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NOTRE MUSIQUE

Elle est retrouvee.
Quoi? - L'Eternitee.
C'est la mer alleee
Avec le soleil.

Bill Evans & Jim Hallビル・エヴァンスとジム・ホールの1962年録音のデュオ作。
エヴァンスは"Portrait In Jazz"などの一連のリバーサイドでの名盤を生み出した相棒のラファロを交通事故で亡くし、失意の中でトリオという形式から離れあえてギターとピアノのみというシンプルな構成で録音したアルバムである。
今でこそJazzという音楽が即興のアドリブやメンバーの相乗効果によって生み出されるインタープレイを重視した音楽であるという認識は広く一般的になっているが、Jazzにとっての激動の1950年代が明けたばかりの19622年当時はまだビッグバンドの集団による予定調和の世界であったり、機械的なビバップ理論が一般的であり、このアルバムのようなその90%がインタープレイで成立しているような音楽は衝撃的で画期的なものであったようだ。
ピアノトリオというスタンダードなフォーマットで自己の音楽スタイルを確立したエヴァンスが、3者の体等な緊張感でびスタイルから、ラファロの死による精神的な落ち込みを見せる一方で、ピアノとギターという完全に1対1の密度の濃い世界へ挑むのはかなりの危険性があり冒険でもあった。だが、もともとセンシティブな演奏を得意とするエヴァンスと、同じくチャーリークリスチャン直系のゴリゴリの速弾きギタリストが多い中で、独自のボイシングを生み出し、繊細なフレージングを個性的なギタリストであるジム・ホールとは相性も抜群に良く、結果としてはこのデュオによる企画はこの新たな名作を生み出した。
ギターとピアノはどちらもコード楽器で、デュオで演奏されることはそれほど多くない。ここでの二人の演奏は、どちらもコード楽器であることを前提に、あえてコードを最小限に絞っている。シングルトーンの応酬によるインタープレイは、スリリングとリリシズムの両方を兼ね備えたまさに二人だけの濃密な音楽である。特に人気のスタンダードバラードである"My Funny Valentine"の高速にアレンジされた熱い緊張感が張り詰めながらも、原曲の持つ繊細でロマンティシズム溢れる雰囲気を壊さない彼らのインタープレイはJazz史に残る名演といえる。
このアルバムによってインタープレイという手法が定着し、それ以前のトリオのアルバムにおいても実践されていた即興によるインタープレイが再評価されるようになった。ジャケットのデザイン含めてエヴァンスとジム・ホールの邂逅による深くて濃い音楽は他者を寄せ付けないほど崇高なものであり、いわゆるリラックスさせるムードジャズとは対極に位置している。このアルバムでの2人のプレイはその後現在に至るまで多くの音楽に大きな影響と衝撃を与え続けている。
Brecker Brothersブレッカーブラザーズの1978年録音の4枚目のアルバム。
ブレッカー・ブラザースのデビューは1975年。当時ウィル・リー(b)ハーヴェイ・メイソン(ds)をボトムに、ランディとマイケルにデビィッド・サンボーンを加えたメンバー構成で、記念すべき衝撃的なデビュー・アルバム"The Brecker Brothers"をリリース。その後、セカンドアルバムではパティ・オースティンやルーサー・ヴァンドロスをヴォーカルに迎え、ドラムをスティーヴ・ガッド、クリス・パーカーに替え、白人ファンク・アルバムといわれた。1977年にはサンボーンが抜けてしまう反面、より一層ブレッカー・ブラザースらしさを前面に押し出し他の追随を許さないハイブリッドなスキルと高いテンションを維持しながらバンドの音楽性と活動はヒートアップしていく。
第4作にあたる本作は未だに彼らのアルバムの中でも人気が高く、代表作に挙げられる充実作。メンバーはランディ・ブレッカー(tp)、マイケル・ブレッカー(Sax)、バリー・フィナティー(g)、ニール・ジェイソン(b)、テリー・ボジオ(ds)、サミー・フィゲロア(perc)という構成で、特にロック畑のテリーボジオのダイナミックなドラミングと、後に御大マイルスにスタジオでビールをかけられるという失態を犯すバリー・フィナティーのエレクトリックなサウンドがブレッカーズの全力疾走のスピード感を煽っている。全体的にライブ仕立ての構成となっており、ランディ作曲の"Some Skunk Funk"はその後現在に至るまでブレッカーズの代名詞とも言うべきテーマ曲になった。アルバムとおしてハイスキルなメンバーたちの熱い演奏から発散されるエネルギーが充満しており、その演奏力と怒涛の音の存在感にはただただ圧倒される。特にここでのマイケルの人間離れした驚異的なテクニックは特筆に価するほど素晴らしい。
バークレーメソッドで機械的に分析されたビバップは次第に技術一辺倒に傾き、どれだけ人よりも速いフレーズが決められるか、どれだけ難しいコードチェンジをこなせるかといった点に焦点が絞られ、音楽的な魅力は損なわれていった。そうした機械的なビバップに対して、モードやフリージャズといったスケールの束縛から解放され、より音楽的な創造力をかき立てるジャズが生まれていったが、ここでのブレッカーズはそんなビバップという音楽の持つ機械的なメソッドに対し、あえて正面から対峙し技術至上志向をアピールしシニカルかつ強かに自らの音楽を"Heavy Metal Bebop"と名づけたのである。技術さえあれば何でも許されると言わんばかりの彼らの開き直りとも思えるプレイは非常に痛快であり、まさにHeavy Metalの持っているカタルシス以外の何モノでもない。そしてこのアルバムがリリースされた1978年はVan Halenのデビューの年でもあり、Heavy Metalシーンの技術革新がまだ本格的に始まる前であったという事実も興味深い。
Hall & Oatesホール&オーツの1981年の大ヒットアルバム。
80年代のブルーアイドソウルの代表的なグループであるホール&オーツであるが、彼らの結成は1967年まで遡る。ダリル・ホールがフィラデルフィア出身、ジョン・オーツがニューヨークの出身で、二人はフィラデルフィアのテンプル大学で出会う。二人ともモータウンをはじめとするノーザンソウルに精通しており、在学当時からスタジオミュージシャンとしても働いていた。モータウンの影響で音楽を始めた二人であるが、フィラデルフィアという土地柄フィリー系のソウルの影響も強く受けている。
1973年発表のセカンドアルバム"Abandoned Luncheonette"ではアトランティックのプロデューサーを起用。ブラックミュージックシーンにおいてもヒットした"She's Gone"は多くのアーティストにカバーされることになり、彼らの敬愛するブラックミュージックへの拘りが見事に結実した作品となった。また彼らのサウンドのもうひとつの特徴であるプログレッシブなロックサウンドにもさらに磨きがかかり、トッドラングレンやキングクリムゾンのロバートフィリップまでもプロデューサーに迎え、ソウルフルでポップでプログレッシブという独自の音楽性を確立していった。
そして80年にはこれまでの経験と成功をもとに、自分達でセルフプロュースのアルバムを製作をするようになってり、1981年に発表したこのアルバムでその人気は世界中で爆発したのである。結局このアルバムからはタイトル曲他5曲がTOP10にランクインし、その後も7曲連続TOP10インと凄まじい人気と絶大な支持を集めた。80年代という時代の中で、ホール&オーツは決してこれまで積み上げてきた自分達の音楽性を見失わず、着実にそれまで蓄積してきたものを作品に反映させることを決して忘れなかった。二人のソウルフィーリングと絶妙なハーモニー、洗練されたサウンドは80年代を代表するものでありながらも普遍性を持つ上質なポップミュージックである。そのクオリティと根底にある一貫したオリジナリティのあるサウンドは今でもその輝きを失わない。
Chicagoシカゴの記念すべき1969年のデビューアルバムで当時の邦題は"シカゴの軌跡"。
今やブラスロックの代名詞ともいうべきシカゴは、このデビューアルバムにして2枚組という大容量のアルバムで、一気にブラスロックの概念を塗り替えた。新人バンドのアルバムとは思えないほど完成度は高く、LPでいうところのD面には全20分超にも及ぶ組曲形式になっている"1968年8月29日シカゴ、民主党大会 ""流血の日 (1968年8月29日)""解放"の3曲はコンセプチュアルな構成となっており、そのハイレベルな演奏と思想意識の高さを見せ付けたのである。
シカゴは、1967年、ロバート・ラム ( vo,kbd ) やジェイムズ・パンコウ ( tb ) らを中心となってシカゴの母体となるビッグ・シングが結成され、シカゴ・トランジット・オーソリティ、シカゴとバンド名を変えながら、1969年にこのアルバムでレコード・デビューを飾っている。 結成当時のメンバーはダニエル・セラフィン(ds)、ロバート・ラム(key,Vo)、テリー・カス(G.Vo)、ウォルター・パラザイダー(Fl,Sax,Vo)、リー・ロクネイン(Tp,Vo)、ジェイムズ・パンコウ(Tb)、ピーター・セテラ(Bass,Vo)の7人で、プロデューサーのジェイムズ・ガルシオも彼らのサウンド作りには欠かせない存在で、彼らとは運命共同体ともいえるほど密接なかかわりを持ち、大きな影響を与えた。
シカゴの出現以前にもポップはもちろんロックバンドの中にもブラスを取り入れるバンドはいたが、彼らのようにオリジナルメンバーとしてホーン奏者を加え、サウンドの核にブラスをおいたバンドは少なく、同時代のアル・クーパー率いるBlood Sweat & Tearsと並んで、彼らの音は当時のロックシーンの中で非常に新鮮で刺激的であった。もともとフランク・ザッパのマザーズにいたジェイムズ・ガルシオはブラス中心のバンドをやりたいと考え始め、シカゴのプロデュースを買って出たらしい。
1曲目の"Introduction"から彼らの弾けるようなホーンが響き渡る。ホーンセクション自体はビックバンドの古典的なスタイルを模倣したものではあるが、彼らの躍動感溢れるリズムにのることにより、何倍もの輝きを増す。それはジャズバンドでもファンクバンドでもない研ぎ澄まされた新たなロックサウンドであった。その他、ブラスアレンジだけではなく効果音やエフェクトを器用に使いこなし、非常に綿密なアレンジで1曲1曲が丁寧に作りこまれている。デビューアルバムというと大抵はそのバンドの挨拶代わりとなる完結に代表曲がまとめられたものが多いが、この完成度と新人とは思えない貫禄こそがシカゴというバンドのバックボーンにある演奏力であり、ジェイムズ・ガルシオとシカゴの目指すものがそれほどに近いものであったことを証明している。
また、1969年というカウンターカルチャー全盛期において、彼らもまたポリティカルなメッセージ性を尊重してサウンドの中に取り入れた。特に最期の組曲の中の"1968年8月29日シカゴ、民主党大会 "などはその最たる例で、ただ暴力的に反戦をうたったり、現実逃避のためドラッグへと走るフラワームーブメントの中で、揺れ動く社会情勢と政治的なメッセージを明確かつ理論的に曲に託したシカゴのポリティカルソングは他のバンドと一線を画すものであった。彼らのリベラリズムを尊重したその政治的な姿勢はそのタイトで緊張感のあるブラスサウンドと同期することにより絶大な説得力を持っていた。
シカゴはその後何度かのメンバーの脱退、解散の危機を乗り越えて活動を展開し、ブラスロックだけでなくバラードなどでも大ヒットを飛ばし音楽性の幅を広げながら数々の名曲を作り上げ30年以上のキャリアを誇るアメリカを代表するバンドに成長した。
Lee MorganLee Morganの1963年の代表作。
わずか15歳で自分のコンボを率いて天才として注目を集め、高校を卒業し、故郷のフィラデルフィアからニューヨークに出てきたモーガンはディジーガレスピーのバンドに加入。そして18歳で初のソロアルバムをリリースし、58年からはアート・ブレイキーのJazz Messengersに参加し当時流行り始めたファンキージャズというスタイルで独自のファンキーなトーンを作り出した。
奇しくもクリフォード・ブラウンというスターを事故で失ったジャズシーンに彗星のごとく誕生したリー・モーガンは、クリフォード・ブラウンを追悼する曲を書き、これによってブラウニーの生まれ変わりとさえ呼ばれるようになった。だが若くして才能と実力に恵まれ商業的な成功の両方まで手にしたモーガンであったが、周囲の過度の重圧に絶えられなくなり、麻薬に走り女に溺れるようになっていく。
このアルバムはそうした成功と挫折の両方を経験してきたモーガンが1年半ぶりに体調と自信を回復させてつくったアルバムである。メンバーはリー・モーガン(tp)、ジョー・ヘンダーソン(ts)、バリー・ハリス(p)、ボブ・クランショウ(b)、ビリー・ヒギンズ(ds)というカルテットでし、Blue Noteからリリースされた。当時の初回プレスはわずか4000枚ほどで即完売、アルバムとタイトル曲の"Sidewinder"はヒットチャートにも上り、CM曲に採用されるなどジャズのレコードとしては異例のセールスを記録した。ロックっぽい8分のリズムやコードチェンジをシンプルにしたファンキージャズという新しいスタイルの中で鋭くアグレッシヴなソロを取るモーガンのプレイは痛快の一言で、脇を固めるジョー・ヘンダーソンのプレイもモーガンに触発されて熱い。因みにこのアルバムの成功を契機にBlue Noteレーベルは、この路線のアルバムを積極的にリリースし、より商業的な方向へと進んでいくことになる。
リー・モーガンは1972年、クラブで愛人関係で話がこじれ妻に射殺された。伝説のブルースマン、ロバートジョンソンと同じような悲劇的な最期を迎えた彼の短い人生はある意味、この頃のは破滅的なジャズミュージシャンの生き様を象徴していたのかもしれない。ジャズが最も熱かった50年代が終わり、新しい60年代という時代の中でその熱いエネルギーをストレートにぶつけた彼の演奏は高度なテクニックを持ちながらもゴリゴリした無骨な感触があった。そしてジャズシーンだけではなく同世代のロックミュージシャンにも影響を与えるほどの革新性を持っていたのである。 ジャズ入門アルバムとして広く認知されコマーシャリズムにのったアルバムであるが、紛れもなく歴史に残る名盤である。
Black Sabbathブラック・サバスの1971年の3rdアルバム。
今や古典的なハードロックの名盤であり、彼らの初期の傑作である。
あのオジー・オズボーン率いるバンドとして有名なブラックサバスであるが、この頃のメンバーはトニー・アイオミ(g.)、オジー・オズボーン(vo.)、テリー”ギーザー”バトラー(b.)、ビル・ワード(ds.)の4人。1967年に結成され、しばらくはヨーロッパ・ツアーやドキュメンタリー・フィルムの制作などアンダーグラウンドな活動を続けていたが、その間にギタリストのトニー・アイオミがミック・エイブラハムスの代役としてジェスロ・タルに参加。ジェスロタルのもとでの経験はその後のブラックサバスのサウンドに色濃く反映されている。(アイオミ在籍時のジェスロタルはストーンズの"Rock'n Roll Circus"で見ることができる。) ブラックサバスはその後、1969年にレコードデビュー。2枚目のアルバム"パラノイド"をヒットさせ、この3枚目のアルバムでそのバンドサウンドを完成させた。
当時、ジミー・ペイジをはじめとするハードロックアーティストの中で隠れたブームであった黒魔術をブラックサバスは堂々とバンドカラーに取り入れている。デビュー当時のイメージはそういったおどろおどろしい不気味なものであったが、この3枚目のアルバムでは音楽的な成長を見せ、アコースティックギターを取り入れるなどデビュー当時の荒削りなハードさが希薄になったとさえ言われた。トニーアイオミのギターもそれまでの単調なフレーズの繰り返しからフレーズのバリエーションに幅が出てきて、オジーの決して上手いとはいえない独特なボーカルスタイルもメリハリが感じられようになった。
ブラックサバスは同時代のZeppelinやDeep Purpleのようなエンターテイメント性と実力が兼ね揃ったバンドと比べると、どうしてもスケールの小ささを感じてしまうが、彼らのハードロックバンドとしてのまとまりや一貫した方向性は評価できる。この後、ハードロックというスタイルの中で技術に走らず、ポップにもならず独自の美学を反映させたメタルサウンドを作っていくことになるが、そのターニングポイントになったのがこのアルバムということになるだろう。80年になるとオジーの脱退と合わせて、ブラックサバスの活動は衰退していくが、彼らのサウンドは90年代のグランジロックやテクニック至上主義の終わった新しいハードロックシーンで再評価るようになった。そして90年代後半には彼ら自身もその再評価の影響で、オジーが復帰し再結成されツアーや新しいアルバムを発表、今でも大きなハードロックファンからは大きな支持を集めている。
Astor PiazzollaAstor Piazzollaの1986年のアルバム。
当時所属していたキップ・ハンラハン主催のインディーレーベルであるアメリカン・クラ-ベに残した3枚のアルバムの最初の1枚で、ピアソラ自身も絶賛している晩年の名盤である。タイトルの"Zero Hour"とは24時間に続く「絶対的な終わりであると同時に、絶対的な始まりである時間」を意味しているそうだ。
ピアソラは1921年にイタリア移民の子としてアルゼンチンのマル・デル・プラタ生まれで、1992年にブエノスアイレスで死去したモダンタンゴ界の巨人である。幼少の頃、ニューヨークにに移住しバンドネオンを学び、13歳にしてクラシカル・タンゴの王様であったカルロス・ガルデルに才能を見出されて以来、伝統を守ると同時にタンゴに様々な音楽を取り入れながら母国音楽への可能性を追求し続けたアーティストである。彼はアルゼンチンタンゴのスタイルをベースにしながら、クラシック、ジャズなどの新しくポピュラリティーの高い音楽を取りいれ,従来のタンゴとはまったく違う音楽のスタイルを築き上げた。
アコーディオン(バンドネオン)という楽器の情熱的な響きと最新型のタンゴである"タンゴ・ヌーヴォ"と呼ばれるスタイルを世界に広めながら、一方ではブエノスアイレスにある労働者階級向けのダンスホールや波止場のナイトクラブで自身のルーツを最後まで忘れることなく地道な活動を続けた。
ピアソラの音楽は日本でもCM等でよく耳にする。最近ではあのヨーヨーマが彼の曲を演奏するなど、死後10年以上が経過した今でも彼の音楽は多くの人に愛されており、我々の認知するタンゴという音楽=ピアソラの音楽といってよいだろう。ファンクがJames Brownによって作られたり、Bob Marleyがレゲエを世界に広めたりといったように一人のアーティストが特定の音楽ジャンルを大きく牽引したという事実はあるが、ピアソラのように個人の音楽がそのままタンゴという特定の音楽ジャンルと合致してしまったというのは極めて稀有な現象といえるだろう。優しさと激しさを内包する彼の音楽とその成功の背景には孤独で想像を絶する努力があったのは想像に容易い。そして激しい政治紛争やアルゼンチン音楽の保守的な伝統主義者たちの反感を乗り越えてタンゴのモダニズムの布教活動を続けた強靭な信念と精神力が、彼の音楽の緊張感を持続させ、情熱的で親しみやすいが決して陳腐なポップスにならない質の高い新しいタンゴスタイルの確立に繋がっていったのだろう。彼の官能的な旋律と躍動感のある情熱的なリズムには人の心を芯から揺さぶる得体の知れないパワーがある。
Robert Palmerロバート・パーマーの1984年のアルバム。
80年代のにデュランデュランと結成したユニット"Power Station"や、ソロで大ヒットした86年の"恋におぼれて"の印象が強く、MTV全盛の80年代のアーティストの代表のように語られることが多いが、実はデビューは1974年にデビューし、70年代はロックでもソウルフルな歌唱を得意とするブルーアイドなボーカリストで、Little Featを迎えた"Preasure Drop"などの秀作も多い。
このアルバムではルパート・ハインをプロデューサーに迎え、当時のテクノ的なファンクサウンドを前面に押し出し、さらにアフリカ、アジア、カリブといった音楽までも取り込んでいる。エレクトロなサウンドとしてはTalking HeadsやCulture Clubなどと比べるとかなり地味な音作りと感じられるが、これはこの後の大ヒットに繋がる前兆ともいえるし、様々なリズムアプローチを通してはいるが本質的に彼が目指していたものが、エレクトリックなファンクサウンドであったことは明白である。
タイトル曲"Pride"の中の「オリビィア・ニュートン・ジョン、君はなんてことしたんだ!」という歌詞は当時カントリー出身でありながら時代のポップなエレクトリックサウンドを取り入れ"Physical"を大ヒットさせたオリヴィア・ニュートン・ジョンのことをストレートかつ彼独特のシニカルな表現で取り上げ物議を醸した曲である。そしてロバート・パーマーのこの後の活躍ぶりは周知のとおりで、"恋におぼれて"が世界中で大ヒット。美形モデルをバックに配したプロモーション・ヴィデオを作成し、当時流行のMTVによるプロモーションを利用して一躍スターダムにのし上がったのである。彼の存在とサウンドはこの頃のアメリカの高度経済成長期をシンボライズしており、それは同時に日本のバブル経済期を連想させるサウンドともシンクロしている。
近年はそんなエレクトリックなサウンドとは対称なブルース魂を全面に押し出した"DRIVE"で新境地を開いている。このアルバムはソウルボーカリストとしての円熟を感じさせ、その存在の大きさを見せ付けたが、残念ながら2003年9月26日旅行先のパリで心臓発作にため亡くなってしまったため彼の遺作となってしまった。あの時代にバブルのごとく弾けてしまった彼のポップなサウンドが戻ってくる可能性はもうなくなってしまったが、過去の作品のキラキラした輝きは永遠に色褪せない。
10cc10ccの1975年の3枚目のアルバムで彼らの代表作といわれているアルバム。
10ccはエリック・スチュワート(vo,g)、グレアム・グールドマン(b,vo)、ケヴィン・ゴドレイ(ds,vo)、ロル・クレーム(g,key,vo)の4人から成るマンチェスター出身のバンドで、1972年にデビューしている。ただしその時点でまったくの新人バンドだったわけではなく、グレアム・グールドマンがヤードバーズのヒット曲"For Your Love"の作曲者であったり、エリック・スチュワートは他のバンドで既に人気を博しており、デビュー時には実績も実力もあったバンドで成功するべくして成功したバンドとも言える。彼らの知名度が上がり、バンドの活動が軌道に乗るのは2枚目のアルバムで、初めてメジャーレーベルと契約するようになってからである。数枚のシングルをヒットさせた後、英1、全米2位の大ヒット曲"I'm Not In Love"を収録したこのアルバムで大ヒットを記録している。
彼らのサウンドはシンセサイザーを多用し、70年代というより80年代を連想させる音でもあるが、ビートルズを始めとする60年代のポップサウンドを自らの音楽の中で消化し、新しい80年代への橋渡しとも言えるサウンドを作り上げた。そしてこのアルバムは"Original Soundtrack"というタイトルではあるが、実際に映画などのサントラであったわけではなく、架空のサントラというコンセプチャルなアルバムで、冒頭の"パリのある夜 "を顕著な例としてオペラ風の組曲というスタイルはあのQueenのフレディ・マーキュリーにも大きな影響を与えている。
まだシンセサイザーやテクノロジーを使った音楽が主流になる前であり、効果音やサンプリングのなかった時代にギズモというギターの弦をこすることによってキボードのように持続音に変えられるアタッチメントを開発し、常に実験的でストイックな音の追求する姿勢は当時他のバンドとは一線を画す存在であった。またプログレッシブロックというスタイルに流されずにあくまでポップな音楽の中で、こういったユニークな実験を繰り返し、ポップアルバムとしての大衆性と商業性を持続できたという点では驚異的なバンドなのかもしれない。
この後、ケヴィン・ゴドレイ、ロル・クレームの二人は映像製作の道にも進出していくが、このアルバムはそうした彼らのビジュアル的な音作りの原点ともなった作品で、彼らの遊び心溢れる実験精神や大衆音楽としてのポップ感覚、アーティスティックでロマンチシズム溢れる音楽に対する美意識が見事に結実したアルバムと言える。ブリティッシュハードロック全盛期の1975年に生まれた極めて異質なアルバムであるが、その内容は今でも斬新さを損なわないクリエイティブな音楽性を感じさせてくれる。
Duke Ellington デューク・エリントンの1966年の作品で、邦題は"極東組曲"。
エリントンと彼の楽団の一向は1963年に国務省派遣の親善使節としてニューヨークを旅立ち、ダマスカス、アンマン、カブール、ニューデリー、ボンベイ、カルカッタ、セイロン、バグダットとアジア諸国を旅して回ることになる。残念ながらこの旅行自体は当時のアメリカ合衆国大統領ケネディ暗殺という歴史的事件が起こったため急遽中止になり帰国となってしまったが、その旅行での体験をもとに各国の音楽にインスパイアされて作ったのがこのアルバムである。邦題は極東と日本を案じさせるタイトルがつけられているが、実際には上記の通り中近東諸国をテーマにした音楽である。ラストの"Adlib on NIPPON"はこの旅行とは別に1964年に来日した際に作られたものであるが、同じような異国をテーマに持つ曲ということでこのアルバムに収録されるよういなったらしい。
上記のような作成背景からこのアルバムは観光音楽のような印象を受けるが、決してリゾート音楽ではなく見事にいつものデューク・エリントンの音楽となっている。作る際にエリントンは「各国の音階や現地の楽器の影響されすぎないように注意した」と述べており、リズムについてもあくまでJazzをベースに作られていて、所謂中近東のスケールというものも使われていない。土地の音楽を吸収して、頭の中で煮詰めて発酵させた上で、譜面に向かったといわれている。
そして、エリントンの音楽制作の上で欠かせない存在である、ビリー・ストレイホーンの編曲の見事さも忘れてはならない。エリントンの音楽は、エリントンがつくった曲をストレイホーンが五線紙に書き写しメンバーに配ってオーケストレーションを完成させるといったスタイルで出来上がっている。その二人の協力関係も残念ながらストレイホーンの死によって本作が最後となってしまった。
ラストの"Adlib on NIPPON"は日本を訪れたエリントンとストレイホーンが日本の伝統芸能、特に琴の音色に魅せられて作った曲で、琴の音色がエリントン自身のピアノで表現されている。オーケストレーションや作曲以外にも優れたピアニストであり、前衛的なプレイをも得意としたエリントンのこのプレイは彼の膨大なピアノの演奏の中でも特筆に値する出来である。イントロの琴の音色を模したピアノとベースのスリリングな演奏の後で、4ビートになるが、ここではクラリネットを尺八のごとく起用し、絶妙なスウィングを聴かせてくれる。
このアルバムは、決して現地の楽器やスケールに頼ることなく、中近東の猥雑さ、エスニカルな文化、混沌としたサウンドを自身のオーケストレーションで表現しきったエリントンの名作の中の一枚であり、彼の世界観と表現領域の広さをみせつけた秀作ともいえる。"Take The A-Train"といった彼の一般的なイメージからはかけ離れた音楽かもしれないが、彼の一環したサウンドポリシー、スウィング感はここでも余すことなく発揮されている。