続・関ケ原古戦場

小西隊の陣を後にし、南天満山へ。

山道を進み見えてきました。

西軍副大将・宇喜多秀家陣跡。

しまったピンボケしてしもうたッ!!

 

そして、天満神社。

西軍最大勢力17000という宇喜多隊。

境内に布陣していたんですね。

そして17000の兵に対してたった十数名で挑発しに行く松平忠吉と井伊直政。

石碑の写真が撮れませんでした。

見落としたのか、

それとも歩いてきた山道とは別にクルマがギリギリ通れるくらいの道もあるそうで、

そちら側にあったのか。

戦後、秀家は八丈島への流罪、浮田久福を名を変えて82歳で没します。

松平忠輝といい、島流しに遭った人が長寿なのは何という皮肉だろうか。

 

島津、小西、宇喜多としばらく山道やら農道の様なところが続いたので

久しぶりにちゃんとした舗装路に出た気がする・・・w

次の目的地へ向かう途中

西首塚。

偶然にも通りかかったので、立ち寄る事に。

面白いことに最初に立ち寄った東首塚も偶然通りかかったというか停車した場所に「あった」という。

 

 

 

あれ・・・?なんかカメラが怪しい・・・

ここでデジカメが完全に沈黙する・・・

痛恨のバッテリー切れである!

これは彦根城で写真撮りすぎたか!?

そういや去年の島根でも松江城で写真撮りまくったおかげでバッテリー切れを起こしたんだった!!

 

という事で、ここからスマホカメラへ切り替え

遂にやってきました。

藤川台。

そして、ここへ布陣した大谷吉継。

その配下に戸田重政、平塚為広。

因みに戸田重政ですが、おそらくは戸田氏で最も知名度の高い武将でしょう。

不伝流流祖・戸田不伝孫市は遠縁であり、

孫市は三河戸田氏、重政は非三河戸田氏ではあるものの

戸田一門もまた東西に分かれて戦っていたのだ。

470mなんてすぐだろなんて思ってたが

起伏の多い山道なので結構な距離を歩いた気がしますw

さあ、ついにやって参りました。

ベンチが設置されているのも人気の証でしょう。

石田三成が悪く言われるのはよく聞くけど、

この御仁が悪く言われるのは聞いたことがない。

大谷吉隆墓

吉隆となっているのは合戦前に吉隆へ改名した説があり、その為と思われる。

こちらは大谷吉継墓となっています。

そんな私も大谷吉継は大好きな武将だ。

ここは関ケ原古戦場で私が最も来たかった場所である。

刑部ーーーーー

会いに来ましたぞーーーーー

 

こちらは吉継の側近、湯浅五助隆貞の墓。

吉継の介錯を務めたのも湯浅五助。

「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と言い残す吉継。

遺言通りに五助は首を隠すが、直後に藤堂高刑と遭遇。

五助は自らの首と引き換えに主君の首の在処は秘匿にするよう頼む。

高刑は約束を守り、吉継の首の在処を頑として答えなかったといいます。

その藤堂家によって吉継の墓は建てられ、

後に五助の子孫によって五助の墓も主君に寄り添う形で建てられたそうです。

ここへ来るまでに戦国無双のパネルを至るところで目にしましたが、

その戦国無双では大谷吉継と藤堂高虎は浅井長政の家臣時代から友人関係とされていました。

資料が乏しく確証はないそうですが一説に大谷吉継の父・吉房は浅井長政に仕えていたとされ、

そしてこの墓のエピソードもあって、友人関係の設定になったんでしょうと納得。

 

 

大谷吉継は癩病を患い、病み崩れた顔を頭巾で隠していたとされる。

その症状がこの墓石に現れたという伝承がある。

細かい斑点が現れているのがおわかりいただけるだろうか。

裏は何もないんです。

最後に手を合わせて。

安らかにお眠りください。

大谷刑部こそが義の将である。

大義でもなく、忠義でもなく

友への義である。

 

 

すぐ側に顕彰碑があります。

 

建てられたのは戦前のあの時代だそうで・・・

なんか色々と間違ってるんだよなぁ・・・

なにが武士道の模範だっての。

晩年の老害秀吉のおかげで苦労していた家康に次の時代を見ていたのかもしれない。

関ヶ原合戦前の吉継は家康と懇意であり、そのまま行けば後の江戸幕府での立場も安泰だった事でしょう。

西軍へ付いたのは秀吉への忠義ではない。

友の決意を汲み取って勝ち目が無いとわかっていても西軍へ付いたのだ。

もう一度言おう。

友への義である。

 

 

たぶん世間一般的にも大きな誤解があると思うんですが

関ヶ原合戦は

徳川VS豊臣

と誤解されてる方がかなり居るんじゃないでしょうか?

 

ではなく、本当は

豊臣政権内の争い

なわけなんですよね。

徳川が豊臣から政権を奪ったようなイメージを持ってる人がかなり居ると思うんですけど。

結果的に勝者家康が征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開く事になったという話であって、

断じて力で奪い取ったわけではない。

年端も行かぬクソガキの成長を待つより、勝者となり今最も力のある家康に武家の棟梁まかせるべきじゃね?

という朝廷のお考えで征夷大将軍へ任命されたということです。

まあ、家康にもそういった狙いがあったとは思いますがw

よく「義は我にあり」な感じで三成が描かれていますが、これは江戸時代の軍記物の影響だそうで

実際のところ謹慎中だった三成は今出なければ家康に好き放題されてもう後が無くなるといった感じで兵を挙げたとも言われています。

たぶん大義は家康にあるw

 

刑部の墓から少し歩くと

大谷吉継陣跡

当時の塹壕が残っているそうなのですが

家帰ってから気付きました無念なり・・・

そして、この先には

松尾山眺望地

大谷隊はこの場所で松尾山に布陣していた小早川秀秋に備えていたと言います。

まさにこの真下で三度に渡って数倍の兵力の小早川隊を押し返したという。

こちらの看板を見ての通り

JR東海道本線、国道21号線、JR東海道新幹線、名神高速道路

今も昔も関ケ原は交通の要衝ということがわかる。

 

そして、ここから山頂付近に旗が立っているのを肉眼でも確認できるのだ。

拡大

真ん中よりちょっと左の白いヤツ

 

更に拡大

真ん中の白いヤツ

 

最後に自撮棒刀でポージングw

自撮り棒として一度も使っていませんw

 

名残惜しいが下山します。

 

下りた先は

神社の境内。

若宮八幡神社

弘文天皇が祀られている神社です。

戦国武将人気と知名度のおかげで関ヶ原合戦ばかりが取り上げられますが

672年に壬申の乱も起こっているんですよね。

正式には大友皇子。

壬申の乱で敗死したため治世は半年と短く、長らく歴代天皇には数えられていませんでしたが、

明治時代に弘文天皇の諡号を贈られ歴代天皇に列せられます。

祠が幾つもあり見に行こうかなと思った矢先・・・

 

 

 

後ろを振り返って驚愕する・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

え・・・

なんですかこれは・・・・・

 

 

 

黒焦げの木片が・・・

落雷でしょう。

これほどの巨木、おそらくは樹齢は相当なものだったのでは

まさに空いた口が塞がらぬ状態で

一瞬、頭の中が全て吹っ飛びました・・・

 

続く