本牧読書日記。S・スローマン、 F・ファーンバック「知ってるつもり」・無知の科学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)。
ソクラテスの「無知の知」に似た書名と「ハヤカワ・ノンフィクション」の組み合わせでは、一体どんな本かと思ったが、読んでみると2名の認知科学者による共著で、実にまともな著作であった。
原題は「THE KNOWLEDGE ILLUSION ・Why We Never Think Alone」。
「知識の錯覚」。現代人は知識のコミュニティ(「集団的頭脳」)に生きており、一人で考えていることはたかだか知れている……そんな深い内容の本なのである。
原始人間は生き抜くために思考し、知識は生きるための行動への必要性が全てであった。
だから小グループで狩りをするにしても、個人、個人は誰でもその全てを知っている。
どのように獲物を追いつめ倒しさばくのか、個人が万能選手であり全知識の持ち主であった。
しかし次第に分業・専門化するに従い「個人」の知識は全体の中で相対的に極小化していく。
今や自動車の何万という部品の機能を知らなくても運転することは出来る。
本書序章 :「人間の知性は、大量の情報を保持するように設計されたデスクトップ・コンピューターとは違う。知性は、新たな状況下での意思決定に最も役立つ情報だけを抽出するように進化した、柔軟な問題解決装置である。その結果、私たちは頭のなかに、世界についての詳細な情報をごくわずかしか保持していない。……知性は個体の脳のなかというより集団的頭脳のなかに宿っている」。
だから「We Never Think Alone」なのである。
序章は続けて「我々は家庭・学校・社会で教育を受け、さまざまな経験を積み、膨大な情報に接し、自分でも研鑽し考えに考え、解らないことは本を読み専門家に尋ねネットで検索して調べたり確認をとり、それでまあまあうまくやってきた。知っていることは人にも教え、それらは決して間違ってないはずだ。自分では相当の知識が蓄積されていると思っている。別に自慢する訳ではないが、謙虚に思ってみてもそれなりに知識を持っているはずだ」。……大部分の大人はそう思っている。
でもこの文章の中で本当に自分が作り上げた知識はどのくらいあるだろうか?
「家庭・学校・社会」以下「ネット、コンピューター」に至るまで、全部「集団的頭脳」。
個人は「知識のコミュニティ」の中にいるだけではないだろうか?
だから認知科学的に指摘すれば、我々は「Knowledge Illusion」から免れてはいないのである。
「なぜ人間は、ほれぼれするような知性と、がっかりするような無知をあわせ持っているのか」が本書序章の結論部分である。
人はどうやって思考しているのか?そしてどうして間違えるのか?
人は先ず「物事の因果」を考える。「因果的推論」には「直感(観)」と「熟慮」がある。
「熟慮」が常に正しいとは限らないが「直感」はもっと大きな確率で間違いをおかす。
p127の例題を3問引用してみよう。
①バットとボールで合計1ドル10セントである。バットはボールより1ドル高い。ボールはいくらか?②湖面にスイレンの葉が並んでいる。その面積は毎日2倍になる。48日で湖面全体がスイレンの葉で覆われるとすると、湖の半分が覆われる迄には何日かかるか?③5台の機械を5分間動かすと製品が5つできる。100台の機械で100個の製品を作るのに何分かかるか?
即答形式での一番多い回答は①10セント ②24日 ③100分と「直感」による誤答であった。
「熟慮」すれば①は2x+100=110でx=5(セント)、②は前の日に2分の1なのだから47日、③は1台5分で製品1個だから5分とわかる。名門大学生を含む米国人調査では正解20%だったそうである。
でも、この「直感」を非難することはできない。
複雑化する日常の中で、我々はいちいちを「熟慮」することは不可能である。
ほとんどのことを「直感(観)」で処理している。
また「概要」を知っていればよいのであって「詳細」まで知る必要もない。
「直感」は単純化された大ざっぱな、そして必要十分な分析結果を生む。
だが時として、我々に何かを「わかっている」という錯覚を抱かせる原因ともなる。
よく考えると物事が実際にはどれだけ複雑であるかがわかり、それによって自分の知識がどれだけ限られているのかがはっきりする。我々が大方は間違いなく判断し、なんとか無事に人生を送っていられるのは、全く「他人の知」「知識のコミュニティ」の中を生きているから可能なのである。
この事だけは認知しなければならないだろう。
これが2人の認知科学者が本書の中で繰り返し述べている主張であり、警告なのである。
歴史的な科学上の発見、例えば発見者の名前を冠した「ヒッグス粒子」。ここでもヒッグス博士の後ろには3000人に及ぶ専門研究者の実績の蓄積があってのことだという。
アインシュタインもキュリー夫人も同じ。
ニュートンは「先人達の背中に乗って私は自然を観た」との言葉を残している。
考えられないほど優秀な天才達でも、こうした「他人のお陰」なのである。
いわんや平々凡々たる一般人においてをや!である。
以上、超おおざっぱに本書の一部を要約した。ここからは個人的見解を主にして記す。
特に「因果推論」を実験的・論理的に実証できる「科学」の世界では、数世紀にわたって積み上げてきた「知性的・知識文化」の歴史がある。
対して人文的世界ではその進歩はずっと遅い。
退歩の場面もしばしばである。「三歩進んで二歩さがる」状況だったと言える。
我が国ではやっと最近になって「専門委員会」や同類の組織による見解が、政治的・社会的システムにも取り入れられて、係争問題についての客観的な「知性」を発揮してくれている。
「知識のコミュニティ」のひとつの形であり、大変結構な傾向だと思う。
行政実施の段階になると泥臭い話も出てくるが「基準」ができただけでも大きな進歩である。
しかし、それを受けとる「世論」なるものはどうだろうか?
ややもすると「反知性的」方向に傾く。
その典型例は「風評」という何とも得体の知れない怪物である。
「感情」先行というか、何処からどのように発生しているのか不明、どうにも始末が悪い。
鎮静化が非常に困難で解消に長期間を要する。社会的ロスも大きい。
かと思うと「あれは何だったのか!」とあきれる程あっけなく過ぎ去る。
「狂牛病、空(から)騒ぎ」があったのはいつ頃だっただろうか?
こうした話は「ダイオキシン」とか「O157」とか極小リスクへの過大警戒の例が多い。
「風評」とは性質が異なるが「反知性」として、本書ではかつて集団自決した米国の忌まわしい事件例など、カルト・宗教集団のことにも触れている。
「イリュージョン・錯覚」というより「妄想」に近い事例は歴史と共に古くあとをたたない。
我が国での現在進行形は旧統一教会。被害者や弁護団にとっては「やっと」の思いであろう。
「オーム」からまだ二十年も経たない内での宗教カルト問題としての発覚である。
宗教色の薄い不法商法は「ネズミ講」や「オレオレ詐欺」に至るまで、世の中ではどれだけの「悪徳業者」やそれに乗せられる(敢えて書くが)「愚かな善人」が存在していることだろうか。
本書を読み終わって、そうした人間の「認知」の底知れない深淵を覗き込む思いに強くとらわれる。
「認知」については、誰もが持つその「ゆがみ=バイアス」を教えてくれた本「バイアスとは何か」(22年3月記載)が非常に面白かった。
本書は同一の分野であるが、更に視野を広く高くした良書である。
実はここで触れた事項の何倍もの指摘があり、とても書ききれない。
人間とはまさに個人的にも集団的にも「認知に囲まれ、自らも認知に生きる動物」である。
次回はロックフェラー御曹司の遭難事件「人喰い」です。
この事件を覚えている日本人も随分と少なくなっていることだろう。