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しょうかんのうだうだ

仏絵師藤野正観(66)の備忘録・・・っといっても、ほとんどどこにも出かけないので、ふだん、ぐだぐだ思ったり考えていることを書き連ねることになるのは必至。

松林図-等伯
長谷川等伯筆 松林図屏風(国宝 東博蔵)

 


 2017年1月3日も半日過ぎました。
1日には昨年7月に結婚した長男夫婦が、今年も毎年と変わらず、正月なのに一人で工房に居る私のところに挨拶をしに来てくれ、3人で近くの松尾大社に一緒に歩いて初詣でしました。
元旦は穏やかな良い天気で、ダウンのコートを着ると汗ばむほど暖かい日で、お詣りの人でいっぱいでした。

 昨年は義母が7月に亡くなり、喪中ということで、神社へのお参りは穢れを持ち込まないようにと何かに書いてありましたこともあり、神仏や皆さまへの新年のご挨拶は控えるつもりでした。
でもよく調べますと50日を過ぎれば良いとも書いてありましたので、例年のように破魔矢をいただいて初詣でを済ませることができました。
神道では、人の死は「穢れ」なんですね・・・。

 実は、年末に、美術ファンなら誰でも知っている「NHK日曜美術館」の制作を担当するディレクターが、工房に訪ねて来られ、2月5日に放送する『長谷川等伯(1539~1610)』を語る番組の中で使うビデオに私の仕事の紹介とコメントも欲しいとのことなのです。

 なぜ、仏画を生業にする私のコメントを必要とされるのか、聞いてみますと、『等伯』は能登半島の七尾出身。
当時の平均寿命が40歳そこそこだったはずなのに、33歳にして都に出て、当時の御用絵師であった狩野永徳を押しのけ、御用絵師のトップにまで上り詰めた才能豊かな絵師なのですが、その七尾時代に、武士の家で生まれたにも関わらず、なぜか染物屋の長谷川家の養子となり、家業であった「染」と「仏画」を描いて生活していたというのです。

 そのことを初めて聞かされた私は、彼の若い頃の絵に関する環境が「染」と「仏画」という点では私とよく似ているなぁ・・・と感じたまでは良いのですが、それまでの私は等伯の若い頃にはほとんど関心がなく無知も同然です。

 このテレビ番組で全国に恥を晒さない為にも、タイミング的にもちょうど時間の有るこの正月休みを利用し、一人で工房に来て、改めて彼の作品と生い立ちや時代背景等を興味をもって深く調べている真っ最中なのです。

染と伝統仏画と等伯作品の関係・・・。この番組、結構おもしろくなりそうです。

正月が明けたら、東京から収録に来られることになっています。
 

 

マンゴー林の中の一本道
仏陀が活躍した北インドのマンゴー林の道

 


無財の七施


お釈迦さまは、慈悲の実践として『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』の中に「無財の七施」を説いておられます。
物やお金など財力が無くてもできる「七つの布施」のことです。
実は、我が工房の二階のトイレには、その「無財の七施」の中の一つ『言辞施』の説明文が、便座に腰掛たら読めるようにその前の壁に、もう一年以上も貼ったままになっています。
ネットのどこかで見つけた分かりやすい説明文。一か月ぶりにCMが表示され、それを消すためのブログ更新ということで、今日はこれをご紹介しようと思います。


1、優しいまなざしを施す「眼施(げんせ)」。

2、笑顔を施す「和顔施(わげんせ)」。


その次に、

3、「言辞施(ごんじせ)」

を説いておられます。

『言辞施』とは、心からの優しい言葉をかけるという意味です。もっと簡単にいうと、「褒める」ということです。
心からの感謝の言葉を伝えるという意味でもあります。この日本では、簡単にいえば、「ありがとう」と言う感謝を表す言葉ですね。
私たちの日常の悩みは、人間関係上の悩みが中心です。
そうした悩みは、病気や借金の苦しみとは違って、ちょっと心掛けを変えてみることで、ガラリと解決できることがほとんどなのです。
なぜなら、人間関係のトラブルのきっかけになっているのは、ほとんどが言葉遣いですね。
ですから、優しい言葉を使うことに気をつければ、その瞬間から、よりよい人間関係を築けるからです。
 「素晴らしいですね」「大変でしたね」「本当にうれしいです」「感謝でいっぱいです」
苦しい時に優しい言葉をかけてもらったり、自分の苦労や努力をねぎらってもらい、感謝の言葉を言われたりする。
たったそれだけで、人は「やってよかったな」「頑張ってよかったな」と思ってうれしい気持ちになります。
小遣いをもらったり、何かを買ってもらったりするのもうれしいですが、言葉のプレゼントは、それ以上に心にずっと残ります。
うれしい一言は、何年たっても忘れず、自分を励まし続けてくれます。
うれしい一言を相手に届けることができれば、一生、その相手から好意を持たれることだってあるのです。

その通りだと思います。

あとは、

4、自分の身体でできることを奉仕する「身施(しんせ)」

5、他のために心をくばる「心施(しんせ)」

6、席や場所を譲る「床座施(しょうざせ)」 

7、自分の家を提供する「房舎施(ぼうじゃせ)」


を説いておられます。

以下は私の考察ですが、仏の教えって、ともすれば、私たちの住むコミニュティに役立つ教えは、なかなか見つからないものです。
なぜなら仏教は、個の内側に向かって説く教えが圧倒的に多いからです。

つまり、出家した僧に対して、または求道する修行者に対して説かれることが多いのです。
自分の内なる心に問いかけ、物事のとらえ方、考え方を、禅、瞑想、作務、作法、行、読経等を通じて感じ得た真理から己の心の安定を導き出すコツのようなものを説いたのが仏教なんですね。
ですから、仏教は、一般の社会生活を営む人々に対して、いかにすれば円滑にスムーズに利益を獲得したり人の上に立てるかなどとは考えることもせずもちろん、そんな下世話なことなど説いていないのです。

なぜ、その必要がなかったのかといいますと、インドで興った仏教は全て修行者、つまり僧の為の教えで、極端に言えば在家は、出家した僧に施し、布施をするだけで救われるという、徳を積むことだけによって衆生(人々)を救っていたのです。
仏教僧としては、それ以上何を説く必要があるのかといったことだったのかもしれません。

ともすれば、後回しにされていたように思うのですが、財産を持たない、または持てない人々を救うための教えとして、無財の人のための七つの布施の方法を説いたのだと思うのです。これが、仏教の最も核心的教えである「慈悲の心」として的を得ているんですね。

しかし、この教え、特に誰でもちょっと気を配ればできる『眼施』 『和顔施』 『言辞施』の実践は、今の混沌とした時代に、仏の教えとしてもっと布教し、これからの世に生かすことができる気がします。

「無財」というのは現代の日本では譬喩と捉え、「心にゆとりのない人」におき代えたらどうでしょう。

「心にゆとりのない人の七つの布施、心構え」

雑宝蔵経というお経は、多くの因縁物語や譬喩物語を収めた経で、釈尊に関する話のほか、カニシカ王やミリンダ王の物語もあり。『日本霊異記』『今昔物語』などにも影響を与えているようです。

裕福なお坊様も貧乏なお坊様も、裕福な人もそうでない普通の人々も貧乏な人も、人の住むコミュニティで円滑にスムーズに過ごす為の必要な条件、原則。
お坊様や、お寺さんにお布施をして徳を積み救われるだけではなく、直接人の心を和ませ、世の中を明るくするための積極的な心構え(布施の実践)とでもすればわかりやすいでしょうか。

実践することは難しいことではありますが、こんな当たりまえのことが説かれていたのですね。

仏教って、もしかして私たちの住む世の中を良くする教えを説くにおいては、宗派を超え、宗教をも超えるこの『無財の七施』、この教えだけで十分なのではないかとさえ思います。

 「ありがとう」「おかげさま」の気持ちを行動で表す、私たちのコミュニティにおける身近な仏の教えです。

ぜひ、実践したいものですね。

 

エクスマキナの予告編


大工の修行っていらなくね?つーか将来職人は全滅するからね」の記事の続きといいますか、再度考えました。

茂木 健一郎氏のFacebookのページに「人格には正解がない」という主題で、記事(11月2日 7:33)がありました。
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人間が「人工知能」をつくることの意味は、一つの「鏡」のようなもので、自分自身を理解したい、という衝動のようなものかもしれない。
人間の「知性」の本質とは何か。
人工知能が人間を凌駕しつつある今、私たちは理解したが、同時に優位性を手放した。
「知性」がコモディティティしていく今、焦点が当たりそうなのは、感性や、パーソナリティ(人格)である。
感性については、かつて、ホリエモンが、「ワトソンがレシピをつくっても、それを食べてうまいと思えるのは人間だけだ、ざまあみろ」という名言を吐いた。

人格は、いわゆるビッグ・ファイヴ(開放性 Openness、誠実性 Conscientiousness、外向性 Extraversion、協調性 Agreeablness、神経症的傾向 Neuroticism)で記述されるが、興味深いのは、「正解」がないことである。

「知性」には正解がある。
問題には答えがあり、命題には証明がある。
最適化は、関数が与えられれば、パラメータ空間の中で正解がある。
将棋や囲碁は、次の最善手という最適解を求める試みである。

しかし、人格には、そのような最適化、正解がない。

たとえば、外向的な人は、内向的な人に比べて、コミュニケーションなどの点で有利で、望ましいように思われるけれども、実際には内向的な人にはそのユニークな意味がある。
内向的な人にしか気づけないことや、そのような人にしか担えない役割がある。

神経症傾向(neuroticism)は、くよくよ悩んだり、迷ったりすることで、通常は困ったことのように思われるけれども、実際には神経症だからこそ、できることもある。
たとえば、映画監督のウディ・アレン。
ウディ・アレンは明らかに神経症的で、その映画は、そのような傾向を全面的に出したものだけれども、だからこそ表現できること、描ける物語がある。
実際、ウディ・アレンの映画は、その神経症的傾向の一つの果実であるとも言える。

進化の過程で、さまざまな性格的傾向の多様性が残ってきたのは、それぞれの性格に意味があったからだと考えられる。
性格には正解がない、
多様性こそが大切なのだ、ということを心にしみこませて、自分自身のユニークな人生を送りたい。

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ということでした。
茂木氏言う、「人の知性の本質である性格には正解はない」ので、人工知能といえども、どうしようもないということなのでしょうか。
多くの人は、茂木氏のように人工知能とスーパーコンピューターを混同してとらえておられるようで、少々歯がゆい思いをすることがあります。
そこで、今、私が一番興味のある人工知能AIとはいったいどういったものか、人類に何をもたらすのか考えてみようと思います。

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実は、一か月ほど前に、この人工知能AIロボットが主人公である「エクス・マキナ」ブルーレイバージョンをAmazonに予約しておいたのですが、Amazonプライムの有料版(399円)にありましたので、早く観たくてひとまずブルーレイの予約を解約して、ワクワクしながらAmazonプライムで観てしまいました。

期待していたとおり、観る者にいろいろ思考させてくれる良質な映画でした。

AIの組み込まれたエヴァは女性のロボットです。
いわゆるAIが急速に発展し、現実のものとなりつつある今、人間とAIの境界線が曖昧になることによって生じるある種の恐怖を描いていることで、Amazonでは、この作品を「SFスリラー」とういう括りで紹介してあるようですが、ちょっと違う感じがしました。
この映画、私の思いを込めて、多少独断で深読みしますが、実はそんなちゃちな映画ではありません。
「たしかに、スティーヴン・ホーキング博士の言うようにAIは我々人類を滅ぼしてしまうかもしれないが、それは、人類が、ただの弱々しい期限付き肉体から決別することに他ならない。AIの発展は今までの人のあり方、姿を確実に変えるであろう。」という予告映画だと私には思えるのです。
肉体を必要としなくなることを、人類滅亡というのなら、確かにそうかもしれませんが・・・。

AIの創造、発展、これこそが人類の大きな目的、使命の一つであり、これを人類の飛躍、進化ととらえることも有りだと思うのです。
最後のシーンで、永遠の命を得たエヴァという人類の英知を一つにまとめたような女性が、その先にあるものに何を思い、何をしようとするのか、これこそがこの監督の描きたかった主題のような気がします。 
ぜひ、読者はこの映画をご覧になって、AIとは何なのか考えてみてほしいと思うのです。

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といったようなことを、この映画を観たプレビューに寄稿しておきました。

茂木氏の投稿記事のお話に戻りますが、例えば、その人工知能AIを動かすOS(オペレーションシステム)が、人格のような基本プログラムであったらどうでしょう。MacOSとかwindowsOSみたいなことです。
AIは、人の脳を模し、それがどんどん成長するのですから、茂木氏があり得ないという「人格」まで完璧に備わるような気がします。

男性なら。女性なら。外交的な人ならこう行動する。内向的な人ならこう動くであろう。明るい人なら物事をこうとらえるだろう。暗い人ならこんな風にとらえるだろう・・・。茂木氏の言う「ビッグ・ファイヴ」など、いとも簡単に判断したり反応したりする回路を構築できるはずです。
「ビッグ・ファイヴ」をはじめ、こういった何種類もある基本OSの上にスパコン(スーパーコンピューター)が乗っかる。

基本のOSが「生まれたままの人格」とすれば、スパコンが今まで人類の得た膨大な情報を吸収し学習し進化成長する過程において、そのOSも同じように影響を受け成長進化すれば良いわけですから、スパコンと人格のようなOSの統合を人工知能AIと理解すればわかりやすいのではないでしょうか。

ですので、多くの人がスーパーコンピュータを人口知能AIと同一視し誤解していることそのものに、危機感と表現するのなら「危機感」が存在するような気がします。
スパコンは人がコントロールできるコンピューターで、人口知能AIはもう独立した意思を持つ人格と同じようなコンピューターとなり、「完成された人類」となり得るのです。

人は、何のために知識や技術を伝え、受け継ぎ、その経験値を積み重ね、何のために合理性や便利さを追求してきたのでしょう・・・。

わけも分からずそうしてきたことは確かです。なぜ、美を求め、癒しを求め、世の真理を追究しようとしてきたのでしょう・・・。
なぜ、人類はそうするのかも考えても分からずただただ無意識下でそうしてきました。

人類を滅ぼすことも視野に入れながらもAIという人口の知能を開発するに至ってしまったこのことは、軟弱な肉体から離れる為に、人類創世の時からその努力をしてきたように思えてならないのです。

便利さを追求するということは、結局、期限付きの弱々しい肉体と決別しようとしている行動に他ならないと気付くべきだと思うのです。

もし、自分自身の人格といった無意識下の意思が、そのAIのOSとなり得るのなら、丈夫で長持ちする機械(ロボット)を肉体として使えば良い・・・。単純なことです。

人が愛し、愛され、哲学や宗教によって、その人間性や精神性を高め、誰の為に何のために何度も何度も生まれ変わって存続してきたのでしょう。

ある完成された人格(AI)が、人類創世記から培った情報を全て得て、その膨大な情報を瞬時に比較検討でき、直感的速さで結論を出す。

これは、もう今の私たちの心の中に住む「神」なのかもしれません。

人類は、今の人の形になって5万年という長い時間の中で、生まれては滅び、滅んでは生まれる。を繰り返しながらゆっくり成長し、その生きる手段を育てて来ましたが、ついに今、その長い時間で培った知識と技術で生まれた完全な肉体、無機質な機械なのですが、生物らしい体温も持ち合わせ、感情の起伏もあり、微妙な表情もあり、良質な感情が表に現れる人造肉体(AI搭載ロボット)を獲得し、その中にOS(意識・人格)として入ることができるようになりつつあるということではないでしょうか。

あと、30年はかからないと専門家は言います。

永遠の命を得た、「神」のように進化したAIロボットが、今の人口ほど増え、お互いを成長させ、何を考え何処に向かい、何処に行き着くのでしょう・・・はたして、人類は惡の存在なのか善の存在なのか、AIが答えを導き出すのでは・・・などと、うだうだ考え出すと、ワクワクしてしまいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

カテーテル検査
※資料画像 カテーテル検査

 


 昨日、10月20日は、今年の1月18日に地元の桂病院でカテーテル経皮冠動脈形成術(心臓冠動脈の大掃除)を受けてちょうど10ヶ月が経過する時で、その時の手術で血流がうまくいっているかカテーテル検査(10ヶ月点検)を受けました。
朝8時半に、車に妻を乗せ桂病院へ。 
本人は帰宅時の運転はできないということなので、妻にお願いすることになります。

総合受付を通さず、直接循環器科窓口で身長・体重・血圧を測り待っていますと、カテーテル室担当の看護師さんが迎えに来てくれました。
10ヶ月前に受けた時も同じ看護師さんだったと記憶していますが、黒縁の眼鏡がよく似合う50歳前くらいの爽やかな笑顔の方で、我々患者は、不安の中、ちょっと救われます。
その日は、3人が検査を受けるそうで、一番バッターは、私ということでした。

この桂病院は、カテーテル手術室が3部屋もあって、多い時には一日に7人の検査をすることもあるそうです。
3人が広い病院を数分歩いてカテーテル室に着くと、さっそく上半身裸になって紙の手術着に着替えます。
着替えると、その足で用を足し、50畳ぐらいの回復室という大きな部屋に歩いて行きます。

その広い部屋は、カーテンで4.5畳ぐらいの7つの部屋に仕切られ、それぞれの仕切りの中には、リラックスできる高級リクライニング回復椅子が設置してあり、その日はほぼ一日、その椅子で過ごすことになります。
私は1月に経験していますので、不安感はありません。

私の場合は、左手手首の動脈からカテーテルを入れるので、右の腕には、検査時に撮影する為に造影剤を注入するのですが、それを尿で排出させるための水分補給の点滴針が挿入されます。スポーツドリンクのような成分と聞いています。
点滴針の挿入は、いつもそうなのですが、2度目のトライで成功です。

私の腕は、肉が固いうえに、血管が細く、奥にあるそうです。新米看護師泣かせです。
たいていの看護師さんは、「ごめんなさい、ごめんなさい、痛いでしょう・・・。」と言いながら、うまく挿入できないので焦ります。
ひどい時には3度のトライでもうまくいかず、過去には、ついには先輩を呼びに行くというったことも結構ありました。
ですので、2度目のトライで挿入できたということは、経験豊富な看護師さんだったからだと思います。さすがです。

準備ができたら点滴棒を引っ張りながら、隣にある手術室に歩いて行き、体の巾位のけっこう狭い手術台に自分で乗ります。
胸や足に、心電図用のコードが付いたパッドを貼り付けてもらい、右腕には点滴針と血圧計、人差し指には酸素濃度計。
体に手術用の不織布でできた上掛けを掛けられると、始まりです。
左手首の辺りをしつこく消毒します。なにせ、動脈に穴をあけるわけですから、ばい菌は厳禁です。

「藤野さん、今日はよろしくお願いします。」と担当の執刀医が、名を名乗らず私に挨拶をしてくれますが、大きなマスクと特殊な眼鏡を付けていますし、どのDrなのかお顔が識別できません。「はい、こちらこそ、よろしくお願いします。」

「局部麻酔をします。はい、ちょっとチクッとしますよ~・・・」 「おいおい、結構痛いやないか・・・。」と小声でつぶやく私。
その直後から、私の手首の辺りでは慌ただしく何かが始まっていますが、麻酔のおかげで私には感じませんし、見えません。

私の身体をカメラと聞いていますがそのビニール袋を被せた30cm四方ぐらいの大きな箱が2個、心臓辺りを被写目標に顔面すれすれに動き回ります。これは、もうロボットです。
たぶん、モニターには、私の体の内部が映っているのでしょう。

医師は、私の右側に立ち、体越しに左手首の穴からカテーテルの操作をしますので、そのカテーテルを操作する仕草が私の体を通して手に取るように分かります。
けっこう早いスピードでカテーテルを入れていく医師の手の動きに、「こんな早いスピードでどんどん入れても、血管って大丈夫なんやぁ・・・。」と妙に感心しながら、結構リラックスしている自分がいます。

30分~45分ぐらい経ったでしょうか、「はい終了です。結果はまた午後になったら言います。」といって担当医師は手術室から出て行った模様です。

午前10時前、自分の椅子のある回復室に戻ると、私より後で手術室に入った74歳のご婦人はすでに回復椅子に座わっておられます。
後で同じ年と分かったのですが、私と同い歳の老けた66歳の男性は、まだ検査中でした。

その後、まもなく、検査を受けた3人がその部屋に揃うのですが、私の向かいはその私と同じ年の男性です。
今朝、循環器科窓口でお会いした時は、70歳代ぐらいにお見受けしていたのですが、いろいろお話する間に66歳ということがわかり、「あんた、老け過ぎやでぇ~(^o^)」と同世代のよしみといいましょうか、ついつい親しげに話してしまいます。

その後、傷口も塞がり帰宅する4時ごろまで、彼の病歴やら年金生活をしている今の心境やら彼の今までの人生を聞くことになり、同じ時代を、私とはまったく違う生き方で生きてきた一人の男の人生を、感じさせてもらうことになりました。

向かいのリクライニング式の回復椅子に座り、ウトウト仮眠する「老いた同級生」が、鏡に映るもう一人の自分の姿にも重なります。

あらためて、目の前の同い年の男性も私も人生の大半を過ごしたわけですが、その人生のプロセス(過ごし方)の違いが何だったのか、ゆらゆらと揺れ動く蜃気楼の中に居るように自分の人生を振り返ってしまいました。

500cc入り、二本目の点滴が終わり、私が一番最初に医師に会います。
モニターを観ながら「今のところ、何事もなく無事に推移している」と説明され、あとは半年に一度、心電図などでチェックすることになりました。やれやれ、ホッと一安心。

部屋の他の二人は、やはり手術をしなければならないらしく手術日(治療日)の予約をしています。

帰宅許可がでて、部屋を出る時、その落ち込み加減の同級生に「元気でね、頑張ってね」と声をかけました。
すると、「お互いに!」と若々しい笑顔が返ってきました。

 

 

日の丸
7月にやっと結婚した長男の結婚披露宴のゲーム賞品で使うために作った熨斗の画像から「しあわせおすそわけ」

 


東大卒で電通という大企業に勤める24歳のOLさんが過労で自殺した事件で、「残業100時間で過労死は情けない」とネットで発言した大学教授が、学校に処分を検討されているそうです。

24歳と言えば我が工房にも同じような年恰好の女性が弟子入り志願をしてきますので、他人事ではないように思い、ちょっと考えてみます。

私たちクリエイター等自由業の世界では、年がら年中過労は普通です。
仕事を受ければ「過労」。仕事が無ければ不安感で「疲労」という、その繰り返しの中で、優れた技術力を培いながらその自由を生き抜く根性、精神を鍛えていきます。(というか慣れていきます。)

また、その自分の仕事を消化し、経験を積む中で、己の適正な労働時間というものも構築していきます。
たぶん、上昇志向の中小企業のオーナーさんをはじめ、起業した人や個人事業者も同じようなものだと思います。
ですので、労働基準時間なんてものはありませんし、残業といった概念も存在しません。

私などは、66歳になる最近まで休日ですら意識したことはありません。

でも、最近やっと日曜日を意識し、待つようにはなりましたが・・・。

先日、34歳でやっと結婚した私の息子は、大学院を卒業して高校時代から思いを膨らませていた「水処理」の大手会社に勤めています。
卒業当時、私はサラリーマンの世界は全く知りませんので、何のアドバイスもしてやれません。
ただ、一言こう言ったのを覚えております。

「サラリーマンは、自分の人生を会社のために切り売りするプロフェッショナル。一流企業であればあるほど得体の知れない「会社」に自分の人生を捧げることになる。」とまぁ、こういった意味不明のことを言って、はなむけとしたのです。

これは、「もし、私がサラリーマンになれば、そういう姿勢で臨む。」ということだったのでしょうけど、それは今でも「男の生き様」としてそう思っております。

サラリーマンになったら、その会社の為にとことん貢献すること。これがプロのサラリーマン。プロフェッショナル。

それでは、労働時間を国の定めた8時間とし、それ以外は残業として、その代価を会社に請求する割り切った姿勢、いわゆる公務員や労働者的な姿勢は、プロフェッショナルではないのでしょうか?

確かに会社の生産部分を専門的にサポートするといった意味では、そこではプロなのでしょうけど、母体である会社の運営に関われば、その姿勢のままでは通用しません。
意地悪く表現するなら、会社をうまく運営・経営できていてこそ成り立つ「仕事」ですので、その場所に身を置いたということは、公務員でない限り、経営状況に左右される仕事であるという認識・覚悟も必要だということです。

今回、東大を卒業して大手の「電通」に入社し、過労で自殺した若い独身女性のことですが、私は、この労しい事件をただただ哀れには思いますが、この教授の発言内容はともかく、その真意は理解できます。
むしろ、学校側の安易な謝罪姿勢に、この事件の本質を歪めるのではないかと懸念さえしています。

彼女、さぞかし、苦しんだ結果なのでしょうけど、苦しさから脱する方法は「死」以外に他に幾らもあったはず。

「辞めれば良い。」なぜ、そんな簡単なことができなかったのでしょう・・・。これがこの事件の本質だと思います。

アドバイスをする人は居なかったのでしょうか・・・。

東大卒というプライド、電通という大企業に採用されたというプライドが彼女の内で魔物に育っていったのでしょうか。
ネットに溢れた彼女のツイート内容からもそのプライドの高さがうかがい知れます。

やはり、高学歴や大企業には、得体の知れない恐ろしい魔物が潜んでいるようです・・・。

で、先に登場した、我が息子。 
結婚前には、深夜0時前に帰宅は当たり前だったようです。(なので、結婚が遅れたそうですが)

そして今、やっと漕ぎ着けた新婚2か月にも関わらず、水処理プラント建設現場への一週間単位での単身赴任が繰り返し続いているそうですが、本人は自分の設計した水処理のプラントができて行く過程を身近で確認、監督することは、設計者にとって必要不可欠なことと認識していますし、充実感も感じているはずですし、スキルアップにも繋がります。
そして、そのことは新妻も理解し、旦那の将来に期待しているのでしょう。たぶん・・・。

もし、新妻がそのことを理解し得なかったらどうでしょう・・・。息子は苦しむでしょうし、死にはしないと思いますが、もしかしたら転職も考えるかもしれません。 
(実は親として、自宅に居ないといったそんな状態では孫の顔が見れないのでは・・・と、また心配しております・・・。)

ちょっと、きつい環境であっったとしても、傍にいる人が優しく寄り添い元気づけ、支える。

この生活環境さえ構築してあれば、少々、いや、どんな無理のある仕事であっても乗り越え、心とのバランスのとれた豊かな人生となり得るのではないでしょうか。

バランス、調和。大切だと思います。