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NOTRE MUSIQUE

Elle est retrouvee.
Quoi? - L'Eternitee.
C'est la mer alleee
Avec le soleil.

Carol KingCarol Kingの1972年の名盤で邦題は“つづれ織り”。
今や女性シンガーソングライターの元祖として知られるキャロル・キングであるが、ソロとして活動するまでは職業作曲家として活躍していたという経歴を持つ。作曲家として活動していた60年代は作詞家のゲリー・コフィンと組み、黒人白人問わず多くのヒットを飛ばしている。その彼女がシンガーソングライターとして歩むきっかけとなったのは、やはりビートルズの影響が大きい。既成の作曲家、作詞家、それを歌うアーティストという図式を壊して、すべてを自分達でクリエイトするビートルズの新しいスタイルが彼女のアーティストとしての自我を目覚めさせたようである。彼女は作曲だけではなく、スタジオミュージシャンとしても活動をはじめ、自らの曲を作って歌うシンガーソングライターとしての活動を始めることになる。
シンガーソングライターの作る曲は、自分自身のパーソナルな内容のものが多く、強さをアピールするものより自分の弱さや苦悩などを表現する偏った内容の曲が多い。このアルバムのすべての曲にはそういった自分の弱さや悩みを表現するといった曲は一切なく、あくまで個人的な狭い範囲で終始しない普遍性のあるポップスとなっている。もともと職業作曲家であった経歴のせいもあるが、決して自分自身の甘えを許さないプロの音楽家としての意識が、結果として自分自身の音楽家としての生き方を再確認し、色褪せない普遍性のある数々の名曲を生み出した。この作品は彼女の音楽に対する強い意志が感じられる優れたアルバムといえる。
ここに収められた“It's too late”や“You've Got A Friend”などほとんどの曲が、今やスタンダードとしてジャンルを超えて幅広く歌われている。また発売当時セールス的にも302週にわたって全米チャートにランクされ、2200万枚を売り上げるという空前絶後の大ヒットを記録し、CDはいまだに売れ続けている。彼女のシンガーソングライターとしてのスタイルは、今日でも多くのアーティストから尊敬を集め、デフォルトスタンダードとして模倣とされている。
John ZornJohn Zornの2003年のアルバム。
このMasadaシリーズはJohn Zornの手がける数あるプロジェクトのうちのひとつで、ここ数年の彼のメインとも呼べる仕事となっている。
彼は父の死を契機に自身のユダヤ人としてのルーツを確認し、アメリカの黒人音楽をルーツに発展してきたジャズやブルースをはじめとする音楽をそれとは別のユダヤ人から派生したものであるという仮説を打ちたてそれを検証するという作業に取り掛かる。その彼の試みを具現化したのがこのMasadaシリーズになる。彼のその狂気にも似た音楽思想は極めて原理主義的で、逆に黒人のブラックナショナリズムとしてのジャズを追求するウィントン・マルサリスの対極に位置する存在とも言える。
ユダヤの音楽といっても、このMasadaのサウンドは多種多様で、ジャズをベースにしたものや弦楽演奏をメインにしたもの、現代音楽やハードコアなノイズをとりいれたものなど非常に多岐に渡る。既に10枚以上のCDがリリースされていて、そのうちの何枚かには長時間聴くと精神に異常をきたすので要注意、という注意書きすら存在するほど過激な音楽である。
John Zornの音楽はこのシリーズに限らず、過去の音楽からのサンプリングにより成り立っている、20世紀末に至り自律的音楽家としての作曲家の時代は終わったと言い切る彼の姿勢は非常に刹那的であるが、現実的でもある。だが彼の音楽は決して過去の音楽へのオマージュや懐古主義的な作品ではない。いくらオリジナリティーがあっても所詮は過去に存在した音楽の焼き直しでしかないという事実に向き合い、現代においてそれをどう表現するかというポジティブな姿勢が貫かれている。その彼の方法論は、パクリをあえて公言しながらパクリつづけるオレンジレンジとも似ているのかもしれない。
このアルバムはそのMasadaシリーズでもBill Frisell,Marc Ribot,Tim Sparksというこれまでにも共演暦のある3人のギタリストが参加しているアルバム。ユダヤの民族性の強い音楽ではあるが、ギターという楽器の性質上、あまり伝統的な古さは感じさせない。過激な作品や民族的な作風の両方の顔をもつプロジェクトであるが、このアルバムはそのちょうど中間に位置する作品でバランスは良い。
癒し系と呼ばれる音楽の流行も落ち着いついてきた今、こういう音楽がもっと聴かれるようになっても良いのかもしれない。
Frank Zappa1971年のFrank Zappa & Mothers of Inventionのライブアルバム。
1971年6月5、6日にフィルモア・イーストで行われたライブを収録したもので、このライブにはエインズレーダンバーと元タートルズのメンバー2人が参加している。タートルズのヒット曲である“Happy Together”をタートルズのフロー&エディのヴォーカルをフィーチャーして演奏しており、この曲をザッパが真面目に演奏すると逆に滑稽で、かえってシニカルな曲に聴こえてしまう。
このMothers of Inventionは1964年の母の日にザッパを中心に結成。事実上ザッパのワンマンバンドであり、一般的に非常に難解で奇妙な音楽を出すグループとして認知されるが、実はブルースやドゥーワップをルーツとした音楽である。根底にあるのはそういったシンプルな音楽で、決して支離滅裂なメソッドを無視した音楽ではない。ただしザッパの強力な批評精神と風刺精神は当時のロックはもちろん現在に至るまでロックバンドの中でも郡を抜いている。
Little Featをはじめこのザッパのマザーズ出身のアーティストは多く、みんなそれぞれの解釈でザッパの精神を受け継いでいる。アリス・クーパーは、ザッパのそういったシニカルなロックから離れ、反対にひたすら分かりやすく明快なロックをつくり、逆にスティーヴ・ヴァイはザッパから吸収したものをさらに自らで消化し、類稀なギターセンスで独自のサウンドを確立させた。
このアルバムでもゆったりとしたブルースロックの中で、ザッパの悪意とすら思えるシニカルでウィットに富んだ遊び精神がたっぷり込められている。このあとザッパは1973年のアルバム“Over-nite Sensation”でジャズ的なインプロヴィゼーションを排除しポップに拘ることによりアルバム自体をエンターテイメントとして自ら風刺することに成功。ここでザッパのサウンドは完成された。
CreamCreamの1967年のアルバムで邦題の“カラフル・クリーム”というタイトルのほうが一般的かもしれない。。
Creamはご存知のとおりエリック・クラプトン(g,vo)、ジャック・ブルース(b,vo)、ジンジャー・ベイカー(ds)の3人によるバンドで、この時点で3人ともブルースバンド出身のミュージシャンであり、結成当時はそういった各メンバーの経歴からブルースバンドとして期待されていた。たしかに彼らの音楽のベースとなっているのはブルースであるが、Creamのサウンドはそれまでのブルースロックとは違った新鮮さがあった。単に黒人のブルースを真似るだけではなく、そこに自分達の音楽観を反映させてCreamならではのブルースを確立したのである。
Creamというとメンバーの個々の力量があったせいか、ジャズの方法論を取り入れたといわれるライブでのフリーなインプロヴィゼーションについて語られることが多い。だが彼ら独自の音楽性が分かりやすい形で表現されているのは、どちらかというとライブではなくスタジオアルバムである。
このアルバムはそのスタジオ盤としての代表作とも言える古典的な名作。アルバムタイトルの“カラフル・クリーム”とは、ピンク中心の派手でサイケ調のジャケットデザインが反映されているが、実際のサウンドはカラフルとはほど遠いもので、彼らのブルージーな演奏と当時のブリティッシュロックが持っていた陰鬱さが充満している。デビューアルバムの“Fresh Cream”ではまだブルースの影響から脱しきれずブルース色の強いアルバムであったが、このアルバムの頃になると外部プロデューサを起用し、オリジナリティーのあるサウンドが確立されている。クラプトンのギターはこの頃から冴えまくっているし、メンバー間のインタープレイの密度の濃さも凄まじいものがあったが、Creamの本質はこのジャック・ブルース主導によるスタジオ盤に込められている。
ブルースロックとしての新しいスタイルを築く一方で、時代のメインストリームであったサイケデリックの波にものまれないCreamのスタイルは70年代のロック、そして現代までのロックの雛形を作り上げたといえるだろう。
最近CDとDVDが発売になって話題になっているとおり、Creamは今年5月ロンドンのRoyal Albert Hallで1968年の解散以来30年ぶりに再結成した。所詮、過去の栄光の再演であり同窓会的な企画であることは否めないが、昔からのファンへのサービスとしてシンプルに楽しみたいと思う。
Jimi HendrixJimi Hendrixのモンタレー・ポップ・フェスティバルでの演奏を収めたライブ盤。
このモンタレーのライブはジミヘンのアメリカデビューとも言えるライブで、もともとジミとオーティス・レディングの演奏をカップリングされたもの(残念ながら共演はなし)が出ていたが、1986年にジミの演奏だけが完全版となってリリースされた。
ジミはこのモンタレーでのライブで、凄まじい演奏を見せつけ、ギターを燃やすというパフォーマンスを行い観客の度肝を抜いた。このライブはストーンズのブライアン・ジョーンズの紹介とともに古いブルース“Killing Floor”のカバーで始まるのだが、このイントロの数小節で完全に観客をノックアウトさせている。有名な話ではあるがジミヘンは元々アイズレーブラザーズのバックでギターを弾いていた経歴の持ち主。ソロデビュー後はあえてファンク的な16ビートを排除するかのように白人ロック的なスタイルを模索しているが、この時点ではまだアフロアメリカンなリズム感を感じさせるプレイが随所にみられて興味深い。この“Killing Floor”での豪快で歯切れの良いギターカッティングは後のBand Of Gypsys時代まで聞けない貴重な演奏記録ともいえる。
今やエレクトリックギターの神として認知されている彼だが、彼のギタープレイはフレーズセンス云々といったものではなく、あのギターをこねくりまわすような独特な奏法に大きな魅力がある。彼の場合はフレーズを弾くというより暴力的に叩き出すという表現が近いかもしれない。そこにはこれまでの音楽史の中で発展してきた音楽的なメソッドなどはまったく意味を持たない。ギタリストの場合、上手くなればなるほど自分のプレイに陶酔してしまうプレイヤーが多い。自己陶酔することにより良い演奏が生まれることが多いが、ジミの演奏は自己陶酔ではない。彼は既定のロックのスタイルに対するフラストレーションをすべてギターに吐き出し、さらにそれを表現することの限界に気づきそのフラストレーションを再度フィードバックすることによってあの混沌としたカオスと暴力的なフレーズを生み出した。言い換えると、誰よりもギターが上手かったために、ギター表現の可能性、ロックの可能性に気づいてしまったのであろう。そのフラストレーションが彼の音楽の原動力でもあり、結局そのフラストレーションは解消されることはなく、結果としてギターを燃やし、死んでしまったと言えるのかもしれない。
ジミヘンのCDは、死後30年が経過した今でも未発表音源などがリリースされ続けているが、実際の彼の活動期間は1967年のデビューから1970年に薬物のOverdoseで死ぬまでたった3年ほどである。このわすかな期間に彼がギタリストやロックシーンにたいして大きな影響を与えたのは言うまでもない。彼より上手いギタリストはたくさんいるが、若くしてロックの可能性に気づき彼のように破滅型のカオスを表現できるアーティストはもう二度と現れないであろう。
なお、このアルバムはどういうわけか現在CDとしても入手難である。未発表音源の発掘も良いが、その前にまずこのアルバムの再発を強く希望したい。
Culture Clubこのアルバムは数日前に麻薬所持でまた逮捕されたボーイ・ジョージ率いるCulture Clubの1983年のヒット作。
Culture Clubはボーイ・ジョージというエキセントックな個性的なフロントマンを中心に結成されたバンドで“Do You Really Want To Hurt Me(君は完璧さ)”のヒットによって世界的な人気バンドとなる。当時のMTVの大ブームの中、Culture Clubは女装さえするボーイ・ジョージのビジュアル的にインパクトの強いイメージを逆手にとり、積極的にプロモーション・ヴィデオによる販促活動を行い成功を収めた。
彼のキワモノ的とも言える個性は、毒のない彼らのポップなサウンドとは対照的であった。
サウンド的には、黒人音楽の影響を大きく受けており、レゲエを取り入れるなど、独自のポップセンスとボーイ・ジョージの作曲センスに融合させることにより、キャッチーでポップなサウンドスタイルを確立した。そのセンスは黒人音楽の影響とかキワモノ的なイメージといった彼らの要素を超越し、理屈抜きに聴く人をハッピーな気持ちにさせてくれるサウンドだと言える。
このアルバムはそうしたボーイ・ジョージのメロディーメーカーのセンスが爆発的に発揮されたアルバムで、“Karma Chameleon (カーマはきまぐれ)”他5曲がシングルヒットしているが、実際は全曲がシングルカットできるほど完成度の高いばかりである。Culture Clubはこのアルバムの成功により、80年代UKを代表するバンドになったと言っても過言ではないだろう。良質なメロディーと黒人音楽へのポップなアプローチによる彼らのスタイルは斬新で、なにより聴きやすいポップスであったため日本でも当時、街のあちこちで流れるほど人気があった。その後、Culture Clubはボーイ・ジョージ他メンバーの麻薬問題などで、バンドは衰退してしまう。
今ではすっかり80年代を感じさせる懐古的なポップアイコンでしかなくなってしまったボーイ・ジョージではあるが、今回の逮捕のニュースは思いのほか大きく取り上げられた。彼のエキセントリックでユニークなキャラクターは今でも健在のようだ。
Art BlakeyArt Blakey's Jazz Messengersによる映画“危険な関係”のオリジナルサウンドトラック盤。
監督ロジェ・バディムによるこの映画は、18世紀の小説を題材とした作品で、バディムはこの物語の舞台を20世紀のパリに移してリメイクしている。(危険な関係はその後1988年にもリメイクされている。) 今でこそサスペンス系の映画など、映画の中でジャズを使用すること自体珍しくもなんでもないことになったが、当時はまだジャズ、特にSwing Jazzではなく、ビバップ(ハードバップ)が映画に使われることは少なく、この作品やその数ヵ月後のマイルスの“死刑台のエレベータ”によって広く一般的になった。当時のゴダールやトリフォー、フェリーニといったヌーヴェルヴァーグと呼ばれるフランス映画の新しい流れの中で、当時もっともヒップな音楽であったハードバップを積極的に使用するという傾向は自然な流れだったといえる。この映画については、ジェラール・フィリップとジャンヌ・モローという当時のフランスを代表する俳優が出演している割には、あまり高い評価を得られなかった作品で、このサントラだけが今でも評価され続けている。
Art Blakeyと彼のバンドであるJazz Messengersは、ベニーゴルソン、ケニー・ドーハム、ウェイン・ショーターからウィントン・マルサリスに至るまで、多くの優秀なアーティストを輩出したことで知られるバンドである。ここでのメンバーはリー・モーガン(tp)とバルネ・ウィラン(ts)のいた時代で、通常のカルテットに3人のコンガプレイヤーが参加している。サウンド的にもコンボスタイルのジャズで、“危険な関係のサンバ”など、アフロキューバン風の作品も目立つ。当時は比較的ポピュラリティーの溢れるハードバップを得意としていたバンドであっただけに、こういった映画のためのムード感あるジャズをやらせても上手い。サントラとしてもジャズの1アルバムとしても完成度は非常に高い。
バディムとブレイキーは、このヌーヴェルヴァーグの作品で、当時のパリ、サンジェルマンデプレ界隈の実存主義の流れを汲むアーティスティックでヒップな人々にとって、ジャズが必要不可欠でどれほど生活の中に溶け込んでいたかを見事に表現したのである。因みに実はこの映画の音楽は、ブレイキーの音楽の他に、セロニアス・モンクの作品も使われており、彼の引きずる様なピアノが気だるいシーンにマッチしていたらしいが、残念ながらサントラ盤としては収録・リリースはされていない。
Talking HeadsTalking Headsの1980年のアルバム。
発売当時賛否両論で激しい論争を巻き起こしたアルバムである。
Talking Headsはニューヨークの同じアートスクールに通っていたデヴィッド・バーン、クリス・フランツ、ティナ・ウェイマスの3人にエリオット・マーフィーのバンドで活躍していたジェリー・ハリスンを加えて結成されたバンド。当時のニューヨークのインテリロックの代表として知性溢れたロックを聴かせるバンドであった。彼らのサウンドに目をつけたブライアン・イーノやロバート・フィリップらとも親交を深め、イーノをプロデューサーに起用するようになる。
このアルバムの前年のツアーでは大胆にも、P-Funkのバニー・ウォレル、エイドリアン・ブリュー、ノーナ・ヘンドリックスといった実力派の黒人ミュージシャンを起用しベースとドラムをそれぞれ2人づつ参加させ、バンドのイメージをファンキーに一新させてしまう。このアルバムはそのブラックミュージック路線を更に追求し、アフリカンビートと当時のデジタルでエレクトロニックなサウンドを融合させるというTalking Headsなりのダンスミュージックを完成させたアルバムである。
ロックは黒人音楽に対するコンプレックスから逃れることは出来ないし、黒人音楽の影響を受けていないロックバンドは皆無であろう。だが、このときのTalking Headsの黒人ミュージシャンを起用することで、自分達のサウンドを一新するという方法論に対しては賛否両論が起こった。確かに優秀な黒人ミュージシャンによって演奏のレベルも音楽性も格段に向上したのは間違いない。しかし、それはブラックミュージックに対する批評性を表現するロックの本筋とは離れたものである。ビートルズもストーンズも黒人音楽のコピーに始まり、自分達の音楽に黒人音楽への独自の批評性を取り入れることでオリジナルのサウンドを確立した。どちらも黒人ミュージシャンをレコーディングに起用しているが、ビートルズもストーンズもサウンド自体は何も変化しなかった。もしもファンキーに変わってしまうようなことがあれば相当な違和感を感じたに違いない。
Talking Headsはこのアルバムで、そういったロックの根源的な要素である黒人音楽への批評性を捨ててしまったのである。Talking Headsだけに関わらず、この当時はただブラックミュージックを真似るだけのバンドが増えていた。そのほとんどがオリジナリティーを全く感じさせず、いまは80年代サウンドとして完全に時代に取り残されてしまっている。
その後、Talking Headsはこのアルバムの方法論に対する反省やさらなる試行錯誤を繰り返し、もう一度自らのロックのルーツへと帰還する。そのあたりのクールさもTalking Headsがインテリバンドと呼ばれ、他のバンドとは一線を画す存在であったことを物語っている。
このアルバムは結果としては、セールス面でも成功しこの時代を代表する名盤として取り扱われるようになった。今でもロックとは何か、といった問題を語る上では外せない重要な作品である。
Paul Wellerポール・ウェラーの新譜。
昨年発売された“Studio 150”がカバーアルバムだったので、オリジナルアルバムとしては“Illumination”以来3年ぶりの新作である。メンバーは長年彼のソロ活動を支えるスティーブ・ホワイト、スティーヴ・クラドック、デーモン・ミンチェラらで、結束力の高さを感じさせる充実した演奏を聴かせる。
今回のアルバムは、先行シングルされた“From the Floor Boards Up”をはじめいつも以上にアグレッシブでアッパーな曲が多い。ソロ活動では比較的アーシーな骨太のロックなサウンドが特徴であったが、ここで聴かれるロックはかつてのJAMを彷彿させる。ギターソロに関しても、今まで目立ったことは一切やらなかったが今回はジミヘンばりにクレイジーなソロすら入ってる。またポール・ウェラーらしいトラディショナルなフォーク調の曲、UK的でスタカン時代を彷彿させる曲など、アルバムの随所に彼の魅力が充分に発揮されている。
ここまで持てる力をフルに発揮できたのは、やはり前作で自身のルーツであるカバーアルバムに取り組んだ影響が大きいのだろう。自身のルーツを再確認することによる原点回帰を感じさせるが、彼の方向性は決して後ろ向きではない。年齢的にも40代後半に差し掛かり、見た目こそ老けてきたが彼の中にある熱い音楽に対する情熱はJAM時代と何も変わらない。そして自己の音楽の可能性に向かって突き進む潔癖で真摯な挑戦心はいまだに衰えない。このアルバムはそんな彼の魅力を再確認させてくれる久々の改作である。
Lee Konitzリー・コニッツの1957年のアルバム。
リー・コニッツは50年代初頭より師匠であるレニー・トリスターノとともにクール・ジャズを追求し、ギルエバンスやジェリーマルガンらとも交流を深めている。そのギル・エバンスの紹介でマイルスとも出会い、“Cool Of The Birth”の録音に参加するなど実力を磨くとともに世間からも高く評価されるようになる。
チャーリ・パーカーの高速フレーズを繰り広げるビバップの反動で、トリスターノ派と呼ばれる彼らはレガートなラインを重視したが、それがかえって人間らしい温かみのあるフレーズから遠ざかることになってしまう。コニッツはそんなトリスターノ派からは次第に遠ざかり、ビバップでもトリスターノ派でもない独自のジャズを追求することになるのである。
スタイル的にはクールジャズの流れに沿ったものであるが、そこに彼固有の歌心の篭ったソロを投入することにより温かく、落ち着いた彼独自のスタイルを確立している。この“Very Cool”はそんな彼のスタイルが完成されたアルバム。曲はトリスターノの影響を感じさせるものや、チャーリー・パーカーの曲まで取り上げているが、どちらも完全に彼のスタイルに染められており、感情の起伏など表現豊かな彼のアルトの音が印象的である。メンバーはLee Konitz(as),Don Ferrara(tp),Sal Mosca(p),Peter Lnd(b),Shadow Wilson(ds)のクインテットだが、曲によってはドン・フェララが抜けてカルテットとなる。
このアルバムは当時のジャズのLPにしてはいまいちジャケットデザインがパッとしないせいか、それほど知名度の高いアルバムではないが、彼の美意識と当時全盛だったハードバップ一色だったシーンへのささやかな抵抗を感じさせる良盤である。ビリーホリデーの歌唱で有名なバラード“Crazy She Calls Me”のシンプルで美しいソロは彼の残したプレイの中でも一、二を争うほど完成度が高い素晴らしい演奏といえるだろう。