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初めての方は注意事項に目を通してからお読みください。
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ASD(自閉症スペクトラム)などの発達障害の理解を訴える中に、たまに『ASDは冷たい人ではない』という人がいる。
言いたいことはわかる。
確かに、ASDは冷たい人ではない。悪い人でもない。
かく言う俺も、両親に対していわゆる冷たい人や悪い人という印象は持っていない。
ASDに相当迷惑してる人でも、彼らに冷酷な人物を重ね合わせることは少ないと想像する。
だが、もし『ASDは冷たい人ではない』というのが、言葉そのままの意味だとしたら、そもそもこの表現自体が非常にASD的だと思う。
なぜなら、冷たいとか温かいとかいうのは、ある人に対して他者が感じることだからだ。
それに対し、冷たくないという反論はおかしい。
冷たいかどうかは相手の判断によって決まるものであって、ASD自身の動機によってではない。
ASDの言動が問題になるのは、本人に『冷たい心』があった訳ではないのに、相手には『冷たい』と受け止められることだ。
ここで、ASD側からは『冷たい』というのは誤解だとか、『冷たい』と言わないでくれという話になる。
だが、それだけを相手にお願いするのがそもそも間違いだろう。
確かに、『冷たい心がある』というのは誤解だが、冷たい行為をするのは事実だからだ。
動機が何であれ、相手が冷たいと感じることなら、それは相手にとっては冷たい行為だ。
その事実を踏まえ、冷たくするつもりがないなら、冷たいと言われた行為をやめること。
その行為は、相手にとっては不適切な行為だったのだから、謝ること。
それが出来る人が冷たくない人である。
わかっていてもやめない、悪くないと言い張るなら、それこそが冷たい人だ。
ASD側がどういうつもりかなんてのは関係ない。
嫌がる人にはしないこと。
それは定型でも同じだ。
してもいい人、場所、時間などを選ぶのは当たり前。
それを判断できないなら、判断できる人の指示に従うこと。
いつでもやりたいことをやって言いたいことを言う人に、大人の権利はない。
『ASDには冷たい心がある』というのは、確かに間違いである。
ちょっとしたロジックのようだが、ASDの人は結果的に冷たいと思われる行為をすることが多いだけで、『冷たい心』はないと思う。
ASDの言動から、冷たい心があると定型は想像しがちだが、そういう因果や動機があるのは定型ならではで、そんなものはないのがASDと言ってもよい。
例えば、「ちょっと子ども見てて」とASDの人に赤ん坊のことを頼んだとする。
すると、確かに子どもを見ているが、それ以外は何もしない。
「何も」というのは、本当に「見る以外の何も」である。
酷い例になると、子どもがテーブルの角に頭をぶつけても、紙を食べていても、ベランダから出て行きそうになっても、泣いても喚いても見ているだけである。
定型はその結果を見て、「子どもに酷いことをする人→とても冷たい人」という印象を持つだろう。
そして、そのASDの人が子どもに恨みでもあるのか、それとも世話を任せた自分に不満があるのかと考える。
定型であれば、何か強い動機がなければ、いやほとんどの人は余程の理由があったとしても、子どもにそんな仕打ちはしないからだ。
でも、ASDの人にはそんな動機はない。
子どもを危険な目に遭わせた、心理的に不安にさせた、とも思っていない。
では、どう思っているか。
見てろと言われたからちゃんと見てた。
子どもは勝手に転んだ、勝手に食べた。
泣き声がうるさかった。
恐らく、そんなところだ。
重度のASDになると、赤ん坊にはまだ危機回避能力がないこと、そのため大人が危機回避してあげなければいけないということでさえ、理解していない。
だから、「見ている」という中に危機回避が含まれているとは、夢にも思わないのだろう。
さらに、「見ている」を文字通りにしか理解出来ていなかったり、状況判断が出来なかったりもする。
また、「見ている」以外のことはしてはいけないという思い込みがあったりするので、危ないとわかっていても「見ている」という自分の行動を変更できないのかもしれない。
だから、刻々と変化する子どもの状況に合わせて動くことが出来ない。
このように変化するものや人に、ASDはとても弱い。
そして、赤ん坊の視点で考えるという、視点を変換したり想像したりすることも出来ない。
当然、あやしてあげると落ち着いたりという情緒的な交わりなども、わかるはずがない。
うちの親は、赤ん坊を放置するほどではなかった。
母親は一通りのしつけも出来た。
だが、見た目が似ていると区別がつかないので、3歳と5歳の子の違いは実感出来てなさそうだし、中高生と大人の違いは今でも理解していないと思う。
また、情緒面は全くフォロー出来なかった。
我が子の気持ちでさえわからないASDは、子どもの気持ちをいつ裏切るかわからない。
だから、俺は親に安心できたことはない。
定型からしたら、赤ん坊を放置なんて考えられない。
だが、これでも悪気はない。
何も考えていないだけ。
何もわからないから。
では、ASDの行為は悪くないのか。
いや、間違いなく悪い。
悪気があるかという動機と、行為の結果の良し悪しは、必ずしも一致しない。
その事を上記の発言者も、ASD自身も理解していない。
ASDの人は、悪気がないから許してくれではなく、悪気がないから悪くないと主張する。
『ASDは冷たい人ではない』というのは、この主張と同じだ。
ASDに理解を示せるかどうかは、ASDが『冷たい心』を持っているかどうかだけが問題じゃない。
『冷たい行為』に対して、どう責任を取るかだ。
「冷たくしたつもりはない。だから冷たいと感じる方が間違ってる」なんて言ってるうちは、理解なんてされるわけがない。
定型の大人は、結果が相手に不都合をもたらした場合、必ず責任を取るのだよ。
悪気がなくても、それこそ善意でやったことでも、相手には迷惑だったら、すみませんって謝る。
ASD側の動機だけを取り上げて釈明するのは、自分視点だけで考えるASDの発想でしかない。
こういう発想を、ワガママとか自分勝手というのだ。
因みに、ASDの人に子どもを預けるのは絶対にやめましょう。
最悪、死亡事故が起きます。
実例として……
ASDの夫に子どもの世話を頼んだら、ハイハイしている子どもの脇にキリやノコギリを放置していたとか。
プールに行ってASDの夫に息子を預けたら「(息子は)勝手にいなくなった」と言い、夫一人で戻ってきた。
妻が息子を探す羽目になり、怒りをぶつけても何もわからず。
ASDの小学生の娘が、おもちゃを奪い合い2歳の弟と取っ組み合いの喧嘩になったなど。
定型の次元ではないです。
初めての方は注意事項に目を通してからお読みください。
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ASD(自閉症スペクトラム)などの発達障害の理解を訴える中に、たまに『ASDは冷たい人ではない』という人がいる。
言いたいことはわかる。
確かに、ASDは冷たい人ではない。悪い人でもない。
かく言う俺も、両親に対していわゆる冷たい人や悪い人という印象は持っていない。
ASDに相当迷惑してる人でも、彼らに冷酷な人物を重ね合わせることは少ないと想像する。
だが、もし『ASDは冷たい人ではない』というのが、言葉そのままの意味だとしたら、そもそもこの表現自体が非常にASD的だと思う。
なぜなら、冷たいとか温かいとかいうのは、ある人に対して他者が感じることだからだ。
それに対し、冷たくないという反論はおかしい。
冷たいかどうかは相手の判断によって決まるものであって、ASD自身の動機によってではない。
ASDの言動が問題になるのは、本人に『冷たい心』があった訳ではないのに、相手には『冷たい』と受け止められることだ。
ここで、ASD側からは『冷たい』というのは誤解だとか、『冷たい』と言わないでくれという話になる。
だが、それだけを相手にお願いするのがそもそも間違いだろう。
確かに、『冷たい心がある』というのは誤解だが、冷たい行為をするのは事実だからだ。
動機が何であれ、相手が冷たいと感じることなら、それは相手にとっては冷たい行為だ。
その事実を踏まえ、冷たくするつもりがないなら、冷たいと言われた行為をやめること。
その行為は、相手にとっては不適切な行為だったのだから、謝ること。
それが出来る人が冷たくない人である。
わかっていてもやめない、悪くないと言い張るなら、それこそが冷たい人だ。
ASD側がどういうつもりかなんてのは関係ない。
嫌がる人にはしないこと。
それは定型でも同じだ。
してもいい人、場所、時間などを選ぶのは当たり前。
それを判断できないなら、判断できる人の指示に従うこと。
いつでもやりたいことをやって言いたいことを言う人に、大人の権利はない。
『ASDには冷たい心がある』というのは、確かに間違いである。
ちょっとしたロジックのようだが、ASDの人は結果的に冷たいと思われる行為をすることが多いだけで、『冷たい心』はないと思う。
ASDの言動から、冷たい心があると定型は想像しがちだが、そういう因果や動機があるのは定型ならではで、そんなものはないのがASDと言ってもよい。
例えば、「ちょっと子ども見てて」とASDの人に赤ん坊のことを頼んだとする。
すると、確かに子どもを見ているが、それ以外は何もしない。
「何も」というのは、本当に「見る以外の何も」である。
酷い例になると、子どもがテーブルの角に頭をぶつけても、紙を食べていても、ベランダから出て行きそうになっても、泣いても喚いても見ているだけである。
定型はその結果を見て、「子どもに酷いことをする人→とても冷たい人」という印象を持つだろう。
そして、そのASDの人が子どもに恨みでもあるのか、それとも世話を任せた自分に不満があるのかと考える。
定型であれば、何か強い動機がなければ、いやほとんどの人は余程の理由があったとしても、子どもにそんな仕打ちはしないからだ。
でも、ASDの人にはそんな動機はない。
子どもを危険な目に遭わせた、心理的に不安にさせた、とも思っていない。
では、どう思っているか。
見てろと言われたからちゃんと見てた。
子どもは勝手に転んだ、勝手に食べた。
泣き声がうるさかった。
恐らく、そんなところだ。
重度のASDになると、赤ん坊にはまだ危機回避能力がないこと、そのため大人が危機回避してあげなければいけないということでさえ、理解していない。
だから、「見ている」という中に危機回避が含まれているとは、夢にも思わないのだろう。
さらに、「見ている」を文字通りにしか理解出来ていなかったり、状況判断が出来なかったりもする。
また、「見ている」以外のことはしてはいけないという思い込みがあったりするので、危ないとわかっていても「見ている」という自分の行動を変更できないのかもしれない。
だから、刻々と変化する子どもの状況に合わせて動くことが出来ない。
このように変化するものや人に、ASDはとても弱い。
そして、赤ん坊の視点で考えるという、視点を変換したり想像したりすることも出来ない。
当然、あやしてあげると落ち着いたりという情緒的な交わりなども、わかるはずがない。
うちの親は、赤ん坊を放置するほどではなかった。
母親は一通りのしつけも出来た。
だが、見た目が似ていると区別がつかないので、3歳と5歳の子の違いは実感出来てなさそうだし、中高生と大人の違いは今でも理解していないと思う。
また、情緒面は全くフォロー出来なかった。
我が子の気持ちでさえわからないASDは、子どもの気持ちをいつ裏切るかわからない。
だから、俺は親に安心できたことはない。
定型からしたら、赤ん坊を放置なんて考えられない。
だが、これでも悪気はない。
何も考えていないだけ。
何もわからないから。
では、ASDの行為は悪くないのか。
いや、間違いなく悪い。
悪気があるかという動機と、行為の結果の良し悪しは、必ずしも一致しない。
その事を上記の発言者も、ASD自身も理解していない。
ASDの人は、悪気がないから許してくれではなく、悪気がないから悪くないと主張する。
『ASDは冷たい人ではない』というのは、この主張と同じだ。
ASDに理解を示せるかどうかは、ASDが『冷たい心』を持っているかどうかだけが問題じゃない。
『冷たい行為』に対して、どう責任を取るかだ。
「冷たくしたつもりはない。だから冷たいと感じる方が間違ってる」なんて言ってるうちは、理解なんてされるわけがない。
定型の大人は、結果が相手に不都合をもたらした場合、必ず責任を取るのだよ。
悪気がなくても、それこそ善意でやったことでも、相手には迷惑だったら、すみませんって謝る。
ASD側の動機だけを取り上げて釈明するのは、自分視点だけで考えるASDの発想でしかない。
こういう発想を、ワガママとか自分勝手というのだ。
因みに、ASDの人に子どもを預けるのは絶対にやめましょう。
最悪、死亡事故が起きます。
実例として……
ASDの夫に子どもの世話を頼んだら、ハイハイしている子どもの脇にキリやノコギリを放置していたとか。
プールに行ってASDの夫に息子を預けたら「(息子は)勝手にいなくなった」と言い、夫一人で戻ってきた。
妻が息子を探す羽目になり、怒りをぶつけても何もわからず。
ASDの小学生の娘が、おもちゃを奪い合い2歳の弟と取っ組み合いの喧嘩になったなど。
定型の次元ではないです。