は、その人になることではありません。その人の何がすぐれているのかを分析し、自分に何ができるのかを考えることです。

2 知らない歌を聴く

 海外の音楽を聴くと、日本語とは異なる言葉の響きや文化を感じます。意味を完全に理解できなくても、声そのもの、リズム、息、フレーズの動きから学べることがあります。外国語の歌詞を日本人がネイティヴと同じように受け取ることには限界があります。しかし、音としての魅力は国境を越えます。だからこそ、海外の歌手を聴くことは、声の可能性を広げることになります。歌詞の意味だけに頼らず、声の音楽性を聴く。そこから、自分の日本語の歌にも生かせるものが見えてきます。

3 役者のヴォイス

 役者の歌声について、強く印象に残ったという鑑賞レポートがあります。想像していた以上にしゃがれた声でありながら、それが単なる声質ではなく、聴き手を引き込む魅力になっていた。日本のシンガーのなかでも、他にはない声だと感じた。ここから学べるのは、声の美しさだけが価値ではないということです。声に個性があり、それが音楽と結びついていれば、強い魅力になります。自分の声を無理に別人のように変えるのではなく、自分の声の特徴を知り、それを音楽のなかで生かすことが大切です。

4 鑑賞するステージ

 エレファントカシマシのライブでは、一般的なロックコンサートとは違い、客席が立ち上がって騒ぐだけではなく、ヴォーカルの宮本浩次の歌をじっと聴く独特の空気が生まれていました。雨の野外ステージでも、その存在感は変わりません。ステージ装飾に頼らず、本人たちの音楽と存在で観客を引きつける。ヴォーカリストに必要なのは、声量だけではありません。そこに立ったときに何を感じさせるかということです。歌っているときの身体、表情、動き、言葉、声のすべてがステージをつくります。

5 身体の声を聴く

 エリック・クラプトンのライブを聴いた体験から、力強いヴォーカルに身体性を感じたという記録があります。ギターの技術だけでなく、声にも魅力がある。さらに『Tears in Heaven』のような曲では、その背景を知って聴くことで、歌の意味が深く感じられます。歌は音程やリズムだけで完成するものではありません。その歌がどのような背景から生まれたのかを知ることで、歌う側の意識も変わります。自分も心で歌えるようになりたいと思う。その思いが、技術を表現へつなげます。

6 聴いた音楽を自分の人生へ戻す

 クイーン、レッド・ツェッペリン、エクストリーム、ニルヴァーナ、ラモーンズ、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、ショパン、ヴィラ・ロボス、トリオ・ロス・パンチョス、サイモン&ガーファンクル、エレファントカシマシなど、好きな音楽を並べれば、その人がどのような音楽のなかで育ってきたかが見えてきます。さらに、ボ・ガンボス、近藤房之助、忌野清志郎、ドゥービー・ブラザーズ、エリック・クラプトンなど、ライブで出会う音楽もあります。鑑賞とは、聴いて終わることではありません。何に感動したのか、何が自分を刺激したのかを考え、自分の声と音楽へ戻していくことです。

 

 

 

さいごに

 

 自分の声で歌いたい。
 自分の気持ちをまっすぐ歌いたい。
 一生歌っていきたい。
 この言葉は、ヴォーカリストをめざす人にとって、単純なようでいて大きな意味を持っています。
 歌を始めれば、すぐに理想の声が出るわけではありません。高音で喉が苦しくなることもあります。音程が不安定なこともあります。バンドに入って、自分の思い通りにならないこともあります。オーディションに落ちることもあります。病気や事故、別れによって、音楽どころではなくなることもあります。
 それでも、そこから何を学ぶかによって、音楽との関係は変わります。


  ピアノを弾いてきた人は、一つの音を鳴らすことの難しさから、楽器そのものを鳴らす喜びを学びました。歌い始めた人は、自分の身体が楽器であることに気づきました。バンドを経験した人は、自分勝手に歌うことと、他人の音楽のなかで歌うことの違いを知りました。オーディションを受けた人は、現在の自分の実力を客観的に知りました。合宿や研究所で人と交流した人は、一人で学ぶことと、人と学ぶことの違いを知りました。
 そして、優れた歌手を聴くことで、自分にはないものに出会います。


  ビリー・ホリデイのように、人生そのものが声に感じられる歌手。ルイ・アームストロングのように、時代を動かす力を持った音楽家。三大テノールのように、身体から自由に声を操る歌手。森進一のように、独特の声の表現を持つ歌手。マライア・キャリーのように、声域や声質を強い個性として生かす歌手。近藤房之助や忌野清志郎、エレファントカシマシ、エリック・クラプトンのように、それぞれの存在そのものが音楽になる人たち。


  こうした人たちを聴くと、自分もそうなりたいと思うでしょう。
 しかし、そこでコピーしてはいけません。
 他人の声をそのまま手に入れることはできません。そもそも身体が違います。生きてきた時間が違います。経験が違います。感じてきたものが違います。
 だからこそ、自分の声をつくる意味があります。
 声は、自分という楽器です。
 その楽器は、生まれたときから完成しているわけではありません。身体を使い、呼吸を学び、声を出し、聴き、修正し、歌い、人と関わり、失敗し、経験することで育っていきます。


  研究所へ行くだけで声が身につくわけでもありません。レッスンで聞いたことを、自分の生活に持ち帰らなければなりません。毎日のなかで課題を見つけ、自分でトレーニングを組み立て、少しずつ身体に落としていく必要があります。
 人並みのことをして満足しないことです。
 しかし、それは自分を追い詰めることとは違います。できない日は、できることから始めればよい。簡単なことを繰り返してもよい。自分について考えすぎたら、他人の歌を聴けばよい。迷ったら、優れた人の仕事を観察すればよい。
 そしてまた、自分の身体に戻るのです。
 夢も変わってよいのです。


  最初はプロデビューだったとしても、途中で何のためにプロになるのかを考え直してよい。バンドを辞めても、音楽を辞めるとは限りません。ステージに立てない時期があっても、その時間に学ぶことはできます。
 大切なのは、音楽を続けることだけではありません。
 音楽によって、自分自身を成長させ続けることです。
 やがて、自分の声に自分の人生が残るようになります。
 その声を聴いた人が、声の奥にある何かを感じるようになります。
 それは、技術だけではつくれません。
 技量が必要です。
 センスも必要です。
 そして、ハートが必要です。
 自分の人生を、自分の身体を、自分の声を、どこまで大切にして生きるか。
 そこから、その人にしか歌えない歌が生まれます。


    自分という楽器を鳴らす旅には、終わりがありません。
 だからこそ、今日も一つ音を出す。
 一つ息をする。
 一つ歌う。
 そして、自分の声を聴く。
 その積み重ねの先に、いつか自分だけの音楽が生まれてくるのです。
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