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青色発光ダイオードの発明で、名城大の赤崎勇教授はじめ3人の先生方が、ノーベル物理学賞受賞が決まったこと、本当に一人の日本人として、うれしい限りです。


日本には、基礎研究などに、営々孜々と取り組むことを賞賛する土壌があって、それが多数のノーベル賞受賞の栄誉に浴する強みになっているのだと、私は思います。

今回の青色LEDの発明にしても、赤崎先生、天野先生は、青色LEDの材料となる窒化ガリウム(GaN)の結晶化を果敢に挑んで来たそうですが、異端児扱いされていたらしい。有り体ないい方をすれば、「できもしないことに取り組んでいる」と学会から失笑を受けていたらしい。それでも、研究者をリスペクトする日本の土壌があるために、研究を継続でき、多大な成果につながったのだと、思います。また、青色LEDの量産化に成功した、中村先生は、日亜化学工業社の研究員時代に、経営トップに直訴して研究をさせてもらったとのこと。これも、社員の強い思いにこたえようとする、日本企業風土が奏功してノーベル賞につながったのだと、私は思います。


今回のノーベル物理学賞は、青色LEDの優れた発明の成功物語ですが、その裏には、人生をかけて研究に没頭しても失敗してしまう、幾多の研究者のいわば死屍累々があり、大多数の失敗の累積があることも忘れてはならない、と私は思います。失敗は失敗でも仕方がない、研究者として見事なら、研究者魂をリスペクトすることを忘れない、これぞ日本の強みだと、思うからです。


一方、隣国の南朝鮮がどうしてダメかというと、中央日報の記事を引用して考えてみます。

日本の刃物についての、『【取材日記】日本製の刃物を眺める心地悪い視線』  という記事を引用します。



「出張に行って買ってきた日本製品を(人々の)前で使っている。人々が講義を聞く時、包丁に集中するよりも料理や手つきに関心をもって眺めているので…」。

朝鮮王朝最後の台所・尚宮から伝授された宮中料理を再現する研究所関係者の話だ。彼は「小さなキュウリや薄い大根を切る時は、薄くて鋭利な包丁を使わなければならない」として「韓国産の包丁も、良いものが出てこなければならない」と話した。


中央日報は、韓国だけでなく海外でも好評を受けている日本の包丁を紹介した。   --(中略)--100年を超える歴史を誇りながらも絶えず新しさを追求する日本企業の力を実感した。工場は日本の中心部にある岐阜県関市にある。都会から離れた不便な場所にあるが、工場には若い職員が多かった。日本企業は職員の福利厚生を充実して単純作業を簡素化し、若者を引き込んでいるといった。


記事が紹介された後、インターネットには不意に「親日」攻防が起こった。品質の良い製品が高く売れるのは消費者の選択だ。それが日本製なのかドイツ製なのかを問い詰めるのはつまらない。親日議論を離れて、現実を冷静に見つめる必要がある。韓国料理をグローバル化しようといいながらも、肝心の関連技術を度外視する文化のために、韓国で刃物を作る工場は求人さえも難しい。日本企業は「韓国の刃物生産業者を競争相手としては見ていない」と言い切った。一方、毎年2月にドイツのフランクフルトで開かれる世界刃物博覧会では、すさまじい勢いで飛び回っていた日本企業の職員たちが鮮やかに目に浮かぶ。彼らはミシュランガイドの三ツ星をもらっている世界の有名シェフのそでをつかまえて日本の包丁の長所を細かく列挙したのだ。おかげで世界の有名デパートでシェフとともに開発した刃物ブランドを、最も良く目につく空間に陳列することができた。


数多くの先祖の首を切った「倭刀の末裔」を眺める視線が心地悪いのか。使う包丁がなくて宮中料理さえこれらに任せなければならない現実のほうが、さらに心地悪い。

キム・ミンサン文化スポーツセクション部門記者


『【取材日記】日本製の刃物を眺める心地悪い視線』  中央日報 2014年10月08日より


南朝鮮のお馬鹿ぶりは、本当に相変わらずです。


まず、「朝鮮王朝最後の台所・尚宮から伝授された宮中料理を再現」というのは変。

「伝授」されているなら、「再現」する必要はない。

つまり、「伝授」とは、「伝え授けること。特に、学問・技芸などの秘伝・秘法を師から弟子に伝え授けること」なので、「再現」する必要はないわけです。朝鮮王朝の宮中料理なんて、実態はなくて、「朝鮮風の創作料理」にしか過ぎないのだと、私は推測します。

それだから、朝鮮料理にない和食をアレンジしようとすると、和包丁が必要になるだけの話でしょう。


日本の包丁の評判は、世界的に高く、三条刃物など日本各所の地方都市の名産にもなっています。

さらに、刃物には研ぎが必要で、砥石の使い分けなど、日本独自の伝統が受け継がれています。

こうした、伝統・文化の蓄積がなく、『韓国料理をグローバル化』などと朝鮮人がいくら妄言を吐いたところで、誰からも見向きをされないわけです。


そして、『数多くの先祖の首を切った「倭刀の末裔」』と朝鮮人が書くに至っては、爆笑です。

朝鮮半島を侵略・服属させたのは、隋・唐や、大元帝国、大清帝国であり、朝鮮半島人の先祖の首の大多数は、日本刀で斬られたのではありません。


中央日報の記事は、事実に向き合わず空威張りだけの無様な朝鮮人の実態を露わにしていると、私は思います。


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韓流時代劇への筆誅 By宮脇淳子先生:『朱蒙』『太王四神記』編

朝鮮日報の愉快な記事です。嫌韓本反対運動を始めた日本人へのインタビュー記事です。


日本に嫌韓本が溢れている実情に、朝鮮人が、キモを潰している様子がアリアリと出ていています。引用後に、コメントします。



「書店の陳列棚に民族差別や憎悪を助長する書籍が無数に並んでいる。このような現状を傍観することはできなかった」。日本で「嫌韓・嫌中書籍の危険性」を訴える運動を展開する岩下結氏(35)が3日、本紙とのインタビューに応じた。--(中略)--


-嫌韓書籍が氾濫する理由は。

嫌韓書籍は一定の読者を確保している。そのため不況に苦しむ出版社や書店は嫌韓書籍に突破口を見いだしている。その影響で出版社の間では先を争って出版物に刺激的な書名を掲げるようになった」



-それはどの程度か。

 「『愚韓論』『悪韓論』『卑韓論』『沈韓論』『恥韓論』といった書籍が相次いで出版されている。また最近はヘイトスピーチを叫ぶデモを行う団体の代表が書いた『大嫌韓時代』や、韓国に罰を与えよと主張する『誅(ちゅう)韓論』など、とんでもない本がベストセラーになった。アニメーションなど文化関連の書籍を主に出してきた出版社も、最近は嫌韓書籍の発行に加わるようにもなった」



-嫌韓書籍を出す出版社はどのような立場を取っているのか。

 「彼らは口をそろえて『韓国にもそのような本が出ている』と強弁する。また嫌韓的な内容を何度も掲載するある週刊誌の関係者たちは『問題については理解しているが、販売部数を維持するにはやむを得ない』とも話している。私は韓国の出版社や書店について調べたが、反日をあおる刺激的な書籍は目につかなかった。率直に言ってこれには自分も驚いた。日本は今深刻な病気にかかっている」



-嫌韓書籍を購入しているのはどのような人たちか。

 「書店などの従業員に聞いたところ、50-60代の男性が主な読者層のようだ。嫌韓の内容を立て続けに掲載している週刊誌の読者層もこの年代だ。これに対して30代は逆に嫌韓書籍を批判する本を購入している。社会におけるナショナリズムや右傾化の雰囲気は、若い世代よりも中年層に深く浸透しているようだ」--(後略)--


『度が過ぎる嫌韓、深刻な病に侵される日本』  朝鮮日報 2014年10月6日より


朝鮮人にとっては、嫌韓本は確かに「危険」でしょう。

朝鮮人に都合の悪い事実が、日本中に知れ渡り、朝鮮嫌いがどんどん増えていくのですから。


嫌韓は「韓国五千年の歴史」という馬鹿なウリナラファンタジー、寿司も剣道も折り紙も科学技術も全部韓国発という馬鹿な「韓国起源説」などをはじめとして、南北朝鮮が国家をあげて行っている「日本軍性奴隷の捏造」などの詐欺行為=国際犯罪を指弾するものです。従って、嫌韓は、日本の国益にもかない、国際社会を朝鮮の犯罪から守るためにも重要です。


『50-60代の男性が主な読者層』ということは、嫌韓が、嫌韓女子やネット世代の若い層から、中高年男性にまで広がって、今や日本の常識だということの証左だと、私は思います。


さらに、嫌韓がメディアの重要なマーケットとして、これからも、燎原の火の如く日本から世界中に広がり、『朝鮮人』は、世界中から蔑視されていくと、私は思います。


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『事大』こそが朝鮮民族(ミンジョク)伝統芸:『ローマ人の物語』塩野七生で考える


南朝鮮企業の断末魔:鵜飼経済の『鵜』のなれのはて


在日朝鮮人の命運:3月3日のビートたけしのTVタックルより


香港で、民主派の街頭デモが起こっています。大陸と違って香港では、北京の独裁政権の基盤が弱いので、ここでの民主化運動は、本当の一般市民のデモなのでしょう。


軍事独裁で利権を貪る中共政府にとっては、民主化デモは頭の痛い問題でしょうが、日本国にとってはどうなのでしょうか?必ずしも、中共政府が民主化に舵を切ることが日本の国益によい影響を与えるとは、私には思えません

以下、マキャベリスト的な冷徹な視点から、中国の情勢を眺めてみます


少し前の記事ですが、産経新聞に面白い記事がのっていました。

中国が民主化すれば「1300万人死亡」「国家は30に分裂」 機関紙が一党支配正当化

産経新聞 2014.9.25 より


という記事です。李満長駐セルビア中国大使の論文の紹介をしています。



 中国共産党機関紙、人民日報のウェブサイト「人民網」は24日、中国が西側の多党制の政治制度を導入すれば2年以内に武装衝突が発生し1300万人以上が死亡、1億3千万人を超える難民が出かねないとする李満長駐セルビア大使の論文を紹介した。一党支配を正当化し、民主化の「危険性」をPRする内容。現役大使による根拠に乏しい論文には批判も出そうだ。

 論文は「西側の国は自由や人権の名の下に他国の内政に干渉している」と民主主義国を敵視。多党制を導入したアフリカや旧ユーゴスラビアは混乱に陥り、経済も低迷したままだと強調した。1990年代の旧ユーゴスラビアの民族紛争を引き合いに、中国で同様の事態が起きれば死者や難民が出る以外にも経済は20年後退し5千年の文明を持つ中国が、30を超える小国に引き裂かれる」と警鐘を鳴らした。

 多党制を許せば、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世らを支持する「過激組織が人心を惑わし、真相を知らない人たちをだます」と主張した。(共同)


中国が民主化すれば「1300万人死亡」「国家は30に分裂」 機関紙が一党支配正当化

産経新聞 2014.9.25 より



まず私は、中華人民共和国が民主化し言論弾圧を止め、自由と民主主義に方針転換すれば、中国大陸には清朝末期同様に地方軍閥が割拠し、さらにチベット・ウィグル・モンゴルなどが独立を図るなどで、混乱を極めると思います。


李満長駐セルビア中国大使の


「多党制を導入したアフリカや旧ユーゴスラビアは混乱に陥り、経済も低迷--(中略)--中国で同様の事態が起きれば死者や難民が出る以外にも経済は20年後退し--(中略)--小国に引き裂かれる


との主張は、全くその通りだと、私は思います。


なぜなら、米国が軍事力で無理矢理、民主化したアフガニスタンなりイラクなり、国家を破壊された中東は、アラブの春など一時の夢想に過ぎず、「イスラム国」の台頭に代表される混乱に陥っているからです。西欧的な民主主義の土壌がなければ、無理に民主化しても混乱するだけの話で、それは中共でも同じでしょう。


そして、中国大陸の民主化が招く、甚大な混乱は日本の国益に反すると、私は思います。


第一に、何より困るのは、軍の統制が緩んで、中共の『人民解放軍』の所有する核兵器が拡散してしまうことで、日本や大陸周辺諸国は勿論世界を甚大な危機にさらすことになる

第二に、大陸難民が日本に押し寄せてこられては非常に迷惑なわけで、これはイタリアなど西欧諸国と同様の深刻な移民問題が惹起する危険性が極めて高い

第三に経済的な問題で、大陸の混乱が日本経済に悪影響を起こす危険性も非常に高い


などの理由からです。


逆にいえば、核兵器がキチンと管理され拡散を未然に防止し、大陸難民が日本に来ず、経済的にも影響が無いようにすれば、中国大陸がどんなにメチャクチャになっても、日本の国益には反しません。

中共独裁政権の海洋進出などの反日政策が消滅すれば、かえって日本には都合が良いわけです。


しかし、そんなに日本の都合の良いようにコトが運ぶかというと、現実的にはとても無理です。


それでは、日本国として一番良さそうな状態は何かというと、中共の一党独裁の体裁をある程度保ったままで、適当に内部抗争を繰り返して、海洋進出など日本や周辺諸国にとって迷惑千万な行為をしなくなることのようです。

つまり、中共政府の支配層が利権を貪り権力闘争に夢中になり、中国国内で労農工などの内乱が適当に起こってくれて、チベット独立だのウィグル独立だのの騒ぎが今より大きくなってもらうのが、日本国にとっては都合がよい。


結局、日本国としては中共政府の一党独裁政権の無道を批難しつつも、実質的には体制維持に協力する。その一方で、建前上は「自由と民主主義」とか「人権重視」とかの、いかにも立派な大義をかげて国際世論に訴え日本内外の民間組織を利用して中共の民主化運動やチベット・ウィグルなどの独立蜂起などは裏でシッカリ支援して中国大陸がテキトーに混乱するように仕向けることが得策のようです。


そして何より大切なのは、日本に危害が及ぶ事案以外、中国大陸でどんな悲惨な犠牲が出ようが、日本国としては直接干渉しないことです。あくまで、中華人民共和国という「立派な国」の国内問題には日本国としては、原則無関心でいることが重要です。もちろん、チベットやウイグルなども中華人民共和国に含まれます。

勿論、繰り返しますが、口を出すことも一方では確かに大事で、「敵の敵は味方」ですから、「チベットの伝統文化を守り、民族浄化を絶対許すな」とか「ウイグル人の信仰の自由と人権を守れ」とか、真っ向から反対できない大義名分を並べ立てて、中共政府を責め立て、外交カードに使うことも忘れてはなりません。


中共政府の非道は断じて許せないと思う人は、日本国ではなくて個人で、どうぞどうぞ、自分の全人生をかけるなり、自分の命を捨てるなりご自由にすればよい。例えばチベット人のために自分の命を捧げたいと思うのならば、それはそれで立派なことだと思いますよ、どうぞご自由に。


勿論、個人個人が、人を思う心というのは、何よりも大切だと私は思います。

ただし、国家というのは個人とは全く違う原理・原則で動いているのも冷厳な事実です。

国家が大儀だの正義だの、人道・人権だのとキャンキャン吠え立てるのは、単なるプロパガンダに過ぎません。

例えば、米国は、ベトナム戦争でも自国の正義を掲げて戦いましたが、敗北し一時反省。しかし、自省というのは、『米国=お子ちゃま国家』には似合うわけもなく、米国は、正義を掲げて戦争するのが大好きなのです。それでどうなったか?米国は、中東でも『自由と民主主義』を掲げて、他国を侵略し破壊しました。アフガニスタン戦争ではタリバンが何かもわからずに殺しまくり、米国は結局ゲリラ戦に敗北。イラクではフセイン体制を倒したものの、統治機構を破壊したので、イスラム国の台頭を招くなど、混乱を招いたに過ぎません


歴史的な事実を正確に認識した上での教訓とは、何か、統治機構として独裁制が似合う国家もあれば、民主制がマッチする国もあるという事実。自国の正義を掲げて、無理に押しつければ、混乱しか招かないという冷厳な現実


そして話を中共に戻せば、中国大陸の歴史など、異民族が異民族を征服・支配する断続した個別王朝の歴史にしかすぎません。現在の中共政府の独裁体制は、古来からの征服・被支配の中国大陸の伝統に忠実なだけであり、民主化の土壌は皆無だと、私は思います。要するに、『中国人』の民度など、個別バラバラで古代そのままで、独裁以外に国民としてまとめるのは不可能なのです。

こんな国にとって、『自由と民主主義』など、「豚に真珠」どころか、国際社会の疫病神に他なりません。征服・被支配=軍事独裁こそが、漢民族の民度にお似合いの体制なのだと、私は思います。


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反・西部劇(前編):映画『タクシードライバー』(『真昼の決闘』の陰画)


米国の正義とその代償:アフガニスタン戦争とタリバン(9.11~開戦)


「中華思想」という勘違い:漢民族の奴隷根性と巧妙な支配体制(科挙・宦官)【前編】

塩野七生の 「朝日新聞の『告白』を越えて」(「文芸春秋」2014年10月号) の記事を書きました。
この記事には、私は感心しきりです。


特に日本人が『本音と建て前』にすることを、欧米人は『口に出して言うか言わないか』の違いがあるとの指摘に、思わず納得です。


以下、塩野七生の記事から別の部分を抜粋引用します。


 半世紀にもなるヨーロッパでの生活で、苦い現実でも直視することを私は学んだ。欧米人の多くには、口に出して言える考えと、口に出しては言えないが、胸の内では持っている想い、の二つがあることを学んだのである。
 建前と本音、とするのでは少しちがう。原理・原則である建前に対してはわれわれは、少しばかり距離を置くのに慣れているのだが、欧米人とはしばしば、建前と本音の双方ともを心から信じる人種でもある。だからこの二者のちがいは彼らにとって、口に出して言うか言わないか、にしかない
 それで、口に出して言える考えとは、彼らにとっては何か、だが、人道的に許せない、とか、異なる宗教を信じている人も認めるべき、とかである
 一方、口に出せないが胸の中では思っている想いとは、キリスト教徒、それも女子供が迫害されるのは許せない、であり、さらにこの人々が白人種であればならおさ許せない、である
 前者を知るには政府の公式発表や記者会見やマスコミの論調で充分だが、後者まで知りたければ、ネット上の意見なりフリー作家やジャーナリストの記事まで追う必要がある。



塩野七生 「朝日新聞の『告白』を越えて」より(「文芸春秋」2014年10月号) より


しかし、日本人のことを考えると、塩野七生の『原理原則である建前』については、私は少し不正確のように思います。以下、論じてみます。


日本人にとって、原理原則は、『人間関係を円滑にして過ごしたい・過ごすべき』であって、これは『建前』ではなく『本音』でしょう。『本音』では、「波風立てずに、穏やかに」と思っているだけですが、『建前』では「あなたのご意見はごもっともです、善処させて頂きます」とか心にもない、その場限りの言動で対処しようとするわけです。

これは、通常は非常に良い方法でしょう。なぜなら、日常生活レベルの現実というのは、当然ですがよくわかってるからです。

例えば、「人間はそもそも不平等で、体格も違えば、容姿も、得手不得手もある。生まれつき運動神経のよい人もいれば、自然にピアノがひける人もいる。美人もいればそうでない人もいる」と、いうような現実は誰もがわかっているわけです。

しかし、それをそのまま口に出すのは、『人間関係を円滑にして過ごしたい・過ごすべき』原理原則に反します。そこで『建前』が必要になり「人間は公平平等であるべきだ」などの社交辞令が必要になります。


こうした「公平平等」などの『建前』に対して、例えば、在日朝鮮人に


「人間本来は平等公平なものだと言ったではないか、在日朝鮮人にも平等な権利をよこせ」


とか、言われた日本人は泡を食うわけです。


『建前』で言ったつもりを「真に受けられて」は、日本人にとっては迷惑な話です。心の中では「現実は人間不平等だが、人間関係の円滑化」との原理・原則があるために、表面上は、建前を優先して「ごもっともですよね」とかで、その場をかわそうとする。それが、確執をさらに大きくする原因になっているようにも、私は思います。


しかし、『人間関係を円滑にして過ごしたい・過ごすべき』という日本人の原理原則が全く成り立たない事態が現実には起こります


そうした事態とは、不幸なことに、重大な緊急事態などです。例えば3.11東北大震災の原発メルトダウンや大東亜戦争のような国家総力戦などの前では、『波風立てずに、穏やかに接する』ための社交辞令などの『建前』はおろか、『人間関係を円滑にして過ごしたい・過ごすべき』などという日本人の『本音』原理原則など成り立たないのが当たり前です。


日常生活・平時においては、原発の事故対策にしろ、「波風立てずに、穏やかに」の『本音』原理原則ですから、原発の放射線量云々を住民からつきつけられると、科学的根拠もないにもかかわらずに『建前』では、「世界最高レベルの厳格な放射線量規制により住民の安全・安心を実現」したことにします。


しかし、原発事故などが起きれば、『建前』など、スグに吹き飛んで、『本音』も何の役にも立たない。なぜなら、原子炉は人間ではないので、物理法則に従うだけの話だからです。そして、原子炉のメルトダウンという冷厳な現実を突きつけられては、『人間関係を円滑にして過ごしたい・過ごすべき』などという日本人の原理原則は成り立たないので、呆然と立ちすくむしかないのが日本人の特性のようです。

結局、緊急事態にあっては、日本人は『思考停止』する傾向が強いように、私には思えます。これは、われわれ日本人の特性として、心しておくべきことだと、私は思います。

以下、思考停止について、『一下級将校の見た帝国陸軍』「死の行進について」(山本七平著)の概説をして、引用します。弊ブログ記事の抜粋転載です。詳しくは該当記事をご覧下さい。


 大東亜戦争当時、山本七平は砲兵少尉としてルソン島の戦闘に参加していました。部隊は前進したのですが、上陸してくる友軍部隊を連絡・支援するため、七平は部下の兵士とともに残され、ジャングルに潜みます。あるとき、友軍の歩兵部隊が上陸し、それからずっと遅れて、砲兵部隊がやって来ます。

日本軍の砲兵部隊は、馬匹曳行が主でした。3トンもある15㍉榴弾砲も6頭の馬で曳かせます。ところが、日本軍の輸送力では馬は運べず、比島には馬はいません。そため、兵隊が馬代わりになって、ジャングルの道を、大砲を人力曳行するわけです。勿論、大砲の砲弾だって人力で運ぶわけです。


勿論、補給能力を無視した不合理極まる行動ですので、軍事作戦としては、全く無意味です。そして、『思考停止』して、日本軍はそれを必死にやっていました


疲労困憊し幽鬼のようになった、友軍のことを顧みて、そして自分の戦闘経験から七平は語ります。



 そしてこの「思考停止」は、兵・下級幹部・上級者へと、いわば下から上へと徐々にさかのぼっていく
 なぜああなるのか、なぜ思考を停止せざるを得なくなるのか。「戦争とは結局そんなもんだ」ではない。今の今まで「絶対にやってはならない」と教えかつ命じていたそのことを、最後には「やれ」と命ずるから思考停止になる。否、そうせざるをえない、大は大なり、小は小なりに、すべてはそうでなかったか。これは「判断を誤った」ことと同一ではない。人は全知全能ではないから、判断の誤りはありうる。指揮官とて例外ではない。従って、それを批難しようと私は思わない。だが今の今まで「絶対にやってはいけない」と判断を下していたそのことを、なぜ、急に一転して「やれ」と命ずるのか--「戦闘機の援護なく戦艦を出撃させてはならない」と言いつつ、なぜ戦艦大和を出撃させたのか。相手の重砲群の壊滅しない限り突撃をさせてはならない、それでは墓穴にとびこむだけだ」と言いながら、なぜ突撃を命じたのか。「裸戦車(空軍の援護なき戦車)は無意味」と言いつつ、なぜ裸戦車を突入させたのか。「砲兵は測地に基づく統一使用で集中的に活用しなければ無力である」と口がすっぱくなるほど言っておいて、なぜ、観測機材を失い、砲弾をろくにもてぬ砲兵に、人力曳行で三百キロの転進を命じたのか。地獄の行軍に耐え抜いて現地に到達したとて「無力」ではないか。無力と自ら断言した、無力にきまっているそのことを、なぜ、やらせた。--戦艦大和の最後は、日本軍の最後を、実に象徴的に示している。出撃のとき、連合艦隊参謀の説明に答えた伊藤長官の「それならば何をかいわんや。よく了解した」という言葉。結局これが、その言葉を口にしようとしまいと、上級・下級を問わず、すべての指揮され、命令され、あるいは説明をうけた者の最後の言葉ではなかったか。あの晩、私の説明に対して、あの中尉も、心の中で言ったであろう、「それならば何をかいわんや。よく了解した」と。「後馬だけは絶対確保せよ」と教え続けた人間が、後馬なしで彼を放り出したのだから。


『一下級将校の見た帝国陸軍』・「死の行進について」(山本七平著) ライブラリP350より




今の今まで「絶対やってはならん」と言いつづけ教えつづけ主張しつづけたことを、なぜ、不意に一転して「やれ」と言えるのか。よく言われる「客観情勢の変化」は実は遁辞にすぎない。情勢はある一点で急に展開してはいない。それはむしろ発令者の心理的転回のはずであり、ある瞬間に急に、別の基準が出てくるにすぎない。それはむしろその人の内部の「二重基準」の問題であろう。そしてそれは、予備士官学校の教官の「精神力」と言葉への奇妙な遠慮に、すでに現れていた。


--(中略)--


 確かに、それまで言いつづけていたことが虚構で、それを主張した本人が自分でそれを信じていないなら、そしてそれで支障ないなら「どーってことない」であろうが、戦争は虚構ではない。だが、戦争以外の世界も、最終的に虚構ではない。その証拠に、もし次のようなことが起こったらどうするつもりか。いま多くの団体も政党もマスコミも、平和憲法は絶対守れと教えかつ言いつづけている。だが、私は過去の経験から、また「精神力への遠慮」に等しきある対象への遠慮からみて、その言葉を、それが声高であればあるほど信用しない。一番声高に叫んでいたものが、何やら、”客観情勢の変化”とかで、突然クルッと変わって、自分の主張を平然と自分で否定する。それが起こらない保証はどこにもない。それでよいのか。そのとき「それならば何をかいわんや。よく了解した」と言って、かつてのわれわれのように黙って「地獄の行進」をはじめるつもりか--方向が右であれ左であれ。その覚悟ができているなら、この問題はそのまま放置しておいてよい。憲法だけは例外だなどということは、ありえないから。



『一下級将校の見た帝国陸軍』・「死の行進について」(山本七平著) ライブラリP351より


そして、今の日本で『思考停止』の代表は何かというと、従軍慰安婦問題の誤報を30年以上も放置してきた朝日新聞であり、馬鹿げたイデオロギーにいまだにしがみついている左翼連中だと、私は思います。


【関連記事】


『思考停止』と『平和憲法』:(山本七平著)『一下級将校の見た帝国陸軍』より

 南朝鮮の大手新聞の中央日報が、塩野七生の慰安婦関連記事に、反日土民の性根丸出しの爆笑記事を書いています。

塩野七生は、大作『ローマ人の物語』などで、南鮮の反日朝鮮土民にも人気があるそうなので、反日朝鮮土民としては、塩野七生の従軍慰安婦捏造を指弾する、いわば『日本人としての当然の発言』が、大変なショックだったようです。

先に、塩野七生の記事を振り返って、中央日報の記事について考えます。


 該当の記事は、塩野七生の「朝日新聞の『告白』を越えて」(「文芸春秋」2014年10月号) という記事です。この記事の最後に附記を書を書き、塩野七生は、日本人に「苦い現実」を考えるべきだと苦言を呈しています。弊ブログから転載します。詳しくは、『塩野七生 「朝日新聞の『告白』を越えて」より(「文芸春秋」2014年10月号) 』をご覧下さい。


<附記>
 慰安婦という言葉を眺めながら、誰が名づけたのかは知らないが、ずいぶんと優しい名をつけたものだと思った。「慰安」を辞書で引くと、「労苦を慰めること」とある。それで従軍慰安婦ということばが日本以外の他の言語にあるのかと探したのだが、これに該当する語を見つけることはできなかった。従軍記者ならばあるのに、従軍慰安婦はないのである。ないからこそ英語に訳すとなると、「セックス・スレイブ」(性奴隷)となってしまったのだろう。しかし、「慰安婦」と「性奴隷」では、与える印象がずいぶんと違う。
 戦場での一日は、極度の緊張を人間に強いる。そういう一日の後で人肌恋しさのあまりに慰安婦のところに行ったのはよいが、女の胸の中で泣きじゃくっただけで時間切れになってしまった、若い兵士もいたのではないかと想像してしまう。人間は誰でも、同じようには出来ていない。だが、慰安婦を英訳したら性奴隷になってしまうのも、人間世界には数多くある「苦い現実」であることを、われわれ日本人も考えてみたらどうであろうか

塩野七生 「朝日新聞の『告白』を越えて」より(「文芸春秋」2014年10月号)


これに対して、反日朝鮮土民の記事は、次のように記しています。以下引用してコメントします。

なお、引用中の『(爆笑)』は、筆者の追記です。


新聞で紹介された日本の作家・塩野七生氏の文を読んだ。慰安婦という言葉を見ながら、とても「やさしい」名前だと思ったということだ。やさしさが、とても目についた。どんな単語が翻訳されたのかと見てみたら「やさしい」だった。極度に緊張した兵士が、緊張をほぐすために慰安婦のもとに行くというすぐに後の文章との脈絡を見ると、日本語の辞典『広辞苑』にある「情が深い」「親切な」の中の「情が深い」に近いようだ。

しかし考えただけでも人間ならばおぞましいに違いない存在を「愛情深い」と言うとは。こうした言葉は「旅の恥はかき捨て」ということわざまである日本人だけができる非人間的な言葉だ(爆笑)

塩野氏は、辞典で慰安を探すと「労苦を慰めること」であり、従軍慰安婦というのは日本の辞典だけにある言葉だという。当然のことだ。世界の戦争歴史上、従軍慰安婦を運営したのは日本だけではないのか(爆笑)

戦場での緊張をやわらげようと女性を探し求めるというのは世の中のすべての人が認める。問題は、大和撫子を自慢する自国の女性をさし置いて、よりによって植民地や占領地の女性たちを緊張解消のために動員したのかということにある。さらに情の深い日本女性を除外したのは、彼女たちが迎える運命が世界史に類のない性的奴隷(爆笑)であることを日本人当事者が知っていたからだ。

塩野氏は、従軍慰安婦という言葉がないから英訳すれば性的奴隷になるだろうが、慰安婦と性的奴隷が与える印象はかなり違うという。当然のことだ。性的奴隷は実体を赤裸々に明らかにした真実の言葉で、従軍慰安婦は犯罪を隠すために作った偽りの名前(爆笑)だ。

『【中央時評】「やさしい」従軍慰安婦だとは』 中央日報 2014年10月01日より  注)「(爆笑)」は筆者追記


さすがに南鮮の大手新聞社なだけに、反日朝鮮土民の性根むき出しで、


朝鮮戦争当時に南鮮政府が行った人権侵害に対する、

南鮮の米軍慰安婦訴訟を無視し

世界の戦争歴史上、従軍慰安婦を運営したのは日本だけではないのか(爆笑)」

公然とウソを書き


朝鮮人の戦時売春婦のことを

「世界史に類のない性的奴隷(爆笑)」

と、捏造し、

性的奴隷は実体を赤裸々に明らかにした真実の言葉で、従軍慰安婦は犯罪を隠すために作った偽りの名前(爆笑)」  

と、ウソをウソで十重二十重に上塗りした、妄言を吐いています。


続けて中央日報の記事では、


塩野氏は、女性の胸に顔をうずめて泣くばかりだった制限時間になって出てきた若い兵士もいるのではないかと想像するようになるとも話している。制限時間があったというのは、従軍慰安婦を日本軍が管理運営して彼女たちが性的奴隷だったという事実に対する明らかな証拠(爆笑)だ。

『【中央時評】「やさしい」従軍慰安婦だとは』 中央日報 2014年10月01日より  注)「(爆笑)」は筆者追記


と記していますが、 「制限時間があった」のは、

売春宿だった証拠です。なぜなら時間無制限では、商売にならないからです。


さらに、中央日報は見苦しい駄文を連ねて、下記で記事を結んでいます。


従軍慰安婦という言葉を使ってはいけないいくつかの理由がある。最初に、従軍慰安婦という日本語は日本だけにある単語だ。当然、清算されなければならない日帝の残滓だ。2番目、従軍といえば従軍記者・従軍作家など自発的に軍隊について移動した人々が思い浮かぶ。当然、自発性を含蓄している。だからこそ捨てなければならない。3番目、韓国の辞典で慰安婦は売春婦だと出ている。売春婦は自発的に性を売る売買の当事者だ。したがって奴隷ではなく自由人だ
--(中略)--

私たちは直ちに、戦時日本軍性的奴隷と名称を変えなければならない。当事者である女性たちは、奴隷という名前まで付けるのかとお怒りになるだろう。しかし賠償どころか謝罪さえしていないが、日本軍が制度的に性的奴隷を管理・運営した(爆笑)という事実だけでも知らせるべきではないだろうか。

参考までに、塩野氏の記事のすぐに後に平川祐弘・東京大学名誉教授の文がある。彼は、東京の売春婦とその恋人であるフランス兵長のためにラブレターの翻訳をしたと述べた後「私は日本の慰安婦にフランス大統領が謝るべきだとは思わない」と書いた。ラブレターまでやりとりする日本の売春婦と、悲劇的な戦時日本軍性的奴隷を区別できないのが大多数の日本人の意識構造のようだ。

イム・ジョンチョル ソウル大名誉教授(経済学)

『【中央時評】「やさしい」従軍慰安婦だとは』 中央日報 2014年10月01日より  注)「(爆笑)」は筆者追記


まさに、「売春婦は自発的に性を売る売買の当事者だ。したがって奴隷ではなく自由人だ」と、いうのが本当で、


「日本軍が制度的に性的奴隷を管理・運営した(爆笑)」

などと、ありもしないことを捏造するのは、南鮮の一新聞の犯罪とどまらず、南朝鮮という反日土民国家が犯している、国際的な詐欺という犯罪行為に他なりません。


南北朝鮮の国際的な犯罪行為を毅然として指弾し、反日の在日朝鮮人も含めて厳しい姿勢を示すことが、日本のためだけでなく、国際社会に対する日本の義務だと、私は思います。



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塩野七生 「朝日新聞の『告白』を越えて」より(「文芸春秋」2014年10月号)



 凶悪事件があると、ネットでは容疑者を根拠もないのに「在日朝鮮人」呼ばわりする、いわゆる『在日認定』が始まるそうです。確かに反日朝鮮人や反日左翼から『ネトウヨ』と尊敬されるブロガー(私もその一人らしいです)の中に、そういう類いの記事を書く人もいることは、私も知っています。

そして、容疑者が例え日本国籍をもっていたとしても、『純な日本人』ではなく、『帰化した在日朝鮮人』だの何だのの噂は絶えないことも事実のようです。


何故、凶悪犯罪の容疑者などが『在日認定』されるのかというと、理由は単純で誰が在日なのかわからない、区別がつかないからです。そして、普段から何となく怪しいと思っている(思い込んでいる)得体のしれない連中がいれば、凶悪犯罪がおきると、「やっぱりあいつらがの誰かが犯人だ」と思うのは、人間の性(さが)であることは、善悪は別として現実だと、私は思います。


そして、在日朝鮮人への『日本人のヒドイ差別』を訴える一方で『通名』を便利に使って、在日朝鮮人が都合よく姿をくらましているのでは、一部のブロガーが凶悪犯人を『在日認定』するのを止めることはできません。姿をくらますのは、諜報戦には有効でしょうが、社会問題解決には逆効果でしょう。


 一方で、『保守系』ブロガー攻撃の矛先は日本のマスメディアにも向けられていて、朝日新聞などが在日朝鮮人が犯人であっても、本名ではなく、通名(日本人名)で報道することも度々やり玉に挙げられます。

これは、朝日新聞などの通名報道という虚偽報道に怒るのは当然で、警察の公式発表を正確に報道しないことも『在日認定問題』を大きくしている原因だと、私は思います。


『在日認定』問題など、単なる噂話の一つであって大多数の日本人にとってはどうでもよい。自分が全く困らないし、そもそも関心が無い。指摘をされれば、「確かにそれは変ですね」くらいの反応はするが、それでは、問題解決につながらない。
「人の口に戸は立てられぬ」 という通りで、在日朝鮮人が通名のまま『在日認定』の無道を批難したところで、大多数の日本人の在日朝鮮人への嫌悪を増幅させるだけだと、私は思います。結局、在日朝鮮人が自分で解決する以外に方法は無いのでは。



 仮に『在日認定』問題を、在日朝鮮人が解決したいのならば、


第一に、在日朝鮮人が通名をやめて、常に毅然とした態度を示す。

第二に、民団・総連なども通名禁止を規約として徹底する。

第三に、在日朝鮮人がマスメディアの通名報道に断固抗議し、在日朝鮮人が犯人でも正確に報道することを要求する


などの方策をとることが必要だと、私は思います。


作家の高橋源一郎氏が、朝日新聞に面白い投稿をしていました。抜粋引用し、敷衍してみます。



2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルに2機の飛行機が突入した。イスラム原理主義グループによる同時多発テロだ。ベルリン滞在中のアメリカ人作家スーザン・ソンタグは、その2日後、このことについて意見を書き、テロから6日後に発売された雑誌に掲載された。ソンタグはこう書いている……まず、共に悲しもう。だが、みんなで一緒に愚か者になる必要はない。テロの実行者たちを「臆病者」と批判するが、そのことばは彼らにではなく、報復のおそれのない距離・高度から殺戮(さつりく)を行ってきた者(我らの軍隊)の方がふさわしい。欺瞞(ぎまん)や妄言はなにも解決しない。現実を隠蔽(いんぺい)する物言いは、成熟した民主国家の名を汚すものだ、と。


『(論壇時評)〈個人的な意見〉 「愛国」の「作法」について』
(高橋源一郎 朝日新聞 2014年9月25日より)



以下、在日朝鮮人向けの敷衍です。


「卑怯者」との批難は、『在日認定』する一部のブロガーよりも、『通名』を使いながら『在日認定』を騒ぎ立てる在日朝鮮人にふさわしい

差別撤廃を主張しながら毅然とした言動は一切できず、『通名』を都合良く使い分け、欺瞞や妄言を繰り返すからである。現実を隠蔽する物言いは、成熟した民主国家においては「卑怯」と指弾されるのだ、と。


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某左翼ブロガーの人が、福沢諭吉にふれています。

「朝鮮人とは関わり合いになるなという言葉だけが一人歩きして、いつのまにか福沢諭吉は極右のヒーローのようになってしまっています」(某左翼ブロガー氏)

とのことですが、それでは、福沢諭吉が実際に何を主張したのかを考えてみます。

『「反日」中国の文明史』で平野聡氏が非常にうまくまとめているので、引用します。

福沢諭吉の主張をわかりやすく説明したい。中国文明史上初の巨大な中央集権をつくった秦の始皇帝は儒学を排斥したものの、その後の諸帝国は上下秩序の専制支配のために、とりわけ「徳治」の名のlもとで権力と権威を独占するために、儒学を国教・国学化して人々に墨守させた。その結果、人々から多様性が失われて思想的な停滞が起こった。これが「惑溺」の境地である。
・・【中略】・・・
 さらに福沢諭吉『文明論之概略』は、儒学的な道徳支配における「偽君主」の問題を容赦なく糾弾する。「徳」は確かに、個人の内容を規律するものであり、欠かせないものである。しかし、それが支配の表看板となったとき、権力者はそれを口先で繰り返すのみで、むしろ全く徳を備えず、逆に批判を許さず残酷な統治を招いてしまう可能性が高い。それを避けるためには、外見上誰にとっても明らかな規範に則った透明な支配「すなわち法の支配」を、「智」によって構築する必要がある。そのためにも、多様な人々が「人間交際」を通じて「多事争論」の根拠を作り出すことが欠かせないと説く。。

『「反日」中国の文明史』(平野聡著 P100-)より


簡単に言えば儒教支配の全否定=朝鮮的価値観の全否定なんですよ。


儒教のいう『徳治』なるものの実態は、九族皆殺しなどが平然と行われている酸鼻を極めたシナ大陸の歴史であって、シナ大陸の征服民族に都合が良いので、歴代王朝が儒教を国教と定めたのに過ぎません。

特に留意すべきは、漢民族王朝の宋・明だけでなく、騎馬民族の王朝であった隋・唐(鮮卑族)、元(モンゴル人)、清(満州人=女真)の王朝でも儒教を国教としていた史実です。全く民族・言語・文化・風俗が違う征服民にとっても漢字圏の民族を支配するために儒教は非常に便利だったから、国教に採用したに過ぎないと、私は思います。


さらにいえば、福沢諭吉の主張は、儒教的な価値観をあがめ奉り、シナ王朝への事大することしかできなかった、朝鮮的な価値観の身も蓋もない全否定に他なりません。


『文明論之概略』について、松岡正剛氏が『松岡正剛の千夜千冊 文明論之概略 』で、秀逸な記事を書いています。
以下、抜粋引用します。

 さて、一身独立して一国独立となる。
 これが福澤諭吉の確信である。『文明論之概略』ではこのテーゼが一貫して語られる。本書だけではない。福澤は晩年にいたるまで「東洋になきものは、有形において数理学、無形において独立心」と書いていた。
 では、そんな東洋の、そのまた一隅の日本において、一身独立するにはどうするか。福澤は私の「徳義」を捨てて公の「智恵」を選ぶことを決断する。そもそも福澤は儒者を嫌って、これを「腐儒」とすらよんだ。儒学が門閥制度の温床になっていたからでもある。そこで智恵を得るには、そうした腐儒の狭隘なセクト主義から脱するためにも、「公智」が必要ではないかと推断する。個人の智恵ではなく社会的な智恵をつくるしかないのではないかという見解なのだ。ということは、徳義も私徳にとどまるようなものではあってはならないということになる。

松岡正剛の千夜千冊 文明論之概略 』より


私には、「福沢諭吉は極右のヒーロー」には思えませんが、福沢諭吉が反日朝鮮人や反日左翼にとって不倶戴天の敵であることは間違いないようです。


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『事大』こそが朝鮮民族(ミンジョク)伝統芸:『ローマ人の物語』塩野七生で考える

 塩野七生の「文芸春秋」2014年10月号の「朝日新聞の『告白』を越えて」という記事概要です。


 日本人必読の名文だと、私は思います。


 なお、ベージュの囲みが引用です。

 八月五日に新聞の二面全てを使って掲載された朝日新聞の記事、「慰安婦問題 どう伝えたか 読者の疑問に答えます」を一読して最初に浮かんできた想いは、「暗澹(あんたん)」であった。
これには現代日本の病理が凝縮されている、と感じたからである。
 第一に、この程度の、お粗末としか言いようのない検証、いや検証どころか簡単な裏付けさえも充分でない情報を基にして記事を書き、しかもそれが二十年という長期にわたって、日本のクオリティー・ペーパーと自他ともに認める朝日新聞の報道の支柱を成してきたという、日本人ならば笑うにも笑えない悲しい事実
 第二は、この程度のお粗末な報道にもかかわらず、自分達のほうでも独自にその真偽を検証し直す作業を怠ったばかりか、この報道に火を点けられて広がった他国での反日気運の高まりを眼にして動転し、自分たちの行為が以後の日本にどれほどの悪弊をもたらすかも考慮せずに突っ走った、これまたお粗末としか言いようのない日本政府の対応の数々。
 そして最後は、権力についてはくり返し批判するのに権威にはすこぶる弱い、われわれ日本人の性向である。あの朝日が書いていることだからと疑いもせずに、二十年にもわたって朝日新聞を購読してきたのだから。

(注)マスコミの記事捏造は南京事件関係の「百人斬り競争」でも大問題になっています。


そして、塩野は、「朝日の”告白”は絶好のチャンスになる」とし、


 私には、ことが起こった場合に犯人をしつこく糾弾したり彼らに謝罪を求めつづけるということに、さしたる興味が持てないのである。それよりも、これによって生じた「マイナス」にどう対処すれば「プラス」にかえられるか、のほうに関心が向いてしまうのだ。慰安婦問題も、この方向で話を進めていきたい。

と論を続けます。

さらに次章の「有能な弁護士ならば」では、


問題は、「強制連行」と題された項目である。・・・・(中略)・・・・「93年以降、朝日新聞は強制連行という言葉をなるべく使わないようにしてきた」のだ、と。それで見出しも、「強制連行はあった」ではなく、「強制性はあった」としたのだろう。
 だがこの二語のちがいなど、有能な弁護士ならばただちに論破するにちがいない。女たちは慰安所に、胸中の想いはどうあろうと、自分の足で行ったのですね、となるのだから。連行を辞書は、「連れて行くこと」と説明している。


 この一言で、朝日の強弁は、見事粉砕されてしまいます。

 さらに、塩野は続けます。歴史作家ならではの見事な文章です。


 だが私は、考え込んでしまった。元慰安婦たちの聴き取り調査を行ったときうことだが、当事者本人の証言といえども頭から信ずることはできないという人間性の現実を、調査しそれを基にして記事を書いた人は考えなかったのであろうか、と。
 人間には、恥ずかしいことをしたこととか悪いことをしたとか感じた場合には、しばしば、強制されたのでやむをえずやった、と言い張る性向がある。しかも、それをくり返して口にしているうちに、自分でもそうと信じきってしますようになるのだ。だからこそ厳たる証拠が必要なのだが、この種の性向は、教育の有無に関係なく社会的地位の上下にも関係なく起こる。人間とは、かわいそうなほどに弱い存在なのである。だから、彼女たちにくり返して質問をぶつけても、それ以上の事実はでてこなかったろう。泣き叫ばれるか、馬鹿にするなと怒り狂われるかして、終わっていた可能性のほうが大きい。
 しかし、だからといってそれを基にした記事を書く側は、「『元慰安婦に寄り添い、気持ちを深く理解する』とし、裏付け調査なども行わなかった」では済まないのである。対象に寄り添う暖かい感情をもつと同時に、一方では、離れた視点に立つクールさも合わせ持っていないと、言論で生きていく資格はない。なぜなら、対象に同情しすぎることは、問題のすり替え、つまり、読む人の関心を別の道に誘導してしまうことになりかねないからである


そして塩野は具体的な提案をします。

「欧米を敵にまわしてはいけない」「元オランダ軍兵士の存在」は省略します。文芸春秋2014年10月号を読まれることをお勧めします。

最終章は「うみを出し切る勇気」です。


・・・・(前略)・・・・
 とはいえ、朝日の"告白"から始まったこの事件を外国の、それもとくにアメリカ合衆国の空気の流れを変える好機にできるか否かは、われわれ日本人にかかっているのは言うもでもない。つまり、国政担当者にもマスメディアにも日本人全体にも、「うみを出し切る勇気」があるかないか、にかかっているのである。
 それにはやはり、この機に臨んで正々堂々と対処するのが、短期的に見ても長期的な視点からも、最も有効な方策と思う。
 それは、関係者全員の国会への招致だ。そして、そこでの展開の全ては公表し、国会中継と同じやり方でテレビでも放映する。
 報道の自由の侵害だ、という声が起こるかもしれない。だが、起こすほうがまちがっている。 自由には、常に責任が伴う。言論の自由とは、言論上の責任は負わなくてよい、ということとはイコールではない。言論を使っていきている以上、刑事上の責任は問われない場合でも、道義上の責任まで逃れることは許されないのである
・・・・(中略)・・・・
 しかし、「うみを出しきる勇気」は、自民党に対しても求めたい。なにしろ話は、官房長官時代の加藤紘一にまでさかのぼるのである。ゆえに、これ以降の自民党の有力者たちの多くも招致の対象になりうる。国会には、物故者を除く全員を招致するくらういの覚悟が必要だ。
 国会に招致されることで朝日新聞も傷つくだろうが、自民党も傷つくのである。だが、朝日側が朝日の人間であることを忘れ、自民党の側も自民党の有力者であったことを忘れてこそ、ほんとうの意味での「うみを出しきる」ことができるのではないか。
 何のために?両者ともが、信用の回復のために。
 そしてこれもまた、戦後レジームからの脱却、の一つになりうるとさえ思っている。


そして、<附記>が秀逸です。


<附記>
 慰安婦という言葉を眺めながら、誰が名づけたのかは知らないが、ずいぶんと優しい名をつけたものだと思った。「慰安」を辞書で引くと、「労苦を慰めること」とある。それで従軍慰安婦ということばが日本以外の他の言語にあるのかと探したのだが、これに該当する語を見つけることはできなかった。従軍記者ならばあるのに、従軍慰安婦はないのである。ないからこそ英語に訳すとなると、「セックス・スレイブ」(性奴隷)となってしまったのだろう。しかし、「慰安婦」と「性奴隷」では、与える印象がずいぶんと違う。
 戦場での一日は、極度の緊張を人間に強いる。そういう一日の後で人肌恋しさのあまりに慰安婦のところに行ったのはよいが、女の胸の中で泣きじゃくっただけで時間切れになってしまった、若い兵士もいたのではないかと想像してしまう。人間は誰でも、同じようには出来ていない。だが、慰安婦を英訳したら性奴隷になってしまうのも、人間世界には数多くある「苦い現実」であることを、われわれ日本人も考えてみたらどうであろうか



なお、朝鮮日報は塩野七生の記事を悪意に満ちた部分引用をしていることを最後に付け加えておきます。


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南京虐殺の虚妄は、とっくの昔に証明されています


最近『本澤二郎の「歴史の真実」(中国吉林省公文書館資料シンポ)社会科学院主催』とやらで、関東軍の資料が見つかったとか主張している輩も出てきているようです。資料が出てきたのなら、資料自体の真贋を含めて精査すれば良いだけのことです。


資料を調べれば中共軍事独裁政府のウソが明らかになるので、非常に良いことだと、私は思います。

なお、中国の一般民衆は日本人の友であり、日本の敵は中共軍事独裁政府関係者だけです。日本人は、中国の人々と手を取り合って、共通の敵である、習近平など中共軍事独裁政府に毅然と立ち向かうべきだと、私は思います。


南京虐殺の虚妄について、山本七平の論証を紹介させて頂きます。

以下引用します。



『山本七平botまとめ/【「時代の論理」による殺人①】/「南京大虐殺」という”まぼろし”を打ち上げた背景』より

http://togetter.com/li/404853


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前略~だがここで考えねばならぬ事は、当時こういう事をしていたのは浅海特派員だけではなかったという事実である。大本営も新聞社も、皆いわば大がかりな様々の「百人斬り競争」を報道して国民を欺いていた。私が最初に「一読して唖然とする事実」につきあたったといったのはその事である。


というのは「南京城総攻撃」「大激戦」「城頭高く日章旗」等々はすべて嘘で「南京入城」は実質的には「無戦闘入城」いわば「無血入城」であったという驚くべき事実を、自らそれと気づかずに鈴木特派員がのべているからである。<『私の中の日本軍』


本多勝一氏の記す「十万の中国軍(国府軍)」が、二万の日本軍を恐れて戦わずして一斉に逃げ出したなどというのは全くばかげた話で、十万といえば約六個師団だが、本当に中国側に六個師団もの兵力があり…市街に拠点を設けて市街戦を行いつつ別働隊が背後を絶てば、逆に日本側が全滅してしまう。


実際は、日本軍が突入した時、中国軍はすでに撤退を完了して、例によってもぬけの殼だった筈である。私は前から「十二日正午突入」「十七日入城式」というスケジュールが非常に不思議であった。特に井軍司令官が乗馬姿で入城式を行なったことは、何ともいえず奇妙に感じていた


というのはこれくらい格好な標的はないからである。従って有能な狙撃手3名と…シュコダ製スナイパー付狙撃銃3挺があれば六百から八百の距離で「ダラスの熱い日」は確実に再現できる。妙な言い方だがこれは私にだってできるからである。更に潜入は「ジャッカルの日」よりもはるかに容易い筈である


一方日本側にしてみれば、入城式に軍司令官が射殺されたとあっては大失態で、完全な面目失墜であり、第一、参謀長以下、大変な責任問題になる。さらに入城式は作戦行動ではないから、相手から強制されて、ダメとわかってもやらざるを得なかったということではない


従って、危険をおかしてやる必要はないし、まして突入から五日目にやらねばならぬ必然性は全くない。「おめでたい日」を選ぶとすれば、もう二週間後に迫った一月一目などは、入城式祝賀をあわせ行うのに絶好の日のはずである。大体日本軍はいつもそういうやり方をやってきた。


「紀元節反攻」とか「天長節総攻撃」とかは、いわば「敵にすべてを予知される」まことにバカげたお家芸のようなものだから、ちょっとでも危険を察知すれば「一月一日入城式」という発想になるのがごく普通なのである。


従ってこの絶好の「名目」が目の前にあるのに十七日にやったということは、同日でも「絶対安全」という自信があったからにほかならない。いつこの自信を得たのか、もちろん十七日ではない。

先日会田雄次氏にお会いしたとき、「十七日に入城式を行う」と参謀長が決心したのは何日であろうか、が話題になった。敗残兵という言葉があるが、戦場の兵士はすべてドロドロでボロボロで、垢まみれ髭だらけであって、その風態はみな敗残兵そのままである。


これを威儀を正したパレード用になおすには、兵器手入・靴手入・被服補修等々を含めて、どれくらい時間がかかるかが問題になったが、結局、どんなに急いでもマルー日はどうしても必要である(会田氏は一日では無理と判定されたが)という結論になった。

戦場には灯火がないから――これがどういうことか、今の人にはちょっと実感としてはつかめないであろうが――ギリギリの線で十五日夜には、入城式に関する命令が発せられない限り、十七日の挙行は不可能である。


ということは十四日夜には参謀会議、司令官決断で、翌日にはパレード部隊の編成、城内警備用の配備計画、城外への奇襲防止のための配備等々、万遺漏なきよう計画を立案し、夕刻か夜には「命令受領者集合!」を各部隊に呼びかけねばならない。そして十五日配備完了、十六日準備となる筈である。


これを可能にするには、十三日にあらゆる情報を総合して、ほぼ大丈夫という予想が立てられねばならない。すると、十二日正午突入で十三日夜平穏ということになるわけだが、これでは戦闘する暇も虐殺する時間も死体を片づける時間もない筈なのである。


というのは城門を突破してから、城内の全域を無戦闘で掌握し、治安を確保するのだって、一日や二日はかかるのが普通だからである。しかも日本軍は、移動は二本の足である。大体、戦闘があったのなら、城内の一角にとりついてから、全市を掃討するのに一週間や十日かかるのがあたりまえである。


あの圧倒的火力をもつアメリカ軍が、マニラの一角に突入してから全市の日本軍を掃討するまで三週間かかっている。しかもマニラは、障壁となりうるような建物が非常に少ない町である。煉瓦の壁と土嚢で守ることが可能な南京とは全く違う町でもそれくらいかかる。

従って十二日正午突入、十七日入城式なら、これは戦闘がなかったものと考えねばならない――どう考えてもおかしな話だ、これが私の実感であった。

 塩野七生の記事が南朝鮮のマスコミをビビらせています。
 「文芸春秋」10月号の「朝日新聞の『告白』を越えて」という記事です。

 塩野七生は、『ルネサンスの女たち』『優雅なる冷酷』『ローマ人の物語』などでリアリズムの極致をいく歴史作品で著名です。そして、何と朝鮮人にも人気があるのは以前から知っていました。しかし、野七生の筆致と朝鮮人のウリナラ・ファンタジーの余りのギャップの大きさに呆れ果てていました
 
 マキャベリストを自認する塩野七生の日本人として日本人に対する「文芸春秋」での見事な応援メッセージは心強い限りです。


 一方で、これが南朝鮮のマスコミには塩野七生の記事が余程こたえたらしいです。以下、記事を抜粋引用します。コメントなどは別記事で書くつもりです。


------- 以下:南朝鮮新聞の関連記事抜粋引用のみ -------


【東亜日報】 塩野七生の歪んだ慰安婦認識 SEPTEMBER 15, 2014 08:54
http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2014091540158
韓国でもベストセラーになった「ローマ人の物語」の著者、塩野七生氏(77)も加勢した。塩野氏は、保守月刊誌「文芸春秋」10月号に、「朝日新聞の『告白』を越えて」という論考を寄せ、「朝日の告白は絶好のチャンス」と主張した。慰安婦誤報を機に日本は(国際的孤立の)危機から抜け出さなければならないということだ。


【中央日報】【コラム】塩野七生の「絶好のチャンス」 2014年09月18日10時33分
http://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=190211&servcode=100&sectcode=120
塩野七生(77)は刺激だ。その感情は極端を行き来する。彼女は『ローマ人の物語』 『わが友マキアヴェッリ』を書いた。その作品は魅力だ。塩野は日本軍慰安婦について書いた。その文章は嫌悪だ。日本の雑誌『文芸春秋』(10月号)への寄稿だ。


【朝鮮日報】 慰安婦:塩野七生氏「繰り返せば自ら信じるようになる」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2014/09/12/2014091203765.html
韓国にも読者を多く持つ日本人作家の塩野七生氏(77)が旧日本軍の従軍慰安婦強制動員を否定する文章を月刊誌「文藝春秋」に寄稿した。塩野氏は1964年にイタリアに渡り、独学でルネッサンスやローマ史を研究した。『ローマ人の物語』『わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡』など多くの歴史書を著しており、韓国でも翻訳・出版されベストセラーになった。

 同氏は元慰安婦の証言について「人間には、恥ずかしいことをしたとか悪いことをしたとか感じた場合には、強制されたのでやむをえずやった、と言い張る性向がある」「それをくり返して口にしているうちに、自分でもそうと信じきってしまうようになるのだ」と主張した。また、「だから、彼女たち(元慰安婦)にくり返して質問をぶつけても、それ以上の事実は出てこなかったろう。泣き叫ばれるか、馬鹿にするなと怒り狂われるかして、終わっていた可能性のほうが大きい」とも書いている。


【関連記事】

塩野七生 「朝日新聞の『告白』を越えて」より(「文芸春秋」2014年10月号)