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初めての方は注意事項に目を通してからお読みください
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ちょうど、この記事(⇒アスペルガーかもしれない夫と離婚するべきか)の続きを書こうと思っていたところだった。
アスペ夫など自閉症スペクトラム(ASD)のパートナーと上手くやれたとしても、子供の問題があることを指摘したいと思っていた。
子供もASDで生まれてきた場合、子供は定型だった場合、両方の子供がいる場合。
色んなケースがあると思うが、どれも一筋縄ではいかないと思う。
子供もASDの場合は、パートナーと子供の二人に対応しなければいけなくなる。
子供が定型なら、ASD親の被害から守る必要がある。
両方いれば、定型の子供がASDの兄弟からも被害を受ける。
定型が複数でASDが一人でも振り回されるのに、複数のASDに一人の定型が対処するのは、カサンドラ症候群(参考⇒カサンドラ情動剥奪障害 Wikipedia)に一直線だろう。
ASD本人達の自覚に加え、サポートが必須だ。
そして、ASD親とASD子の家族が放置された形が、佐世保の事件だと思う。
この父親は不可解な言動ばかりだが、ASDだと仮定するとそんなにイレギュラーではなく、驚くほどでもない。
こういうASDの親の元に育つと、定型の子供でもコミュニケーション障害になると思うのだが、子供もASDの場合には、放置すると重症化するのではないか。
「アスペルガーが強力なアスペルガーを生み出す」というのは言葉が過ぎるかもしれないが、ASDがASDを強化してしまうことはよくあると思われる。
もともと他者に無関心で共感性や想像性の低い人が、そのまま大人になり親になるとする。
他人と共感しあったり、社会に適応する必要性を感じないその人は、言わば未成熟な大人だ。
すると当然、社会で生きていく術を教えない。
いや、教えられないと言った方がいいかもしれない。
それどころか、そもそも親という立場を理解していなくて、教育するという考え自体ないかもしれない。
(佐世保の事件の場合、加害者の親は学力や運動、芸術での成績を残す教育はしたが、情緒面の指導はほとんどされてなかった印象。)
そこに同様の特性を持った子供が関わると、その特性は強化されると思う。
もともと脆弱な部分がフォローされないことで、そこは全く育たない。
だから、ますます他者に無関心で共感性も想像力もなく、かつ、それが正しいあり方として刷り込まれるように思う。
ASDは、自分が不快なのに定型と距離を置くことも出来ないことが多い。
人間も物事も全て自分の思うようにコントロールしようとし、周囲を巻き込んでしまう。
それもASDの特性なのだろうが……。
定型が迷惑しても気づかない、気づいても変えられない。
また、何度経験しても予測して避けられない、本人の自由なのに自分で判断できないということがある。
となると、定型が舵取りをしてASDを社会に組み込むしかない。
障害だからといって周囲の人間がただ被害に耐えていては、多くの人が倒れてしまう。
ASDも定型と関わって生きていくのなら、ある程度の譲歩と適応は必要だろう。
それが嫌なら、別々に過ごすしかない。
もう本当に、ASDだけのコミュニティを作ってそこで生活したらいいと思う。
ASDだけで生きて行けるなら、定型社会に適応する必要などないのだから。
それは隔離とかではなく、住み分けだと思うし。
知れば知るほど、違う国の違う文化の違う価値観の人種なのだと感じる。
佐世保の事件では、加害少女が小学校の時に給食に数種の洗剤を混入している。
これは、消ゴムのカスやチョークの粉などの嫌がらせレベルではない。
加害少女の知的レベルなら、洗剤が体に深刻なダメージを与えるであろうことは、理解できるはず。
それなのに、こんなことを5回も繰り返している。
それに対し、父親は学校側の管理責任を追及したと言われている。
学校はこの事件から3ヶ月、加害少女の卒業まで、校長が平日は毎日親に電話していた。
中学に入ってからも、担任が訪問したり、カウンセリングもしていたようだ。
何かあると学校の責任が問われることが多いが、この関係者は十分にやっていたと思う。
それに対し親は、洗剤事件の後のカウンセリングを2回で止めてしまっている。
結局今の社会では、本人の強い希望でもなければ、周囲がどれだけ警告しても親の判断が優先されてしまう。
事件を起こした少女以上に、娘の心理状態を気にかけなかった父親が、より問題である。
特にこの両親は地元でも名士とあって、もう一歩踏み込めなかったのか。
親子とも知的には優秀であったために、病理や障害が潜んでいるはずがないという先入観が強かったのか。
法律など行政が関わる上での壁が大きいのか。
関わった当事者でなければわからない、その状況が詳らかになることを望む。
洗剤混入によって何が起きるか。
結果論にはなるが、加害少女が理解していたのは、身体に起こる物理的な現象だけだったのではないか。
それに伴う相手の心理的ダメージや友好関係、及び自身に対する信頼や評価については、想像出来ていなかった可能性がある。
読者さんからも、ASDにとっては「命」=「生命活動の維持」という認識ではないかという指摘があった。
━引用━
>ひとが生きているのは「身体的に生命を維持」するだけではなく、
>例えば、「明日、どんな美味しいものを食べようか?」「本の続き読みたい!」「孫の誕生が楽しみ」「今度、友達誘ってあの映画観に行こう」等々…
>ひとによって様々な生きている楽しみ、希望、ささやかな精神的活動の積み重ねというものに「生かされている」のだと感じられない。
━引用終わり━
その通りだと思う。
精神的活動の理解度はASDでも個人差が激しいと思うが、もしこの父親がほとんど理解していない人だとしたら……。
娘を教育する能力どころか、本人が成熟することが早急に求められる状況にあったと言える。
どんなに立派な肩書きを持っていても、精神的にはえらく未熟なのだ。
何かある度に「親の愛情があれば……」と言われるが、その愛情を持ち得ない大人がいることを知るべきだろう。
社会にASDを治す術がないということは、一生愛情を持てない人もいるということ。
そんな親を持ってしまう子供も、少なからずいるということ。
目を覆いたくなるような話だが、これが現実だ。
その現実を社会で共有しなければ、アスペルガーの連鎖は止まらない。
初めての方は注意事項に目を通してからお読みください
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ちょうど、この記事(⇒アスペルガーかもしれない夫と離婚するべきか)の続きを書こうと思っていたところだった。
アスペ夫など自閉症スペクトラム(ASD)のパートナーと上手くやれたとしても、子供の問題があることを指摘したいと思っていた。
子供もASDで生まれてきた場合、子供は定型だった場合、両方の子供がいる場合。
色んなケースがあると思うが、どれも一筋縄ではいかないと思う。
子供もASDの場合は、パートナーと子供の二人に対応しなければいけなくなる。
子供が定型なら、ASD親の被害から守る必要がある。
両方いれば、定型の子供がASDの兄弟からも被害を受ける。
定型が複数でASDが一人でも振り回されるのに、複数のASDに一人の定型が対処するのは、カサンドラ症候群(参考⇒カサンドラ情動剥奪障害 Wikipedia)に一直線だろう。
ASD本人達の自覚に加え、サポートが必須だ。
そして、ASD親とASD子の家族が放置された形が、佐世保の事件だと思う。
この父親は不可解な言動ばかりだが、ASDだと仮定するとそんなにイレギュラーではなく、驚くほどでもない。
こういうASDの親の元に育つと、定型の子供でもコミュニケーション障害になると思うのだが、子供もASDの場合には、放置すると重症化するのではないか。
「アスペルガーが強力なアスペルガーを生み出す」というのは言葉が過ぎるかもしれないが、ASDがASDを強化してしまうことはよくあると思われる。
もともと他者に無関心で共感性や想像性の低い人が、そのまま大人になり親になるとする。
他人と共感しあったり、社会に適応する必要性を感じないその人は、言わば未成熟な大人だ。
すると当然、社会で生きていく術を教えない。
いや、教えられないと言った方がいいかもしれない。
それどころか、そもそも親という立場を理解していなくて、教育するという考え自体ないかもしれない。
(佐世保の事件の場合、加害者の親は学力や運動、芸術での成績を残す教育はしたが、情緒面の指導はほとんどされてなかった印象。)
そこに同様の特性を持った子供が関わると、その特性は強化されると思う。
もともと脆弱な部分がフォローされないことで、そこは全く育たない。
だから、ますます他者に無関心で共感性も想像力もなく、かつ、それが正しいあり方として刷り込まれるように思う。
ASDは、自分が不快なのに定型と距離を置くことも出来ないことが多い。
人間も物事も全て自分の思うようにコントロールしようとし、周囲を巻き込んでしまう。
それもASDの特性なのだろうが……。
定型が迷惑しても気づかない、気づいても変えられない。
また、何度経験しても予測して避けられない、本人の自由なのに自分で判断できないということがある。
となると、定型が舵取りをしてASDを社会に組み込むしかない。
障害だからといって周囲の人間がただ被害に耐えていては、多くの人が倒れてしまう。
ASDも定型と関わって生きていくのなら、ある程度の譲歩と適応は必要だろう。
それが嫌なら、別々に過ごすしかない。
もう本当に、ASDだけのコミュニティを作ってそこで生活したらいいと思う。
ASDだけで生きて行けるなら、定型社会に適応する必要などないのだから。
それは隔離とかではなく、住み分けだと思うし。
知れば知るほど、違う国の違う文化の違う価値観の人種なのだと感じる。
佐世保の事件では、加害少女が小学校の時に給食に数種の洗剤を混入している。
これは、消ゴムのカスやチョークの粉などの嫌がらせレベルではない。
加害少女の知的レベルなら、洗剤が体に深刻なダメージを与えるであろうことは、理解できるはず。
それなのに、こんなことを5回も繰り返している。
それに対し、父親は学校側の管理責任を追及したと言われている。
学校はこの事件から3ヶ月、加害少女の卒業まで、校長が平日は毎日親に電話していた。
中学に入ってからも、担任が訪問したり、カウンセリングもしていたようだ。
何かあると学校の責任が問われることが多いが、この関係者は十分にやっていたと思う。
それに対し親は、洗剤事件の後のカウンセリングを2回で止めてしまっている。
結局今の社会では、本人の強い希望でもなければ、周囲がどれだけ警告しても親の判断が優先されてしまう。
事件を起こした少女以上に、娘の心理状態を気にかけなかった父親が、より問題である。
特にこの両親は地元でも名士とあって、もう一歩踏み込めなかったのか。
親子とも知的には優秀であったために、病理や障害が潜んでいるはずがないという先入観が強かったのか。
法律など行政が関わる上での壁が大きいのか。
関わった当事者でなければわからない、その状況が詳らかになることを望む。
洗剤混入によって何が起きるか。
結果論にはなるが、加害少女が理解していたのは、身体に起こる物理的な現象だけだったのではないか。
それに伴う相手の心理的ダメージや友好関係、及び自身に対する信頼や評価については、想像出来ていなかった可能性がある。
読者さんからも、ASDにとっては「命」=「生命活動の維持」という認識ではないかという指摘があった。
━引用━
>ひとが生きているのは「身体的に生命を維持」するだけではなく、
>例えば、「明日、どんな美味しいものを食べようか?」「本の続き読みたい!」「孫の誕生が楽しみ」「今度、友達誘ってあの映画観に行こう」等々…
>ひとによって様々な生きている楽しみ、希望、ささやかな精神的活動の積み重ねというものに「生かされている」のだと感じられない。
━引用終わり━
その通りだと思う。
精神的活動の理解度はASDでも個人差が激しいと思うが、もしこの父親がほとんど理解していない人だとしたら……。
娘を教育する能力どころか、本人が成熟することが早急に求められる状況にあったと言える。
どんなに立派な肩書きを持っていても、精神的にはえらく未熟なのだ。
何かある度に「親の愛情があれば……」と言われるが、その愛情を持ち得ない大人がいることを知るべきだろう。
社会にASDを治す術がないということは、一生愛情を持てない人もいるということ。
そんな親を持ってしまう子供も、少なからずいるということ。
目を覆いたくなるような話だが、これが現実だ。
その現実を社会で共有しなければ、アスペルガーの連鎖は止まらない。