【自分史16】初めての一人芝居〜積み木崩し後半 | fufu official blog

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日野原希美と藤本ゲンのfufu( ふふ )のブログです。
『 夫婦 』 であったり
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母が子に与える無償の愛や、大自然が私たちに与える無償の愛のような
音楽を奏でています。

3/14(木)

自分史の始まりはこちら


事務所からの仕事はちょこちょこと頂きましたが
食べていくには程遠く。
スロット屋さんのアルバイトと
スナックでのアルバイトが私の生きる糧。

例えやりたいことで食べてなくても
誰かに聞かれた時に答える私の職業は「役者」。
そんなささやかなプライドと複雑な葛藤を抱えつつ。。

事務所からくるお仕事に
いくばくかのフラストレーションがたまる中、
短大の仲間たちで舞台をやろうかという話が浮上してきた。

だけと集まってはみたものの
ふたを開けてみたらみんなの予定が見事に合わない。
本番の日程さえ決めるのが難しい状態。

でも、私のタイミングは「今」なんだと、
そんな話を友達にしていたらその友人が

「君映、1人芝居すればいいのに。
うちの劇場で新たにオープンする所があって
今年いっぱい安く貸せることになってるよ。
私がそこ受け持つ形になるから予約できるよ。」

…1人芝居なら自分のスケジュールだけでいい。
やったことないし何もわからないけど
なんか気楽に取り組めそう…


何をやるか、作品もない中、
12月に1人芝居をやる事だけが決まった。


…しかし、私は何をやればいいんだ…


自分に出来ることは何だろう。
自分がやりたいことは何だろう。

…自分のことなのに、何もわからない。


その頃、短大の時に出会って
すっかりハマっていた津軽の民舞を習っていた。
日舞が部屋の中の踊りだとしたら
民舞は野っ原で踊るような踊り。
短大当時、比較的何でも器用にこなしてたけど
器用なだけで何の取り柄もなく
「普通」すぎて全く目立つことはなかった私が
唯一、自分自身を生かせる感じがした踊り。
自由に飛び回れる気がした踊り。


その民舞の師匠が
「岡安の作品に1人芝居用のがあったよ。」
と。

「岡安」とは岡安先生の事で短大の先生の1人。
私が民舞を習い出したのも岡安先生の作品がきっかけ。

でも基本的に目上の人と接するのが苦手で
どの先生にもさほどなつけなかった私は
どんな風に岡安先生に連絡をしたらいいかもわからなくて
相当困った。
ドギマギしたけど、、思い切って連絡をしたのだと思う。

…何て思われるだろう。
…何て言えばいいんだろう。
…ご迷惑じゃないかな。
…私のこと覚えてるかな。


岡安先生は、
「自分は関われないけど
作品を使うのはいいよ」と。
「あなた、自由にやってみなさい」
と言って下さった。

ただ、先生からもらった作品は
出来上がった脚本ではなくて
一人芝居の土台、のような形のものだった。

結局、どう料理していいかもわからぬまま
1人の時間が過ぎていったけど
短大の同期で演出や照明を仕事にしている友達が
演出を買って出てくれた。

本当に本当にありがたかった。

その友人と稽古を重ねていく中で
いつしかやりたいこと、見えているものが
ずれてきている感じがして
でもそれは完全に私が色んな意味で未熟すぎたからなんだけど
演出、という形からはその友人は手を引いて
照明だけを請け負ってくれることになった。
たくさん失礼なことを言って傷つけたかなと思う。
思ったところで後の祭りなんだけど。。

でも、それでも関わり続けてくれたことにただただ感謝で
その気持ちは今でも変わらない。
ずいぶん後になって改めて1度謝ってからは
もうその話は出さないけど
最初に助け支えてもらった恩は心にずっと残ってる。
会えば淡々とでいたって普通に接してるけど。
本当にありがたかった。

演出の友人が演出をおりてから
「関われないよ」と言っていた岡安先生が
忙しい時間をぬって関わって下さるようになった。

無償で、当時住んでいた新中野の稽古場に来て下さり
脚本にどんどん手を加えていって下さった。
民舞の師匠と共に3人で過ごす時間。
作品がどんどん形になっていった。

社会には出ているものの、
色んな形で学んでは来たものの、
まだ若く無知な私に
岡安先生はたくさんのことを教えて下さった。

上演料のこと、信頼の法則、1人で舞台に立つということ、、
学生の時には学べなかったことが
そこにあふれていた。

「道端でやってるとして、
あなた、人を立ち止まらせられますか?」
「学校卒業して色んな舞台に立ってきたでしょう。
第一線でやってる人たちから何を学んできたんですか?」
「あの人ならこうやる、
この役はあの人のあの時のを真似よう、
そういうのはないんですか?
いつかの自分のために。
そういう風には見てこなかったんですか?
あなた、何を学んできたんですか?」

事務所からの仕事には不満しかなかった。
前のブログに書いたキツイ舞台の後に
さらにたくさん商業演劇の和物の舞台に立ったけど
不平不満ばかりでその仕事自体、ある意味軽蔑してた。


…見てこなかった。
…なにも。


学ぶ気になればどこででも、何からでも学べるのに
私は文句たれて与えられたことだけをやって
舞台の上でも舞台の裏でもただただ腐ってただけだった。

今、その自分が、露呈している。
新中野の稽古場で
何者でもなく、何の芸もなく、
何の技術も、何の名声もない。
そして何からも学べていなかった25歳の女の子が
ここに いる。

「何もない」
ということを認めるのはショックだったけど
それがわかってよかったし
もしいつまでもわからなかったら、
何も始まらなかった。


怖いものはなくなった。

知ったその瞬間が怖いだけで
認めてしまえばそこからまた生き始めるしかない。

本当はとても簡単なんだ。
認めて。
進むだけだから。

1999年。
今から20年前の12月。
25歳の私は初めての一人芝居をやった。
下北沢にある小さな劇場で。

「一人芝居  聞き語り 津軽あいや節」

芝居はもちろんだけど
お客様に来て頂くことから何から
学ぶことだらけだった。
恥をかくことだらけでもあったし
支えて下さった方やお越し下さった方の
ぬくもりに涙が出る毎日だった。

人にものを頼むのがすごく苦手で
甘えることがすごく苦手で
頭を下げることもすごく苦手だった私には
拷問のような日々でもあったけど
それなしに舞台はできなかったし
何よりとてつもない、宝物のような経験になった。

信じられないくらいの人たちに支えられて
私はその後も岡安先生や民舞の師匠から学び
さらに出会いを重ねながら
自主上演を2回、喜多方公演を2回、
4年くらいなのか、この作品と深く関わっていった。

↓初演のものではなくて
色々とバージョンアップした頃の写真。
↓この頃、28.9歳かしら…
岡安先生からはよく
「観た人は色んなことを言う。
色んなことを言ってくれるけど
やった人にしかわからないことがある。
やりなさい。
そしてお客様の意見は、
3人の人から同じことを言われたら
その意見を素直に取り入れなさい。」
と言われていた。

この舞台で取り入れたご意見の中のひとつに
「もっと歌が聴きたい」というのがあった。

最初は流れる音に合わせて踊ってたけど
最終的には津軽の民謡を歌いながら踊った。
独学で歌ってただけだけどこの経験も
本当に今に生きていると思う。

言い尽くせないくらい
たくさんの人にお世話になったし
傷つけたりもしたけど
全部抱えてそれでも生きていくしかない。

すべての人にご恩返しはできないけど
恩を忘れないこと。
1人では生きていけないことを知ること。
それだけでも優しさに近づけるのではないかと思う。
私がより優しく、より感謝しながら生きていくことが
出会えた方々への「ありがとう」になると信じて。。

冷徹な私の心には
ちゃんと温かい血が流れていました。

皆さんのお陰です。


…つづく




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