2002年にCD化されたTeo Maceroのアルバム。1980年にアメリカン・クラーベからリリースされた知る人ぞ知る名作に未発表音源を追加した2枚組である。
サックス奏者でもあり、アレンジャーでもあるテオのコンポーザー、アーティストとしての側面を掘り起こしたアルバムで、50年代にテオが残した音源を中心にまとめたもの。当時テオ自身も参加したセッションの数々が収められていてその参加メンバーはLee Konitz(alto sax)、Phil Woods(alto sax)、Bill Evans(piano)、Pepper Adams(baritone sax)、Art Farmer(trumpet)、からCharles Mingus(bass)まで当時のハードバップを代表する名手が揃っている。
テオ・マセロは1925年生まれ、当初はチャールス・ミンガス・ジャズ・コンポーザース・ワークショップに参加するなどプレイヤーとして活躍していたが、コンポーザーとしての仕事に興味を持ち、57年にコロンビアに音楽の編集員として入社。サード・ストリーム・ミュージックに深く傾倒するようになり、57年と58年にはグッゲンハイム賞を受賞するなどの名誉も手にしている。その後コロンビアには20年以上在籍することになるが、チャールズ・ミンガス、セロニアスモンクなどを手がけるが、やはり有名なのはマイルス・デイビスとの仕事である。
テオはジョージ・アヴァキアンに代って“Kind Of Blue”以降、コロンビア時代のマイルスのアルバムほとんどすべてにプロデューサーとして関わっている。よく知られている話であるが、70年以降のマイルスのアルバムはほとんどすべて、マイルスとマイルスバンドのミュージシャンたちのプレイをテオ・マセロがテープ編集技術でアルバムとして適切な形にまとめるというプロセスを踏んで作られている。マイルスにはもともとアルバムとしてのコンセプトはなく、ただひたすらあらゆるアイデアをスタジオで試行錯誤し、テオがその音源を素材として切り貼りしている。そういった試みは特にジャズのメソッドとしてはまったく存在しなかったもので、ある意味今日のリミックス作業にも通じる作業である。
マイルスの自伝を読むとテオとのやりとりに関してはいろいろ批判的な話も出てくるが、あれだけ自分の音楽に対してシビアなマイルスがアルバム編集という重要な作業をテオに一任し続けたという事実は、彼の音楽性と先見性を認めていたことを証明している。テオの作業はマイルスのライブアルバムにも及んでおり、テオの編集のされていない“Black Beauty”と編集された“At Fillmore”を聴き比べると、いかにこの時代のマイルスの音楽にテオが必要であったかは明白である。(“Black Beauty”はキース・ジャレット不参加という弱点もあるのだけれど) この時代のマイルスの音楽がFusionをはじめとするその後のJazzの大きな流れを作ったり、ロックやファンクといった音楽に影響を与えたことは今さら言うまでもないが、そのマイルスの音楽の影響力はテオの力に拠るところも相当大きかったといえる。
この“Teo”と彼の名前が冠されたアルバムはそうしたテオの音楽性の原点とも言えるアルバム。ハードバップのミュージシャンを起用しているが、彼の音楽性がジャズだけに終始せず、ストリングスアレンジや現代音楽的なアプローチなど実験性に溢れ、その試みが多岐に渡っていたことが確認できる。
70年代マイルスの再評価とともにテオの存在も、テクノやクラブ系のクリエイターを中心に評価が高まっている。彼自身は現在でもかつてのマイルスとの共同作業を振り返りながら、現在の音楽製作のあり方を批判し、常に新しいものを目指し続けているそうだ。75歳を超えた現在でもサックス奏者としてもアレンジャーとしても健在らしい。