━━━━━━━━━━━━━━━
初めての方は注意事項に目を通してからお読みください
━━━━━━━━━━━━━━━

発達障害との会話を『ドッジボール』と言ってる人がいて、マジでお茶吹いたんだがw

毎日のように発達障害と接してる人間からすると、マジで笑えない。


通常、会話はキャッチボールに例えられるが、そういう投げて受けてまた投げてみたいなことが発達障害には出来ない。

発達障害は一方的に投げるだけ。

それも相手が受け取ろうが逃げようがお構い無し。


だから、ドッジボール。


この例えは巧いんだけど、本当に容赦なくブツけまくるからねw

定型がボコボコになってグッタリしてても気づかないから、逃げないと死ぬよ。




発達障害が、興味のある事柄を一方的に喋り続けるというのは、よく聞く例。

相手がポカンとして話について行けなくても、そんなことは気にしない。


これ以外にも、日常生活ではドッジボールの例が結構あると思う。


発達障害が質問して、定型がそれに答えようとすると、もう次の質問をしてるとか。

答えを知りたいとは思っていないのか、返答を全く聞いちゃいない。


ASDの過集中とかADHDの注意散漫が関係してるのか知らないが、真剣に相手をすると、ただただバカにされているような気になる。




うちでも実際に、質問はするが答えは聞かないということが多い。

父親は何を言ってるかもわからないので無視してるが、母親と何気ない話をするときに、よくある。

質問っぽいことを言いたいだけで、会話、キャッチボールをしたい訳じゃないのだろう。

何度答えてもろくに聞いてないし、だから同じ質問を何回もするし、そのくせ理解する気もないし。

こっちは同じやり取りにうんざりしてるが、そんなことに気づく気配もない。

なので、俺も喋りたいときは答えるが、気乗りしない時は一切無視。

母親の場合、俺が答えなければ一人喋りが続くことは無いので、それで終わりになる。


無視しても壊れた機関銃のようにしゃべりっぱなしのタイプは、本当にやってらんないと思う。




また、うちはとにかくよくテレビにツッコむ。

テレビを見ながら話すこと自体は別にいいのだが、肝心のところでテレビと被って喋り、全く聞こえないことが多々ある。

一つの言葉に反応して講釈が始まり、しかも勘違いや一昔前の説だったり。

専門家の解説とか、クイズの答えとか、何にも聞こえない。

「これって何だろう?」と言うものの、テレビが説明しだしたら見ないし聞かない。

「何か聞いたことある」と言うことも多いが、殆どは知らないことで、なぜそんなに知ったかぶりをするのかもわからない。




俺が今から見ようとしてる映画やドラマのオチを言うのもザラ。

俺が「○○ってさ……」ぐらい話したら、結末までノンストップ。

言わないでと言っても何でか理解できないので、とにかく触れないのが最善。

おかげで、楽しみにしてるもの程、親には興味があると気づかれないようにしてる。






それから、誰かが言った言葉をそのまま言うってのがある。

受け売りとか伝言とかではない。

姑が言った嫁の不満を、発達障害の夫が妻にそのまま話すとか。

AちゃんがB君を好きだと知った発達障害の子が、B君に「Aちゃんが好きだと言ってた」と話してしまったり。


ボールが来たから投げた、右から来たものを左へ受け流すみたいな、かつての一発屋芸人みたいな有り様。

この何も考えない受け流しの被害は、何度も経験している。




幼稚園ぐらいの時に、母親が俺に向かって呟いていたのは、

「子どもは7割褒めて3割叱るのがいいらしいんだよね」


だったらあんたが心がければ?

実際は、4割キレられて3割無視されて残りは偶然上手く行ってるけど、褒められてると思えってこと?


こういう、親が心に留めておくべき知恵みたいなものも、その対象である子どもに言わずにいられないんだよな。

たぶん、説明しても理解不能。

まさにコミュニケーション障害。




小学生の時に俺が問題を起こした時は、母親は「C君は、自分じゃなくて泰斗君が最初にやったって言ってた」と、なぜか俺に報告。

俺が間違いなく知ってることをわざわざ言うってことは、別の意味があるように思える。

我が子を疑い傷つける台詞に、お前が悪いと責められてるのかと思ったが、きっと何も考えてなかっただけだろう。


同じように他の子と問題を起こした時も、母親は「Dちゃんの家は晩御飯無しだって」と他人事のように話した。

うちはクリスマスプレゼント無し。

あんたも問題起こした子どもの保護者で、同じ立場でしょ?

それに、うちでは唯一プレゼントがもらえるクリスマスを無しにしておいて、晩飯抜きの方が厳しいみたいな口調は意味不明。

そんなもんで済むなら、一週間でも二週間でも耐えてやるよと思った。

結局、そこで弁償した分を相殺したかっただけ。

日用品だってまともに買ってくれないのに、そんなにお金がかかるのが嫌なら、子どもなんか作んなきゃいいのに。

想像力ないから、子どもにかかる分の支出は、最初から出費として計算してない。




その後も、被害多数。

俺が高校に入学した時も、教師から受けた注意を母親がそのまま言って来た。

「テストの順位は、中学では取ったことのないような下位の子が必ずいるので、親御さんはショックを受けないようにって」

それって、思いっきり下位に沈んだ俺に対する当てつけかよ。

親がそれを踏まえて子どもに接しろって意味だろうに、全くわかってない。




祖父が「あいつは女の子だと思うけどな」と言っていたと、聞いてもいないのに報告。

それでいて「私は女だとは思っていない」なんて言っても、全く説得力なし。

事実なら何を言ってもいいと思っていやがる。

何を言うか言わないか、少しは選べ。

祖父の言葉に俺が傷つくことを想像できないあなたは、母親失格です。




母親と喧嘩になって、こんな家に生まれたくなかったみたいなことを言った時なんて、

「子どもが親を選んで生まれてくるって言うけどね」


母親の言い方だと、親を選んだ俺に全責任があるみたい。

本当によくそこまで自分にだけ都合よく解釈出来るよな。


当然だが、子どもは親を選べない。

親も子どもは選べないが、産むか産まないかを決めているのは親。

生み出したからには、一人前に育てる義務がある。

その義務を果たしてないくせに、何言ってんだか。


スピリチュアルな考え方では、確かに子どもが親を選ぶ。

だが、だからこそ親は子が自分を選んでくれたことに感謝し、子育てというボランティアを完了させる責任があると言われている。

一度も感謝したことない奴が何言ってんの?

子どもに責任転嫁していいって意味じゃねぇっつうの。
━━━━━━━━━━━━━━━
初めての方は注意事項に目を通してからお読みください
━━━━━━━━━━━━━━━

毒親持ちの人が、『一番言われたくない言葉』がある。

そう言っていたのが、


「いつか仲良くなれるといいね」




何気ない言葉。

きっと優しい気持ち。

そうなることが幸せだと。

ただそれを願って。




でも、胸が締め付けられる。




あなたは、世界中のどんな人とでも仲良くなれるのだろうか。

どんな人とも、仲良くなりたいのだろうか。

どんな人とも、仲良くしなければいけないのだろうか。


どうしても仲良くしてくれない人には、どうしたらいいのだろう。

頭を下げて「仲良くしてください」と言えば良いのだろうか。






どうしても赦せないときは、どうしたらいいのだろう。


何をされても、ニコニコ笑っていればいいのだろうか。

無感情で流せばいいのだろうか。




あなたは、何をされても許せるのだろうか。

何をされても許したいのだろうか。

何をされても、許さなければいけないのだろうか。


そんなにも、人を許すことは正しいのだろうか。

そんなにも、美しいのだろうか。

許せないと醜いのだろうか。




どうして子は許す人で、親は許される人なのだろうか。






あなたは愛し抜けるのだろうか。

あなたを愛さない人を。


あなたは信じられるのだろうか。

あなたを守らない人を。


あなたは生きられるのだろうか。

あなたの命を削る人と。


あなたは待てるのだろうか。

あなたを愛してくれるまで。






子に毒になる親。

それが毒親。


子は親と仲良くしたから毒されたのだ。


親に毒された子が生きる道は二つ。

毒から離れて解毒するか、自分も毒になるか。


毒になれば毒を感じなくなる。

自分も毒を撒き散らし、やがて己の毒で朽ち果てる。

毒から生まれた子は、毒のまま滅びなければならないのか。






やっと、仲良しをやめたんです。


もう、仲良くしたくありません。
━━━━━━━━━━━━━━━
初めての方は注意事項に目を通してからお読みください。
━━━━━━━━━━━━━━━

ASD(自閉症スペクトラム)などの発達障害の理解を訴える中に、たまに『ASDは冷たい人ではない』という人がいる。


言いたいことはわかる。

確かに、ASDは冷たい人ではない。悪い人でもない。

かく言う俺も、両親に対していわゆる冷たい人や悪い人という印象は持っていない。

ASDに相当迷惑してる人でも、彼らに冷酷な人物を重ね合わせることは少ないと想像する。


だが、もし『ASDは冷たい人ではない』というのが、言葉そのままの意味だとしたら、そもそもこの表現自体が非常にASD的だと思う。




なぜなら、冷たいとか温かいとかいうのは、ある人に対して他者が感じることだからだ。

それに対し、冷たくないという反論はおかしい。

冷たいかどうかは相手の判断によって決まるものであって、ASD自身の動機によってではない。


ASDの言動が問題になるのは、本人に『冷たい心』があった訳ではないのに、相手には『冷たい』と受け止められることだ。

ここで、ASD側からは『冷たい』というのは誤解だとか、『冷たい』と言わないでくれという話になる。


だが、それだけを相手にお願いするのがそもそも間違いだろう。

確かに、『冷たい心がある』というのは誤解だが、冷たい行為をするのは事実だからだ。

動機が何であれ、相手が冷たいと感じることなら、それは相手にとっては冷たい行為だ。

その事実を踏まえ、冷たくするつもりがないなら、冷たいと言われた行為をやめること。

その行為は、相手にとっては不適切な行為だったのだから、謝ること。

それが出来る人が冷たくない人である。

わかっていてもやめない、悪くないと言い張るなら、それこそが冷たい人だ。




ASD側がどういうつもりかなんてのは関係ない。

嫌がる人にはしないこと。

それは定型でも同じだ。

してもいい人、場所、時間などを選ぶのは当たり前。

それを判断できないなら、判断できる人の指示に従うこと。

いつでもやりたいことをやって言いたいことを言う人に、大人の権利はない。




『ASDには冷たい心がある』というのは、確かに間違いである。

ちょっとしたロジックのようだが、ASDの人は結果的に冷たいと思われる行為をすることが多いだけで、『冷たい心』はないと思う。

ASDの言動から、冷たい心があると定型は想像しがちだが、そういう因果や動機があるのは定型ならではで、そんなものはないのがASDと言ってもよい。




例えば、「ちょっと子ども見てて」とASDの人に赤ん坊のことを頼んだとする。

すると、確かに子どもを見ているが、それ以外は何もしない。

「何も」というのは、本当に「見る以外の何も」である。

酷い例になると、子どもがテーブルの角に頭をぶつけても、紙を食べていても、ベランダから出て行きそうになっても、泣いても喚いても見ているだけである。


定型はその結果を見て、「子どもに酷いことをする人→とても冷たい人」という印象を持つだろう。

そして、そのASDの人が子どもに恨みでもあるのか、それとも世話を任せた自分に不満があるのかと考える。

定型であれば、何か強い動機がなければ、いやほとんどの人は余程の理由があったとしても、子どもにそんな仕打ちはしないからだ。




でも、ASDの人にはそんな動機はない。

子どもを危険な目に遭わせた、心理的に不安にさせた、とも思っていない。


では、どう思っているか。

見てろと言われたからちゃんと見てた。

子どもは勝手に転んだ、勝手に食べた。

泣き声がうるさかった。

恐らく、そんなところだ。


重度のASDになると、赤ん坊にはまだ危機回避能力がないこと、そのため大人が危機回避してあげなければいけないということでさえ、理解していない。

だから、「見ている」という中に危機回避が含まれているとは、夢にも思わないのだろう。

さらに、「見ている」を文字通りにしか理解出来ていなかったり、状況判断が出来なかったりもする。

また、「見ている」以外のことはしてはいけないという思い込みがあったりするので、危ないとわかっていても「見ている」という自分の行動を変更できないのかもしれない。

だから、刻々と変化する子どもの状況に合わせて動くことが出来ない。

このように変化するものや人に、ASDはとても弱い。


そして、赤ん坊の視点で考えるという、視点を変換したり想像したりすることも出来ない。

当然、あやしてあげると落ち着いたりという情緒的な交わりなども、わかるはずがない。




うちの親は、赤ん坊を放置するほどではなかった。

母親は一通りのしつけも出来た。

だが、見た目が似ていると区別がつかないので、3歳と5歳の子の違いは実感出来てなさそうだし、中高生と大人の違いは今でも理解していないと思う。


また、情緒面は全くフォロー出来なかった。

我が子の気持ちでさえわからないASDは、子どもの気持ちをいつ裏切るかわからない。

だから、俺は親に安心できたことはない。




定型からしたら、赤ん坊を放置なんて考えられない。

だが、これでも悪気はない。

何も考えていないだけ。

何もわからないから。


では、ASDの行為は悪くないのか。

いや、間違いなく悪い。


悪気があるかという動機と、行為の結果の良し悪しは、必ずしも一致しない。

その事を上記の発言者も、ASD自身も理解していない。




ASDの人は、悪気がないから許してくれではなく、悪気がないから悪くないと主張する。

『ASDは冷たい人ではない』というのは、この主張と同じだ。


ASDに理解を示せるかどうかは、ASDが『冷たい心』を持っているかどうかだけが問題じゃない。

『冷たい行為』に対して、どう責任を取るかだ。

「冷たくしたつもりはない。だから冷たいと感じる方が間違ってる」なんて言ってるうちは、理解なんてされるわけがない。


定型の大人は、結果が相手に不都合をもたらした場合、必ず責任を取るのだよ。

悪気がなくても、それこそ善意でやったことでも、相手には迷惑だったら、すみませんって謝る。


ASD側の動機だけを取り上げて釈明するのは、自分視点だけで考えるASDの発想でしかない。

こういう発想を、ワガママとか自分勝手というのだ。




因みに、ASDの人に子どもを預けるのは絶対にやめましょう。

最悪、死亡事故が起きます。


実例として……

ASDの夫に子どもの世話を頼んだら、ハイハイしている子どもの脇にキリやノコギリを放置していたとか。

プールに行ってASDの夫に息子を預けたら「(息子は)勝手にいなくなった」と言い、夫一人で戻ってきた。
妻が息子を探す羽目になり、怒りをぶつけても何もわからず。

ASDの小学生の娘が、おもちゃを奪い合い2歳の弟と取っ組み合いの喧嘩になったなど。


定型の次元ではないです。