悲しみのおともだち : 22.04.16-1記事目 | 聖俗ラブリー♡[真・善・美]

聖俗ラブリー♡[真・善・美]

毒親,HSP,10年越ジプシー,キョーレツ自己否定を越え、
不二の世界に足を踏み入れてしまった!
自分が接触するものは、自分で選ぶ♡

あなたも自己責任で!

Presented by 色 花音璃(イロ カオリ)



まるで
物静かな気分の時には、
むしろ雨は降っていたほうが心地よいように。





久方ぶりの悲しみは、意外にも、随分と心地よかった。





「体が動くのが先で、脳が認識するのが後。」という研究結果が明らかになったように、
涙が流れてから、この感覚が「悲しみ」であることに気付いた。




場所はカラオケ。
一緒に居たのは、わたし自身だけ。
最近…どころか、ここ数ヶ月、
もしかすると数年に渡って、
『わたしを悲しませるような出来事』だなんて、
まったく起こっていない。
(何せ、基本的に心身ともに引きこもっていますからね。それ以前の問題ですよね。)




そう。
全く何の影響もなく、
ただ単に
悲しかったの。




元々、1人カラオケ中に自分で歌いながら さめざめ泣く事はあった。
そういう時はやはり、感動したとか、その曲が悲しいだとかの、原因があったんだよね。




けれど、今回の曲は
T.M.RevolutionのHOTLIMIT



を筆頭に(笑)倖田來未ちゃんとか、そういう時代の、しかもアップテンポのものたち。
しかも、こういうメジャーどころは、わたしは普段は歌わない。
(好きになる曲が、いつも何故か超マイナー路線だから…)




わたしとしては、らしくないセットリストをこなしながら、アップテンポに乗せて明るい歌詞を読み上げながら、ポロポロポロポロ泣いていた。




無理やり言葉にしたなら、
「みんな…生きている命なんだなぁ。私達は、各々の表現を受け取りあっているのだなぁ。」
というような事を思っていたかもしれないけれど、




正確には、何も思わず、ただ淡々と泣いていた。
じんわりする身体の感覚だけを感じながら。



これまた正確に、わたしの感覚を言い表す。



わたしは、
しんだ。
(漢字変換は、あなたの方でお願いします)




このご時世、デリケートな表現だとも思ったのだけれども、『(あらゆる事が)どういう事なのか』をきちんと理解できたので、湧いてくるまま言葉を綴っています。




ずば抜けて達観していない限り、誰かがお亡くなりになる事は、悲しいでしょう?



わたしは、自分が亡くなった事が悲しくて、それで、泣いていた(みたい)なの。



元々、断捨離だとか、「断○○」の類が好きなわたし。
実は昨年、1人で…でもなかなか真剣に、自分を「しんだ」事にした幽霊ごっこをしていたんだ。
わたしなりに、ある目的があって実行した ごっこだったけれど、やはり ごっこ では、結局特に何も起こらなかった。



とうとう、果たしたかった目的から見て“本物”の体験が訪れたのね。



一般的な、「臨死体験をしました」「生死の境を彷徨い、不思議な体験をしました」「幽体離脱どうのこうの」・・・というような方々の体験とはまた、恐らく違っていて。



真理を掴んだ時もそうだけれど、
わたしは、理性が働いている最中、
極めて冷静に、
自分が亡くなる様子を観察した。



正確に言えば、自分が亡くなっていっているのだと、気付いていったんだ。



スピリチュアル風に、しかもカッコつけて表現してみるなら、
『エゴの し 』
とも言えるだろう。



悲しいなぁ。
悲しいよ。
さようなら。

(こんな事を書いていますが、わたしもまだ引き続き人間ですので、一応、今後も共には在るんですけどね)




わたしの場合は、この人(今回亡くなったわたし)との思い出って、結構ロクなものがないので、特に感謝は湧いていないけれど、ただ、悲しいお別れ。



バイバイ。



冒頭でも書いたように、ここ数年だけでなく半生を通して、わたしは悲しまない。
「不二子の涙は安い」と言われるほどに、ザルっザルにどんな時でもすぐに泣くけれど、感動泣きか・自分以外の他人からのもらい泣きである事が90%を占めている。



悲しむという事が、とてもニガテだった。



怒りは悲しみの二次感情なんて、心理業界では言われるけれど、わたしは、何でもかんでも大体の場合に、とにかく非常に頻繁に・大変強く、怒りまくってきていたんだ。



もう何年振りなのかもわからず、突如訪れた悲しみ。



だから、気付いたよ。



悲しみの相棒は、愛情


なんだ。



愛情と共に在る時でないと
(例えて擬人化すると、「愛情さん」というお友達と一緒に過ごしているような感覚ね)
悲しみは(確かに湧いてはいたとしても)
感じられないんだよ。



逆に、
愛情と共にいないとき
(大体の場合、自ら拒絶しているよ)
怒りが昇ってくるんだ。




きっと、だからなのね。
この半生で、避けて避けて避けてき通しだった悲しみを、「心地よく」感じられたのは。



“純粋な”絶望であるならば、あなたがそれに直面した時、必ず、【癒し】が起こるはず。
どんなに打ちひしがれたとしても。
波一つ立っていない水面のような位置に立っているだろうし、とても静かで、とても自然な状態。





もしも、そう感じられないとしたら、
あなたが感じているそれは、恐らく
絶望以外の何か
である可能性が高いと思うよ。
目安にしてみてね。



悲しみの相棒は、愛情。
絶望の相棒は、 安心 だよ。



生きている間は、
生きている限り、
それで
大丈夫だからね。



わたしも、これまではこういう言葉に対して
「何がやねん!」
「どこがやねん!」
と顔を真っ赤にして、髪を振り乱して全力で抗議していた。



今は、こういう言葉を発する人になってしまった。
わたしにとってそれは、
希望的側面であり、絶望的側面でもある。



少しでも、元気で居てね。
わずかでも、希望を大事にね。



今日は、たくさん記事を書く予定。
結局は、予定は未定だけれど。。
流れ星書きましたスター





(ドロン‼︎)