━━━━━━━━━━━━━━━
初めての方は注意事項に目を通してからお読みください
━━━━━━━━━━━━━━━

最近、将棋界が熱い。
将棋が全くわからないという人も、藤井聡太四段のことは知っているのではないか。

かく言う自分も、生中継をこれほど熱心に見たのは初めてだ。
将棋は小学校低学年の時に祖父に教わったが、せいぜい詰将棋3級とかそんなレベル。
中学生の時にテレビで目にした若手棋士は、もうタイトル保持者になっていた。

羽生善治三冠がついに七冠達成と騒がれていたのが、確か大学生の時で。
今は自分で頭を使う気にはなれないので、これからは観る将になりそう。


ここからが本題だが……

棋士はとにかく変わり者が多いことで有名だ。
そして、そういった人が発達障害であることも珍しくないと思う。
ただし、障害という言葉からイメージする困難だけでなく、凡人にはない卓越した能力も兼ね備えているのだろう。
こういう人を日本では『天才』と雑多に扱うことが多いが、教育学の分野などでは『ギフテッド』と呼ばれることがあるようだ。


ここでいつも思うことがある。
同じ要素を持っていても、その能力がどう顕在化してるかによって、あまりにも認識が違う。

藤井くんのように、特定の分野で才能を発揮すれば『天才』と呼ばれる。
片や奇行が目立ち、際立った才能が見えなければ『変人』扱い。
そんな人が診断を受ければ、医学的には『発達障害』と言われる。

天才と変人と発達障害は同じではない。
だが、重なる部分がある。
しかし、どう呼ばれるかによって印象は随分違うと思う。
しかも、天才と称されれば、過去の問題行動でさえ天才ゆえと肯定化されてしまうことがある。


藤井くんの母親は、彼は生活能力が低いと語っている。
コンビニでお弁当一つ買えないとか、泊まりで出かけたら洋服を忘れてきてしまったとか。
それが本当であれば、今後も訓練が必要なのだと思う。

発達障害の場合、好きなことには極めて強い熱意をもって励める半面、必要とされることは最低限もこなせないというところがある。
定型は、歯磨きだって掃除だって、好きだからやってるわけではない。
日常においてどうしても『必要』だからやる。
だが、発達障害の人はこの感覚が乏しいように思う。

藤井くんも、エピソードを聞いていると日常生活はまだまだ困難で、親御さんもそこは心配なのだと思う。
定型からすると、将棋で何手も先を読む方がはるかに難しいのだが、彼には日常の些細なことの方が難しいのかもしれない。


また、エピソードの中には、将棋のことばかり考えていて電柱にぶつかったとかドブに落ちたというのがある。
棋士にはよくある話のようだが、これは発達障害で言えば過集中というものである。
1つの物事に熱中しすぎて、周囲が見えなくなってしまう状態。

藤井くんの場合は、それが将棋だったので天才棋士のエピソードとして驚嘆される。
だが、例えば授業中に昨日読んだ本の妄想で一杯になってしまった子は、過集中そのものを問題視されるかもしれない。

藤井くんだってドブに落ちていいわけではないので、誰かが止めてあげるなり本人も切り替えスイッチを持つことが必要になる。
でも、「熱中し過ぎるから、これ以上将棋はダメだ」と言って取り上げてしまったら、天才棋士藤井聡太は生まれていないだろう。
それどころか、溢れんばかりの将棋への情熱を発散出来ないために、心身ともにバランスを崩してしまったかもしれない。

同じように、妄想で一杯になる子に対しても、寧ろその世界がもっと広がるように手助けしてあげたらいいと思う。
妄想ばかりしてしまうのなら、妄想するために勉強すればいい。
たくさんの国や文化、人種、言語、実体験、フィクションなど、多くのことを知ればそれだけ妄想も広がる。
それがその後の職業などに結びつけばもちろん有効だ。
だが、そうではなくても1つ生きる原動力を持てば、他の困難を乗り越えようとする力も生まれるかもしれない。

凸凹を無理やり矯正してもいいことはない。


藤井くんのような天才は作れない。

ギフテッドは先天的なものである。
発達障害も同じで、発達障害になることも発達障害が治ることもない。

彼と同じようにスタディ将棋やcuboro(キュボロ)を与えたところで、我が子は天才にはならない。
彼はもともと先を読む力や空間認識に優れていて、その能力と興味に合ったオモチャがたまたまこれだったというだけだろう。

与えて失敗だったもの、全く興味を示さなかったものも相当数あるのかもしれない。
個人的にはそういう失敗談がすごく聞きたいのだが、あまり報道されないだろうな。


藤井くん自身は、ギフテッドとも発達障害とも言っていない。
公表していない著名人に対し、良くも悪くもレッテル貼りをすることにはためらいがある。
しかし、よくある範疇の話ではないということを理解してほしいという思いもある。

例えば、過集中の状態というのは、すごく集中力があるというよりは、それしか見えなくなってしまっている状態だ。

寝食忘れて没頭することは、定型でもある。
たが「お腹すいた。何か食べなきゃ」「そろそろ寝ないとヤバイな」という意識はかすかに残っていると思う。

ところが発達障害の人は、気が付いたら倒れていることもあるようで。
空腹に気づかない、気づいても何か口にするという判断が出来ない。
止めないと危ないのだ。


障害という言葉を用いなくとも、その人のその状態を正しく把握出来るならそれでいいと思う。
仰々しく名前を付けて区別しなければいけないのは、似たようなものと混同されて誤った対処をされてしまうからだ。
天才を努力で作れると思っていれば、発達障害も努力で治ると思ってしまうだろう。
そうではないということを受け止めて、初めてサポートが出来ると思う。


人はその秀でた才能のみを羨むが、実際はその才能と同じくらいの困難や生きづらさを抱えているかもしれない。
だから、藤井くんの才能だけを羨んだりはしたくない。

それでも、僕は彼が羨ましい。

幼くして大好きなものを見つけられたから。
その大好きなものに熱中することを親が許してくれたから。



因みに、将棋の対局は将棋を知らない人が見てもなかなか面白いと思います。
やっぱり個性的な人が多いので。
仕草や持ち物、何を食べてるかとか、将棋以外のところも注目です。

さて、今日26日(月)は新記録29連勝をかけて、藤井聡太四段が増田康宏四段と戦います。
ネットとケーブルテレビで中継があり、初心者用の解説もするようですね。
今日はちょっと落ち着かないな。


AD
━━━━━━━━━━━━━━━
初めての方は注意事項に目を通してからお読みください
━━━━━━━━━━━━━━━

先日、加藤諦三先生が「一升徳利に二升は入らぬ」という話をされていた。
この相談者の人は、自分の器以上のものを引き受けてしまっているという。


僕はこの話を聞いて、カサンドラ症候群になる人は、まさしくこの状態にあるのではないかと思った。

これまで、その発達障害の人と離れるべきかやり直すべきかは、
まずは「あなた自身の都合で決めましょう」と言ってきた。
それは、発達障害者自身がどんなに努力しても、周辺者が出来ることにも限界があるからだ。

カサンドラになってしまう人は、発達障害者と共存する力がないのに、その困難を引き受けてしまっているのではないだろうか。


また、諦三先生は
「正しいものと正しくないものから、正しいものを選ぶのは易しい。
しかし、正しいものと正しいものからどれかを選ぶのは難しい」
とも仰っていた。

相談者は、父親を助けてあげたいが、そうすると、結婚して築いた今の家族に迷惑がかかるので、どうするべきか悩んでいた。

『父親を助けること』も『今の家族を守ること』もどちらも正しい。
だから、相談者は苦しんでいると指摘されていた。


発達障害者と離れるべきかかどうかも、まさしく正しいものと正しいものから選ぶという作業だと思う。

『障害を理解し共存していくこと』は正しい。
一方で、『自分の心身を守ること』も正しい。

カサンドラになってしまう人は、後者を忘れてしまっていないだろうか。


正しいものと正しいものからどれかを選ぶ場合、優先順位が大事なのだという。

相談者は、父親と疎遠になるのは、育ててくれた恩義を忘れ、見捨ててしまうように感じているようだった。
一方で、今の家族が一番大事だとも自覚していた。


相談に対する答えはこうだった。
もう1人の弁護士の先生曰く、
「親が子供を育てるのは当たり前。
それを恩に感じる必要などない。
生きていくためにはズルくならなくてはいけない。
父親にも今の家族にもいい顔をしていては、生きていけない」


この相談者が育ててくれた親の恩に引きずられる気持ちは、すごくよくわかった。
ずっと誰かに
「親が子供を育てるのは当たり前。それを恩に感じる必要などない」
とはっきり言って欲しかった。

毒親は子供に対し非常に恩着せがましい。
だから僕もずっとその呪縛にあった。

発達障害者にも似たようなところがあって、被害者意識が強く人のせいにばかりすることがある。
発達障害者からすると、何が起きているのかがわからず本当に辛いのだと思う。
だが、周辺者がこれをそのまま許していては身が持たない。


手に負えないものを手離すのは、卑怯でも何でもない。
寧ろ、手に余るのに抱え続けるのは、その人を縛りつけているのではないか。


今一度聞きます。

その発達障害の人とあなた自身と、どちらが大事ですか。
その発達障害の人とその人以外の人、誰が一番大事ですか。


加藤諦三 ホームページ
カサンドラ症候群
AD
━━━━━━━━━━━━━━━
初めての方は注意事項に目を通してからお読みください
━━━━━━━━━━━━━━━

自分は発達障害です。
こういうことは出来ません。
こういうことは苦手です。
わからないことはこれこれこうです。
こういう時は助けてください。
こういう時はほっといてください。
こんな風に見えますが、本当はこうです。


「発達障害の当事者がこのように説明してくれたら、快くサポートできるのに……」
そう思うことは少なくない。
また「発達障害だとわかっていたら結婚しなかったのに……」などと思ってる人もいるだろう。

これまで、当事者には自分の状態を自覚するように訴えてきた。
それは自覚できなければ何も始まらないし、何も改善されないからだ。
そして、自覚できない発達障害者とは離れるよう促してきた。
発達障害に限らず、本人がやる気にならなければ、物事は何も変わらないから。
周りがどんなに一生懸命になってもダメなのだ。


それと相反するようだが、既に無自覚なまま大人になってしまった発達障害者が、発達障害を自覚し説明するなどということは不可能だと言いたい。
そして、それは発達障害者本人の責任ではなく、定型側の問題であるということも言いたい。

発達障害の当事者が自分のことを説明できないのは、発達障害の特性ゆえということもあるだろう。
客観視する能力が低い、つまり、自分と他人を比較して物事を考える力が弱いということも理由の1つだろう。

しかし、一番の理由はそこではないと思う。

一言で言えば、人は自分だけでは自分を知ることは出来ないということ。
特に生まれつきの感覚は、その人にとってはずっとその状態なので、そうではない状態というのを知らない。
他の人もみんな同じ感覚だと思っていることも多い。
となると、わざわざ説明することはない。


定型の人は、自分がどこがどう定型であるかということを説明してみるといい。
そもそも、そんな説明を求められたことがないという人が圧倒的に多いと思う。
ということは、考えてみたこともないということだ。

理屈だけで言えば、自分の発達に関しては考えたこともない人が、他人にそれを要求するというのは傲慢だ。
さらに、定型発達とは何かがわからなければ、発達障害かどうかもわからない。
そんな人が発達障害者の訴えを耳にしても、性格や環境、努力不足との違いを見極めることなど、出来るはずがない。


そもそも発達障害の当事者に、障害と自覚して欲しい理由はなんだろうか?
当事者の行動に周囲が迷惑しているからだ。
迷惑行動の原因を突き止め、改善方法のヒントとして障害を認識しようとしている。

もっと根源的なことを言えば、周囲の人は当事者に迷惑をかけて欲しくないと思っている。
というのも、その人と何らかの形で付き合いを続けたいと思っているからだ。
でも、迷惑行為を続ける人とは付き合っていられない。
定型はそういう人は嫌いだし、迷惑が積み重なると殺してやりたいほど憎くなる。
この状態が続くと、もう二度と迷惑をかけられた人のことは許せなくなる。


問題を起こすタイプの発達障害の人は、このことをわかっていないのだろう。

迷惑をかけると嫌われる。
嫌われると人は離れて行く。

その発達障害の人と一緒にいられるかどうかは、周りの人がその根本的なことを教えられるかどうかだと思う。

あなたは迷惑をかけられて困っていても、アスペの彼は「迷惑をかけてどうしよう」とは思っていないかもしれない。
とすれば、その間にはとても深くて長い河がある。

小さな川でも今渡れないという人もいれば、大河でもたくましくチャレンジ出来る人もいる。

カサンドラにならないためには、今のあなたがどれくらいの川なら渡れるのかを、考えてみることが大事だと思う。
AD