本牧読書日記。辻原登「陥穽」・陸奥宗光の青春    (日本経済新聞出版)。

外務省には二つの陸奥宗光(1844~97年)の銅像がある。一つは本省東口玄関、もうひとつは研修所玄関ホール。彼は不平等条約改正に尽力し「日清戦争処理」という近代日本の基礎固めに心血を注いだ。

二つの像は「外交官の鑑(かがみ)」としての評価の表明であろう。

頭脳明晰、能力抜群、理非を以て人を説いた。しかし何故か人からは疎まれる事も多かった。

彼は逆境に育ち、若い時からの肺結核に悩み、仲間内での評判は悪く、明治天皇・岩倉・大久保等の権力者から嫌われ、5年間近くの入獄まで経験している。よく立ち直ったものだ。

そこには彼の能力を高く評価する支持者もまた多く存在したのだ。例えば伊藤博文。

「伊藤博文」を知らない人はいないだろうが「陸奥宗光」を知る人はその何分の一だろうか。

僕も「蹇蹇録」を人に教えられるまで「けんけんろく」と読むことができなかった。

本書は23~24年と日経新聞に連載の、陸奥が「伊達小次郎」であった青春時代の物語である。

亀山社中・海援隊で坂本龍馬と親交を結び、勝海舟・桂小五郎(木戸孝允)の知遇を得、伊藤博文と厚い信頼関係のもと幕末・維新に活躍した。やはり並々ならぬ異才の士だったのだ。


父親は紀州藩重臣・寺社奉行の伊達宗弘。藩の金融や産業の振興に成果をあげる一方、史論「大勢三転考」を著す程の学識を備えていた。しかし政争(藩主後継をめぐる国元派対江戸駐在派との間の反目)に巻き込まれ、田辺での幽閉・蟄居に処せられる。家族は所払いで放逐された。

母子は高野山山麓で困窮の生活を送り、小次郎は高野山学侶(学生小坊主?)となる。

時あたかもペリー来航。奨学生推薦を得れば「脱藩」することなく江戸に行けるのだ。

優秀な彼は計画通り目的を果たす。しかし江戸に出た途端、学寮を飛び出して手紙類の配達や小間使で自活。郷里出身の学者(医師)高岡要の書生となり、英語力(ベンサムの功利主義等の教材)を始めとする基礎力を身につけるべく勉学に励んだ。と同時に訪れる人物との交流も得ることができた。

時代は将軍後継者争い(家茂派対慶喜派)、桜田門外事件から始まる大変動の時代に入る。

高岡時代の小次郎は龍馬と知り合い勝海舟主宰の海軍操練所入所を強く希望するようになった。

それからは小次郎の京都・関西時代となる。彼の志と行動力は急速に輪を拡げて、長州藩士(桂・伊藤)のみならず、福井藩(松平春嶽・横井小楠)の公武合体的な論にも接して自分の思想を磨き、後の議会制を想定したような「愚論」と名付けた小論を著して立場を明らかにしていく。


小説やドラマでは「尊皇攘夷」に凝り固まった志士達と、対立する佐幕・新撰組等との派手な死闘が繰り広げられている。実際に鳥羽・伏見戦争に至る経過の中でそうした場面は数多かっただろう。

しかし外国と接する機会が増えるに従って「攘夷」なんてとても無理、「建前」に過ぎなくなってきたというのが実態であったようだ。英国艦隊に市内を全焼された薩摩も、最右翼の長州だって下関戦争で完敗して外国の実力を嫌というほどに認識する。

英国領事館焼き討ちの伊藤は、そのすぐ後の英国密航で海外の真の姿に接して即座に目覚め、急遽滞在を切り上げ長州に戻り説得行動に出たのである。

幕府は追い詰められた。公武合体政策から遂に大政奉還するが、それも最上位に天皇を戴くものの、その下の藩連合体の首格として徳川勢力を残存させようとの思惑があったようだ(結果的には失敗)。

形はどうあれ全て「日本はひとつ」即ち「国民国家」の初期思想にあったように思える。

そうした生ぬるい改革がよかったのか、薩長閥主体のほとんど「革命」の現実歴史がよかったのか二論あるだろう。僕には多くの弊害が発生したものの後者の方がベターだったように思える。

第二の維新たる戦後も「占領米軍」という強権があったからこそ、その後の民主主義と経済の隆盛が実現したのだ。明治維新だって同様だったと言えると思う。


「革命」には反動が伴う。典型は西南戦争。

陸奥の入獄も実際には「決起」はなかったものの、反「薩長政体」の土佐藩旧武士団による未然の反乱計画(陸奥はブレーンとして関与しただけ)の罪に基づくものであった。

この動きはもしかしたら「自由民権運動」的な意図だったのかも知れない。

維新直後の明治政府で陸奥は伊藤の推薦があって、権力者の白眼のもとながら「元老院幹部」の要職にあった。実はそれ以前の彼は紀州藩に復して藩独自の近代的軍隊を創設していた。プロシャ式の規律ある整備された軍で、プロシャ軍人が演習を見学して絶賛したという。

ところが明治統一政府誕生に伴いその軍隊は無力化されてしまった。明治政府に入った陸奥は「廃藩置県」実施に辣腕を発揮するのだから矛盾しているようだが、彼にとって紀州藩軍の壊滅は我が子を失うような失望であったのだろう。その事が土佐藩の不平士族の反乱計画に結びつけられて、陸奥の罪状に加味された可能性がある(但しこれは僕の想像であり本書にはっきりと表現されている訳ではない)。

ところで、書名の「陥穽」とは何だろうか。

朝日書評では「才能と評価の隔たりに苦しむ姿」とある。確かにその通りだ。

でも評者は御厨貴氏。だからもっと深い意味があるのかも知れない。

例えば後年の陸奥の数々の功績の裏側にはそこに潜む暗い影が認められる、など。

青年期に限っての同輩から孤立し悪口を言われた彼の姿だけではないかも知れない。


本書の1/3は入獄中の陸奥の様子(山形及び宮城で服役)や心境・述懐で占められている。やはり高官なので丁寧な扱いを受けていた。刑期の最後の半年程は伊藤の奔走による恩赦で短縮された。

自由の身となりいよいよ歴史にその名を留める陸奥の後半生となるのだ。

但し入獄中の部分等は省略して読後の感想は粗雑なままここで閉じたい。

というのは本書は560ページもの大冊で、知識不足で読み間違いもあるだろうし、読了に5日も要してとにかく僕は疲れきってしまった。

本書自体は周到な準備の上の豊かな記述で僕には消化しきれない部分があるし、また小説なのでどこまでが「事実」で、そこに「創作」がどの程度散在するのか、例えばアーネスト・サトウとの親密さの虚実の境目がよくわからない。そうしたストレスにも疲れた感じがする。


最後のページの「参考文献」を見て救われました。かつて読んだ本が挙げられているからです。

・大佛次郎「天皇の世紀」(全17巻)・萩原延寿「遠い崖」(全14巻)・アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」(上・下)。

そして未読の・萩原延寿「陸奥宗光」(上・下)はいつかは読む予定です。

こうした分野の本を読んだのは現役時代の60歳前後。自らの「アイデンティティーを求める年頃」とでもいうのでしょうか。「国民国家・日本の成立」そして「近代日本市民の一人としての自分」です。

その他に小熊英二(「単一民族神話の起源」)や丸山眞男(「講義録・全7巻」)等を読み、総仕上げは何度か途中挫折した上でやっと完読した「米欧回覧実記・全5巻」でした。

当ブログを書くようになってからも「幣原喜重郎」(21・9月)「頭山満」「原敬」(共に22・7月)はその系列のように思います。振り返れば懐かしさを感じるものですね。

次回は図書館本三冊目の「閔妃暗殺」。

これまた500ページなので時間稼ぎにその前に「雑記」を入れるつもりです。