学生時代からずーっと、感想文などの類は苦手。
かと言って、評論も出来ない。
だから、ずっとやらずに居た。
別に、コメンテーターでもあるまいしね。
でも、
真理を掴んだし、
わたしは、出来る限り「映画は映画館で観たい派」なので、減っていっているという映画館を、少しでも応援できたならとの思いと、
わたしは、ホボ常に何をしている時でも、真理やココロの事について考えを巡らせているので、その側面でも参考になる事もあるのかもしれないとの思い
から、書いていってみる事にしました。
映画を観てきた感想。
(本当にニガテなので、果たして感想と言えるのかは謎だけれど)
あ、ネタバレはしない主義ですので、最大限気を付けて書きます。
内容としては、特に泣くような物語展開ではなくって、泣けるとしても少しのシーンであるのが一般的だと思うのだけれど、なんか終始泣けた。
当然、周りは誰も終始泣いていないので、邪魔にならないように物理的な音や、周囲の横目に入るであろう動作のうるささが出ないように、必死でこらえていた。
1記事目も涙を流したという記事だったけれど、、時系列としては、ファンタビを観ながら終始泣いていた方が先。
実は、鑑賞から少し日が経っているので、何を感じてそんなに泣けたのか、忘れてしまいつつある・・・。
恐らく、終始感じていたのは、登場人物それぞれの
ひたむきさ
なのだと思う。
それに、胸を打たれたのだと思う。
以前に気付いた事なのだけれど、わたしは「純粋さ」を、価値基準のなかでも特に大事なものとして、置いているんだ。
(だからこそ、その副作用で、この半生では「人間って汚らわしい。きらい。」といじけて暴れていた。)
アルバスのした事は、愚か。
とても愚か。
けれども、わたし達の誰にも彼を責めることは出来ないだろう。
だって、誰しもに身に覚えのある振る舞いだから。
アルバスが、その振舞によって支払った代償は大きかった。
わたし達は、運良くささやかな代償を支払うに留まってきただけだ。
ああいう愚かな振舞自体は、とても日常的で身近なもの。
だからこそ、強く思う。
とても、愚か。
この出来事を聞かされたニュートが、慰めようかと思いを巡らせた時の、「慰めなくていい。」といった事を言う伝え方が、素敵だった。
今回の映画を観た後、
『そりゃぁ…。ハリーポッターシリーズでの、ダンブルドア校長先生はあの貫禄を放つはずだわ。』ととても納得したのだけれど。
ああいう言い方を出来るほどに、アルバスの心には、天性の強い芯があるのだと感じた。
そして、グリンデルバルトが悪事を働くのにも、アルバスは一役買ってしまっている。
その背景には、心から共感する。
ただ、愛する人を愛していただけなんだよね。
これは想像だけれど、その愛する人と2人で1つなのだと感じていたのだよね。
アルバスは、自身がグリンデルバルトを滅ぼすための試行錯誤はせずにいるのは、誓いのせいだけではないのだろう。
胸がキリキリするほどに共感する。
けれども、やっぱり、愚かだよ。
コワルスキーって・・・。
基本的にルックス至上主義だし、これまでわたしは、何故、クィニーはコワルスキーと?と思っていた。
今回、ようやく気付いた。
見た目などキャラクターは、三枚目に設定されてはいるけれど、彼の心の美しさが、あの美しいクィニーに釣り合っているのだし、
そう言えば、クィニーにとっては、何がなくともそここそが重要な要素だものね。
彼女は、コワルスキーさんのキャラクター含め丸ごと大好きなのは、ちゃんと伝わってきているけれど。
これまでのわたしからすると、コワルスキーさんに美しいと感じさせられ、感動する事になるとは予想だにしていない事だったな。
美しいひと。
クィニーだって、ただ、ただ!愛する人と結ばれたいだけ。
わたし達は誰しも、自分自身をこそ、最も「見失う」生き物なのだろうと思った。
最後のシーンでも、すごく泣いた。
腹を括った覚悟と、それぐらいに強い気持ちである事に。
バンティだって、大切なひとを大切に想い大切にしているからこその、あの振舞いになっている。
綺麗なキモチだなぁ。
アルバスの事を、必要以上に「愚か」「愚か」と書き連ねたのには理由があって。
(確かに、愚かだなぁと感じたからこそ書いてはいるのだけれど)
終盤の、儀式での事に、わたしは驚いたからなんだ。
だって、取り返しのつかないような愚かなことをいくつもしてきて、ホグワーツの運営は、まるで贖罪の様にも見えているけれど、現時点ではまだ償いきれていないものだとわたしは思っていたのだけれど、
「え、(こんな↑)アルバスに?!?!」と仰天した。
これまでのわたしにとっては、
「光」ならば「光」一色だし。
「闇」ならば「闇」一色。
そうであるべきだし、
そうであってほしいし、
そうである筈でしょう?!
と考えてきたから。
このシーンを観て、ようやく
光と闇は、共存できるんだって事を
無理やりじゃなく感じられた。
そうして、グリンデルバルトの捨てゼリフ。
それを聴いて、
「あぁ、グリンデルバルトも、『今も』なんだね。」
と思って、
彼は何だか、とても悲しい人なのだなと感じた。
悪意うんぬんというよりも、ただ、悲しいひと。
だから余計に、あの人と結びついたんだ。
なくてはならない存在なのは、お互いにだったんだね。
そして、書いておきましょうか。
クリーデンス、不憫で不憫でならないのですが!
ファンタビシリーズぶっ通しで同情しきり。
終盤ではああとは言え、ただ愛情を求めているだけなのに、もはや「誰でも、何でもいいから」という領域にまで達して、ただそれだけを求め続けているのに、どこに行ったって、何からも、貰えない。
第三者のわたしなら、「そんな中でも得られているよ」と見えているけれど、クリーデンスからしたら、彼のこれまでの事からしたら、見えなくて当然だよね、とも思う。
母親のような気持ちで(?)観てしまった。
それに、わたしがファンタビシリーズに出演するとしたら、間違いなくオブスキュラスを生む者だろうと思うので、ヒトのフリみて我がフリに思いを馳せたね。
今回のグランダルバルトこと、マッツミケルセンという俳優さんの、それぞれの作品の中での存在感・演技が結構好きで。
お名前はいつまで経っても覚えられないのだけれど・・。
だから、今回の作品についても全然問題はなかった。
寧ろ、前作からの流れも引き継ぎつつ、独特の凄みを表現していて流石だなぁと思った。
ただ・・・
この方ってなんていうか・・
上品なんだよね。
実際にどうなのかは知らないけれども、上流階級が服着て歩いているように見える。
折り目正しいかんじ。
品格を失わない。
「気品」という言葉がピッタリ。
だから、あの人とあれだけ強く想い合う役柄としては、少し色気が足りなく感じられた。
天下のジョニーデップの様に、
何て事のない、労うために誰かに触れているだけのシーンのような時でも、スクリーン越しのはずなのにこちらまで「きゃ…///」と高揚するような色気、感じられたら更に良かったなぁ。
(ドロン‼︎)