夜分遅くに、こんばんは~~! 
今年の節分は
2月2日だそうですよ 
暦って、
不動のものだと思いがちですが、
こうして年によって違うんだってことを知ると
なんか、自分の歳も
年々増すって自覚せざるを得ないなと思います~ 
人生改善屋「ふ~みん。」こと
堀池典代(ほりいけふみよ)で~す 

おっと、
本年も、どうぞよろしくお願いいたします~m(__)m(^^)/

さすがに、冬らしい日が続いていますね。
どうぞ皆様ご自愛してお過ごしくださいね 
またまた、久しぶりの投稿です~

だけど、今日は、いつもと違って、私の覚書として。
ちょっと暗い内容かもです

(そしてものすご~く長文&終わらない…

)
今日は、1月17日。
神戸で育った私は、
毎年この日をできるだけ
家で過ごすようにしています。
そして、震災関連のテレビを見ます。
毎年、震災の映像を見るたびに
無性に涙が出ます。
私にとって
この時間が大事なような気がして
毎年こうして過ごします。
今日、見ていたテレビで
「震災26年。世代は変わっていく。若いときに体験した人々が、あの日なにがあったのか、どんな思いや悔しさがあったのか、伝えていくことが大事だ」と
言っていました。
それで私は、
「あっ!伝えていない!」って思って
いま、これを書いています。
これは、私にとっての覚書です。
タラタラととりとめもない長文になること・オチが無いことが見込まれます。
そんな駄文で良ければ
読んでやってください。
***
私は、26歳、独身。
自宅は、神戸駅にほど近い
いわゆる『激震地』といわれる地域でした。
地震が起こったとき
私は自宅で寝ていました。
尋常じゃない揺れで目が覚め、
それでも「地震ならもう揺れ終わるだろう」と算段を立てても
まだ収まらないことに驚き
布団を被って揺れが収まるのを待っていました。
時折、跳ね上がるほどの
揺れを感じながら、
「この揺れは何かで体験したことがある。なんだっただろう?」と
思い返してみたら
『ジェットコースター』でした。


ジェットコースターは好きだったので(オイ!笑)
「大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせていました。
地震なのにジェットコースターに感じられるなんて
我ながら能天気。。。
いつも体験していた
私の知っているはずの『地震』とは、
桁違いの揺れでした。
そして、とにかく耳に飛び込んでくる凄まじい音。
地響きなのか、物が壊れる・動きまわりぶつかる音、
ガラスが割れる音の数々、
普段は聴こえるはずのないような
周りの家々から起こる破壊音までも聞こえてきます。
周りは高いビルに囲まれ
谷間になった木造の我が家に
まさかではあるけれど
ビルが倒れてくるのではないかと
ヒヤヒヤしていました。
揺れが収まっても
それらの破壊音は
しばらく続いていたことを覚えています。
揺れが長かったセイもあり
思ったより冷静になった自分がいました。
木造二階建ての我が家は、
当時、母と二人暮らしでした。
揺れが収まったと同時に
真っ暗闇の中、
(普段なら、外の電柱の灯りが室内にまで入ってきていたので、物陰は把握できるのですが、たぶん街頭は停電していたのでしょう)
何かを強く蹴りながら
階段近くで2階にいるはずの母へ
大声で生存確認しました。
母は無事で、
とにかく二人一緒にいようと、
1階の私の寝ていたベットで
二人肩を並べて余震の続く中
布団を被って
夜が明けるのを待っていました。
(これは、あとから考えると2階にいるべきでした。もちろん状況によりますが、倒壊で1階が潰れた木造の家がたくさんあったのです)
だんだん夜が明けてくるにつれ
自宅の惨状が目に入ってきました。
母を呼ぶ時、
何もないはずの自分の部屋で
暗闇の中で蹴ったのは、
重い黒檀の仏壇が仏間の中から飛び出して
バッタリと倒れ込んでいたのです。
ちょっとやそっとじゃ動くはずのない箪笥群は
引き出しや開き戸が開きまくり
どこもかしこも、前に15センチほど出てきている。
まるで生き物のように動いた形跡があるのです。
(幸い、天袋があったので倒れた箪笥はありませんでした)
地震の桁外れのパワーに驚きました。
神戸は地震が少ない。
神戸の人は、みんなそう言っていました。
例に漏れず私も、そう思っていました。
夜が明け、
自宅の各場所の被害把握と
ガスの閉栓や
火の気の可能性のあるものの安全確認を
母と一緒にしていたところ
玄関で物音がします。
誰かが外から玄関扉を
力いっぱい開けてくれました。
はじめて見るその人は、
無骨ながら私達の安否を確認して
去っていきました。
その人の行き先を見ていると、
どうやら
うちの目の前のマンションの住民で
土木関連のお仕事をなさっている人のようでした。
うちの玄関の様子から、
この家の玄関は開け難いと判断して
外側から開けてくれたようでした。
私と母は、
家の中が物凄いことに気が取られていて
玄関まで気が回っていませんでした。
女手しかなかった我が家にとって
名も知らぬその方の振る舞いは、
とても有難いことでした。
固定電話はなんとか
身内と仕事仲間へ
自分たちの無事を連絡することが出来ました。
(当時、まだ黒電話で電源が要りませんでした。そして携帯電話はまだまだ普及されていませんでした)
知る限り、私の周りでは
人命に関わる人はいなかったと知って安堵しました。
(私たちを心配してくれる人からの連絡は、どうやら掛かり難くくなっている様だったと後から知りました。災害時、被災地から発信の電話を優先するように制限があるようです)
自分たち以外も
あの揺れを体験していたことや
みんなの無事を共有したことで
私の気が少し緩んだのか、
私はこの惨状が受け容れがたくて
大泣きしだしたのですが
母は間髪入れず
「みんな一緒や、泣きな!(泣くな)」と言われたので
確かにその通りだと思い正し、
すぐ泣き止みました。
こうして今、
カウンセラーとして思うことは、
あの時、ちゃんと泣き切ってもよかったのにな~
と思います。
だけど、あの現場で
子供でもないのに、傍で大声で泣かれる
母の気持ちも察することはできます。
後にも先にも我慢強い母は、
震災への泣き言は
一切言いませんでした。
天井の板がアチコチ落ちたり
タイルや土壁が剥がれたり、
物が納まる所から、
なにもかもが飛び出している自宅では、
余震が怖くて
母と私は、1階の部屋で
何から手をつけたら良いのか、、、
落ち着かない時間を過ごしていました。
ちょうどお昼頃、
誰もいないはずの2階から
声がします。
誰??と思いながら
こわごわ2階に上がってみると、
ワゴンの上に食器棚が倒れ込み
背板だけになったそのまた上に
テレビが倒れ込み
勝手にテレビの電源が入っていて
テレビが騒がしく点いていました。
(下を向いたブラウン管テレビが何を映し出していたのか。とにかく騒がしかったという印象だけあります)
その時、電気が復旧したことを知りました。
2階にあるテレビが置いてある食堂は、
ガラスや陶器の破片、
電子レンジの扉はとんでもないところにあったり、、、
物が散乱して
凄まじい状態でした。
電気が復旧してから
比較的物が少ない
1階の私の部屋にあったテレビをつけたものの、
報道関係でさえ
被害の状況が把握しきれていないのが
被害者の人数が
刻一刻と桁違いに増えていくことで
理解できました。
余震も時折あるし、
あんな規模の地震がまた来たらと思うと
怖くて夜を自宅で過ごすのは危険と判断し、
最寄りの小学校(避難所)へ
明るいうちに避難しようと
支度をしました。
母と二人、
家を出ました。
地震後はじめて見る自宅の外壁は、
長年何度も補修して重くなって いたためドサッと落ち、
2階部分は見えるはずのない竹で組んだ中身が
広い範囲で剥き出しになっていました。
それを見た時
これは、もう住めない
と思いました。
壊れに壊れた街の惨状を目にしながら
校区の小学校へ向かいました。
街中が埃だらけ、
建物の破壊された埃臭さは
今も記憶のすぐそこにあります。
真っ直ぐのはずの電柱は
折れ曲がり、
電線はあちこち垂れ下がり、
見慣れた建物は
道を塞ぐように倒れていたり、
どこも傷だらけでした。
小学生時代、通い慣れた
大きな国道をまたぐ歩道橋は、
橋げたが崩れた高速道路の支えになっていたため
もちろん、渡れません。
この歩道橋を渡っている最中に
地震に遭っていたならと想像すると
ゾッとしました。
見慣れた街は、
考えられない光景に
『壊滅的』という言葉がピッタリでした。
遠回りしながら辿りついた
避難所は、
たくさんの人で溢れかえっていました。
***
あああ、震災体験って、書きだすと止まらない

でも、もう17日は終わっちゃうので
今日はこの辺で・・

(続きをいつ書こう・・・)
読んでくださってありがとうございますm(__)m
この唄が、このたび神戸市歌になったそうです。
聴くたびに歌詞にグッときます。
そして、子供たちの声も素敵です。
『しあわせ運べるように』
こんなワタクシ、堀池が書いた、
いまならまだ、好評だった第一号が読める!!

(第2号が読んでみたいと言ってくださる方は、どうぞ
お問い合わせ
からその旨メッセージくださいませ~

)
その他、ご質問、いつでも
ドシドシお待ちしています~

お気軽にどうぞ~~

お知らせ いろいろ♪
↓ よろしければ 
