南京虐殺の虚妄:山本七平botまとめ/【「時代の論理」による殺人①】より | Fugenのブログ

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南京虐殺の虚妄は、とっくの昔に証明されています


最近『本澤二郎の「歴史の真実」(中国吉林省公文書館資料シンポ)社会科学院主催』とやらで、関東軍の資料が見つかったとか主張している輩も出てきているようです。資料が出てきたのなら、資料自体の真贋を含めて精査すれば良いだけのことです。


資料を調べれば中共軍事独裁政府のウソが明らかになるので、非常に良いことだと、私は思います。

なお、中国の一般民衆は日本人の友であり、日本の敵は中共軍事独裁政府関係者だけです。日本人は、中国の人々と手を取り合って、共通の敵である、習近平など中共軍事独裁政府に毅然と立ち向かうべきだと、私は思います。


南京虐殺の虚妄について、山本七平の論証を紹介させて頂きます。

以下引用します。



『山本七平botまとめ/【「時代の論理」による殺人①】/「南京大虐殺」という”まぼろし”を打ち上げた背景』より

http://togetter.com/li/404853


----- 以下引用のみ フォント変更はFugen -----


前略~だがここで考えねばならぬ事は、当時こういう事をしていたのは浅海特派員だけではなかったという事実である。大本営も新聞社も、皆いわば大がかりな様々の「百人斬り競争」を報道して国民を欺いていた。私が最初に「一読して唖然とする事実」につきあたったといったのはその事である。


というのは「南京城総攻撃」「大激戦」「城頭高く日章旗」等々はすべて嘘で「南京入城」は実質的には「無戦闘入城」いわば「無血入城」であったという驚くべき事実を、自らそれと気づかずに鈴木特派員がのべているからである。<『私の中の日本軍』


本多勝一氏の記す「十万の中国軍(国府軍)」が、二万の日本軍を恐れて戦わずして一斉に逃げ出したなどというのは全くばかげた話で、十万といえば約六個師団だが、本当に中国側に六個師団もの兵力があり…市街に拠点を設けて市街戦を行いつつ別働隊が背後を絶てば、逆に日本側が全滅してしまう。


実際は、日本軍が突入した時、中国軍はすでに撤退を完了して、例によってもぬけの殼だった筈である。私は前から「十二日正午突入」「十七日入城式」というスケジュールが非常に不思議であった。特に井軍司令官が乗馬姿で入城式を行なったことは、何ともいえず奇妙に感じていた


というのはこれくらい格好な標的はないからである。従って有能な狙撃手3名と…シュコダ製スナイパー付狙撃銃3挺があれば六百から八百の距離で「ダラスの熱い日」は確実に再現できる。妙な言い方だがこれは私にだってできるからである。更に潜入は「ジャッカルの日」よりもはるかに容易い筈である


一方日本側にしてみれば、入城式に軍司令官が射殺されたとあっては大失態で、完全な面目失墜であり、第一、参謀長以下、大変な責任問題になる。さらに入城式は作戦行動ではないから、相手から強制されて、ダメとわかってもやらざるを得なかったということではない


従って、危険をおかしてやる必要はないし、まして突入から五日目にやらねばならぬ必然性は全くない。「おめでたい日」を選ぶとすれば、もう二週間後に迫った一月一目などは、入城式祝賀をあわせ行うのに絶好の日のはずである。大体日本軍はいつもそういうやり方をやってきた。


「紀元節反攻」とか「天長節総攻撃」とかは、いわば「敵にすべてを予知される」まことにバカげたお家芸のようなものだから、ちょっとでも危険を察知すれば「一月一日入城式」という発想になるのがごく普通なのである。


従ってこの絶好の「名目」が目の前にあるのに十七日にやったということは、同日でも「絶対安全」という自信があったからにほかならない。いつこの自信を得たのか、もちろん十七日ではない。

先日会田雄次氏にお会いしたとき、「十七日に入城式を行う」と参謀長が決心したのは何日であろうか、が話題になった。敗残兵という言葉があるが、戦場の兵士はすべてドロドロでボロボロで、垢まみれ髭だらけであって、その風態はみな敗残兵そのままである。


これを威儀を正したパレード用になおすには、兵器手入・靴手入・被服補修等々を含めて、どれくらい時間がかかるかが問題になったが、結局、どんなに急いでもマルー日はどうしても必要である(会田氏は一日では無理と判定されたが)という結論になった。

戦場には灯火がないから――これがどういうことか、今の人にはちょっと実感としてはつかめないであろうが――ギリギリの線で十五日夜には、入城式に関する命令が発せられない限り、十七日の挙行は不可能である。


ということは十四日夜には参謀会議、司令官決断で、翌日にはパレード部隊の編成、城内警備用の配備計画、城外への奇襲防止のための配備等々、万遺漏なきよう計画を立案し、夕刻か夜には「命令受領者集合!」を各部隊に呼びかけねばならない。そして十五日配備完了、十六日準備となる筈である。


これを可能にするには、十三日にあらゆる情報を総合して、ほぼ大丈夫という予想が立てられねばならない。すると、十二日正午突入で十三日夜平穏ということになるわけだが、これでは戦闘する暇も虐殺する時間も死体を片づける時間もない筈なのである。


というのは城門を突破してから、城内の全域を無戦闘で掌握し、治安を確保するのだって、一日や二日はかかるのが普通だからである。しかも日本軍は、移動は二本の足である。大体、戦闘があったのなら、城内の一角にとりついてから、全市を掃討するのに一週間や十日かかるのがあたりまえである。


あの圧倒的火力をもつアメリカ軍が、マニラの一角に突入してから全市の日本軍を掃討するまで三週間かかっている。しかもマニラは、障壁となりうるような建物が非常に少ない町である。煉瓦の壁と土嚢で守ることが可能な南京とは全く違う町でもそれくらいかかる。

従って十二日正午突入、十七日入城式なら、これは戦闘がなかったものと考えねばならない――どう考えてもおかしな話だ、これが私の実感であった。