”もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら”(以後、『もしドラ』)のネガティブコメントがありました。んで、作者からのカウンターコメントがありました。
そして、『もしドラ』の一読者としては、ちょっと複雑な気分になりました。

議論するなら徹底的にやって欲しいと思うのですが、建築的な議論になるのかなぁ?と思うのです。
本の内容は、とても素晴らしかったと思います。ドラッカーの『マネジメント』について、この本ほどわかりやすく理解できると共に読み物としても楽しめました。それを、イントロダクションの部分で全てを否定するようなコメントはアンフェアだと思うのです。小説であるとすれば、全て呼んだ上で批評するべきです。『もしドラ』の目的は、ドラッカーの『マネジメント』を読み込んだ女子高生が野球部を変革していくかが重要であり、ドラッカーの『マネジメント』に出会うところについてディテールを書く必要性はないでしょう。(取捨選択の問題)
このネガティブコメントをしている方が、プログラムの分野では著書があるようですが(全く持って興味の無い分野でマニアック)、デバッグの方法論を行う際に2進数の説明から行うでしょうか?少なくともプログラムを行う際に2進数を理解していることは当たり前であるため、解説はしないはずです。仮に書いてあったとしたら、その著書はゴミでしょう。だから、どのような文章を書くかは、取捨選択の問題であることは、共有知として認識されているべきなのです。

一方、『もしドラ』の作者については出版した本についてネガティブコメントを受けたからと言って、カウンターコメントは出すべきでは無いと思うのです。即ち、出版すると言うことは作者の手を離れているわけであり、著書は(あえて言いますが)購入した読者のモノです。それをWeb上で言い訳と解説をするのはありなのでしょうか?一般的には、出版した著書は改版できません(厳密には一概には言えませんが、てにをはレベルの修正や誤記修正はあるとおもうのですが、作品の大幅修正は無いとないと言う意味) それを、一読者のブログに対してカウンターコメントを行い、内々で反省するならまだしも、逆ギレして更に一読者を非難するというのは作家としてあるまじき行為です。作者が著書に対して泥を塗った行為です。『もしドラ』の著者は放送作家とのことですが、一度放送して放送事故(たとえば、セシウムさんとか・・・ うわぁ、放送禁止用語だぁ)を起こしたとした場合、言い訳して犯してしまった過ちをなかったことにできるのでしょうか?

で、一番言いたいのはこの両者がF2Fで議論をしているのではなく、ブログというメディア(と言うべきかは、微妙)を通してお互いの主張をインターネットに垂れ流しています。2chやTwitterでは、ネガティブな意見が多数散見されており凄く気分が悪いです。そして、両者が(それなりの)作家であることが問題なのです。村上春樹と東野圭吾がブログ上でお互いの作品を否定しているとしたら、読者はどう思うでしょうか?少なくとも、週刊誌ネタになりますね。

まとめとしては、

こんな糞共はインターネットから去れ!

と言いたいのです。

見たくない情報はみなければいいという議論もありますが、著名人(ともう思わない)の発言は目につきます。主義主張があるのはわかりますが、もうちょっと建設的なことにインターネットを使って欲しいなぁと思いました。いじょ。

もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら/岩崎 夏海

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つづき。

米国の押し売り説。

軍事兵器を売りつけて、紛争の種を蒔き続けるのが得意なお国柄。
核廃絶の流れの中で、パテントや技術力をお金にすれば儲かる。
政治的圧力をかければ日本政府は簡単に折れる。内輪もめは日本政府に任せて売り物をどう使うかは任せればいい。そう考えれば、納得感は強い。
また、危険性は熟知していたから、在留米国人に国外脱出を促すのは妥当でしょう。
と考えると、より自然な流れに思える。

さらに、悪しき軍国主義者の迎合。

原子力の技術を、最終的には核弾頭を作る技術へ昇華させることを考えないはずはない。
原子力基本法制定を隠れ蓑に、自衛隊から軍隊への道筋は描かれていたのではないか?推測の裏付けとしては、読売新聞初代社主であった正力松太郎が原子力委員会委員長に就任している点に注目したい。すなわち、読売新聞の広報力を使ってマスコミをコントロールし、一方で原子力の安全利用と悪用を両立させていく。ありふれた小説の題材になりそうだが、おそらくそれほど複雑怪奇な話しではないだろう。

おそらく、1つや2つは当たっているのでは無いか?即ち、利害関係者は複数存在し、それぞれの利益のために踊らされた結果では無いだろうか?そして、利害関係者の大半は墓の中に隠れ、惰性で信じ込まされた道を歩んできている気がする。

そうであれば、墓場の妖怪達のために負の遺産を守り続ける道理は無い。
いっそのこと地獄まで持って行って欲しいモノだ。そう考えると、原子力発電所は無用の産物であると思うのだが、どうだろうか?
思っちゃったんだから、しょうがない。

原子力発電所って、原爆の模造品でしょ?
熱量を暴走させるのが、原爆。熱量を制限させるのが、原発。
いずれにせよ、自然の産物を制御しようとすることを考えることがおこがましい。

ってことを、原子力の詳しい先生方はわからないはずは無いと思うのです。
それでも、理屈や確率をこねくり回して『原子力は安全』と言い放ってきたモチベーションはどこから来るのでしょう?理性的には、どう考えても原発はリスクマネージメントとして選択すべき発電方法では無いのです。その証拠に、東京都、大阪府、京都府には原発は無いですから。すなわち、政治や行政の中枢に原発は存在しないのです。

となると、1つめに考えられるのは、土建屋の利権。

原子力発電所を建設するために、工事が発生しますので、ゼネコンが群がります。そして、交付金という名前でお金が地方財源となりますが、道路建設や公共施設建設のために、さらにゼネコンの収入が増えます。そうすると、建築しまくって逃げればOKという構図が成り立ちます。

けど、原子力発電所は簡単には建設できないので、安定した収入源としては適切ではないと思います。

次に考えられるのは、政治家の利権。

原子力発電所を建設することで、地元の土建屋や東電社員の票が集められるので、お互いにWin-Winの構図が成り立ちます。長く議員をつとめられれば、それなりの収入が見込めるので、政治屋には美味しいでしょう。着実に貯金して、いざというときは高飛びすればOKという計算はしてあるはずです。

あとは、電力会社の利権。

原子力発電所は、事故が発生しなければ利鞘が大きいので建設を好むのは理解できます。ただし、事故が発生した場合の危険性や支出に関して試算していないとは思えないのです。

とりあえず、ここまでが私見です。まとめると、

・利害関係者は、全て利益を得るために活動している。
・原発が暴走した場合のリスクは、把握している。
・自ら悪人になれるような、大物はいない。

以上の観点から、理性的な小物の集団から原子力発電所をこれからも続けようというモチベーションは生まれないと思うのです。福島の状況をみていると、無能なマスコミを通して大本営発表をしてもらえれば、国民はだませたはずなのです。

しかし、麦わらの放射能汚染については一定の知識があったら想像できたはずです。いまさら、牛から検出されたからといって騒ぎ立てる方が、無知をさらけ出しているようで恥ずかしいです。もっと言うと、恐らく日本にすむ人々は少なからず放射能を浴びているでしょう。それの大小はあれど、0の人はいないはずです。そして、遺伝的に子供達にも受け継がれていくはずです。そうすると、医学の観点から安全と言い放つ学者の発言は信じられません。だからといって、危険だと言うことを触れ回る必要はないです。単純に、正しい計測を行い多角的に分析して、放射能がどの程度の影響を与えるかを理性的に説明すればいいのです。安全か、安全で無いかは、個人が判断すべきなのです。

とりとめなくなりましたが、原子力発電所にまつわる利権の構造については、今後も調べていきたいと思います。まぁ、上杉隆氏や池上彰氏が明らかにしていただけるとありがたいのですが。あぁー、岩上氏もいましたね。

ということで。