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最近、特にこの記事へ「発達障害は迷惑なので直すべきだ」というコメントをもらうことがあります。

間違っているのは発達障害の方なのだから変わるべきはアスペルガー自身で、
人に迷惑をかけないようアスペルガーが努力すべきだという主張です。

こういうコメントをもらうということは、当時、僕にも似たような思いがあったからだと思います。


でも、この主張は間違いです。

アスペルガーが間違っているわけでも、定型が正しいわけでもありません。
アスペルガーが変わるべきでも、それを誰かが強要していいわけでもありません。

なぜなら、迷惑してるのは定型の側であって発達障害の側ではないからです。
コミュニケーションを取りたいのも定型だけであって、アスペルガーは必要としていないからです。


押さえておかなければいけないのは、『誰が』今を変えたいのかということです。

今の状態に困っているのは自分で、相手は特に何も思っていないのなら、それは自分が工夫したらいい問題で、相手にさせるものではないでしょう。
というより、不可能です。
相手に断られたら、それで終わりですよね。


それなのに、相手を変えようとするのはどうしてか。

「アスペルガーが間違っている」と思っているからではないでしょうか。
「自分(定型)は間違っていない」と思っているからではないでしょうか。
相手が間違っているのだから、相手が変わるべきだと思っているのだと思います。

確かにその通りかもしれません。

悪気がないとは言え、一部のアスペルガーはそばにいる人間の気分を害し、ルールを無視し、迷惑をかけ続けてますから。

でも、アスペルガー本人がやる気を出して変わろうとしなければ、絶対に変わりません。
ということは、定型からするとずっと他力なんです。

相手が変わらなければ自分の生活も変わりません。
相手が変わらなければ、自分の人生もずっとこのままです。

これでいいのかということです。


よくはないけれど……という人が、沢山いると思います。
だって、少なくとも迷惑をかけているのは向こうで、私は迷惑をかけられている方だから。
そんな自分がなぜ変わらなければいけないのか。
なぜ、自分の方がこれ以上努力しなければいけないのか。
あまりに理不尽だと感じている人も多いと思います。



僕もずっとそうでした。

だから、アスペルガーは努力すべきで、努力出来ないアスペルガーから定型は離れるべきだと言ってきました。
アスペルガー自身が努力して最低限の適応力を身につけなければ、周囲から見捨てられるのも当然だと。
定型にも能力の限界があり、彼らを助けるのは義務ではないと言い続けてきました。

当時、このように思ったのが間違いだったとは思っていません。
なぜなら、この時の僕はこの感情を認めることが必要だったからです。


おそらく、同じ段階の人がいると思います。
夫が憎ければアスペ全てが憎い、アスペが憎ければ障害全てが憎いくらいに思ってしまう時もあるでしょう。

その感情に良いも悪いもないです。
まずは自分だけでもその感情を認めて、どこかで吐き出して、出来れば誰かに受け止めてもらって、少しずつ処理していくしかないのだと思います。


そこで、少し処理できた僕が言えるのは、親にはどれだけ思いをぶつけても期待している半分も返ってこないということでした。
それがうちの親の限界、アスペルガーの限界だと感じました。

何もかも壊れる覚悟で怒りをぶつけても、親が僕の長年の憎悪を感じ取ることはありませんでした。
親の反応に怯え泣きながら訴えても、僕の恐怖心は汲み取れないようでした。

愛されなかったこと以上に、愛されなくて辛かったということがわからない親が、虚しくて仕方ありませんでした。
これだけの仕打ちをしておいて、何も感じない親が許せませんでした。


だから知らしめたかったんです。

僕をどれだけ傷つけてきたか、その重大さに気づいて打ち震えてほしかった。
酷いことをしたと後悔の念に押しつぶされて欲しかった。

僕が辛かったということを少しでも感じてくれたら、ここまで恨むこともなかったと思います。
僕には深刻で、親には些細な出来事だったというような温度差ではありませんでした。
悲しい出来事でさえ、親は僕が好き好んでやっている楽しいことだと思っていました。
マグマと永久凍土くらいの差がありました。

そしてこれが、アスペルガーと定型の住む世界の違いなんだと思います。


続き

『誰が』今を変えたいのか② 僕が親と共有したかったもの
『誰が』今を変えたいのか③ 目的は私が正しいと証明することではない
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先日、『明日の約束』(フジテレビ系火曜21時)というドラマにちなんで街頭インタビューが行われているのを見たのだが……。
それが『こんな毒親は嫌』というもので。
「親にこんなことされたら嫌だ」とか「絶対やめてほしい」とか、道行く人が答えているものだった。


何か違和感ないですか?

言葉の使い方を間違えてるというか……。
毒親というものの意味が、俺が考えるそれとは全く違うと思ったんだよね。

毒親 wikipedia


毒親というのは何かこうこの部分とかではなく、子供の自分に対する思い入れとか全般的な扱いのことだと思う。
それから、支配とか共依存とかもうちょっと根の深いものだと思う。

自分のことで言うと、街頭インタビューで「うちの親はこんなところが毒親です」なんて言えない。
「無関心で超放任主義です」って言ってもたぶん半分も伝わらないし、具体例を色々出してわかってもらおうと思ったらドン引きされると思うんだよね。

それが嫌で、そもそも誰にも言えないっていうのも悩みの1つだったりするし。
街頭インタビューくらいで気軽に話せたら、そこまで悩まないよ。
聞いてる方が辛くなるようなことばかりなんだから。

それでも聞きたいって言うなら、今は話すけどさ。
たぶん、聞きたいことってそんな次元のことじゃないでしょう?


街頭で答えていた人は何も悪くないんだけど、「こんな親は嫌だ」なんて言えるレベルのことは毒親の内に入らないのではないだろうか。
ドラマの方は結構な毒親なので、今のところ描き方は間違ってないと思うんだけど、この軽い扱いはやめてほしいと思った。

重いテーマを身近にして、少しでも理解を深めようとしたのかもしれない。
でも、単なる親への不満を毒親という形で表現するなら、本当に毒親に困っている人間がそれを表す言葉がなくなってしまう。


毒親は子供を支配する人だったり、子供の心を食い尽くす存在。
強烈だけれど、現実は歪めないで伝えてほしい。



そういや、ちょっと前にこんなコメントをもらった。
「自分の親に(対して)『殺されても仕方ない』なんて言うもんじゃない」と。
もう4年も前の記事なので、今も同じ感情が沸々と煮えたぎっているわけではない。
けど、確かにその通り。
「殺されても仕方ない」なんて言いたくないし、言わないで済む方がいいに決まってる。

だけど、吐き出さないともっと体に悪いんだよね。
言わないからって、その思いがなくなったりはしないから。
吐き出せないとどんどん溜まってしまう。
どんなドス黒い感情も、それを認めて、どこかで吐き出して。
そうしないと浄化されていかないから。

そういう人を見ていて、話を聞いていて、辛いなあと思う人はその浄化に付き合う必要はないんだよ。
聞く方もやっぱり辛いからね。

こういう時、ネットは便利だと思う。
相手との関係性とか、今の状況とか考えずに、自分が吐き出したい時に吐き出せる場だから。


最近、座間の殺人事件のおかげで、自殺サイトをはじめSNSへの書き込みが批判されているけど、見当違いだと思う。
「死にたい」という書き込みを削除すれば死にたい人がいなくなるわけでも、死にたい気持ちがなくなるわけでもない。
寧ろ、そういう人がどんどん見えなくなって、行き場を失って本当に死んでしまうかもしれない。

この事件のポイントの1つとしては、死にたいと悩んでいた人が頼ったのが、殺人目的の人であったということ。
被害者に相談して欲しかった人たち(相談機関や家族や友人)は失敗し、加害者は直接会うことに成功したという事実。

死にたいくらい苦しんでる人達にとっての安心とか信頼とか癒しとはどういうものなのか、ちゃんと向き合う必要があると思う。
言うべきことは、ネットで出会った人など「信用するな」「会うな」ではない。
どうやったら信用出来る場を見つけられるのか、どうしたら苦しんでる人に安心して相談してもらえるのかを考えないといけない。



先のコメントには「両親の為とかではなく本人のために止した方がいい」ともあった。
以前、僕は「こんな両親なら恨んで当たり前。憎しみは消えない」ぐらいに思っていたのは確かだ。
だから、もうそれほどでもないことも、憎しみを捏造してたところはある。
「許した」と思われるのが嫌でね。

でも、もうそれはやめた。
許してはいないけど全部を憎んでもいない。
だから、過去にそういうことがあったという感じ。

親は少しずつ変わってきたけれど、だからってこれからは一緒にいたい訳ではないし。
今後の人生には不要だと思っている。


親不孝だとか冷たいと言われそうだと、常識なのか一般論なのかわからないものを気にしてきた。
自分の決断や言動をどう思うか、親の反応も気にしてきた。

そういうことが癖になって心が縛られてきた僕にとって、自分の気持ち一つで自分のことを決めるというのは、出来そうで出来なかったことだ。
だけど今は、やろうと思っている。
やっていんだとやっと思えてきたし、出来ると思っている。
これは僕にとって大きな進歩だ。


そうなれたのは、やっぱり吐き出せたからだと思う。
随分時間はかかったけれど、聞いてくれる人がいるというだけで全然違った。
読者さんの話もいっぱい聞けて、同じように感じる人がこんなに沢山いるってわかった。
僕の愚痴に需要なんてないと思っていたので、この経験はすごく大きかった。

いえ、今もすごく助けられています。



「わからないことを否定するな」という言葉があります。

毒親についても、よくわからないからといって理解を急がないで欲しいです。
まずは、こういう現実があるということやこんな思いになる子供がいるということを、ただ知ってほしいです。
いいとか悪いとか付加価値をつけず、ただそこに置いてください。

そうすることで居場所ができると思います。
それが最初で最大の一歩だと思います。
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選挙にはそんなにも男女別投票者数の集計が必要か


久しぶりに選挙に行ってきました。

1つはまだ男女別集計を実施しているのか
を確認するため、もう1つは最高裁判事の国民審査で×(バツ)を付けてくるためです。


国民審査に関しては本当におかしなシステムになってるので、わからなければバツをつけることが大事です。
何もつけないと自動的に信任になってしまいます。

僕らの生活に関わる大事なことを、最終的に判断しているのが最高裁判事です。
それなのによく知られていないというか、敢えて知らせようとしていません。
知らなければ白票を出して、そのまま信任になるからです。

これは呼びかけていいことになっているので、投票がまだという人がいたら、是非とも全てバツで出してください。



僕の行った投票所では、7年前と変わらず『男 女』と書かれたカウンターが置いてありました。
7年前同様、僕の戸籍名は男性名ですが、戸籍の性別は女性です。

投票券には性別の記載はありませんが、誰が見ても性別がわかるようになっています。
意味ないです(苦笑)


恐らく、性別表記があることで苦痛を感じる性同一性障害の人に配慮したんだと思います。
でも、結局、戸籍性を知られてしまい、女性として処理されてしまうのでは、僕自身は意味がないです。
男性としてしか過ごしていないのに、女性として集計されてしまうことは、やはり違和感というか疎外感があります。

個人的には、名前と見た目で判断してくれてた時の方がまだ良かったかなと思います。


男女で投票の傾向に違いがあるのかを知りたいのわかりますが、そのアンケートに答えない自由もあると思います。
性同一性障害とは関係なく、自分の1票が男性もしくは女性の意見として反映されて欲しくないという人がいても、おかしくないでしょう。

どうしても男女別の集計をしようとする国の姿勢に、男と女は違うはずだという思いも強く感じます。


今回はトラブルはありませんでした。
変な顔をされたとかいうこともなく、スムーズでした。
でも、あの男女別カウンターはやっぱり嫌ですね。
配慮してくれてたんだと思うと、かえって申し訳ないですし。
僕の戸籍の性別を知らなければ、配慮する必要もないのになと思います。



「差別しないから大丈夫」というフォローも頂きます。
でも、問題はそこじゃないんです。

差別されるのが怖いんじゃなくて、男なのに女として区別されることが気持ち悪いんです。
投票所のように男女の区別さえしないところでは、差別など存在しようがありません。


安心させようと思って言ってくれているのかもしれませんが、差別しないのは当たり前だと思います。
だから、わざわざ宣言されることに違和感があるのかもしれません。

誰でも差別してしまうことがあります。
差別しないというのは、失敗を恐れずに向き合うということだと思います。
誓いを立てることではないです。

わからないなら逃げて下さい。
僕らも近寄らないので。
それは差別でも何でもありません。
LGBT理解を、自分のいい人アピールに使わないで下さい。


何が差別かわからないのに、差別しないとは言えないはずです。
言えるということは、差別はこれだと思っているものがあるということでしょう。

でも、そのイメージは間違ってることもあります。
だから、とにかく聞いてほしいです。
決めつけないで、「同じ人間」などという言葉で曖昧にしないで知ってほしいです。


どこでねじれてしまったのか、性同一性障害に対する配慮と思われていることは、配慮でも何でもないことが沢山あります。
当事者が望まない配慮をして、それが非当事者には負担になったり、当事者を優遇しているように見えて、
結果、当事者が妬まれてしまうのは双方にとって不幸だと思います。



性同一性障害と一口に言っても、
トランスジェンダー(女性の身体なら女性の意識を持って女性らしく生きるなど、ジェンダーにとらわれない人など)として認めて欲しい人もいれば、
性自認通りに扱ってもらえれば寧ろ配慮はしないでほしいという人もいます。
見た目も元の身体の性に近い人もいれば、中性的な人や、
性自認と一致していて元の体は全くわからないという人もいます。

今の状態が最終的に望む形である人もいれば、過渡期や妥協した結果である場合もあります。
学校や会社での立場も、身体や名前についても、それが本人の意思とは限りません。

どんなに手術しても、戸籍の性別を変更できても、一般的な男性や女性と同じにはならないように、やはり障害です。
違います。


違うものを違うまま、ただ放っておいてくれたらと思います。