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NOTRE MUSIQUE

Elle est retrouvee.
Quoi? - L'Eternitee.
C'est la mer alleee
Avec le soleil.

Osaka Monaurailオーサカモノレールという日本のバンドの新譜。
大阪の”heavy Funk System”におけるライブを編集なしでそのまま収録したもので、全24曲78分というボリューム。今回、アメリカ在住の友人から勧められて初めてこのバンドの存在を知ったのだが、実は結成13年目を迎えたベテランバンドらしい。ホーン隊を含むメンバー9人の大所帯バンドで年間300本以上のライブをこなすこともあるとかで、とにかく勢いのあるバンドである。
サウンド的にはずばりJames Brown直系のファンク。初期のJBが持っていたのと同レベルのテンションを維持し、どちらかというとまだ自身のFunkが完全に確立される前の伝統的なR&Bの要素が残っていた頃のJBの荒削りな感触に近いものを感じる。曲目はこの手のホーンが充実しているFunkバンドが必ずやりたがる“Soulful Strut”やアイザック・ヘイズの“Theme From Shaft”、JBでもお馴染みの“Mother Popcorn”の3曲のカバーが入っているものの残りの20曲超はすべてオリジナル曲。日本国内に存在するJBのカバーから始めたバンドたち(結構多いはず)はきっとこのアルバムを聴いてやられた、と思いながらもモチベーションを上げることだろう。
リーダーの中田亮氏に言わせるとこのバンドの方向性というか目的は「'68~'72年のFUNKサウンドを現代に蘇らせること」だそうで、その意味ではこのアルバムはかつてのアポロシアターでのJBのライブや、キングカーティスのフィルモアでのライブに匹敵するくらいの密度の濃い緊張感があり、満点に近い出来である。この雰囲気を日本人が再現したと言う点には最大限の賛辞を送りたい。
ただし、前述のJBやキングカーティスのライブは今でもCDで体現できるのは事実であって、その上でこのライブ盤の存在にどういう意味があるのかというと非常に返答に困る。ここにはかつてFunkが一番熱かった時代と同じ空気が同封されてはいるが、JBのCDが2000円もしない価格で入手できるのにあえてこのCDを2500円で買う理由は希薄であるといえる。つまり少々乱暴な言い方をするとJBにあってこのバンドしかない魅力が見当たらないのである。(このライブアルバムしか聴いていないので、スタジオ盤にはもっと違った魅力があるのかもしれない)
日本人は自国の文化としては、ロックもファンクも持っていない。ロックにおいては所詮物真似でしかないというコンプレックスを抱えながらも成長し、邦楽ロックはいまやクオリティ的に世界的にもなにも恥じることはないほどのレベルに到達した。それに比べるとアフリカンポリリズムを基調としながら発展してきたFunkやSoulミュージックは民族性が強すぎるあまり、日本人としてそれを解釈して批評性を持ってオリジナルのスタイルとアイデンティティを確立するのは非常に難しい。かつてサンプリング(パクり)という手法でブラックミュージックを引用し自己のオリジナリティーに変換してきた渋谷系と呼ばれたムーブメントの方法論に対する反省から、シーンはブラックミュージックに対して真摯に取り組もうという流れに変わった。だが所詮はコピーバンドでありただの物真似に終始してしまっている感が否めない。
宇多田ヒカルをキッカケとして日本に“R&B”というジャンルが根付いてもうすぐ10年(正確にはあと2年で)が経過する。このバンドを始め、日本にも多くのファンクバンドが出現し、技術的には非常に演奏レベルのアベレージは上がっている。所詮民族性の違いから不可能と思いながらも、日本の生演奏を重んじるインスト系Funkバンドもそろそろ次のフェーズに移るのではないかという気がしないでもない。こうした国内Funkバンドたちの今後の活動と日本のFunkミュージックシーンの飛躍に期待したい。
最後に、このオーサカモノレールのリーダー中田氏はバンド活動の傍ら70年代ブラックムービーの名作“コフィー”や“スーパーフライ”を自主配給し、ブラックミュージックの普及に勤めているという。後半話が飛躍したが、このアルバムはJBや70年代マナーのFunkが好きな方は単純に大満足できる内容であることは間違いないだろう。
Pink FloydPink Floydの1973年のアルバムで邦題は“狂気”。
ピンク・フロイドはデビュー以降、中心的存在であったシド・パレットが精神病を患い脱退、その後デビッドギルモアが加わり、5枚目の傑作“Atom Heart Mother/原子心母”でバンドのサウンドを確立させている。この1973年のアルバムは“原子心母”で確立されたピンク・フロイドのサウンドが成熟し安定期に入ったことを示す充実作である。
原題の“Dark Side Of The Moon”というのは邦題である“狂気”を直接指す言葉ではないが、このアルバムのテーマは明らかに狂気ともいえるもので、日本ではリリース当時からこの邦題で認知されてきた。フロイドはご存知のとおりプログレッシブロックを代表するバンドで、これ以前はどちらかというとクラシックの影響を強く受けたサウンドを重視したバンドであった。だが、このアルバムではロジャーウォーターズがすべての作詞を担当し、歌詞に込めたメッセージを重視している。フロイドの場合、作曲はメンバーがそれぞれ担当し持ち寄るかたちで曲作りが行われているが、作詞はロジャー・ウォーターズひとりで担当していることから、フロイドのコンセプチュアルで社会的なメッセージ等はすべてこのロジャーウォーターズによるものと言える。
ロジャー・ウォーターズは“原子心母”ではまだ狂気というものに対して、消極的かつ否定的であったが、ここでは自己の内部に潜む狂気を正面から肯定している。アルバムの冒頭とラストに人間の心臓の鼓動音を使用し、その音に挟まれたアルバム本編では人間の宿命、生きることの喜びと老いることの悲しみ、現実の生活に対する苦悩といった人間の裏側に潜む深層心理が文学的な歌詞によって描かれている。そういった人間の根元的な感情が込められた歌詞と楽曲の完成度は極めて高い。狂気をテーマにしていると聞くとひどく攻撃的でパンキッシュなサウンドを連想されがちだが、実際は非常に聴きやすいおだやかなサウンドでまとめられている。その結果このアルバムは難解なコンセプチャルな構成を持ちながらも、十分な大衆性を持ちセールス的にも大成功を収めた。
その後、フロイドは83年にロジャー・ウォーターズの脱退とともに解散する。その2年後にデビッド・ギルモアが再結成を提案するがロジャー・ウォーターズは参加を拒否。現在はソロとして活動、彼のフロイド時代からのメッセージ性溢れるサウンドは今でも健在のようだ。
死刑台のエレベーターBlogのタイトルを変更し、マイルスの写真とフランス語が並んでいるのをみて思い出したのが、この1957年のマイルスの"死刑台のエレベーター"のサウンドトラック盤。(フランス原題は"Ascenceur Pour L'echafaud")
マイルスは1949年にシャンソン歌手であり、サルトルらの実存主義を継承したアイドルでもあったジュリエット・グレコにパリで一目惚れし恋に落ちる。マイルスは後に「俺が本当に心から愛した女性はジュリエット・グレコだ」と言っているほど我を忘れるほど彼女にのめりこんでしまう。当時のショウビズ界においては、まだ黒人に対する人種差別が蔓延り、既にジャズミュージシャンとしては頭角を現していたマイルスでさえもそのコンプレックスには非常に苦しんでいた。(因みに彼の黒人としてのコンプレックスは晩年まで続き、常に彼の音楽の原動力となった。)そういった背景を考慮してもいかにマイルスがこのフランス人との恋に有頂天になっていたかが想像できる。結局この恋は長続きはせず、マイルスはその失恋の痛手から麻薬癖が激しくなり音楽活動は鈍化していくことになる。
この"死刑台のエレベーター"は当時まだ25歳の新人監督ルイ・マルのデビュー作であり、モノクロのフィルム・ノワール風サスペンスとパリの持つ都会的詩情、主演のジャンヌ・モローの冷たい演技が融合した古典的な犯罪映画。当時ジュリエット・グレコと密会するために渡仏していたマイルスは彼女の紹介でルイ・マルと出会い、この映画のサントラを引き受けることになる。マイルスはラッシュ・フィルムを見ながら、その場で即興で作曲したと言われているが、実は予め譜面を用意しておいたというのが真相らしい。天才肌ではあるが、自分の音楽に対しては常に完璧なものを目指すマイルスらしい強かなエピソードである。
映画のストーリーは不倫関係にある、技師ジュリアン・タベルニエ(モーリス・ロネ)と社長夫人のフロランス・カララ(ジャンヌ・モロー)が結ばれるために社長殺害を企てるというサスペンスの要素が強いもの。結果としてこの二人は結ばれることなく最後を迎える。マイルスのトランペットはこの緊張感漂いながらも憂鬱さに覆われたこの映画の雰囲気に花を沿える。そしてこのモーリス・ロネとジャンヌ・モロー演じる不倫関係は、マイルスとジュリエット・グレコの関係の終わりも暗示させる。
このアルバムは以前に紹介したアート・ブレイキーの"危険な関係"と同様にシネマジャズの原点ともなった作品で、特に"死刑台のエレベーター"というサスペンス映画でのジャズ音楽の起用はその後のあまたの映画サウンドトラックに影響を残した。いまやジャズ抜きのサスペンス映画のほうが珍しいかもしれない。登場人物の心理描写に合わせて自由に自在に表情を変えるマイルスのトランペットは見事である。この映画は、このクールでダークな中にも哀愁を漂わせたマイルスのトランペット抜きには成立しなかったとも言えるほど完成度が高い。因みに同時代のブレイキーの"危険な関係"やMJQの"大運河"と比べて、映画も音楽もヒットした稀有な存在でもある。
このサントラ収録の全26曲のうち前半の16曲目までがマイルスの生の演奏を収録したもので、17曲目以降の後半は映画の効果音として使われた音源。つまり後半はこちらはエコーやディレイなど映画で使用するために人工的な加工がされたものである。この後59年からテオ・マセロがマイルスのプロデュースを担当することになるが、テオはこの映画でのエフェクトのかかったクールな音色をヒントに、その後のエレクトリックサウンドの中でのマイルスの音色を作りあげたという説も存在するらしいが、マイルス本人が既に故人で、テオ本人が黙秘し続けている今となっては残念ながら真偽のほどは不明である。
NOTRE MUSIQUE諸般の事情により当Blogのタイトルを"Music of My Mind"から"NOTRE MUSIC"に変更させていただきました。

当初あくまで個人的なメモ程度に音楽に対する感想等を書く予定でしたが、予想外に盛り上がり調子にのって評論じみた記事も多くなってしまいました。
そこでもう少し汎用性のある名前という意味でこのタイトルに変更させて頂きます。
内容的にはなにも変わらないでしょう。たぶん。

タイトルはゴダールの新作からの引用というか、映画のタイトルそのままですが、英訳すると“Our Music”で"私たちの音楽"という意味深かつ単純なものです。

急な変更で大変申し訳ありませんが、今後ともよろしくお願いいたします。
Bruce Springsteen最近、紙ジャケ(残念ながらリマスターなし)で再発になったBruce Springsteenの1975年の名作で邦題は“明日なき暴走”。
ブルース・スプリングスティーンはデビューアルバムで既にソングライティングも歌唱力も評論家を中心に認められていたが、まだ一般の認知度は低く、デビュー当時のイメージは新しく誕生したディランというものであった。だが彼の熱の入ったステージは次第に一般からの注目を集めるようになる。その彼のステージのテンションをレコードで再現しようと起用されたのがジョン・ランデゥーで、今後彼のプロデュースからマネージメントまで一手に引き受けることになる。このジョン・ランドゥーとの共同作業によって生まれたのがこのアルバムである。
このアルバムはこの時点での約20年のロック史が全て込められている。彼の音楽はプレスリー、ビートルズに始まる過去のロックに対する影響をすべて自分の中で消化しているかのようなスケールの大きいサウンドを持ち、そういった過去の遺産をすべて自己のサウンドに取りこみ自分のスタイルとして確立させている。アルバムの大きなテーマとなっているのは当時のアメリカを中心とした世界の若者に対してのメッセージでもあり、1曲1曲に都会で暮らす彼らの希望と挫折の両極面のある生活感をリアルに作品に反映させている。このアルバムの疾走感と高揚感溢れるサウンド、エモーショナルで力強いボーカルスタイルは全米にセンセーショナルを巻き起こし、ブルース・スプリングスティーンの名前を世界に轟かせた。この時点で彼の存在はビートルズに次ぐ新しいロックスターとなったともいえる。日本でも浜田省吾、佐野元春、尾崎豊をはじめこのアルバムに影響を受け、自身のアルバムに引用しているロックミューシジャンは非常に多い。
このアルバムで若者の夢と挫折を歌ったブルース・スプリングスティーンは次作“Darkness On The Edge Of Town/闇に吠える街”では一転して現実社会に対する警告的なメッセージ性の強いアルバムを発表し、夢と現実社会の問題を上手く対比させ作品に奥深さを持たせ優れたアルバムを作り続けている。
Stevie Wonder数ヶ月前からリリースが延びていたStevie Wonderの新作。
新作アルバムはなんと10年ぶりで通算28作目にあたる。マキシシングルでプリンス参加の“So What The Fuss”が発売されてから、7月の発売が予定されていたがまさかの無期延期。この延期の理由は、親友Ray Charlesと愛妻シリータの死のショックや、モータウンの新社長との確執などが噂されていたが、真偽のほどはよくわからない。一時は発売中止まで心配されていたが、やっと先週本国でリリースされ、昨日国内盤が無事にリリースされた。
先行シングルがアップテンポな70年代のスティービーを彷彿させるファンクナンバーであったので、アルバム自体も相当アッパーなものが期待されていたが実際は冒頭からミディアムテンポのナンバーで、愛娘アイシャと共演した切ないメロウ・チューン"How Will I Know"等比較的バラードが多い。80年代になってエレクトロビートの導入によって完全に時代の後追いになってしまったスティービーであるが、順調に全盛期とまではいかないまでもファンクナンバーからミディアムチューンまでオリジナリティーを取り戻しつつある。
このアルバムはStevie Wonderの70年の一連の名作に匹敵すると噂されていたし、実際当時と同レベルのクオリティはあるかもしれない。だがいまだ現役であるスティービーにとってはそれはリスナーのただの懐古的思想でしかなく、決して褒め言葉にはならない。またスティービーの音楽には愛があると賞賛されることが多いが、音楽はときに暴力に加担し、ナガティブにも作用するもので、音楽を安易に愛と平和のため、癒しのためなどと都合よく作用してくれると解釈することはできない。だがこの新作には70年代当時のスティービーの音楽が持っていたのと同じくらい寛大な“音楽に対する愛情”が込められていることは間違いない。
Serge GainsbourgSerge Gainsbourgの1984年のアルバム。
60年代はまだ所詮ムッシュバーキンとしての知名度しかなかったゲンズブールであったが、70年代になるとジャマイカまで出向き白人で最初にSly&Robbieをバックにレゲエアルバムを録音し、国家マルセイエースをレゲエでカバーするなど次第に知名度を上げていく。賛否両論であったがフランス本国では“デカダンスとエロスの帝王”であり“フランスパンクの元祖”として音楽やアート、映画などポップカルチャーの中心的な存在であった。このアルバムはそんなフランスのスターであったゲンズブールの名が世界に知れ渡る契機となったアルバム。アルバムセールスも彼の作品では初めてフランスに限らず世界で大々的に売られ成功を収めている。
製作の当初からそうした世界戦略は意図されており、当時の主流であったダンスミュージックを大胆に導入している。当初はChicのナイル・ロジャースにプロデュースを依頼したそうだが都合が合わず、サウスサイド・ジョニーのギタリストであったビリーラッシュにプロデュースを一任。サウンド的にはデビッドボウイのヒット作“Let's Dance”のゲンズブール版といった感じで、実際にボウイのバンドで活躍していたミュージシャンも何名か起用している。またこのアルバムには娘シャルロットとの近親相姦を歌ったデュエット曲“Lemon Incest”(曲自体はショパンのエチュードを引用)が収録されていることでも話題を呼んだアルバムである。
ビリー・ラッシュのつくるファンクサウンドにゲンズブールのヨレヨレのボーカルがのるというスタイルで、ここでも彼の芸術的なエロスは全開である。このアルバム発表後、ゲンスブールは精力的にツアーを行い、このファンクサウンドは彼の最後のアルバムとなった次作“You're Under Arrest”へと発展していく。デジタルビートとゲンズブールの書く耽美でエロティークな詩の世界とクラシック音楽へのオマージュとも言える引用の融合は危ういが極めて美しくもある。このアルバムは世界進出の記念的アルバムであり、結果としてはゲンズブール晩年の代表作となった。
なお、このゲンズブールが女装したアルバムジャケットは1969年に音楽担当兼客演をした映画“Mr Freedom”の監督であり写真家であるウイリアム・クラインの撮影によるものである。
Sonny RollinsSonny Rollinsの2001年録音のライブアルバム。
2001年9月11日の同時多発テロのわずか4日後にボストンで行ったライブを収録したもの。当時、彼はマンハッタンのワールドトレードセンターに近い場所に仕事場を持っていて、テロ発生時にその光景を間近で直視し、周囲の住民と一緒に非難したという。その衝撃と起こってしまった事実に対して気持ちを整理することができず、不謹慎ではないかという思いで、公演自体を中止しようかとも考えたそうだ。しかし彼はこんなときだからこそ人々の癒しと励ましのために演奏をするべきだと考え、予定通り公演を行った。
かつてのモヒカン頭はすっかり白くなり、ここでの演奏もかつてのクリエイティブなエネルギーこそあまり感じられないが、彼の熱い演奏は健在である。同時多発テロ直後という緊張感の中での彼の白熱する真摯なプレイとその場の観客の興奮はこのCDを通して充分伝わってくる。
Sonny Rollinsは今年で75歳。ちょうど今月末に行われる来日公演を最後に引退との噂が流れた。長年彼のマネージメントを担当し、公私にわたって支えてきた夫人の死と、体力的な衰えが理由とのことであったが、最近のインタビューで引退を否定している。ツアーこそ最後になると語ってはいるが、レコーディングはまだ続ける意欲はあり、既に新しいアルバムの構想も練っているそうだ。
新しいスタイルを模索しながらも伝統的なジャズのマナーから外れない生真面目なスタイルと安易な妥協を決して許さない自己の音楽に対する頑固な姿勢はいまでも変わっていない。かつて彼と一緒にジャズを支えてきた同胞たちはもういないが、彼は死ぬまでテナーを吹き続けるだろう。王者Sonny Rollinsには引退の二文字は似合わない。
Patti SmithPatti Smithの1975年のデビュー作。
70年代ニューヨークのパンクシーン、アンダグラウンドシーンの女帝であるパティ・スミスは、当時はもともと詩人であり、ロック評論家でもあった。痩せずぎのいかにも病弱そうな体系に黒と白のモノトーンの服を着ていた彼女は、ランボーやボードレールのようなフランスのシュールリアリズム、またウイリアム・バロウズなどのビートニク世代からの影響を受けた詩作を発表し、アンダーグラウンドシーンを中心に音楽シーンだけではなく、アートやファッション界からも絶大な評価を集めていた。
彼女はそうした詩人としての活動を続けている中で、次第に音楽的な要素を強めていく。最初はピアノをバックにしたシンプルなスタイルであったが、ギターを加え、最終的にはバンドを率いるようになる。もともと詩人なので歌唱力があるほうではないが、彼女の歌の世界とパフォマーンスはさらに彼女の人気を高めることになる。
このデビューアルバムはVelvet Undergroundのジョン・ケイルをプロデューサに迎えており、サウンド的にはまさに60年代にヴェルヴェッツが目指していたガレージ風のアーティスティックなロックである。またこのアルバムには後にガレージロックの名作といわれたオムニバスアルバム“ナゲッツ”を選曲編集したレニーケイがギターで参加している。彼のパティの歌にも負けないエネルギッシュなギタープレイはシンプルであるが印象的である。なお、このアルバムからは“Gloria”というシングルヒットも生まれている。
ガレージロックの持つエネルギーと彼女の詩文学的な世界という一見アンバランスにも思えるが、そこから生まれた音楽はクオリティが高く、唯一無二の素晴らしいものであった。彼女はガレージロックの持つネガティブなパワーを独自の詩とパフォーマンスでアクティブなパワーへと変換させた。このアルバムは彼女の代表作であるとともに70年代のパンクロック、ガレージロックを代表する名盤でもある。
Teo Macero2002年にCD化されたTeo Maceroのアルバム。
1980年にアメリカン・クラーベからリリースされた知る人ぞ知る名作に未発表音源を追加した2枚組である。
サックス奏者でもあり、アレンジャーでもあるテオのコンポーザー、アーティストとしての側面を掘り起こしたアルバムで、50年代にテオが残した音源を中心にまとめたもの。当時テオ自身も参加したセッションの数々が収められていてその参加メンバーはLee Konitz(alto sax)、Phil Woods(alto sax)、Bill Evans(piano)、Pepper Adams(baritone sax)、Art Farmer(trumpet)、からCharles Mingus(bass)まで当時のハードバップを代表する名手が揃っている。
テオ・マセロは1925年生まれ、当初はチャールス・ミンガス・ジャズ・コンポーザース・ワークショップに参加するなどプレイヤーとして活躍していたが、コンポーザーとしての仕事に興味を持ち、57年にコロンビアに音楽の編集員として入社。サード・ストリーム・ミュージックに深く傾倒するようになり、57年と58年にはグッゲンハイム賞を受賞するなどの名誉も手にしている。その後コロンビアには20年以上在籍することになるが、チャールズ・ミンガス、セロニアスモンクなどを手がけるが、やはり有名なのはマイルス・デイビスとの仕事である。
テオはジョージ・アヴァキアンに代って“Kind Of Blue”以降、コロンビア時代のマイルスのアルバムほとんどすべてにプロデューサーとして関わっている。よく知られている話であるが、70年以降のマイルスのアルバムはほとんどすべて、マイルスとマイルスバンドのミュージシャンたちのプレイをテオ・マセロがテープ編集技術でアルバムとして適切な形にまとめるというプロセスを踏んで作られている。マイルスにはもともとアルバムとしてのコンセプトはなく、ただひたすらあらゆるアイデアをスタジオで試行錯誤し、テオがその音源を素材として切り貼りしている。そういった試みは特にジャズのメソッドとしてはまったく存在しなかったもので、ある意味今日のリミックス作業にも通じる作業である。
マイルスの自伝を読むとテオとのやりとりに関してはいろいろ批判的な話も出てくるが、あれだけ自分の音楽に対してシビアなマイルスがアルバム編集という重要な作業をテオに一任し続けたという事実は、彼の音楽性と先見性を認めていたことを証明している。テオの作業はマイルスのライブアルバムにも及んでおり、テオの編集のされていない“Black Beauty”と編集された“At Fillmore”を聴き比べると、いかにこの時代のマイルスの音楽にテオが必要であったかは明白である。(“Black Beauty”はキース・ジャレット不参加という弱点もあるのだけれど) この時代のマイルスの音楽がFusionをはじめとするその後のJazzの大きな流れを作ったり、ロックやファンクといった音楽に影響を与えたことは今さら言うまでもないが、そのマイルスの音楽の影響力はテオの力に拠るところも相当大きかったといえる。
この“Teo”と彼の名前が冠されたアルバムはそうしたテオの音楽性の原点とも言えるアルバム。ハードバップのミュージシャンを起用しているが、彼の音楽性がジャズだけに終始せず、ストリングスアレンジや現代音楽的なアプローチなど実験性に溢れ、その試みが多岐に渡っていたことが確認できる。
70年代マイルスの再評価とともにテオの存在も、テクノやクラブ系のクリエイターを中心に評価が高まっている。彼自身は現在でもかつてのマイルスとの共同作業を振り返りながら、現在の音楽製作のあり方を批判し、常に新しいものを目指し続けているそうだ。75歳を超えた現在でもサックス奏者としてもアレンジャーとしても健在らしい。