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昨年の9月始めのこと。

朝、いつものように居間に行くと、母親が普段とは少し違う様子で話しかけてきた。


「昨日の夜中ね、私が寝る前なのに、お父さん風呂場にいてさ」

「は?何?倒れてたん?」

「いや、意識はあったんだけど、なんか座り込んでたんだ」

「立てなくなったん?」

「そうなんでないかい?」

「母ちゃん一人で担いだの?」

「いやぁどうしようかなと思ったんだけど。ちょっと手貸したら立てそうだって言うから、何とか起こしてさ」




母親は遅くまでテレビで映画を見てたらしく、この日の就寝時間は深夜3時近く。

いつものように寝室に入るも、何となく異変を感じたらしい。




「お父さん先に寝てるんで、私、電気つけないで布団に入るから、いるかどうかはっきりわからないでしょ?」

「母ちゃんの方が入り口に近いしな」

「ただ、外灯がつけっぱなしだったのと、脱衣所の電気がついてる感じしたんだよね」

「ああ、寝る前に父ちゃん外灯消すし、脱衣所もスイッチで外からわかるもんな」

「何か、風呂場の方から音するから脱衣所開けてみたら、お風呂の電気ついてるしさ」

「中にいたんだ。シャワーなのに、浴室寒くなかったの?」

「寒くはなかったね。もわっとしてたよ」




父親は浴室の床に横座りのまま、上半身も倒れそうに肘をついてへたれ込んでいたらしい。

本人の話だと、途中で動けなくなり、そのまま風呂場で寝ることにしたということだった。


な、何で?

「ずっと風呂場で寝てるつもりだったのか」と聞いても、もごもごと断片を答えるばかりで的を射ない。




その後の検査では、やはり軽い脳梗塞を疑われた。

それは仕方ない。

で、問題はここからだ。


いや、脳梗塞がよろしいというわけでもないし、今後も気をつけなければいけないのはもちろんである。

だが、脳梗塞を風邪ぐらいに考えているアスペ脳の父親の思考の方が、もっと面倒くさいということ。


だって、何で風呂場で寝てしまおうって思うわけ?

何で、自分の体がやばいかもって焦らないのだろうか。


父親は、検査の結果が脳梗塞だったと聞いても、まだのんきな感じだ。

重大な病気だと知らないのではなくて、自分の身に起きていることとして実感出来ていないのだと思う。




極端な例で言うなら、ある病気には禁酒が絶対だと知っているとすると、他人には酒を飲むなと偉そうに言ってるくせに、同じ病気の自分は堂々と酒を飲んでたりするわけ。

注意しても、自分が飲みたいから仕方ないみたいな結論になり、飲みたいのを我慢しろという指示だとは思わない。

そのため、医者に指示された時にはやけに素直だが、全く実行しないということが日常茶飯事だったりする。


父親本人には、医者に嘘をついているつもりはない。

ただ、自分の事情で指示に従えなくなった場合、それは仕方ないと思ってしまうのがアスペルガーの思考だ。

ちょうど、自分の欲求を我慢できない幼児と同じ。

それじゃ病気はちっとも良くならないが、指示に従えない自分のせいだとも思わない。


しつこく説明すると少しは理解できるのだが、それでもすぐ忘れるし、応用も利かないから毎回同じ説明の繰り返しである。






もしかしたら父親は、シャワーの途中で意識を失っていたのかもしれない。

4時間は風呂場にいたことになるので。

だが、意識を取り戻した後、助けを呼んで何とかしようとしたかと言えば、そうではないと思う。

アスペルガーには、こういうときの判断力はほとんどないのだろうか。


「何でそのまま寝てたの?」「助け呼びなよ」という話をしても、「風呂場の排水から叫んだら、台所に聞こえるんだ」とか何とか。

いや、だったら何で排水口に向かってでも叫ばないの?

そもそも、「何で助けを呼ばなかったんだ?」って話をしてるのに、支離滅裂。

それに、排水口から台所(の排水口)に声が聞こえるなんてこともない……。


アスペルガーを理解しがたいのは、こういう何の根拠もない事象を(本人には勝手な理屈があるらしいが……)、信じ込んでしまってるところ。

話が根本から噛み合わない。

おかげで、その思い込みを正すところから話さなければならず、この上なく面倒くさい。




ちなみにこの日、たまたま俺も母親も、風呂場のある1階には日付が変わるまで行かなかった。

確か、鍋に残ったシチューがあり、一段落したら貯蔵用の冷蔵庫にしまいに行くつもりだった。

だが、スポーツ中継が白熱していて、二人とも2階の居間を離れなかった。


夕食後は1階の自室でテレビを見ている父親。

寝室も1階なので、さして顔を合わせず就寝していることも多い。

だから、夜10時過ぎに父親が居間に顔を出したのを最後に、シャワーから出たかどうかを気にもせずにいたのだ。






アスペルガーは、関心のあるものには極端に執着することがある一方で、関心がなければこれまた極端に諦めが早い。

一言、一動作で済むようなことも、無精してしないで終わってしまうことがある。

立ち上がれなくなったから風呂場で寝るというのも、諦めの早さなのか。

父親には、緊急時に助けを呼ぶという考えが薄いし、何より緊急事態だとも思っていないので、随分と淡々としていた。




「いやぁ。それにしても、俺、よくあんなところで寝てたなぁ」


自分に感心してる場合じゃないから……。

そのまま死んでもいいのか?
日テレ系列で放送中の「明日、ママがいない」が話題になっている。

誤解を招く、いや、表現の自由だと騒動になっているようだが……。


児童養護施設が舞台なので気になっていたのだが、初回は見逃し、先日第2回を見た。

芦田愛菜ちゃんの演技には魅きつけられるものがあり、メッセージ性も強そうな作品だと感じた。

大人の都合を突きつける施設の人間に対し、子ども達が強く立ち向かう姿を期待したくなる。

製作側も、そこに真の愛情を表現したいらしいので、今後も見続けようと思う。




ただ、やはり問題視されるのもわかる。

三上博史扮する施設長が、子どもをペット呼ばわりするのも、子どもたちの自称が、いじめられて名づけられたようなあだ名であることも、本当に必要か疑わしい。

児童養護施設という点を考えると、配慮が足りないのは確かだろう。




例えば、最近のドラマは刑事ものと医療ものの受けがいいらしい。

だが、この二つで現実にはあり得ない表現があったとしても、同じように批判の的にはならないと思う。

なぜなら、警察も病院も身近に接することがあり、どちらにも良いイメージも悪いイメージも十分に持ち合わせているから。

一部のフィクションの表現で、警察や病院の全てに悪いイメージを持つことはないだろう。

また、フィクションのイメージを現実で払拭する機会も十分にある。


それが児童養護施設となると、ほとんどの人が接する機会がない。

よく知らないものにフィクションのイメージが植えつけられれば、誤解したままになる可能性は高い。

当事者からすれば、こういう勝手なイメージを払拭する作業というのは面倒だと思う。




性同一性障害の問題と同じかどうかはわからないが、LGBT(性的少数者)を扱った作品で、俺が物申したいものはいくつもある。

製作側が様々な性の形を表現したとか、非当事者が所詮フィクションだと言っても、当事者には影響があったりする。

特に障害や差別問題を非当事者が描く場合、理解と言いながら上から目線の同情も多いので、そういう勘違いもよく生じる。

気を利かして配慮されても、それは特別扱いとか逆差別であって、むしろ迷惑だったりもする。


一番面倒なのは、カムアウトさせようとする奴か。

実は言えないで苦悩してるとか勝手に決め込んで、「大丈夫だから言っちゃいなよ」とかいう奴が本当にウザい。

だいたいそういう奴に限って、色々聞いて抱えきれなくなって、結局は放っぽり出すわけ。

仲良くなって自分も差別されるようになったら他人のフリとかね。


興味本位で聞き出したくせに、あなたを差別から救いたいとか言うおめでたい奴。

こういうエセ理解者を助長するような作品はやめてほしいよな。




「明日、ママがいない」は、施設やそこに預けられている子どもは、やはりいい環境にはいないという印象を与えていると思う。

だが実際は、施設の人間が必死に配慮しても、親に捨てられた傷は中々癒えないために、難しさがあると聞く。

ドラマの子どもたちは、親に捨てられた現実を強く受け止めているが、俺はそこにどうも違和感を覚える。


赤ちゃんポストに預けられていたから「ポスト」、親がパチンコしていて死にかけたから「パチ」など、自称にこんな名前の付け方をするだろうか。

芸人みたいに自分の不幸を笑いに変えられる人間ばかりじゃないし、そう出来るまでに時間を要することもあるはずだ。

親に捨てられ、施設でも犬扱いされ、いじめにも遭いながら、希望を捨てずに強く生きるというのは、経験してないからこそ簡単に期待してしまう気がする。




そのため、日本で唯一、育てられない赤ちゃんを預かっている慈恵病院は、誤解を生むとして放送の中止を求めている。

当事者がこういう反応をするのは当然だとも思う。

慈恵病院では赤ちゃんポストという言い方もしていないし、預ける親を安易に悪者扱いもしていない。

一方で、このドラマが全てではないと思う。


俺は、ちょっと前に慈恵病院のケースをモデルにしたドラマ「こうのとりのゆりかご」も見たし、里親の問題を扱ったドキュメンタリー番組で、子どもと児童養護施設の関係についても知る機会があった。

関心があれば、他からも情報を得ようとすると思う。

ひどいドラマだとしても、それをきっかけに児童養護施設について関心が広がったり、そこから子どもの問題について考える機会になることもあるのではないだろうか。


でも、誤解や偏見で直接嫌な思いをするのは当事者なので、敏感になるのはよくわかる。




最終的にどういう結末を迎えるのかを見届けたいとは思うが、捨てた親が改心してハッピーエンドとか、安っぽいオチはやめてほしいね。

世の中には、子どもにどんな仕打ちをしても良心が痛まない親もいるし、そこから一生変わらない親もいる。

どうせなら、そういう部分も描いてほしい。

強さと言うなら、そこから子どもがどう希望を見いだしていくのかを見てみたい。




この作品は、賛否両論になることを狙って、過激な表現を盛り込んでいる感が拭えない。

その効果か、この騒動に対して、ドラマを見ていないのにアンケートに答えている人がいて、また、その意見を主催側も公表しているのだが、それはどう考えてもおかしいと思う。

見ないで答えるのでは、それこそ勝手なイメージではないか。

見もしないで騒いでる奴が、この問題に対して一番無理解な人種だと思う。
性別変更の夫と人工授精の子、父子認定の最高裁決定要旨 朝日新聞

「性同一性障害訴訟」決定要旨 産経新聞


FtM嫡出子問題・続④ 嫡出子と認められFtMも父親に

先の判決を受けて、私もおめでたいこととして記事を書いた。

取り急ぎだったので細かい理由は記さなかったが、寺田逸郎裁判官を始め、特例法に触れてくれたことに驚きと感謝の気持ちがわいてきたからだった。




これまでは、血縁がないことが全てで、特例法については一切考慮されなかった。

性別変更者の法適用については、「法律に別段の定めがある場合を除き、他の性別に変わったものとみなす」とされているのにである。

逆に、民法772条の嫡出推定では、特例法による性別変更の事実を参照し推定されないとした。

これでは矛盾している。


特例法によって血縁を否定するなら、同じく特例法で保証された男性という法的立場はどう捉えるのか。

私は、この答えを知りたかった。


だから、その一歩を示してくれたこと、少なくともまともに議論してくれたことが、素直に嬉しかった。




特例法は断種の法律である。

だから、家族など持つ権利などないと言われた性同一性障害に対し、結婚や子供も認める意見が出てきたのは喜ばしいことではある。




ただし、この判決に両手(もろて)を上げて喜んでいる人たちには、苦言を呈したい。


この状況を「勝てば官軍」と表現しているFtMがいたが、この先も官軍でいられる保証はない。

最高裁といっても、小法廷で3対2の僅差ということは、今後、大法廷(裁判官15人)に持ち込まれて覆る可能性もある。

まだまだ、議論の第一歩を踏み出しただけというのが、個人的な印象だ。




前夫の嫡出子とされる離婚後300日問題などはどうなるのか。

FtMの子が嫡出推定を受けるくらいなら、民法772条を杓子定規に当てはめて、やはり前夫の子と後押しされるのか。

血縁も家族の実態もある現夫を父親と認めないとしたら、その方がもっと不公平だろう。




代理母出産などは妻が母親とは認められないが、実際に認められなかったのは、向井亜紀・高田延彦夫妻だけである。

これもAID男性とFtMとの関係と同じで、わざわざ代理母出産とは言わないのでスルーされている。


同じ性同一性障害で見ても、FtMが父親になれるだけで、MtFは母親にはなれない。

同じ親でも父親と母親の認定の仕組みは異なり、父親は民法772条が中心になるが、母親を定める民法上の規定はないからだ。

「分娩の事実をもって母親とする」という、古い判例に従っているに過ぎない。


これらはやはり不公平と言わざるを得ない。




血縁がなくても親子として認めるということは、依然として出自の問題も残る。

今後も、生殖医療に頼る人は少なくないだろう。

これらを包括的に議論する必要がある。


大谷剛彦裁判官が立法化を求めたように、このような判決だけで生殖医療に関わる子の嫡出認定を続けるのは無理がある。

そして、法が整備されなければ私たちFtMやその子も不安定な状態は続く。




これで全て解決したなどと言うおめでたいFtMはいないと思うが、嫡出子になったところで、法的に他のAID家族と同じになっただけである。


血縁上の父親を知ることの出来ない子供を生み出し、それが子供本人にどう影響するか計りかねている社会で子育てすることになるのだ。

不妊治療に関して、方法や費用などに関する情報は多いが、子供への影響についてはまだまだ情報が少ない。

愛情さえあればなどという綺麗事では片付けられない問題があり、対策が必要な状況だ。

子供がほしい大人の気持ちばかり優先されていて、親になる人間の資質は一切問われないというのはおかしい。




もちろん、性同一性障害者だからといって、必ずしも親になる資質がないとは言えない。

実際、海外のデータでは、同性愛者のカップルに育てられた子供に、他との顕著な違いは見られなかったという報告もある。

典型的な男女のカップルのみを理想とするならば、それは異性愛至上主義の発想だろう。

だが、まだ性的少数者を十分に知らない社会では、セクシュアリティの問題がないわけでもない。

ここでも告知の問題などがある。






ちょうど昨日のニュースで、元光GENJIの大沢樹生の息子が、彼の実子ではなかったと話題になっていた。


私は、この事実は当事者間で受け止める問題だと思っている。

だから、今になってDNA鑑定をしたことも、血縁がなかったという結果をどう受け止めるかも、他人が口を挟む問題ではないと思う。


しかし、こうして公表されてしまうと、私を含め興味本意の意見が多く飛び交うことになる。

大沢樹生と元妻喜多嶋舞は、芸能人である以上、ある程度の詮索はやむを得ないかもしれない。

だが、息子は一般人であり、このような出自に関わる事実を他人に知られる立場にはないだろう。


漏れたのか、大沢自身が公表したのかわからないが、大沢も週刊紙も子供のことを考えていないのが残念である。




この安易な判断に、私は前田氏を重ねずにはいられない。

地元では性別変更した人として知られ、しかしながら男性としては受け入れられていない彼。

男性であると言いながら、戸籍が男性になっても男性として認められない現状。

それを冷静に考えられたのなら、子をもうけるより自身の受け入れに奔走するのが先である。


そんな状況で訴訟を起こし、公に子供の精子提供者を明かしたというのは、親として無責任と言わざるを得ない。


これでは、子供が告知の前に出自を知ってしまうのも、時間の問題だと思われる。


FtMだけが他のAID男性とは違う扱いを受けたという意味では、性同一性障害に対する差別と言っても過言ではない。

だから、性同一性障害も同じ扱いを受けるべきと考えれば、今回の最高裁の判決は妥当だろう。

だが、訴訟を起こした本人の状況だけで言うのならば、そうとも思えない。


子供の出自を公言し、周囲から知らされてしまうリスクをばらまいている人に、果たして親としての資質はあるのか。

そこを問いたい。




★参考
性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律
法務省:民法772条(嫡出推定制度)について
性別変更した夫、戸籍上の実父に! 民法772条による無戸籍児家族の会
向井亜紀 - Wikipedia
大沢「事実」、喜多嶋は怒りのFAX 日刊スポーツ

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