色々とバタバタしてまして、ようやく落ち着いてきたので2023年秋の旅行記と行きましょうか。
2023年10月20日。
この時からリアルタイムで書いてましたので
これですね。
セントレア空港着。
すげー雨だわー…止むといいんだけど…
ブヒー
一階のフロアが八つ木瓜鍔風の壁紙なってました。
空港を後に一気に岐阜県不破郡まで。
実に4年ぶりなんだけど、あれから色んな所へクルマで移動してるのでものすごい早く感じたw
再び関ケ原の地へ。
関ケ原駅前観光交流館”いざ!関ケ原”
ここ、新設されたのかと思ってたのですが2015年開所だそうです。
前回もこの辺りをクルマで通ってるはずなんだけど目に入らなかったんだろか…
床に葵紋
因みに現在の地名は「関ヶ原」ではなく「関ケ原」が正式表記だそうです。
歴史的な表記では「関ヶ原」を使ってるのかも。
こちらは前回訪れた2019年春のもの。
市役所前の風景が様変わりしてましたw
この当時は工事すらも始まってなかったんですね。
こちらが2020年にオープンした関ケ原古戦場記念館。
これが出来たおかげで観光バスが来るわ来るわでw
関ヶ原の戦い自体は一般人も名前くらいは知ってるだろうってほど有名だけど
城みたいなメイン観光スポットがあるわけじゃないので
これまでは歴史好きくらいしか来なかったんだと思う。たぶん。
これが出来たおかげで一般層の観光客が大幅に増えた印象。
まずは腹が減ったので昼食でござる。
なんだっけこれ。東軍カツカレーだかそんなメニュー名。
そしてこれが今回の毎日カツを食す伝説の始まりとなったのだった…
1階エントランスに西軍武将の甲冑が展示されてました。
島左近
左近の通称があまりにも有名だが、本名は清興。
石田家筆頭家老にして三成の右腕。
「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と評されたのも有名。
関ヶ原本戦では三成本陣の麓に布陣し、
自ら陣頭に立ち東軍を幾度も押し返す活躍を見せるが相次ぐ裏切りによって西軍は総崩れ。
最期は三成を逃がす為に奮戦するも敵の銃弾を受けて討死したとされますが、
遺体は見つかっておらず、戦場を脱したという説もある。
個人的には脱した説が濃厚かなと思っている。
宇喜多秀家
五大老の一人。
西軍最大兵力を動員し、毛利輝元が不在のため総指令の立ち位置だが、石田三成が実質総大将。
関ヶ原開戦の合図になったのが宇喜多本陣へ物見と称した井伊直政による抜け駆け発砲。
これに焦った福島正則が先陣は我ぞと宇喜多隊へ発砲し、開戦したとされます。
宇喜多隊もよく戦いますが、最後は総崩れして壊滅。
戦後、宇喜多家は改易となり秀家は逃亡。
島津家に匿われるが、島津家久(悪い方の)によって幕府へ引き渡されます。
悪久と前田利長の懇願により死罪は免れ、八丈島へ配流となり84年の天寿を全う。
皮肉にも関ヶ原に参戦した大名では最も長生きだったというw
毛利輝元
五大老の一人にして名目上の西軍総大将。
またの名をアホの総大将w
いや、こやつは大坂に居ただけで参戦してないんですがねw
秀元を名代として派遣しているが、有名な宰相殿の空弁当によって身動きがとれなくなってしまう。
アホの大将殿が直接出陣していればまた状況は違ったのかもしれない…
どの道、時代の読めなかったバカ殿であるw
小西行長
キリシタン大名で洗礼名アウグスティヌス。
関ヶ原合戦図を見ると西軍の前線は横並びに布陣している様に見えますが…
前回、実際に陣跡へ足を踏み入れて神社の境内に布陣した宇喜多隊に対して
小西隊は見通しの良い広場に布陣しており、本当の最前線だということがよくわかりました。
この布陣からか少勢7部隊と同時交戦していたとか。
宇喜多隊同様に最後は総崩れして壊滅。
キリシタンは自殺を禁じられているので、最後は切腹を拒否し、斬首されたといいます。
毛利を除く、島、宇喜多、小西に加えて石田、大谷が本気で戦っており、
残る西軍勢は日和見で戦況次第では東軍へつく腹積もりだった。
西軍の絶対的有利な布陣にも関わらず半日で決着がついてしまったのはそういう事。
藤紋発見w
このスタンダードな藤紋は加藤嘉明かな。
戦国時代になると家紋にも個性を求め始めるので、大名達は家紋にも一癖入れ始める。
逆にこういったスタンダードな紋の方が珍しいかもしれない。
因みにgoogle先生に「清正じゃない方」で検索すると加藤嘉明が検索結果に出ますw
二階、戦国体験コーナー
このフロア唯一の撮影OKスポット
着付け撮影コーナーにて、
左から服部半蔵正成、徳川家康、井伊直政
不伝流の忍びである又五郎殿は強制的に忍者枠にされるでござる。
これ、そのまま撮影するのかと思いきや
後ろの緑カーテンに背景が合成される仕組みでその状態を備えつけのカメラで撮影。
撮影された画像が画面に映し出され、その画面を個人で撮影するというかなり原始的な方法でござるw
背景無くてもそのまま撮影で良いんじゃね?
これ、鞘付きトレーニングソードですね。
昔、西洋のロングソードを買おうかと思った事があるw
5階展望室
椅子の形が布陣図の駒になってておもしろいw
赤駒
青駒
床が関ケ原町の衛星写真になってまして
布陣図が記載されていたり
東側
左に細川忠興陣跡、正面の岡山烽火場に黒田長政・竹中重門陣跡
竹中重門は西軍に属していましたが、岐阜城陥落の際に黒田長政の勧めで東軍に属しています。
経緯やこの布陣からも両家の信頼関係がよくわかりますね。
右の山間辺りが岐阜城方面で、もう少し南へ行くと西軍の拠点だった大垣城方面。
黒田長政・竹中重門陣跡
北側
左にギリギリ決戦地が見えるか、右に細川忠興陣跡
北西側
左奥の林の中に島津義弘陣跡、
正面の笹尾山に石田三成と島左近陣跡、そのすぐ右に決戦地。
笹尾山
山頂に三成陣跡、麓に左近陣跡。
南西側
佐和山城方面と言えなくもないw三成の大まかな脱出ルート。
右の工場奥の林に宇喜多秀家陣跡、更に奥の山中に大谷吉継陣跡。
右に小西行長陣跡と開戦地。
南側
完全に工場に隠れてるが、その裏に左から藤堂高虎・京極高知陣跡、福島正則陣跡
更に奥の松尾山に小早川秀秋陣跡、その麓に脇坂安治陣跡。
右に宇喜多秀家陣跡、大谷吉継陣跡。
以上、関ケ原古戦場記念館でした。
2023年と言えば大河ドラマどうする家康放送中でして
パネルやらタペストリーやらがズラリと…
エントランスの甲冑撮るのに夢中で、出演者の等身大パネル撮るのすっかり忘れてましたw
記念館を出てすぐそこに家康最後陣。
雨足が加速してきたので、ここから眺めるだけにしておく。
渡り廊下になってるので雨は凌げるのだ。
両サイドにはのぼりが…
こ、この並びはッ!!
赤座直保
金吾さまと裏切り四人衆その一
日和見裏切り野郎のため、許されず恩賞も無し。遂には所領も没収される。
小川祐忠
金吾さまと裏切り四人衆その二
こやつも西軍不利と見るや裏切る日和見野郎のため、許されず恩賞も無し。
改易で所領も没収される。
朽木元綱
金吾さまと裏切り四人衆その三
後に返還され、分家の一つが丹波福知山藩主家として明治維新まで続いている。
脇坂安治
金吾さまと裏切り四人衆その四
当初から東軍に参加するつもりが三成に阻まれて渋々西軍に参加。
敵対するつもりは無いので、早い段階から東軍に味方する所存を伝えており、
所領は安堵され播磨竜野藩主家として明治維新まで続いてる。
この確信犯的並び方よw
その隣には…
平塚為広
大谷吉継隊に属して布陣。
裏切った金吾さま勢を数度に渡って撃退するも、
裏切り四人衆や藤堂隊・京極隊の攻撃に隊は壊滅。
為広は尚も奮戦するが、最期は小早川家臣または山内家臣によって討死している。
死の直前に吉継へ「名のために捨つる命は惜しからじ つひにとまらぬ浮世と思へば」と辞世の歌を送り、
吉継は「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」 と返歌している。
戸田重政
重政の名で知られるが、どうも近年の研究では勝成が本名だったらしい。
同じく大谷吉継隊に属して布陣。
金吾さま勢を相手に押し返すなど奮戦するが、裏切り四人衆に側面を突かれて挟撃を受ける形となり壊滅。
混乱の中、単騎(三成の本陣に向かっていたとされる)駆けしていたところを織田長孝(有楽斎長男)隊に補足される。
家臣の津田信成(長孝本人説もあり)と戦闘になるが、 手柄を横取りせんと他の家臣達が割って入ったため、
勝成は「将たる者の首を取るには法がある。汝、覚悟はあるのか」と一喝したという。
これに怯んだ家臣達にかわって主人の長孝が「承る」と応じ、首を獲ったとされる。
東軍の諸大名には勝成と親交のある者が多く、その死を聞いて皆涙し、総大将の徳川家康までもがその死を惜しんだとか。
関ケ原町歴史民俗資料館は関ケ原町歴史民俗学習館としてリニューアルされていました。
展示物の大半は古戦場記念館の方に移設されていますが、
一部の甲冑類が残されていました。
どうやら大河ドラマ仕様の甲冑類の様です。
こちらは麒麟がくる
明智左馬助秀満の兜
徳川家康の兜
明智光秀の兜
関ヶ原の戦い・西軍
左から大谷吉継、石田三成、島左近
大谷刑部の隣には金吾さまこと小早川秀秋w
いや、この並べ方も確信犯だろw
関ヶ原の戦い・東軍首脳陣
東国無双・本多忠勝
東軍総大将・徳川家康
井伊の赤鬼・井伊直政
大阪の陣
こちらは淀殿の打掛
左から真田幸村、豊臣秀吉、豊臣秀頼
兜が無いのは結局被らなかったから…とか?
幸村は真田丸仕様ですが陣羽織なし。
フレームアウトしてるが足下には十文字槍も置いてましたw
こちらは麒麟が来るの火縄銃
よく見ると左に光秀が背負っていた赤いビロードの袋が。
こちらは功名が辻
山内一豊の数珠、千代お手製の雑巾・お手玉・匂袋・笛入れ・布草履
こちらは武者人形で再現した関ヶ原の戦い。
武者人形全468体だそうです。
西軍側
東軍側
徳川家康
本多忠勝
井伊直政
左に元服前みたいな少年が居るけど忠吉…?すでに21歳だけど…
大谷吉継
石田三成
以上、関ケ原町歴史民俗学習館でした。
駐車場へ戻り雨も止んできたかと思いきや…
走りだすと突然また雨が…
雨が酷いので車内から決戦地。
折角、来たのでここくらいは立ち寄らねば…
島左近陣跡。
この上に石田三成陣跡
雨足が強くなり、登るのが結構辛いw
ここ、こんなに長かったっけ…?
石田三成陣跡到着。
展望台へ登り…
前回もここに登ると共に凄まじい雨が降ってきたんですが、今回もまた…
こちらが西軍側の布陣
正面奥の林に不動の島津、そのすぐ隣の広場に小西、右の林の宇喜多、
隣の山に平塚・戸田、隠れて見えないけどその奥に大谷。
まったく動かない島津に大谷、平塚、戸田、宇喜多、小西は壊滅。
こちらが東軍側
背後の南宮山には毛利・吉川・安国寺勢が布陣しているが、吉川によって足止めされている。
戦線を押し上げられて、最終的に家康最後陣は目と鼻の先に。
向かって右手はやる気の無い島津を残して壊滅、
左手は戦線を押し上げれられ、残るは石田と島の手勢のみ。
ここに登ると三成の絶望感が伝わってくるわ…
最後陣ズーム
古戦場記念館が出来たおかげでかわりやすくなりましたw
下山しながら雨足が強まる一方…
雨がドバァァァァァァァァァァァ
麓に着いた頃には土砂降り状態でした。
前回は、下山した途端にピタッと雨が止んで
「今のは三成の涙雨か」とか言ってたんですけどね…
オマエらはよ出てけと言わんばかりの土砂降りに追い出される形で三成陣跡を後にしました。
どうやら治部少輔殿には完全に嫌われてしまったらしいw
続く





















































































