今日(6月5日)の小樽は、天候小雨、最高気温13.4℃ (15:59)、最低気温11.5℃ (22:38)、最大風速 3.6m/s (22:50)。

 今日は昼間ほとんど小雨が降っていた感じ(1日の降水量4.5mm)。でも、基本的に6月の北海道は、おそらく1年の中で一番快適な気候になる。暑からず、寒からず、北海道には原則梅雨がないから空気も清涼。たくさんの花が咲き、緑が段々濃くなっていく。特に嬉しいのは昼間の時間が長くなること。北欧のような白夜にはならないけれど、本州よりは確実に昼間の時間が長くなる。

 私は、昼間の時間が一番短くなる12月が大嫌いで(北海道は本州よりもはっきり短くなる)、なんだかこの世が終わりに近づいているような気がしてしまう。その点、6月は希望に満ちた将来が待っているような気持ちにしてくれる。永遠に6月が続けばいいのに。

 この間東京・横浜に行ってみたら、 " マスク厨 " が明らかに少数派になっていた。嬉しいなあ。2割かな、3割かな。北海道は田舎だから、まだ半分以上マスクをしているんじゃないだろうか。マスクをつけるのも遅れたけれども、外すのも遅れる。いかにも田舎。

 私はそこらの薮医者とは違ってマスク真理教の信者ではないので、直接強制されない限りはマスクをしたことがない。東京・横浜には毎年出かけているけれど、マスクが最盛期の時でも1人マスクをしないで歩いていた。

 東京駅の通勤混雑時など、大量の人がぞろぞろ歩いていたけれど、私以外はみんなマスクをしているという状況も経験した。ほとんどの日本人とは違って、私は自分1人が別のことをしていることが平気なようにできているらしい。まあ、奇人・変人の類いだね。

 でも、正義はこちらにあると信じて疑わなかった。「あんなマスクでウイルス感染症が防げると本気で思ってる? へそが茶を沸かすって。」と思い続けていて、実際問題正しかったのは私だった。本当に医者というのはノータリンで、今でもマスク強制の病院はあちこちにあるからね。おまけに医者は傲慢だから、反省することもないのだろう。

 マスクで思い出したけれども、その昔、「クール・ビズ」というものがあった。あ、今でもあるか。私の大嫌いな小池都知事がかつて推進していた。だからという訳ではないけれど、私は気にくわない。

 というのも、北海道は関東とは全然気候が違うからだ。北海道は6月でも肌寒い日がある。今日なんかもそうだよね。私の記憶では、寒い年には7月でも煙突付きの灯油ストーブに火を入れたことがある。おまけに私はネクタイが嫌いではなかった。ネクタイは嫌いではなくて、仕事が嫌いだったものだから、朝身支度をするときにはネクタイをキュッと締めて自分に活を入れ、仕事モードにしていた。仕事を終えて帰宅後にネクタイを外して仕事モードが解除される。

 そんな変人だから6月にネクタイを締めていたのだけれど、上司から舌打ちされたことがある。「ここは日本、全体主義を馬鹿にするな」ということだろうね。意味があろうがなかろうが、合理的であろうがなかろうが、損であろうが得であろうが、周囲に合わせろということなんだな。フォーマルな服装をして非難されるいわれはないと思ったけれども、そんなことで査定を下げられても困るから以後従うようにした。馬鹿馬鹿しいね、日本は。

 ワクチンは一度も打っておらず、これからも打とうとは思わないけれども、それって父親の影響かと思っていたら、ふとこの間、母親の影響ではないかと思い直した。私の母親は農家の娘だけれど、農薬が大嫌いだった。父親が家庭菜園をしていても、農薬を使うなとしつこく言っていた。父親の方は生返事で、といっても母がうるさいものだから、おっかなびっくり少量使うという状態だった。

 食品添加物も大嫌いで、小学生の時に私が「マンボ」という駄菓子を友達から貰って帰ったら、ストーブに放り込まれて燃やされた記憶がある。もう60数年前の話で、着色料を嫌ったのか、サッカリンでも入っていたのかよく分からない。

 とはいっても、おばさんだった母親は科学的に厳密だったのではない。家庭の主婦をしていたこと、経済的に豊かではなかったことなどから手作りの品が多くなり、見栄えのいいデパ地下などの食料品に対抗するために、添加物の入らない自分の料理の優位性を訴えたかったのかもしれない。

 とはいえ、それはそれでありがたいことで、私は今でもコンビニのおにぎりや弁当は口に合わない、いかにも手作りという味付けを好む。それが健康の維持に一役買っているかもしれない。

 アメブロのホームページ(マイページ?)を見ていたら、「4年前の6月に書いた記事があります。「小池都知事と蓮舫議員」」という表示が出た。「あ、先月31日に書いた「小池百合子 VS 蓮舫」という記事がもうフィードバックされたの?」と思ってクリックしたら、違った。間違いなく2020年6月4日に「小池都知事と蓮舫議員」という記事を書いている。すっかり忘れていた。

 読み返してみても、もう4年前のことだから自分で書いたとは思えない。でも、なかなか面白い。他人が書いたものとしても面白い。どこが面白いかといえば、歯に衣着せずズケズケと書いてあるところ。正しいか誤りかということよりも、当たっていようが間違っていようが大胆に書いてあるものは面白いね。

 「小池都知事も蓮舫議員も私の嫌いな人であるが」「歴代東京都知事を眺めてみれば分かるが、政治家としてまともな人間はいない。」「遊び半分に興味本位で、際物、下手物ばかりが選ばれるのが東京である。」「さすがに「かわい子ちゃん」という年齢ではなくなったが、昔美人だったという威力はある。」「二人とも頑としてそれを拒否している。簡単にできるはずの無実の証明をしないのだから、有罪と疑われるのは仕方がない。」「男を使いこなすことが、二人ともできないせいではないかと思う。」

 いやあ痛快だね。よくここまで書けるものだ。読みながら、「一体こいつ何者だ?」なんて思ってしまう。自分で書いたらしいけれどね、あはは。ということは、現在の私はこれでも少し大人しくなったということかな。

 この「小池都知事と蓮舫議員」の次に書かれた記事が「安倍政権暴走中」というのだから、これまた笑ってしまう。元気に暴れていますねえ。書いてあることは、外れているところもあるけれど、今の私が読んでも鋭いと感じるところもある。時代が大きく変わったと思わせるのは、この記事の最後に書いた「マスコミはもちろん烏合の衆である。カラスの群れと大差ない。」と書いたフレーズになる。

 今やマスコミの役割ははっきり見えるようになった。政府のプロパガンダ機関であり、国民を洗脳する機関であり、「みなさまの " 敵 " NHK」になったといえる。場合によっては日本政府以上の偏りでデマ報道を行うから、直接アメリカと癒着しているのだろう。

 大東亜戦争の敗戦後は、財閥解体、農地解放、労働改革などが行われたけれども、将来的にアメリカが世界の覇権を失うようなことになった場合には、真っ先に行うべきはNHK解体だろうね。民放各局も新聞社とつるんでいるようなことはやめさせるべき。現在のマスコミと政治の癒着は国難を招くほどの深刻なものになっているから改めさせなくちゃ。

 それにしても、権力というものは油断ならないものだね。ちょっと目を離している隙に、まるで、湿気のあるところに生えるカビのように腐敗が進行してしまう。カビは湿気によって成長するけれども、権力の場合は " 金 " によって腐敗する。裏金問題も、新型コロナ騒動も、ワクチンも、憲法改悪も、全部金から生えてきている。

 腐敗を防ぐために一番効果的なことは、政権交替なのだけれども、日本人は政権交替が嫌いだからね。ということは、腐敗が好きということかな。結構あちこちでお役人とつるんで甘い汁を吸っている人が多いということかな。私のところには一銭も回ってこないけどねえ。だから平気でこんなことを書くこともできる。

 コーヒーの自家焙煎・抽出は一時不調だったけれども、新たな方向にチェンジしている。というのは、抽出方法によってずいぶん味が変わるということに気がついたせい。今までは、焙煎は大切だけれども、抽出に関してはどのように淹れても大差ないだろうと思っていた。ところが、抽出方法によって全然違うコーヒーになると気がついた。

 私の場合、一番はコーヒー豆の量よりもお湯を多く注ぎ過ぎていたこと。これがとっても良くなかった。今はお湯の量を半分にしている。豆15gにお湯200cc。もっと少なくするほうが良さそうなんだけれど、不思議なものでそれがなかなかできない。

 それからお湯の温度。サイフォンでグタグタに煮出してやったら、胃腸が見事にやられてしまった。胃壁・腸壁が荒れるというかえぐられるというか、そんな感じ。おいしいんだけどね。今は92℃くらいで、クレバーコーヒードリッパーを使っている。けれども、やっぱりカリタに戻そうかなとか。

 お湯の温度とか、どのような器具を使うとか、どのような淹れ方をするとか、あまり関係がなさそうに思えるのだけれども、それが大違いだから驚く。「○○さんの入れたお茶はおいしい」なんてことは、どこでもいわれているようなことで、単なる社交辞令かと思っていたけれど、どうやら本当にそのようなことがありそうだ。

 そういえば、何十年も前の話になるけれど、女性ばかりがいる総務課で課長をしている人が言っていた。毎朝出されるお茶を飲んで絶対に「おいしい」と言ってはいけないと。あるいは、一度「おいしい」と言ったら毎日言い続けなければいけないと。

 というのも、言ったり言わなかったりすると、「フン、私の入れたお茶はマズイってこと?」となって、収拾がつかなくなるからということだった。

 本当にそういうことがあるのかないのか知らないけれど、いずれにしても古い時代の話だねえ。私が就職した頃は、お茶を入れるのは女の人の役割だった。当然の習慣でそのことを誰も疑問に思っていなかった。それが20〜30年くらい前だろうか、女の人がお茶を入れなくなった。というか、男女の区別も地位の区別もなくなった(秘書がいるような偉い人は別)。

 私などは、下っ端の管理職をしたことがあるけれど、客が来たときにも自分でお茶を入れて出していたくらいだった。そうなってくると、客の方もお茶を断る人が増えてきた。良いことなのか悪いことなのか知らないけれど、自然といえば自然の流れ。

 大体において、むさいおやじがお茶を運んできたって、どう見てもおいしそうには思えないもんね、本当はおいしいものだったとしても。そんなつまらんことでも、世の中変わって行きますね。良いのやら悪いのやら。まあ、おいしいお茶が飲めなくなり、ゆとりがなくなったのは確かかな。