わたしは人に旨いものを食わすのが好きだ。
 

私の父も、また祖父もそうであった。
身内ならいざしらず、

師や先輩にもごちそうになった。
わたしも、先師先賢に習い

後輩にごちそうすることがあった。

しかし、なぜ身銭を切って

そのようなこをするのか、
考えたことはなかった。

だた、先師先賢がしていたらか、

自分もしているのである。
しかも、先師先賢も、

なぜそうするのかは語らなかった。

いま改めて思うに、

言うことを聞かせるための「鼻薬」だったのか、
 

一人でひっそりと旨いもものを食うのは

気が引けるので、道連れがほしかったのか、

 

うまく説明できないが、喜びを分かち合いたい
気持ちがあったのかもしれない。

歳をとるにつれて、

与えられる喜びよりも、

与える喜びのほうが
数倍、嬉しい気持ちがつのることを覚えた。

「ありがとう」という言葉を言うのは、

少し気恥ずかしいが。


「ありがとう」と言われると、

とても嬉しい。


ただ、「ありがとう」という言葉を聞きたくて、
 

旨いものを「ご馳走している」のかもしれない。
 

だから、先師先哲は、

なにも説明しなかったのかもしれない。

 

 

「鬼平犯科帳」の世界

わたしは池波正太郎さんが描く、

 

鬼平犯科帳が好きだ。

 

小説は1967年から始まり、

 

池波正太郎さんが静かに筆をおく1989年まで続いた。

 

火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)の長官である鬼平は、

 

血も涙もない盗賊相手に容赦なく鉄槌をくだす。

 

その姿は痛快そのもので、

 

今の時代では、決してゆるされないことだが、

 

命をかけた戦いのすえ、悪党を成敗する。

 

しかし、鬼平さんはただの鬼ではない。

 

そこには温かみのある人情豊かな人柄がうかがえる。

 

鬼平には、盗賊といえども

 

すがる者には、慈悲深い一面も見せる。

 

そこがまた、男が男に惚れる

 

鬼平さんの姿がある。

 

 

グルメな池波正太郎さん

話はかわるが、

 

鬼平犯科帳にも、

 

うまそうな話が、しばしば登場する。

 

うまい物の描写がじつに上手で

 

香りや味が脳裏に浮かぶ。

 

おもわず、舌なめずりをしてしまう。

 

池波さん自身がグルメであるからだろう。

 

うまいものは、なにも大金をかけなくても

 

食べられるもので、

 

池波さんの食べられるものが

 

いつも高級なものとは限らないのが

 

その査証である。

 

 

浅蜊と白菜の小鍋だて

 

アサリのムキミと、細切りの白菜を

 

小さな土鍋にぶち込み、酒と水だけで煮る

 

ここで重要なのは、煮加減である。

 

あまり煮すぎると、アサリが固くなり

 

煮かたがあまいと生臭い。

 

小鍋から湯気があがり、

 

炎のゆらぎを楽しみながら

 

よいあんばいのころ

 

浅蜊を鍋から取り出し

 

燗酒をなめながら

 

ポン酢でいただく。

 

 

奇妙な取引

池波正太郎さんのカキモノで

 

「そうざい料理帖」というのがある

 

つらつらと食べ物の話しが

 

綴られている。

 

ここに、さきの浅蜊の一節がある。

 

さきの大戦のあと、焼け野原と化した東京で

 

銅鍋を手に入れた由来が登場する。

 

上野の地下道で暮らす浮浪の人(原文ママ)がいた

 

なんと、その浮浪の人が「銅鍋」を持っていた

 

”「いくらで売る?」

 

といったら

 

「五百円」

 

と、こたえたので、千円だして売ってもらったのだ。”

 

この話しはこれで終わり。

 

これ以上の説明はないのである。

 

当時、五百円といえば、

 

小学校の先生の初任給が

 

300~500円であったので、

 

給料の2~3ヶ月分の値段で

 

浮浪の人の言い値の2倍払い

 

中古の鍋を買ったのだ。

 

鬼の平蔵さんの機微

この話しを、あっさりと書き

 

その話しはこれでおわり

 

そこが

 

池波さんの男気であろう。

 

鬼平が魅了されるのは、

 

結局のところ

 

池波さんの男気の投影なのだな~と思った。

 

池波さんも、鬼平さんも

 

無駄なことをくどくどと

 

「話さない」

 

池波さんの機微を、

 

行間から感じられるようになったのは

 

いつの頃からであっただろうか。

 

 

thisisorkaによるPixabayからの画像

お行儀がよい大きなヒツジ

子どものころ、母親に「お行儀よくしなさい」とよくいわれました。「お行儀」とはなにかもわからず、子供心に「静かに」するものだと思っていました。大人になると、立ち振る舞いを正すことだと知りました。

 

親が子どもに「行儀」などを注意することを、しつけといいます。漢字で「躾」と書き、身体が美しくなると書きます。また「美」の字は、大きな羊(ひつじ)と書きます。「大きな身体の羊」にすることが、しつけです。少しおもしろい語源を持った文字ですね。

お焼香は仏様のごはん?

高校生がお葬式に参列しました。彼が「焼香」する順番になったとき、彼はなにを勘違いしたのか焼香を食べ始めました。とてもひどい顔で自分の席に戻りました。あとで、彼に聞いたところ、他の人が焼香するときに、背中越しに口に焼香を持っていっているように見えたそうです。

 

彼は、とても明るい性格でしたので落ち込むことはなく、周りの人に慰められていましたが、知らないというこは行儀の悪いことにもなります。

 

寝ても立っても「修行」

話しがそれましたが「行儀」のもともとの意味は、行事などで行う儀式のことを「儀軌」(ぎき)といいます。また「行」という字は、仏道修行を表し、行住座臥(ぎょうじゅうざが)のことをいいます。

お釈迦さまの時代は、文字ではなく話しを記憶をして広めました、釈迦さまのお話しを覚えるために、口ずさみながら歩くのを経行(きんひん、きょうぎょう)いいます。このように行く、住む、座る、臥(寝る)にもルールがあり、これらを総じて「行」といいます。

 

ルール違反はお行儀が悪い

「儀」は、儀式のことです。仏教行事にも、多くの儀式があります。皆さんがよく知っているのは葬式だと思いますが、それ以外にも多くの儀式があります。それらの儀式には、すべてルールがあり、そのルールによって進められます。そのルールを間違えてしまうと、先ほどの高校生のように「行儀が悪い」となるのです。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」といいます。分からないことは、知っている人から聞くという智恵をもって行儀良くしたいものです。

 

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精進は料理の種類?

「精進」という言葉を聞いたことのある方は多いのではないでしょうか。一番よく耳にするのは「精進料理」だと思います。精進料理は、肉や魚などを使用しない料理のことです。

 

お寺の宿坊などに泊まると、精進料理を提供するなかで「五葷」(ごくん)も使用しませんと言うところがあります。「五葷」とは、ネギ、ニラ、らっきょう、ニンニク、玉ねぎなどのネギ系の野菜のことです。この野菜は煩悩を刺激するから使用しないのだそうです。

 

「五葷」は地域や宗派によっても違いがあります。また、寺の入り口などに「不許葷酒入山門」と書かれている場合があり、「酒」を持ち込んでもだめなお寺もあります。

 

仕事に精を出す

ところで、良く働く人に「仕事に精(せい)が出るね」というと、ほめ言葉となります。精進は精勤(しょうごん)ともいわれ、「精を出して勤める」と書きますので、努力して仕事をするのと同じ意味になります。

 

インド仏教では、精進のことを「ヴィーリヤ」といいます。以前「娑婆(シャバ)」でも話しましたが、仏教経典が中国を経由したとき「毘梨耶(びりや)」とか「毘離耶」と漢字に翻訳されましたが、「ヴィーリヤ」という音のまま漢字に当てはめただけです。

 

この「ヴィーリヤ」を訳しますと「勇者」、「英雄」、「剛健」などとなります。ですので、精進することは勇者や英雄が常日頃から精勤し、たゆまず努力を惜しまないとなります。精を出して進む途中で煩悩が邪魔をしますが、勇気を持って精勤する人は英雄になれるのです。

 

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一喜一憂する勝利

恩田侑布子さんの俳句に

「勝ち負けを すぐ云うをとこ 茗荷の子」という句があります。

 

勝った勝ったと喜んだと思ったら、今度は、負けた負けたと一喜一憂し、すぐに忘れる子どものようだという意味でしょうか。

 

茗荷(みょうが)は、食べるともの忘れをするといわれます一喜一憂は、そのせいだと言われます。

 

茗荷は「冥加」(みょうが)に通じます。冥加とは冥利ともいい、「神仏から受けた利益」(りやく)のことをいいます。

 

「男冥利に尽きる」という言葉を聞いたことがあります。「勝負に勝つことは男冥利につきる」となると、「勝利」という言葉もあながち間違えではないような気もします。

 

仏の優れた教えこそ勝利への道

本来、勝利とは仏教用語で、「仏の勝(すぐ)れた利益(りやく)」から来ている言葉で、勝ち負けとは関係がないのです。

 

すぐれた利益があれば、「勝れていない利益」もあるわけで、こちらは「敗北」とは言わず「小利」(しょうり)といいます。

 

勝利も小利も同じ「しょうり」なので、どっちが勝ったのかわかりません。あえて負けた方は「敗北」となったのかもしれませんね。

 

負けた人は北に逃げた?

勝利の意味は仏教由来ですが、「敗北」はどうも仏教からきたのではないようです。「敗」という一字で「負け」という意味で、腐敗や頽敗(せきはい)などからも、ものが壊れる様子が「敗」に関係していることがわかります。

 

ではなぜ、「北」という字をつけたのでしょうか。無くても十分通じますが、「勝利と敗」では語呂が悪かったのか、「敗北」となりました。

 

この「北」という字は、人が背中あわせに座っている姿に見えます。そのため、敗東でも敗西でもなく「敗北」と書いた方がより一層、敵に背を向けて逃げる姿が思い浮かべられまるのかもしれません。

 

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なにかの縁があって出会いが生まれる

「あっしには関わりの無いことでござんす」このセリフを知っている方は、年配の方かもしれません。

 

「関わりが無い」とは、無関係、無縁ということです。親類のことを有縁の者といい、伴侶と別れるのを「離縁」といいます。仏教でも、縁者がいない故人を、「無縁仏」(むえんぼとけ)といい、守る人がいないお墓を、「無縁墓」(むえんばか)といいます。私たちの有縁無縁は「有ると無い」とう区別として認識しています。

 

 

無縁の衆生は度(ど)し難(がた)し

「仏の三不能」という説があります。これは、仏でも、「縁が無ければ救い難い」という説です。この考えかたは少し複雑ですので、ここでの詳細は控えますが、仏の慈悲は、あまねく行き渡り、その人が、望むと望まざるとに関わらず仏は常い救いの手をさしのべられています。

 

太陽の御恵

例えば、太陽の光のように、私たちは太陽の光を欲しいとか、欲しくないとか関係なく太陽の光の御恵を受けています。太陽の光によってアレルギー反応を起こす人にとっては、太陽の光は殺人光線のように思われ、なんとか光に当たらないように遮光し避けて通ります。

 

しかしその人にとっても、命をつなぐ食べ物は太陽の光によって作られているのです。アレルギーがあるとか、無いとか関係なく肉も魚も野菜もすべて、太陽と関係しています。太陽の光は、全ての人々にとって必要なものなのです。

 

慈悲の光につつまれて

仏は縁が有るとか、無いとか関係なく、慈悲の光を与え続けています。あなたが手を差し出せば、仏の慈悲はその手を拒むことはありません。つまり、仏教では有縁でも無縁でもない、その区別を超えた絶対平等なのです。

 

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放蕩息子 道楽過ぎて 道極め

親の気持ちとは違い、道楽三昧の息子がいました。両親はなんとか、我が息子を跡継ぎにしたい一心で、蝶よ花よと育て、欲しいものを買い与えました。

 

最新型の馬車を買い、美しい姫を娶らせ、暑い夏は、涼しい場所に宮殿を築き、寒い冬は、いつも暖かい宮殿を築き与えました。

 

しかし、息子は両親の願いとは裏腹に、そのようなものに見向きもせず道楽三昧の毎日を過ごしました。

 

他者とは違う道楽を求めて

道楽の本来の意味は、「道を願う」という意味です。「楽」は、たのしいという意味もありますが、「ねがう」とも読みます。

 

ですので、釣り道楽といえば、釣りを極めたい。茶道楽ば茶の道を極めたいとなります。このように、釣りでも茶でも芸能でも道を極めればもはや、遊びの域ではありません。

 

道をもって楽を受ける

法華経の薬草喩品第五には、「道を以て楽を受く」とあります。仏教でも、道楽を勧められています。ただ楽しいだけの遊びは、いつか飽きがきてしまいます。仕事を極めたいと願えば、次から次へと楽しさは増していきます。

 

究極の道楽者

王子様のころのお釈迦さまは、欲しいものをもらうなかには、楽しさが無いと思われたのです。本当の喜びとは、他者に与えるなかにこそあると気づかれ、その道を極めるために道楽をされたのです。

 

他者を救う道を極めたお釈迦様は、最高の道楽者ではないでしょうか。

 

 

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つらい修行をやめた人

あなたは、「退屈」と思ったことがありますか?

やることがなく、暇をもてあましている状態を退屈といいますが、仏教では少し違うようです。「厳しい修行をして、しりぞき屈した人」のことを「退屈者」と言います。

最初に退屈した人

それでは、仏教で最初に「退屈」した人は誰だと思いますか?

実は、お釈迦さまが最初の「退屈者」なのです。お釈迦さまは、王子の地位を捨て、二人の仙人のもとで修行をしました。二人の仙人の教えに満足しなかったお釈迦さまは、その後、断食をしたり呼吸を止めたり、思考や心の働きを止めるなど、不眠不休の苦行を続け、骨と皮だらけの身体になってしまいました。

 

このように命の危険をも顧みず修行をしましたが、心身の安寧を得るどころか、苦しみばかりが増す結果となりました。そこで、お釈迦さまは修行をやめてしまったのです。一緒に修行をしていた仲間は、お釈迦さまは「退屈した」といいました。

 

退屈によって悟りを得た

退屈したお釈迦さまは、菩提樹(ぼだいじゅ)の下で瞑想をしました。なに不自由なく過ごした王子時代。家を捨て心身ともに酷使した修行時代。さまざまなことを考えるうちに極端から離れ、どちらにも偏らない、中道のなかにこを真理があるこを悟りました。お釈迦さまは、偏った修行から「退屈した」おかげで、真理を獲得できたのです。

 

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修行をして退屈から脱出

あなたは、「退屈」と思ったことがありますか?やることがなく、暇をもてあましている状態を退屈といいます。

 

しかし、仏教では少し違うようです。「厳しい修行なので、退き屈した人」のことを「退屈」というそうです。

 

 

最初に退屈した人は

それでは、仏教で最初に「退屈」した人は誰だと思いますか?実は、お釈迦さまが最初の「退屈者」なのです。お釈迦さまは、王子の地位を捨て、二人の仙人のもとで修行をしました。二人の仙人の教えに満足できなかったお釈迦さまは、その後、断食をしたり、呼吸を止めたり、思考や心の働きを止めるなど、不眠不休の苦行を続け、骨と皮だらけの身体になってしまいました。

 

このように命の危険をも顧みず修行をしましたが、心身の安寧を得るどころか、苦しみばかりが増す結果となりました。そこで、お釈迦さまは修行をやめてしまったのです。

 

一緒に修行をしていた仲間は、お釈迦さまは「退屈した」といいました。

 

 

退屈によって悟りを得た

退屈したお釈迦さまは、菩提樹(ぼだいじゅ)の下で瞑想をしました。なに不自由なく過ごした王子時代。家を捨て心身ともに酷使した修行時代。さまざまなことを考えるうちに極端から離れ、どちらにも偏らない道、中道のなかにこを真理があるこを悟りました。

 

お釈迦さまは、偏った修行から「退屈した」おかげで、真理を獲得できたのです。

 

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丈夫な人は頼りになる

「いつかは大丈夫になる」と言われたら、あなたはどう思いますか?なんか意味が通じるような、わからないような、それこそ「大丈夫?」と聞きたくなります。

 

 

「大丈夫」は、のっぽな男性

この「大丈夫」は、インド語で書かれた仏教経典を、中国語に訳されたときの言葉です。「丈」は170㎝~180㎝(一丈)の高さをあらわし、「夫」は男の人のことです。ただ「背丈のある男」という意味ではなく、「立派な頼りになる、勇健な人」を指す言葉です。そして、お釈迦さまの教えを信じ、正しい道を進み、退くことのない人を言います。

 

 

お釈迦さまの十種類の呼び名

  • 応供(おうぐ)
  • 正遍知(しょうへんち)
  • 明行足(みょうぎょうそく)
  • 善逝(ぜんぜい)
  • 世間解(せけんげ)
  • 無上士(むじょうじ・し)
  • 調御丈夫(じょうごうじょうぶ)
  • 天人師(てんにし)
  • 仏(ぶつ)
  • 世尊(せそん)
お釈迦さまには多くの称号があります。この七番目に「丈夫」が付く、調御丈夫(じょうごうじょうぶ)という呼び名があります。この調御丈夫とは、「上手に人を教え、正しい方向へ導き、背丈の高い男の人」という意味になります。
 

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