三浦春馬さんが亡くなりましたが、相変わらず報道の仕方がひどいなあと思っています。
有名人が亡くなると影響が強いのはもちろんですが、特に自死となるとその報道の仕方にはWHOによる基準があります。
各スポーツ紙の一面を見ると、その基準が守られているとは到底思えません。
彼のファンに大きな影響があることもそうですが、今まさに死を踏みとどまっている人間にとって強い刺激となってしまうのです。
希死念慮がそこまで強くない僕でも「三浦春馬でさえこんな選択をするのに、自分は生きていていいんだろうか」と考えてしまうかもしれないんです。
彼の死は今でもまだ信じられないですが、最低でも数日、彼の事をセンセーショナルに扱うのでしょう。
既に、彼の自宅があったマンションに報道陣が殺到しているという話もありました。
このコロナ禍に一体何をしているのかと神経を疑いたくなります。
今日もいく人かの方が「死という選択をして欲しくなかった」という旨のコメントをしていましたが、僕は死を選びたくて選ぶ人はいないと思っています。
生きられないからこうなってしまうんじゃないでしょうか。
だから、彼が死を選んでしまったのは、他の誰もがそれ以外の選択肢を彼に選ばせてあげられなかったということだと思っています。
自死について議論する時、決定的に欠けているものがあります。
それは当事者不在というものです。
生きている人間、生き残った人間でしか議論はできないじゃないですか。
自死を考えたことがある人や実行して失敗した人はいたとしても、自死に成功した人は議論の場につけません。
となれば当然「死ぬべきではない」とか「あの時死ななくてよかった」という意見しか出てきません。
自死と他の選択肢が同じだとは思いません。
死んでしまった後では他の選択肢を選び直すことはできないからです。
でも、死を選んでほしくないと簡単には言えないです。
死を選ぶ人は、他に選択肢がなくなってるのだろうし、死にたいのではなくて生き方が分からなくなってしまったのかなと思うからです。
生き方を示せないのに生きろというのは残酷です。
例えば彼と同じように行き詰まった人が、死ぬよりはマシだと思っていい人をやめたとします。
その結果、激太りしたり、不可解な言動が増えたり、時には仕事に穴を開けるなど、ファンをがっかりさせたり周囲に迷惑をかけたとします。
すると、今の社会はひどく叩きますよね。
特に薬物や不倫などが絡むと、公にバッシングを許可されたかのように猛烈に正義を振りかざします。
でも、死ぬよりはマシなはずです。
全てをやり直せるわけじゃないけれど、生きているということはまだ可能性が残っています。
だけど、こうして人に迷惑をかけながら生きている人よりも、迷惑をかけられないと思って死んだ人の方を私達は美化しますよね。
たぶんそれをやめないと、いい人ほど死んでしまうと思います。
ファンでもなんでもないけれど、三浦春馬さんには僕だって生きていてほしかったと思っています。
まだ信じられない思いでいっぱいです。
だけど、彼がこれまでとは違う姿を見せたとしたら、それを死を考えるほどに思い悩んでいたと推察し受け入れることができたかといえば分かりません。
そんなこととはつゆ知らず、彼を叩く側に回っていたのかもしれません。
どんな彼も三浦春馬という一人の人間なんだと受け入れる寛容さがなければ、生きていてほしかったというのは空々しい後付けにほかなりません。
生きていてほしいというのが悲痛な願いになるのは、その人に寄り添おうとするからです。
命を大事にしろと正論を振りかざすのであれば、生きろという命令にしかならないと思います。
尊い命と言いながら大騒ぎしているメディアは、一人ひとりの人間を本当に軽く扱っていると思います。
彼の抱えていた生きづらさは何だったのか、寄り添える術はなかったのかを考えることが、彼の死を無駄にしないということだと思います。
今の自分にはただ生き残るということしかできませんが、この世でできることを一つでも見つけたいです。
とても辛い出来事ですが忘れたくないです。