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『反日中国の文明史』という本が書店で目についたので買ってみました。

著者の平野聡氏がどういう思想の持ち主かは、要注意という感じで読み始めました。

まだ、読了していませんが、中国大陸史・朝鮮半島史の基礎知識がある人には、よくまとまって読みやすいと思います。


以下引用し、Fugenこと私が、独自に解釈して記事にしました。

『反日中国の文明史』の著者の平野聡氏の主張と大幅に異なる点があるだろうことを始めにお断りしておきます。


例えば、この本では儒教の説く『易姓革命』について説明しています。

仰々しい言葉ですが、『易姓革命』とは、簡単に言えば、『正義は勝つ』という、征服者には非常に都合の良い、極めて子供じみたバカバカしい儒教の教えです。


本書の内容をみてみましょう。


【引用開始】<<


 騒乱が起こるということは、儒学が目指す調和がかき乱された状態を意味する。では「それは決して許されない、いかなる不満があっても下の者は上下関係を守らなければならない」と考えるべきなのか。答えは否である。何故なら、社会の乱れの根本は、君主が「天理」をわきまえず、自らと世の乱れを放置したという不徳によるからである。そのような君主は既に君主としての資格=「天命」を失っているので、武装反乱で排除されるのは当然ではないか。

 したがって、反乱を起こした人間は失敗する限り反逆者であるが、反逆の成功自体、「天命」が自らの側にあることを示す何よりの証拠であり、その瞬間から反乱の指導者は新たな聖人君子となる。「正しい乱」とは許されるし、天の意志にかなう。

 このような反逆の過程と論理を「易姓革命」という。天が命を革め、聖人の姓を易える、という意味である。したがって、聖人君子の支配に於いては、必要とあらば武力も当然肯定されるし、易姓革命で生まれたあらゆる王朝の指導者には血なまぐささが漂うことは否めない。


>>【引用終了】反日中国の文明史』P43より


 繰り返しますが、簡単に言えば、誰であろうと勝ちさえすれば聖人君子というのが儒教の考え方なのです。

『聖人君子だからという理由で勝利という結果になった』というのが儒教の教えなのです。しかし、実際は『勝ったという理由で聖人君子とされる結果になった』というのが当然のことです。

征服者に都合がいいのが儒教なのです。


また、漢人・漢民族の滅亡と騎馬民族による漢字の普及についても本書ではふれています。なお著者の平野聡氏の考えは、私にとっては下らないので省略しています。


【引用開始】<<

 そもそも、洛陽周辺=中原の地を振り出しに「華夏」の甲骨文字・漢字文明が興った当初、その範囲=中原はきわめて狭かった。今日の中華人民共和国の約半分近くを占める漢人地域のほとんどは「夷狄」の世界であった。しかし、周囲の「夷狄」が漢字と「礼」に憧れて以来漢字は広がり、さらに秦・漢といった帝国が漢字を使う諸国を統一し、漢においては儒学が正式に国家の学問となったことで、漢字の社会的影響力も圧倒的なものになった。

 ところが、このような漢字の共有によって拡大した古代の漢人社会は、いったん滅亡に近い打撃をこうむった。黄巾の乱(184年)の極端な破壊により、漢の時代の人口五千数百万人は1千万人以下に激減し、その荒涼とした風景の中に出現した五胡十六国は、その名が示す通り、北方の騎馬民族由来の国家だったからである。今日の漢人のうち、華北に住む人びとの体型がモンゴル人などに近い大柄・丸顔であるのはこのためである。

 とはいえ、漢字そのものは死滅しないどころか、むしろ新たな生命力を発揮した。これら北方の「夷狄」が入り乱れる中で、各地ごとに元の騎馬民族の言語の影響を受けた発音で漢字を読み、共通の文書行政用語として流通させたからである。この流れのうえに隋・唐帝国があらわれ、空前の「盛世」をつくった。

--(後略)

>>【引用終了】反日中国の文明史』P51より

漢帝国が滅亡後、激減した農耕民の漢民族の土地は、北方騎馬民族によって征服されます。

勿論、農耕民の漢民族は北方騎馬民族に支配されます。


ところで、騎馬民族の財産は何でしょうか?馬や羊などの家畜です。

騎馬民族は、家畜の飼育が上手なのです。常識ですね。


漢民族を支配下においた、騎馬民族は何をしたかといえば、農耕民を家畜化したのです。激減した人口を増やしたのです。

自分の支配下の土地を肥沃な農耕地にして収奪するために、漢民族を養鶏所のニワトリのように増やすわけです。勿論ニワトリ(=農耕民)を増やして養鶏所(王国)を大きくすればするほど儲かります。そうやってできたのが、騎馬民族の鮮卑族の王朝である隋・唐帝国です。


家畜の飼育に秀でた騎馬民族は、漢民族の家畜化にも巧みでした。

漢民族を養鶏所のニワトリのように肥育する道具として、漢字や儒教を使ったのです。


上記に引用したように、騎馬民族の言語の影響を受けた発音で漢字を読み、共通の文書行政用語として流通させ

誰であろうと勝ちさえすれば聖人君子(=易姓革命)という征服者には都合の良い、儒教を漢民族に広めたわけです。

儒教は、漢民族にとっても好都合でした。何しろ聖人君子が王様なのですから、支配されて当たり前です。そう考えれば、漢民族の自尊心は傷つきません。コッコ・コッコと嬉しそうに鳴きながら、喜んでエサをつついているニワトリを思い浮かべればよいのです。


 さて、『反日中国の文明史』を振り返りましょう。儒教の本質について記している部分を引用します。


【引用開始】<<

 では、人間関係を保つための根本的な秘訣は一体何であろうか。答えは簡単。あらゆる人間、そして生霊が、すべて親から生まれ、やがて子を産むことを考えれば、上下関係を厳しく保つことが最も重要である。上下関係は、家族のみならず主君と家臣・先輩と後輩など、社会の様々な場面にあまねく存在するが、これらも血縁関係と同様に上下関係としてとらえ、上のものが下を慈しみ、下の者が上を敬うならば、誰もが安心と満足を得ることはいうまでもない。修身・斉家・治国・平天下。何と素晴らしい上下関係の予定調和であろうか

>>【引用終了】反日中国の文明史』P41より

儒教の説く、素晴らしい上下関係の予定調和があれば、養鶏所のニワトリは本当に幸せそのものだと、私は思います。


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清の雍正帝の明るい『文字の獄』と中華思想:『紫禁城の栄光』より

 司馬遼太郎は、私にとっては、『明治を無邪気に賛美し、昭和を貶める』幼稚な歴史観の持ち主なのです。しかし、司馬作品を読むと、司馬は結構リアリストのようです。例えば『項羽と劉邦』ですが、試しに『司馬遼太郎 項羽と劉邦 食わせる』でググったら記事がヒットしましたので、引用させて頂きます。


e-徒然草 』様の記事です。


【引用開始】<<


(誰でも知っている)楚の項羽を破って漢帝国を建てる劉邦の物語を司馬遼太郎が書くとこなるという小説。
 「食う」ということが権力を成り立たせている。「この大陸にあっては、王朝が衰えるとき、大陸そのものが流民の坩堝になってしまう。流民のめざすところは、理想でも思想でもなく、食であった。大小の英雄豪傑というのは・・・流民に食を保障することによって成立し・・・能力のある英雄のもとには五万十万という流民ー兵士ーがたちまち入りこんでしまい、一個の軍事勢力を形成する。二十万五十万といったような流民の食を確保しうるものが世間から大英雄としてあつかわれ、ついには流民から王として推戴されたりする。」
 当時の中国中原で覇権を争うということはこういうことかと、即物的ではあるが納得する。その典型が栄陽での戦いであろう。項羽襲撃に泡をくった劉邦は(この物語では、劉邦にとって項羽は常に恐怖の対象でしかない)城を捨てて秦の糧秣庫に柵を築き籠城してしまう。兵站といった戦略ではなく、作者に云わせれば、ゴロツキ時代から常に飢え、兵に食わせることを第一に戦ってきた劉邦の「地」であると。


>>【引用終了】e-徒然草 』様の記事より


それでは、リアリストの司馬遼太郎にとって、大東亜戦争当時の帝国陸軍とは、どんな軍隊だったのでしょうか?司馬は、『歴史と視点』で珍しく従軍体験を記しています。引用してみます。


【引用開始】<<


ノモンハン以後の日本の主力戦車である九七式中戦車であった。略称をチハ車といった。この戦車は、もし戦争に参加しないとすれば、皮肉ではなく同時代の世界で最優秀の機械であったようで、戦後の評価もそうなっているらしい。他の国の戦車のようなガソリン・エンジンでは火焔ビンを投げつけられれば簡単に燃えるために、ディーゼル・エンジンを採用したところに新味があった。
ただこの戦車の最大の欠陥は、戦争ができないことであった。敵の戦車に対する防御力も攻撃力もないにひとしかった


「戦車であればいいじゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂でおぎなう。それに薄ければ機動力もある(厚くて機動力をもつのが戦車の原則)。砲の力がよわいというが、敵の歩兵や砲兵に対しては有効ではないか(実際は敵の歩兵や砲兵を敵の戦車が守っている、その戦車をつぶすために戦車が要る、という近代戦の構造をまったく知らなかったか、知らないふりをしていた。戦車出身の参謀本部の幹部は一人もいなかったから、知らなかったというほうが、本当らしい)」


理由は、金も資源もないのにただ一個の強烈な幻想だけで海軍は英米二国と比肩しようとし、陸軍はソ連と比肩しようとしたからで、世界史上、これほどすさまじい背伸びをした国家はなかった。日本の戦車という、この戦争機械の面においても、日本人の惨澹たるもだえと優秀さと変に雄大?なところと浅はかさとがよくあらわれている


戦車が南下する、大八車が北上してくる、そういう場合の交通整理はどうなっているのだろうかということであった。
しばらく私を睨みすえていたが、やがて昂然と、
「轢っ殺してゆけ」
と、いった。
同じ国民をである。われわれの戦車はアメリカの戦車にとても勝てないが、おなじ日本人の大八車を相手になら勝つことができるしかしその大八車を守るために軍隊があり、戦争もしているというはずのものが、戦争遂行という至上目的もしくは至高思想が前面に出てくると、むしろ日本人を殺すということが論理的に正しくなるのである。


>>【引用終了】『歴史と視点 戦車・この憂鬱な乗物』司馬遼太郎著 より


要するに、戦車兵だった司馬にとっては、帝国陸軍は全く間尺に合わない不合理極まりない組織であり、余りに馬鹿馬鹿しく愚かで悲惨な組織だったと私は思います。なぜなら、戦車という機械同士の戦闘には、兵器としての優劣で勝敗はほぼ決してしまい、気合いだの大和魂だのが入り込む余地がほとんどないからです。技術的な合理性で勝敗が決してしまう、戦車兵・砲兵などの発想は合理的になりやすい。その目で見ると、兵器として役に立たない戦車を作るなど、リアリストの司馬遼太郎には耐えられなかったのでしょう、何しろ戦闘になればほぼ確実に、死ぬのはわかっているのですから。

何しろ日本軍の97式戦車は47mm戦車砲です。対する、米軍のM4シャーマン戦車は76mm戦車砲です。火力の差は数倍以上にもなるので、最初から勝負になりません。そんなことは、帝国陸軍の戦車兵の常識でしたが、誰も指摘はしない。戦車の運用も考えていない。司馬は結局実戦経験をしないまま、終戦を迎えるのですが、大日本帝国陸軍の組織的欠陥は終生腹に据えかねた。その怒りなり怨念なりが、司馬に膨大な作品を書かせたのだと、私は、思います。


司馬にとって、自分が従軍した昭和の日本軍が、なぜここまで馬鹿なことをするのかが決してわからず、明治の日本軍がみせた日清・日露の軍事的合理性とは余りにもギャップが大きすぎた。結局司馬には、明治時代は見事なだったハズの日本人が、昭和になると発狂状態になったとしか思えなかったのだと、私は感じます。


そして、日本人として決して忘れてはならないのは、大東亜戦争を経験した大多数の日本人も司馬遼太郎と同様に、大日本帝国の軍隊の余りの不合理性・非常識ぶりに心底愛想が尽きたのだと、私は思います。


別の記事『なぜ日本人は「反軍」になったのか?:今の日本人にとって大事なこと 』にも書きましたが、


大東亜戦争の日本人の体験は、以下のようなものだと、私は思います。


・無敵皇軍のハズが、米軍に圧倒され無残に敗北した。
・インパール、ガダルカナルなど多数の戦線で、補給を無視した馬鹿げた作戦により多くの皇軍将兵が餓死・病死をした。これでは将兵本人も遺族も浮かばれない。
・東京大空襲、広島・長崎の原爆投下で、日本人が米軍の大量虐殺の憂き目にあっているにもかかわらず、帝国軍は何もできず、ズルズル戦争を長引かせた。
・敗戦直後、精強だったはずの関東軍は、外地の日本人を置き去りにして、日本人保護の義務を放棄した。
 (満蒙の根本将軍、北海道の樋口将軍は例外的に見事に義務を果たした)
・武装解除に従った皇軍将兵は、シベリア抑留など塗炭の苦しみを味あわされた。
・東京大空襲などの主体になった、米空軍の爆撃機B29などで、一般の日本人も日米の科学・技術・物量の圧倒的な格差を身をもって体験した。
・敗戦後、米軍・米国の経済力に圧倒的な格差を身にしみて感じた日本人は、開戦したこと自体を狂気の沙汰と思うようになった。


そして、 「戦争はイヤだ」「軍隊はいらない」というのが、大東亜戦争を経験した日本人の大多数が抱いた実感だと、私は思います。


 実体験にもとづいて得た実感ほど強いものはありません
 「国防のために軍隊は必要」などは、いくら正しいリクツでも所詮はリクツに過ぎず、「戦争も軍隊もコリゴリ」という実感には勝てません


それ故に、司馬遼太郎のは多くの日本人の琴線ふれ、作品に共感する日本人が多く、司馬は国民作家になったのではないでしょうか。


無敵皇軍などと帝国陸海軍を無批判に持ち上げるのは、絶対日本人がやるべきことではありません


司馬のように、昭和の軍隊は発狂していたと単純に処断するのは、歴史から何も学べず、歴史軽視に他なりません


敗戦から教訓を得ることが、日本的な短所にも正面から向き合うことこそが、次の戦争で勝利することになるのです。これこそ、英霊への真摯な祈りにつながると、私は思います。


【関連記事】


リクツよりも実感:司馬遼太郎がなぜ国民作家になったのか(前編)


なぜ日本人は「反軍」になったのか?:今の日本人にとって大事なこと


 司馬遼太郎は、『坂の上の雲』など多くの歴史小説のベストセラーを産み、日本の国民作家とされてきています。しかし、司馬遼太郎、昭和時代を狂気の時代と断罪し、明治時代を素晴らしい開明の時代として賛美するなどという点で、歴史家としては非常に幼稚だというのが私の印象です。なぜなら、断罪・賛美に基づく歴史観などというのはプロパガンダの一種に他ならず、事実に基づいてできる限り客観的に歴史をみるべきだという私の基本姿勢と違うからです。


そのため、いわゆる司馬史観を私は全く評価しません

しかし、なぜ国民作家になったのかが合点がいかず、何か非常に収まりの悪さを感じているのも事実です。


 司馬史観に批判的な方はいるようです。例えば、下記のブログ記事で、甘口辛口氏が、『司馬遼太郎の「張り扇史観」』 で記していることを引用してみます。


 注)リンク先のブログ主様のHN・プロフィールが、私にははっきりわかりませんでした。

   『ブログ「甘口辛口」の全リストhttp://tao.matrix.jp./kaze 』とあるので、本記事では、甘口辛口氏と記させて頂きます。

【引用開始】<<


戦前の国民的作家といえば吉川英治だが、戦後の国民的作家は司馬遼太郎である。ところが、私には抵抗があって、この国民的作家の作品をどうしても読み通すことが出来ないのだ。--(中略)-- 司馬遼太郎の読者には、健全な常識を備えた実務家が多い。一言でいってしまえば、司馬遼太郎を愛読するのは、平均的日本人なのである。--(中略)-- 司馬遼太郎は明治を賛美し、昭和時代を酷評している。--(中略)--
彼は、常識に寄り添い、体制に寄り添い、歴史の暗部に蓋をして、明るくて心地よい「庶民向けの」歴史パノラマを繰り広げてみせる

明治物に限らず、彼が作品に取り上げる主人公は、日本人好みの英雄であり、歴史上のスターであり、日の当たる場所にいる成功者たちだ。彼はそれらの人物に新しい解釈を施し、現代風にリフォームされた人物像を読者の前に提供するけれども、基調は相も変わらぬ通俗的な歴史ロマンなのである。彼が既製の歴史観を大きく転換したことは一度もない。

では、彼の歴史観は、どうして既成観念に媚びる形になってしまうのか。歴史上の権力闘争や合戦を描くに当たって、状況を上から俯瞰するレフェリーの視点に立つからなのだ。--(中略)--

「坂の上の雲」を通読したところでは、司馬遼太郎の史観は講釈師が張り扇を叩きながら天下国家を論じるのと大差がないような気がする。--(後略)--


>>【引用終了】『司馬遼太郎の「張り扇史観」』  甘口辛口氏より


 甘口辛口氏は、『司馬遼太郎の史観は講釈師が張り扇を叩きながら天下国家を論じるのと大差がない』と司馬遼太郎を一刀両断しているようにみえて、私にはどこか歯切れの悪さを感じます。

なぜ、司馬遼太郎が日本の国民作家とされるほど、日本人に支持され、読み継がれてきたのかを納得していないためのように、私は感じます

 甘口辛口氏は、司馬の読者を『健全な常識を備えた実務家』、『平均的日本人』、『庶民』と色々記されているので、司馬こそが日本を代表する国民作家だと仰っているのだと、私は思います。

そして、日本の国民作家になった理由は、『通俗的な歴史ロマン』、『既成観念に媚びる』ためであるとされているようです

要するに、『日本人にはロクな歴史認識がないから、司馬程度の通俗作家を崇めているんだ』と、仰っているように、私は感じます。しかし、本当でしょうか?


 私には、甘口辛口氏には、あまり賛成できません。確かに、司馬の作品は例えば多くの『健全な常識を備えた実務家』にも支持されており、こうした方々が単純な『通俗的な歴史ロマン』だけを好むとは限らず、もっと歴史に真摯に向き合う日本人が、司馬の作品を支持してきたように私には思えるからです。


 司馬遼太郎が日本人に読み継がれている理由は、『リクツを越えた実感』なのではないかと、思います。


私は、『なぜ日本人は「反軍」になったのか?:今の日本人にとって大事なこと

という記事を書きました。

後編では、この記事と振り返り、大東亜戦争の実体験から、司馬遼太郎が、そして日本人がどんな実感を抱いたのかを改めて考えてみたいと思います。 (続く)






産経新聞が、南朝鮮の海軍について記事にしています。

先に、引用してからコメントします。なお、リンクは下記です。


産経新聞2014年8月29日


【引用開始】<<

 韓国が「アジア最大の輸送艦」として喧伝する海軍の揚陸艦「独島(ドクト)艦」の2号艦について、韓国防衛事業庁は8月12日に建造計画を承認した。現地報道によると、2020年に就役の予定というが、独島艦(1号艦)といえば、機関砲が甲板上の自軍ヘリを狙う設計ミスや相次ぐ故障など幾多の欠陥が明らかになり、“ポンコツ艦”と揶揄される軍艦。国民からは「いまさら同じ物を造ってどうするのか」と反発の声が上がるが、それでも国や軍が建造を推し進める裏には例によって「日本への対抗心」、つまり「反日」の姿勢があるようだ。--(中略)--

「独島艦」は07年に完成し就役した。排水量は満載で約1万9千トン。--(中略)--これまでまともに運用されたことは一度もない

 搭載するヘリコプターを自前で開発できず、予算不足などで輸入もできないことに加え、昨年は発電機の火災で漂流するなど艦自体の故障やトラブルが相次いだ。

--(中略)--

 ソウル新聞(電子版)などによると、韓国内では独島艦の「慢性的な問題」として格納庫の少なさがあげられてきた。

 諸外国の揚陸艦では、(1)ヘリなどの発着艦甲板(2)ヘリ格納・整備場(3)LCAC(エアクッション型揚陸艇)-の3つを備えているのに対し、独島艦は(2)の格納・整備場がなく、ヘリの運用が難しい。2番艦はこうした欠点を解消しなくては意味がないが、そこには大きなハードルがある。--(中略)--

 確かに独島艦といえば「ポンコツ」が代名詞レーダーは虚偽の目標を示し、機関砲を発射すれば甲板上の自軍ヘリに命中する欠陥設計が明らかになっている。全く同じ物を造るのも思慮がないが、むしろ問題点は「より大きな、より高度なもの」を造ろうとする“身の丈知らずの背伸びにある”との見方も出ている。

 韓国の領海は面積比で日本(447万平方キロ)の約10分の1で、海軍が守る部分はわずかな沿岸のみ。敵対する北朝鮮は陸軍が主力で、海軍はわずかな兵力だから、韓国海軍はいわゆる「ブラウン・ウオーター・ネイビー」(沿岸海軍)で十分なのだ。--(中略)--

 むしろ独島艦の問題は、就役後7年経っても故障漂流させる異常なまでの運用の未熟さや、搭載するヘリコプターさえ用意できない粗末な配備計画にある。にもかかわらず「もっと大きな軍艦を」との主張が強いのはなぜか。そこにはまたも「反日」が顔をのぞかす。--(中略)--

 だが、韓国には技術者を軽視する風潮が強く軍艦に限らず戦闘機や戦車でも整備不足による故障や事故が多発。兵器運用に必用な、地道な改良や根気強い努力をせずにパクって済ませてきた悪しき伝統が、失敗の連鎖を生み出している

 そのことは客船セウォル号の痛ましい事故でもクローズアップされた。強襲揚陸艦や空母を造って運用しようなどと考える前に、まずは足下を見て、今あるものをきちんと管理・運用することが必要ではないか


>>【引用終了】 産経新聞記事より


南朝鮮に対する失笑・爆笑・嘲笑記事ですね。本当に、面白い

南朝鮮(韓国)は、今に至るまで北朝鮮と戦争中です。例えば、

2010年3月26日の韓国の浦項級コルベット「天安」が雷撃による沈没した事件や、
2010年11月23日の延坪島(ヨンピョンド)砲撃事件も、

生々しい南北朝鮮同士の軍事衝突の事件です。
常識的に、南朝鮮は北の軍事的脅威にさらされ、現にまだ戦争継続中なのですから、南鮮の後背地になる日本とは友好関係を絶対に維持・増強する必要があるわけです。これが常識。

一方で、日本にとっては、本来朝鮮半島は日・中・露3大国の無害な緩衝地帯であればよく、別に南鮮がどうなろうと大した問題ではありません

本来、日韓友好関係が死活問題である南鮮と、南鮮などどうでもよい日本では、当然軽重が違うわけです。

ところが、南朝鮮は反日を国是にしている。実際に戦争中の敵に対峙するために軍備を増強するのではなく、日本と張り合うために、不要な軍艦を配備する。まさしく基地外としか言いようがありません。

『ドクト艦』のポンコツぶりは、世界に冠たるものです。本当に爆笑です。

極めて危険な軍事的脅威を無視して、反日という有害無益な空理空論で、わざわざ自分にとって死活的に大切な日本を敵にまわす。
現実よりも空理空論が大事だという、朝鮮人という『事大民族(ミンジョク)』の特長が、産経新聞の記事によく現れていると、私は思います。

【関連記事】







朝日新聞は、


慰安婦問題、核心は変わらず 河野談話、吉田証言に依拠せず 』 朝日新聞2014年8月28日


という記事で、吉田証言の捏造を自白しましたが、従軍慰安婦の強制性の根拠として、韓国側の主張を章開始、卑劣な自己弁護をしています。前編から、再掲すると下記の通りです。

【引用開始】<<


慰安婦問題、核心は変わらず 河野談話、吉田証言に依拠せず

2014年8月28日05時00分

       :

     (前略) 詳細は前編参照

       :

■韓国、元慰安婦証言を重視

 韓国政府が慰安婦問題で最も重視しているのは、元慰安婦自身による多くの証言だ。

       :

     (中略) 詳細は前編参照

       :

 80年代半ばから90年代前半にかけて、韓国外交当局で日韓関係を担当した元外交官は「韓国政府が慰安婦問題の強制性の最大の根拠としてきたのは元慰安婦の生の証言であり、それは今も変わっていない。吉田氏の証言が問題の本質ではありえない」と話す。


>>【引用終了】慰安婦問題、核心は変わらず 河野談話、吉田証言に依拠せず

 朝日新聞2014年8月28日


それでは、当時の朝鮮人売春婦がどんな証言をしているのかを、中央日報の記事から引用します。



【引用開始】<<


日本の植民統治時代(1910~1945)、従軍慰安婦として強制連行されていたおばあさんが世を去りながら、自身の死体を実験用に使ってほしいとし、医大に寄贈した。

今月11日未明、大田(テジョン)の聖心病院で、脳卒中で亡くなったチョン・ヒベさん(78)。チョンさんの遺体は葬儀を終えた13日午前、忠清南道論山(チュンチョンナムド・ノンサン)の建陽(コンヤン)大に解剖用として寄贈された。

チョンさんは、18歳のとき「外国にある工場に就職させ、たくさんの月給も与える」と騙され、シンガポール行きの船に乗った

しかし、チョンさんが到着した所はシンガポールにある日本軍の部隊だった。チョンさんはそこで最悪の待遇を受けながら慰安婦生活をしなければならなかった。

韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)側は「チョンさんは、帰郷した後も慰安婦生活で得た精神的、肉体的苦痛のため正常な家庭を持つことができなかった」とし「甥など親戚と一緒に暮らしていたが、3年前からは止むを得ない事情で大田のある養老院で寂しい老年を送っていた」と伝えた。

だが、チョンさんは普段「私が死んだら、身体を有意義な使ってほしい」と話していたという。こうしたチョンさんの意向を受け入れ、挺対協と養老院側が遺体を医科大に寄贈することを決めたのだ。


>>【引用終了】元従軍慰安婦の遺体、医大に寄贈 』より 中央日報2003年5月4日


 明らかなのは、日本軍による強制連行などではなく、挺身隊としての動員でもなく、女衒にダマされて売春婦にさせられた、というだけの証言です。


従軍慰安婦の強制性などの根拠として、朝日新聞が卑劣な自己弁護に使い、韓国政府が無道な批難の根拠にしている、『軍や朝鮮総督府、慰安所経営の関係者の証言のほか、日本の関係省庁や米公文書館などから集めた大量の資料』などどこにもなく、『強制性の最大の根拠としてきたのは元慰安婦の生の証言』など全く無いわけです。


反日を社是とする朝日新聞を放置して良いのでしょうか?

反日を国是とする南北朝鮮を放置して良いのでしょうか?

南北朝鮮人でいることを自分の意思で選んでいる、不逞な在日朝鮮人共を放置して良いのでしょうか?


日本人の良識が問われている、と私は思います。



いわゆる『従軍慰安婦問題』で、朝日新聞は記事捏造を自白しました。その舌の根も乾かないのに、さらに言い訳記事を書いています。この記事では、朝日新聞の卑劣な自己弁護を紹介し、後編では『従軍慰安婦の生の証言』などをもとに、朝日新聞を指弾します。


慰安婦問題、核心は変わらず 河野談話、吉田証言に依拠せず 』 朝日新聞2014年8月28日


【引用開始】<<


慰安婦問題、核心は変わらず 河野談話、吉田証言に依拠せず

2014年8月28日05時00分


朝日新聞が今月5、6日に掲載した慰安婦問題の特集をきっかけに、さまざまな議論が起きている。慰安婦を強制連行したとする吉田清治氏の証言を報じた記事を取り消したことを受け、慰安婦問題で謝罪と反省を表明した河野洋平官房長官談話(河野談話)の根拠が揺らぐかのような指摘も出ている。談話作成にかかわった当時の関係者の証言を紹介するとともに、韓国社会での慰安婦問題の受け止め方を振り返り、改めてポイントを整理した。  韓国・済州島で慰安婦にするために女性を暴力的に無理やり連れ出したとする吉田氏の証言を報じた記事について、朝日新聞は済州島での再取材や研究者への取材の結果、虚偽と判断し、取り消した

 これに対し、吉田氏の証言が事実でないならば、河野談話の「根幹」が崩れるとする主張が出ている

 自民党内でも同様の発言が出ており、高市早苗・政務調査会長は26日、戦後70年となる来年に、河野談話に代わる新しい官房長官談話を出すよう求める申し入れ文書を、菅義偉官房長官に提出した。

 だが、日本政府は河野談話の作成過程で、吉田氏をヒアリングの対象としたものの、その証言内容を談話に反映しなかった。

 談話作成にかかわった当時の政府関係者は朝日新聞の取材に対し、内閣外政審議室の職員が吉田氏に複数回にわたって接触したことを認めた上で「つじつまが合わない部分があったため、談話には採用しなかった」と明かした。

 また、菅官房長官も27日午前の記者会見で「河野談話作成過程の検証で、強制連行は確認できなかったという認識にたって(韓国側と)交渉したことが明らかになっている」と述べ、当時、吉田氏の証言を考慮していなかったとの認識を示した。

 談話作成の根拠になったのは、軍や朝鮮総督府、慰安所経営の関係者の証言のほか、日本の関係省庁や米公文書館などから集めた大量の資料だった。

 河野談話発表の約4カ月前には、当時の谷野作太郎外政審議室長が参院予算委員会で「強制は単に物理的に強制を加えることのみならず、脅かし、畏怖(いふ)させ本人の自由な意思に反した場合も広く含む」と答弁した。

 河野談話も「募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」と結論づけ、吉田氏が言うような「強制連行」ではなく、女性たちが自由意思を奪われた「強制性」を問題とした

 安倍政権が今年6月に公表した、河野談話の作成過程の検証にも、吉田氏の証言をめぐる経緯が出てこないのは、談話が吉田証言を採用していなかったためとみられる。河野談話について、菅官房長官は27日、「見直すことはないと繰り返し言っている」と述べ、歴代政権と同じように継承していく姿勢を示した。


■韓国、元慰安婦証言を重視

 韓国政府が慰安婦問題で最も重視しているのは、元慰安婦自身による多くの証言だ。朴槿恵(パククネ)・韓国大統領は「歴史の真実は生きている方々の証言だ。政治的な利害のためにこれを認めないなら、孤立を招くだけだ」などと繰り返し強調している。

 韓国では、長く続いた軍事独裁政権が終わり、社会の民主化が進んだ1990年代にはいって、慰安婦問題に光があたり始めた。

 その大きな転機となったのは、90年1月に尹貞玉(ユンジョンオク)・梨花女子大教授(当時)が日本や東南アジアを訪ね、韓国紙ハンギョレ新聞に連載した「挺身(ていしん)隊『怨念の足跡』取材記」だった。

 同年6月、参院予算委員会で当時の社会党議員が、慰安婦問題を調査するよう政府に質問したのに対し、旧労働省の局長が「民間業者が軍とともに連れて歩いている状況のようで、実態を調査することはできかねる」と述べ、韓国で強い批判の声が上がった。この答弁に反発した金学順さんが翌91年8月、初めて実名で「慰安婦だった」と認めると、その後、次々に元慰安婦が名乗り出始めた。

 これを受けて、韓国政府は92年2月から元慰安婦の申告を受け付け、聞き取り調査に着手した。  また、支援団体の「韓国挺身隊問題対策協議会」も93年2月、約40人の元慰安婦の中から信憑(しんぴょう)性が高いとみた19人の聞き取りを編んだ証言集を刊行した。女性たちは集められ方にかかわらず、戦場で軍隊のために自由を奪われて性行為を強いられ、暴力や爆撃におびえ、性病、不妊などの後遺症に苦しんだ経験を語った。  現役の韓国政府関係者によると、朝日新聞の特集記事が出た後、吉田氏は何と証言したのかとの問い合わせが韓国人記者から寄せられるなど、証言そのものは韓国では一般的に知られているとは言えないという。

 80年代半ばから90年代前半にかけて、韓国外交当局で日韓関係を担当した元外交官は「韓国政府が慰安婦問題の強制性の最大の根拠としてきたのは元慰安婦の生の証言であり、それは今も変わっていない。吉田氏の証言が問題の本質ではありえない」と話す。


◆キーワード  <河野談話> 韓国の元慰安婦らが1991年、日本政府に補償を求めて提訴したことなどを受け、日本政府は調査を始めた。92年7月には当時の加藤紘一官房長官が調査結果をまとめて発表したが、内容が不十分だとの声が上がり、国内のみならず海外にも調査を拡大。93年8月に宮沢内閣の河野洋平官房長官が公表した。談話は、慰安所について「当時の軍当局の要請により設営された」とし、慰安所の設置や管理、慰安婦の移送に「旧日本軍が直接あるいは間接に関与した」と認めた。  <河野談話の作成過程検証> 今年2月の衆院予算委員会で、河野談話の作成に関わった石原信雄・元官房副長官が、韓国との事前のすりあわせを示唆したことを受け、政府の検討チームが談話の作成過程を検証した。安倍晋三首相は、結果が出る前に「(河野談話を)見直すことは考えていない」と発言。検討チームは6月20日、河野談話の作成や「アジア女性基金」の事業をめぐって、日韓両政府が頻繁にやりとりしていたことなどを盛り込んだ検証結果を発表した。  <吉田清治氏の証言> 戦時中に山口県労務報国会下関支部の動員部長だったと語る吉田清治氏(故人)は、日本の植民地だった朝鮮の済州島で、慰安婦にするため女性を暴力的に無理やり連れ出したと講演や著書で証言。朝日新聞は1982年以降、吉田氏の証言を記事やコラムで取り上げた。証言内容を疑う指摘が92年にあり、朝日新聞は97年に「真偽は確認できない」との記事を掲載し、以降は吉田氏の証言を取り上げていない。今年、改めて済州島などで裏付け取材をし、5日の特集「慰安婦問題を考える」で、「証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します」とする記事を掲載した。


>>【引用終了】慰安婦問題、核心は変わらず 河野談話、吉田証言に依拠せず

 朝日新聞2014年8月28日


何とも、恥知らずな朝日新聞の卑劣な自己弁護です。


韓国側は「韓国政府が慰安婦問題の強制性の最大の根拠としてきたのは元慰安婦の生の証言であり、それは今も変わっていない。吉田氏の証言が問題の本質ではありえない」としているのですから、後編では、元慰安婦の生の証言を検証して、朝日新聞の卑劣な自己弁護を指弾します。(続く)



日本と在日韓国・朝鮮人の戦前から現在までの関係を扱ったブログの紹介です。なによりスゴイのが、時代の息吹を、肉声を感じることです。

『ぢぢ様玉稿集 大日本史 番外編 朝鮮の巻』

このブログでは、『三国人の不法行為 何を批判されたのか』 という記事で、日本敗戦直後の在日朝鮮人の野蛮な行為を詳しく伝えています。

以下、記事を抜粋し紹介します。



【引用開始】<<


「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 89年 原書房


戦前から強かった日本人の在日朝鮮人への悪感情は、第二次大戦直後の経験によって更に強まった。それは、日本人が敗戦の苦悩と屈辱に打ちしおれていたとき、在日朝鮮人による犯罪、不法行為が続発したことであった。もともと戦前から在日朝鮮人の犯罪率は日本人の平均の10倍前後に達し、朝鮮人の住む貧民窟が犯罪の巣であるかのように見なされていた。(中略)

続発した不法行為

総人口わずか1%以下の在日朝鮮人の公務執行妨害は21%(1949年)、騒擾のごときは83%(1948年)、そして密造酒は全密造酒の30%近く(1953,54年)、ことに覚醒剤の販売量では全量の60~70%を占めるという有様であった。(1953,54年)

公安調査庁坪井豊吉氏は、終戦後間もない頃の在日朝鮮人の犯罪状況について『法務研究』に次のように書いてある。
『本期における大きな傾向としては、個人的感情にもとづく報復的詐欺、脅迫、暴行などの一般犯罪のほか、いわゆる親日派民族反逆者への監禁、暴行、あるいは・・・・・帰国問題に起因する不穏行動、各地の保安隊、警備隊(朝連の自衛組織)などの警察類似行為、主食の集団要求や買出し、彼ら同士の派閥抗争などがみられた・・・・・またそれらの中の主な事件は、各地における集団強窃盗、官公署への横暴な態度と不当な要求、建築物の不法占拠、汽車、電車、バスなどの不法乗車、生産管理、人民裁判などであった・・・・・。彼らの不法行為は、敗戦による日本側当局の無気力と消極的な処置に乗じてやたらと増長され、戦後の混乱をいっそう助長するところとなった・・・・・敗戦の混乱におびえるに日本の一般社会人心は極度に不安な環境におちいり、一時は全く無警察状態が各方面に現出された。彼らの不法行為が、一般日本人はもちろん、在留外国人の間にまでも、彼らの性格が事大主義で、遵法精神が薄く、感情的で、極端な凶暴性をもっているとの深い印象を植え付けたことだけは、まぎれもない事実のようである。
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「白い手黄色い手」 1956年 毎日新聞社 (「韓国のイメージ」鄭大均 より)


「もう日本人じゃない」日本降伏の直後、マッカーサー元帥が厚木に乗りこんでくると、まっ先にこう叫び出したのは在日六十万の朝鮮人だった。

彼らの多くは戦前出かせぎのため日本に渡ってきたか、あるいは戦時中軍部の徴用で連れてこられたもので、内地における生活がみじめだっただけにこの強気が一度に爆発した。彼らは敗戦国にのりこんできた戦勝の異国人と同じように、混乱につけこんでわが物顔に振舞いはじめた

米でも衣料でも砂糖でもモノが不足していた時代に彼らは経済統制など素知らぬ顔でフルに"モノ"を動かした。当時絶対に手に入らなかった純綿のハダ着や雑貨、菓子類、ウィスキー、外国の医薬品など彼らのヤミ市では簡単に買うことができた。ヒロポンや密造酒が集散されたのも主としてそこだった。ゴミゴミしたマーケットから金持が続々と生れていった。

完全な無警察状態……。そのいい例が昭和二十四年春、東京深川でおこった枝川町事件である。朝鮮人四人組が月島の織物問屋から純綿八十二反を盗み出して巨利をせしめた。犯人の身もとがわかり、深川署の刑事ふたりが逮捕状をもって……出かけたところ、……逆に”不審尋問”され、袋だたきの目にあった。当時の朝鮮人の鼻息がどんなにすさまじかったか、容易に想像できる。”見まい、聞くまい、振りむくまい”深川署の刑事たちはそんな言葉で自分たちの無力を嘆じあったという。

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「朝日新聞記者の証言5 -戦後混乱期の目撃者-」 菅野長吉 昭和56年 朝日ソノラマ


富坂署襲撃事件
昭和20年も押しつまった12月26日と29日の両日、場所も同じ小石川区(現文京区内)駕籠町の路上で、けん銃強盗事件が連続して発生した。警視庁捜査一課と富坂署が合同捜査をし、都下三鷹町の朝鮮人3名を容疑者として逮捕、富坂署に留置した。翌年1月3日、トラック3台に分乗した朝鮮人約80名が同署に乗りつけ「朝鮮人を留置するとはけしからん、即時釈放しろ」と要求、拒否すると、一団は署内に乱入、電話室を占拠して外部との通信連絡を断ったうえ、いす、こん棒などをふるって署員に襲いかかり、ついに留置中の朝鮮人を奪取して逃走した。警視庁は直ちに犯人捜査に当たったが、第三国人に対する捜査権の不明確さから不徹底なものになり、捜査員を歯ぎしりさせただけで終わった。しかしこの事件は、第三国人にさらに不当な自信を持たせる結果となり、「警察何するものぞ」とする不正行為を続発させることになった。
(中略)


ヒロポンとカストリ
覚せい剤、密造酒となると、これは第三国人の独壇場といった感があった。ヒロポンやゼドリンといった覚せい剤は、戦時中、軍需工場で作業能率を高めるために使われていただけで、一般には手に入らないものだったが、終戦によってこれが大量に放出されたことから、街娼や博徒、芸能人が使いはじめ、中毒者が増えていった。悪化した中毒患者は幻覚、半狂乱といった症状を呈するようになり、これが原因で各種の犯罪を引き起こす事例が多発し、治安上の問題に発展した。特に第三国人らが製造するヒロポンは家内作業で密造するため不潔で、また患者らの要求に応じた即効性のある粗悪品だったから、品質の点でもさまざまな問題があった。覚せい剤密売の巣窟とみられていたのは、台東区浅草松濤町の部落で、約130世帯、230人の住民のうち約半数が朝鮮人で、覚せい剤の売りさばきを主な業としていた。厚生省は23年7月、これらの覚せい剤を「劇薬」に指定し、自由販売を禁じた。しかし需要は増加する一方だったところから第三国人がこれに目をつけた。なかでも製造容易なヒロポンの密造販売を組織的にはじめたから、覚せい剤の害は急速に一般青少年層にまで拡がっていった。


>>【引用終了】『三国人の不法行為 何を批判されたのか』 より


ほんの一部を抜粋しただけですが、 在日朝鮮人の民族(ミンジョク)の本性がよくわかります。こういう無道な朝鮮人は日本人の敵です。日本人が、在日朝鮮人の本性を良く知ることが、まず除鮮の第一歩だと、私は思います。どんどん除鮮をすすめましょう。


南朝鮮が、日本の嫌韓風潮に悲鳴をあげています。面白いですね

中央日報の記事とキムチ関係の論文紹介です。


【引用開始】<<


韓国キムチの輸出額が2012年11月から先月まで21カ月連続で減少したことが分かった。

27日、韓国農水産食品流通公社(aT)は今年1~7月のキムチ輸出は1万4725トン・5049万ドルで、前年同期の1万5226トン・5355万ドルより物量3.29%・金額5.71%減少したと伝えた。

aT関係者は「輸出不振はキムチ全体輸出の73.7%を占める日本市場での苦戦が関連している」と説明した。

また「円安現象のため国産キムチ商品の価格競争力が弱くなったのが最大の理由」としながら「嫌韓の雰囲気のため現地で広報活動を積極的に行いにくいのも一つの原因」と述べた。

>>【引用終了】韓国キムチの輸出が2年間減少…日本市場で苦戦 』 中央日報2014年08月27日より



減少傾向といっても、それでもまだ半年で約1万5千トン、年間ならば約3万トンも、韓国産キムチを日本は輸入しているんですね。業務用なんでしょうか?一般の日本の消費者が、不潔なイメージの韓国産をわざわざ買うとは思えません


 それでは、日本のキムチマーケットは、どうなっているのか、2006年の『佐賀大農業』の論文『キムチ貿易と韓・日両国の野菜漬物産業の構造変化で調べました。


【引用開始】<<

2000年代のキムチl貿易は,韓国・日本・中国の3カ国間で,主な輸出入市場が形成されている 2000年以降,中国のキムチ製造量が急、増しているのがその一つの特般になっている. 2003年,韓国における中国産キムチ輸入は28,702トンで,韓国におけるシェアが激増している2 一方, 2003年日本市場では,韓国産キムチが30,584トン(日本国内消費量シェア7%),中国産キムチが3,000トンで1%未満になっている3キムチ貿易構造の中で,韓国の規格によりキムチのCODEX国際規格4が決まっており,韓国のキムチ製造業者は,多様なプレミアムキムチ苛製造している.韓国と中国の輪出単価を比較しでも,その差は顕著である


まず,キムチ貿易の展開過程を検討すると,キムチ貿易は, 1970年代,在外韓国人のために輸出され始め,初期の年間輸出量は, 10 トン~1,200トンであった.1980年代後半から,海外需要が拡大したことにより,輸出量は急増し, 2003年には,年間輸出量が3万トンを越えている.また,その主な仕向先は,日本市場である


>>【引用終了】『佐賀大農業』より (上記論文参照)


結局、韓国産のキムチの輸入量は、2003年と比較して2014年は変わっておらず、10年前よりも減少傾向ということらしい。

本論文では、『日本におけるキムチ製造量が1990年83,474トンから,2003年379,606トンへと約4.5倍増加した』と記しているので、一時期は輸入が伸びた時期があり、それが嫌韓風潮で下落したのかも知れません。どのみち、韓国産キムチなど買うのは、大手チェーンの焼き肉店などに限定されているように、私は思います。


とにかく、嫌韓の声を一層大きくし、除鮮を進めることが、日本人には大切だと、私は思います。






 朝鮮半島には、まともな文化と呼べるものは何もありません。


 李氏朝鮮は、前王朝の高麗で栄えた仏教を徹底的に弾圧し仏教文化を破壊しました。儒教を国教としたことで、科学技術を軽視し、木を曲げる技術すら無くなりました。李氏朝鮮の支配層・両班は、儒教の空理空論に明け暮れて、やっているのは宮廷での権力争いだけ。困窮した朝鮮半島の民衆には、土着文化を育む余裕すら全くありませんでした。そして、大東亜戦争後になって南北朝鮮は、漢字を排斥します。ただでさえ劣等な朝鮮半島は、現在さらに劣化し続けています

 そんな朝鮮人の英雄といえば李舜臣。

 豊臣秀吉の朝鮮征伐の時に、李舜臣は朝鮮征伐軍の輸送部隊を襲う海上ゲリラをした親方で、あえなく撃ち殺された男です。

さて、その朝鮮人のウリナラ英雄・李舜臣の長剣に化学塗料が塗られているという、いかにも朝鮮ミンジョクらしい中央日報の爆笑記事です。


【引用開始】<<


忠清南道牙山(チュンチョンナムド・アサン)の顕忠祠にある李舜臣(イ・スンシン)将軍の長剣に正体不明の赤い塗料が塗られているという疑惑が提起された。文化財取り戻し運動を行っている市民団体が、長剣の血溝と紋様に赤い顔料が塗られているとし、これを除去しなければならないと要請した。1963年に宝物326号に指定された忠武公長剣は1594年4月に作られたもので、李舜臣将軍が直接使った刀として知られている。長剣には「一揮掃蕩血染山河」(一刀のもとに斬り捨て、赤い血が山河を染める)と書いている。

市民団体は21日に文化財庁にこうした疑惑に対する陳情書を提出し、速やかに化学顔料を除去することを促した。市民団体の代表を務める慧門(へムン)僧侶は、「朝鮮時代の刀剣に赤い色が塗られた例は見つからない。現在の赤い色は塗料のような化学顔料が塗られたとみられる」と主張した。「したがって優先的に化学顔料を除去した後、原形を取り戻し考証する必要がある」と話した。

顕忠祠側は、「2011年に国立文化財研究所の科学的成分調査の結果、忠武公長剣の赤い色は化学顔料と判明した。正確な時期はわからないが1970年代に塗られたことが確認された」と明らかにした。顕忠祠関係者は「李舜臣将軍の長剣の特別展展示が終わり次第化学顔料を除去する計画だ」と話した。


>>【引用終了】顕忠祠所蔵の李舜臣の長剣に正体不明の赤い塗料=韓国

中央日報2014年08月24日より


 こんな刀です。完全に日本刀の劣化コピーですね。

 朝鮮ミンジョクの英雄の持ち物さえ怪しげですね。朝鮮ミンジョクの文化程度がよくわかります。



李舜臣刀


『明日なき反日速報』様の下記の記事を参考にさせて頂きました。非常に面白い記事で爆笑です。