人口知能AIについてちょっと考えてみました。 | しょうかんのうだうだ

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仏絵師藤野正観(66)の備忘録・・・っといっても、ほとんどどこにも出かけないので、ふだん、ぐだぐだ思ったり考えていることを書き連ねることになるのは必至。

エクスマキナの予告編


大工の修行っていらなくね?つーか将来職人は全滅するからね」の記事の続きといいますか、再度考えました。

茂木 健一郎氏のFacebookのページに「人格には正解がない」という主題で、記事(11月2日 7:33)がありました。
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人間が「人工知能」をつくることの意味は、一つの「鏡」のようなもので、自分自身を理解したい、という衝動のようなものかもしれない。
人間の「知性」の本質とは何か。
人工知能が人間を凌駕しつつある今、私たちは理解したが、同時に優位性を手放した。
「知性」がコモディティティしていく今、焦点が当たりそうなのは、感性や、パーソナリティ(人格)である。
感性については、かつて、ホリエモンが、「ワトソンがレシピをつくっても、それを食べてうまいと思えるのは人間だけだ、ざまあみろ」という名言を吐いた。

人格は、いわゆるビッグ・ファイヴ(開放性 Openness、誠実性 Conscientiousness、外向性 Extraversion、協調性 Agreeablness、神経症的傾向 Neuroticism)で記述されるが、興味深いのは、「正解」がないことである。

「知性」には正解がある。
問題には答えがあり、命題には証明がある。
最適化は、関数が与えられれば、パラメータ空間の中で正解がある。
将棋や囲碁は、次の最善手という最適解を求める試みである。

しかし、人格には、そのような最適化、正解がない。

たとえば、外向的な人は、内向的な人に比べて、コミュニケーションなどの点で有利で、望ましいように思われるけれども、実際には内向的な人にはそのユニークな意味がある。
内向的な人にしか気づけないことや、そのような人にしか担えない役割がある。

神経症傾向(neuroticism)は、くよくよ悩んだり、迷ったりすることで、通常は困ったことのように思われるけれども、実際には神経症だからこそ、できることもある。
たとえば、映画監督のウディ・アレン。
ウディ・アレンは明らかに神経症的で、その映画は、そのような傾向を全面的に出したものだけれども、だからこそ表現できること、描ける物語がある。
実際、ウディ・アレンの映画は、その神経症的傾向の一つの果実であるとも言える。

進化の過程で、さまざまな性格的傾向の多様性が残ってきたのは、それぞれの性格に意味があったからだと考えられる。
性格には正解がない、
多様性こそが大切なのだ、ということを心にしみこませて、自分自身のユニークな人生を送りたい。

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ということでした。
茂木氏言う、「人の知性の本質である性格には正解はない」ので、人工知能といえども、どうしようもないということなのでしょうか。
多くの人は、茂木氏のように人工知能とスーパーコンピューターを混同してとらえておられるようで、少々歯がゆい思いをすることがあります。
そこで、今、私が一番興味のある人工知能AIとはいったいどういったものか、人類に何をもたらすのか考えてみようと思います。

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実は、一か月ほど前に、この人工知能AIロボットが主人公である「エクス・マキナ」ブルーレイバージョンをAmazonに予約しておいたのですが、Amazonプライムの有料版(399円)にありましたので、早く観たくてひとまずブルーレイの予約を解約して、ワクワクしながらAmazonプライムで観てしまいました。

期待していたとおり、観る者にいろいろ思考させてくれる良質な映画でした。

AIの組み込まれたエヴァは女性のロボットです。
いわゆるAIが急速に発展し、現実のものとなりつつある今、人間とAIの境界線が曖昧になることによって生じるある種の恐怖を描いていることで、Amazonでは、この作品を「SFスリラー」とういう括りで紹介してあるようですが、ちょっと違う感じがしました。
この映画、私の思いを込めて、多少独断で深読みしますが、実はそんなちゃちな映画ではありません。
「たしかに、スティーヴン・ホーキング博士の言うようにAIは我々人類を滅ぼしてしまうかもしれないが、それは、人類が、ただの弱々しい期限付き肉体から決別することに他ならない。AIの発展は今までの人のあり方、姿を確実に変えるであろう。」という予告映画だと私には思えるのです。
肉体を必要としなくなることを、人類滅亡というのなら、確かにそうかもしれませんが・・・。

AIの創造、発展、これこそが人類の大きな目的、使命の一つであり、これを人類の飛躍、進化ととらえることも有りだと思うのです。
最後のシーンで、永遠の命を得たエヴァという人類の英知を一つにまとめたような女性が、その先にあるものに何を思い、何をしようとするのか、これこそがこの監督の描きたかった主題のような気がします。 
ぜひ、読者はこの映画をご覧になって、AIとは何なのか考えてみてほしいと思うのです。

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といったようなことを、この映画を観たプレビューに寄稿しておきました。

茂木氏の投稿記事のお話に戻りますが、例えば、その人工知能AIを動かすOS(オペレーションシステム)が、人格のような基本プログラムであったらどうでしょう。MacOSとかwindowsOSみたいなことです。
AIは、人の脳を模し、それがどんどん成長するのですから、茂木氏があり得ないという「人格」まで完璧に備わるような気がします。

男性なら。女性なら。外交的な人ならこう行動する。内向的な人ならこう動くであろう。明るい人なら物事をこうとらえるだろう。暗い人ならこんな風にとらえるだろう・・・。茂木氏の言う「ビッグ・ファイヴ」など、いとも簡単に判断したり反応したりする回路を構築できるはずです。
「ビッグ・ファイヴ」をはじめ、こういった何種類もある基本OSの上にスパコン(スーパーコンピューター)が乗っかる。

基本のOSが「生まれたままの人格」とすれば、スパコンが今まで人類の得た膨大な情報を吸収し学習し進化成長する過程において、そのOSも同じように影響を受け成長進化すれば良いわけですから、スパコンと人格のようなOSの統合を人工知能AIと理解すればわかりやすいのではないでしょうか。

ですので、多くの人がスーパーコンピュータを人口知能AIと同一視し誤解していることそのものに、危機感と表現するのなら「危機感」が存在するような気がします。
スパコンは人がコントロールできるコンピューターで、人口知能AIはもう独立した意思を持つ人格と同じようなコンピューターとなり、「完成された人類」となり得るのです。

人は、何のために知識や技術を伝え、受け継ぎ、その経験値を積み重ね、何のために合理性や便利さを追求してきたのでしょう・・・。

わけも分からずそうしてきたことは確かです。なぜ、美を求め、癒しを求め、世の真理を追究しようとしてきたのでしょう・・・。
なぜ、人類はそうするのかも考えても分からずただただ無意識下でそうしてきました。

人類を滅ぼすことも視野に入れながらもAIという人口の知能を開発するに至ってしまったこのことは、軟弱な肉体から離れる為に、人類創世の時からその努力をしてきたように思えてならないのです。

便利さを追求するということは、結局、期限付きの弱々しい肉体と決別しようとしている行動に他ならないと気付くべきだと思うのです。

もし、自分自身の人格といった無意識下の意思が、そのAIのOSとなり得るのなら、丈夫で長持ちする機械(ロボット)を肉体として使えば良い・・・。単純なことです。

人が愛し、愛され、哲学や宗教によって、その人間性や精神性を高め、誰の為に何のために何度も何度も生まれ変わって存続してきたのでしょう。

ある完成された人格(AI)が、人類創世記から培った情報を全て得て、その膨大な情報を瞬時に比較検討でき、直感的速さで結論を出す。

これは、もう今の私たちの心の中に住む「神」なのかもしれません。

人類は、今の人の形になって5万年という長い時間の中で、生まれては滅び、滅んでは生まれる。を繰り返しながらゆっくり成長し、その生きる手段を育てて来ましたが、ついに今、その長い時間で培った知識と技術で生まれた完全な肉体、無機質な機械なのですが、生物らしい体温も持ち合わせ、感情の起伏もあり、微妙な表情もあり、良質な感情が表に現れる人造肉体(AI搭載ロボット)を獲得し、その中にOS(意識・人格)として入ることができるようになりつつあるということではないでしょうか。

あと、30年はかからないと専門家は言います。

永遠の命を得た、「神」のように進化したAIロボットが、今の人口ほど増え、お互いを成長させ、何を考え何処に向かい、何処に行き着くのでしょう・・・はたして、人類は惡の存在なのか善の存在なのか、AIが答えを導き出すのでは・・・などと、うだうだ考え出すと、ワクワクしてしまいます。