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あけましておめでとうございます。

箱根駅伝が終わると正月が終わったというか、終わってしまったという寂しさが込み上げてきます。
青学、強かったぁ。

こんなブログですが、もうダラダラと10年ぐらいになりました。

今年もよろしくお願いします。




何だか去年の最後の記事が、どうにも締まりのないものになってしまって気になっています。

あの記事を書く気になったのは、アドラー心理学が元になった『嫌われる勇気』を読んだことが大きいと思います。
ずっと気になっていた本だったのですが、ちょうど読者さんにコメントを頂いたんです。
この本から「誰にも好かれなくていい」ということを知り、楽になったと。

この言葉は、僕にとっても大発見でした。

「皆に好かれなくてもいい」とは思っていましたが、そのために僕は「誰かには好かれないと生きていけない」と思っていました。
だから、不思議なくらい僕も楽になりました。

嫌われてもいいんだって。



アドラーは、目的論の心理学です。
心理学でよく知られているのは、ユングやフロイトの原因論で、僕の考え方もそこに終始してきたと思います。

僕は親からあまり愛されなかったし、おかげでサバイバーにならざるを得ませんでした。
そこには親の発達障害という問題があり、親自身がこの障害と向き合ってこなかったことが、僕を精神的虐待ヘ追いやった大きな要因となっていると思います。


確かに、原因は知りたかったです。

楽しむとか幸せになることを自分に許せないのはなぜか。
その原因は家庭環境だとわかっても、うちの親はわかりやすく虐待してきたわけではありません。
そこから発達障害を知り、ようやっと希薄な愛情の原因がわかりました。

根っこがわかってからは、発達障害の親にどう対応するかという問題になりました。
そうして試行錯誤してるうちに、自然と目的論に向かって行ったような気がします。

原因論は、過去を知ることでしかありません。
未来を変えるためにどうすべきかという答えはくれません。

僕は行き詰まっていました。
自分の状況はよくわかった。
だから、これから幸せになるための方法を知りたい。
そう思っていました。


そんな時に出会ったのが、アドラー心理学でした。
ここで哲学や心理学を説いてもしょうがないので、興味のある方は関連書籍を読んでみてください。



僕自身はアドラーの考えに影響されてる真っ最中なので、これまでブログで書いてきたことと真逆の意見になってるのかもしれません。
これからも、過去の自分の考えを否定して行くことになるかもしれません。
それは、これまで僕の意見に賛同してきた読者さんにとっては、味方から敵になったくらいに映るかもしれません。

「原因は発達障害だった。あなたは何も悪くない」というところから、
「原因は発達障害そのものではない。それに対応するあなたの問題だ」と言ってるようなものですから。
なので、すごく冷たく響くかもしれません。

でも、僕はもう戻りたくありません。


僕は親を責めて、暴れて、その気持ちを誰かにわかってもらうという時期が過ぎたんだと思います。

だから、今は正直なところ、発達障害のせいにして相手を責めている言葉を聞くのが、ちょっと嫌になってます。
障害だとわかったから「対応を変えてみた。でも、もう自分にやれることはない」というならともかく、「障害のせいだった。だったら手に負えない。さようなら」は、ないよなと思ってしまいます。
この障害を理解して対応するには、相当数の試行錯誤が必要です。

自分が人とは違って何か出来ないことがあった時に、同じように見捨てられても納得できるんでしょうか。
中でも仕事の相手なら、相手が障害者でも対応するのが仕事だし、自分の子供なら、障害を持って生まれてくる覚悟もしておかなければいけないでしょう。

相手が発達障害だからではなく、自分が相手の特性に対応できる能力がないと見ることも出来ます。
だから、あなたが悪いなどという話ではなくて、対応力がないならどうするかということだと思います。


発達障害を相手にしてものすごく疲弊してるのはわかるんですが、だからと言って定型が正しくて発達障害が間違っていたとは言えないと思います。
定型は努力の仕方を間違い、発達障害は努力というものを教わってこなかったからというのが、一因にあるように思います。

どうも発達障害の人は、努力するということの意味がわかっていないようなんです。
(これはまた別の機会に書きたいと思います)

上手く行かなかったのは、相手が発達障害だったからではなく対応を誤ったからだと思います。
特に最初は、定型にしか通じない論理を展開してしまい、発達障害にはわかりにくい指導をしてしまいます。
そのために、定型はひどく疲れるのに状況は改善されず、それどころか発達障害の人との関係性はますます悪くなったりします。

この悪循環から抜け出すには、発達障害だということ踏まえて接し方を変える必要があります。


これまで、発達障害というものを知らなかったのは仕方ないです。
それゆえ間違った対応をしたことも。
そのために疲弊しきってボロボロになってしまったことは、本当に辛かったと思います。

でも、だからこそ、これからどうするかはあなたが決めるんです。
自分が決めなきゃいけないんです。


例えば、
『母は父のせいで苦労したまま亡くなりました』

こういう話は美談じゃないと思います。
母はただ、不便でも離婚して自由の身になるより、苦労続きの可哀想な奥さんという評価を選んだということでしょう。
批判される幸せと、評価される不幸せで、後者を選ぶ女性は多いのかもしれません。

どちらを選ぶのも自由ですが、それならその選択を支持しない人がいたとしても気にならないと思います。
自分が努力していると思えることが大切で苦労している自分が好きなら、堂々とそれを生きられるはずです。


昨年から引き続き、発言が偉そうで申し訳ないです。
ですが、僕はもう過去に浸っていたくないです。
親のせいでこうなったではなく、それを踏まえてこれからどう生きたいかを語りたい。

アドラーは、未来をどう生きるかで過去の持つ意味も変わると言います。
僕もこれから少しでも幸せに生きて、過去を塗り替えて行きたいと思います。

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今を変える目的は、大雑把に言えば自分が幸せになることだと思います。
そこにアスペルガーのその人も関わっているので、良い関係でいられる距離を探っているわけです。

それなのに、いつの間にか自分が正しいことの証明に追われていないでしょうか。


アスペルガーと一緒にいると「俺は何も間違っていない。全部お前が悪い」と、迫られることが多くなってきます。
そのため、定型は自分には非のないことまで全て自分のせいだと思い込んでしまうことがあります。
これは、これまでの経験や家庭環境などで傷つき慣れてる人なら、特に長いこと耐えてしまいがちです。

そして、忍耐が限界に達すると、今度は反動で「自分は何も間違っていなかった。全て発達障害のせいだった」となってしまうように思います。


発達障害が一般的にどういうものか、知っておいて損はないでしょう。
寧ろ、これまでの失敗は、お互いが発達障害というものを知らなかったゆえのすれ違いなので、知識は持たなければいけません。
しかし、その一般論を自分の正しさの証明に使ってしまっては、そこで終わってしまうと思います。

多くの実例から「同じ思いに駆られていたのは自分だけではなかった」と、心強くなった人も沢山いるでしょう。
自信を持つことは大事です。
ただし、それが正しさの証明に終始してしまってはもったいないと思います。


アスペルガーの人とどう付き合うかは、一般的に何が正しいかに関係なく自由に決めていいものです。
確かに、一般論が後押ししてくれれば、自分の決断が保証されたような気分になるでしょう。
それに対し、一般論には見られない判断をする時には、自己責任だと言われているようで非常に勇気がいります。

でも、どちらも同じなんです。
結果が返ってくるのは自分です。
嬉しい思いも悲しい思いも、自分しか味わうことができません。
その思いに責任を取れるのは、自分だけです。


「障害があるから離婚だなんて、旦那さんがかわいそう」と言うなら、その人が結婚してあげればいい。
「親を見捨てるなんてひどい」とか、だったらあなたが面倒をみればいい。
それは出来ないと言うでしょう。
出来ることに限りがあるのは皆同じです。
自分だけが責任を感じる必要なんてないんです。


安心したくて一般論を選択する。
もしくは、自分の選択に安心したくてそれを一般論化する。

どっちも最終目的からはズレています。
自分が幸せになるために努力してきたはずですよね。


正しいことをしたからといって幸せになれるわけではありません。
ただ、ちょっと安心できるだけです。

また、人は正しいことに従うわけでもありません。
これは「子供は正論では育たない」という言葉からもわかるように、人は正しい理論に従うのではなく、その人を信頼してるから従うのです。


さらに、相手がアスペルガーの場合は一般論がどうのということは関係ないと思います。
「俺は間違っていない」と言い切るアスペルガーは、自分視点の世界しか見えていないので一般論や常識という概念も乏しく、それと自分の考えを比較するという発想がありません。
だから、定型がどんなに「私の方が常識的だ」と詰め寄ったところで、アスペルガーは全く堪えないと思います。

だからこそ悔しいというのはありますが……。



今を変えたいのが『自分』であるというのは、自分が悪いということではありません。
自分勝手だと非難したいわけでもありません。
『自分が選べる』ということです。

「迷惑をかけているアスペルガーの方が努力すべきだ」というところで止まってしまうと、結果を相手に委ねることになってしまいます。
「嫌だ」と言われたら終わりですし、努力するとしても結果が出るのは相手のペースです。


そこで、変えたいのは自分なのだと自覚すれば、出来る限り自分が主体となって考えます。
相手に改善をお願いしてもやらないなら、次に自分はどう出るかと考えることが出来ます。
自分が出来ることの限界点も見えてきます。

相手の能力、現状を知って自分がもうひと頑張りできるのか、これ以上のサポートは無理なのか、自分が決めればいいんです。



例えば僕の場合、事故を起こして他人に迷惑をかける心配があったので、父親から車だけは取り上げました。

発達障害に認知症 自覚がない危険ドライバーの管理①


父親には自分の運転能力を自覚する力はありませんでしたし、母親にも運転を止めさせるかどうかを考える力はありませんでした。
放っておいたら、廃車か免停になるまで運転を続けたと思います。

親の身に何が起ころうがもはや僕には関係ないですが、事故を起こせば僕を含めた家族や親類にも影響があります。
もちろん、事故の被害者は何一つ非がないにも関わらず、うちの親は償えないかもしれません。

親、特に父親にはこのように先を見通す力はないですから、僕が止めなければいつか事故を起こしたと思います。


車を手放すことは僕にとっても少し不便でしたし、親を説得するのはさらに面倒な作業ではありました。

でも、親の言い分は一切聞きませんでした。
話し合いにならないことはわかり切っていたし、彼らは自分の言動に責任を取らないからです。
この時ばかりは、親がどうしたいかとか、どんな抵抗にあうとか、そういうことは全く考えず、僕がやると決めたことをやり通しました。

事故を起こしてしまうことは、僕が嫌だったからです。


親は事故後をろくにに想像出来ていないので、いつまでたっても運転をやめる決断はしなかったと思います。
親の意向を尊重していたら、僕はただイライラを募らせていたと思います。

その後、母親はことある毎に「止めさせてよかった」と、まるで自分が尽力したかのように言い放ってますが……(苦笑)



アスペルガーの人と共存して行けるかどうかは、この人に自分の気持ちをわかってもらいたいのか、自分の気持ちをわからせたいのかの違いかなとも思います。

前者は、まだ共有したいという気持ちが残っています。
それに対し後者は、相手に『私が正しい』ということを知らしめたいのだと思います。

後者になってしまうと、もう2人の未来ではないですよね。
僕は、気がつけば親の間違いをさらけ出し、自分の正しさを証明することに追われていました。


「アイツらはみんな…」と発達障害全てを否定しなくても、「私にあの人は合わなかった」というだけで離れていいんです。
「頑張りたくないからやめました」でも、何も悪くないでしょう。

その先の未来を生きるのは自分なんですから。


一般的にはわかりにくくても、きっとここの読者さんはわかってくれます。
みんな怖いんだと思います。
決断することも、生活を変えることも、誰かと離れることも。

だけど、大丈夫。
一生懸命、自分を生きてきたんですから。
たとえこれまでが間違いだらけでも、今はまだ醜くもがいてるとしても、それはそれだけ自分と向き合って来た証ですから。


ちょっとベクトルを変えるだけです。
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前回は、定型とアスペルガーの望む世界の違いについて話しました。
これは、お互いが今後離れるにしてもそうではないにしても、スタート地点となる重要なポイントです。
だから、その世界観がどれくらい違うのか、どの程度の距離なら適度に付き合えるのかを知る必要があります。

そして、その際に縮められる距離はこんな図式で表すことが出来ると思います。

『相手の能力×自分の能力×時間』

どれも重要ですが特に時間ですね。
僕が無理だと判断したのは、親の寿命に間に合わないからでした。
仮にあと1年で理想の親になったとして、死ぬまでに僕に償えるとは思えない。
しかも、その間にも親の能力はどんどん落ちて行きます。
適度に付き合える距離までをあと100としたら、縮められるのはせいぜい50~60だと思いました。



実は、僕は随分前から薄々気づいていました。
うちの親は変わらないということを。
それは、発達障害というものを知るにつれ、確信に変わっていきました。

僕の思っていた以上に親が変わった部分もあります。
もちろん良い変化です。
だからこそ、何かが違うと思いました。


僕に発達障害を教えてくれた友人が言っていたことを思い出します。

「愛情も理屈ではわかる」

確かに、母親は説明すればわかるようでした。
父親も納得すれば素直に応じてくれました。

でも、これは違うんだよな。

僕が求めてるのはそういう『理屈』ではないんだと思います。
ニーズに応じるのではなく、思いを察して欲しいんですよね。
仮にそれが見当違いでも、僕の気持ちを必死に考えているなら、まだ満足できたと思います。

それがうちの親にはない。
僕のことで、うちの親が慌てているのを見たことがないんですよね。
冷静に対処してるのではなく、僕に関心がない。
だから、慌てようがないんでしょう。
今起きている事実さえ把握していないですから。


先日、よく行くお店のママさんが息子さんのことを話してくれました。
4歳の彼は彼女の脚にしがみつき、甘えて泣いて甘えて、そればかりだと。
困ると言いながら、饒舌に語る様子がとても嬉しそうでした。

「ああ、これが母親だよなあ」

そう言えば、僕には飛び込める胸もすがりつける脚もありませんでした。
母親とは、そうやって甘えることが出来る存在だと知ったのは、いつだったか。
明確に自覚したのは、この頃だったと思います。

家族の異常に気づく⑤ 愛されなかった自分



もう大丈夫かなと思ってたんですが、ダメでした。
通りすがりの人くらいなら何ともないんですが、知り合い以上になると、その女性に対しても息子に対しても嫉妬が半端ない。

子供自体は好きなので会うのも話を聞くのも嬉しいのに、ふと涙が止まらなくなります。
この日の夜は、いつのまにか彼女の話を思い出してグズグズになってました。

『何で僕にはママがいなかったんだろう』
『いいなあ、甘えられて』

息子が羨ましくて仕方ないのです。

この気持ちがどうしたら昇華されるのかは、今もわからないです。



もし、親が変わったとしても、僕はもう許せないような気もしていました。

僕が望む親は子どもの気持ちに気づく親です。
変われと迫られ、意味もわからず学習した理屈ばかりの愛は、僕の望むものではありません。

僕の親は、僕を愛せるようにはなりたくないと言ってるんだと思いました。
少なくとも、親が自ら努力してまでなりたいものではないように見えました。

別に、僕のことか嫌いだとかどうでもいいと思っているわけではありません。
ただ、僕と仲良くいるために必要なことでも、親がやりたくなかったら絶対にしないんです。

例えば、僕がシチューを食べたいと言っても、母親が食べたくない、作りたくないと思ったらそれで終わりです。
「私はそんな気分じゃないな」とか「作るの面倒くさいな、どうしよう」とか、そういう葛藤は見えません。
母親は、シチューを作るのが正しいかどうかにだけ頭を悩ませているようなのです。

僕の期待に添うことで僕の気持ちが満たされるとか、それによって母親自身も喜びを得られるとか、そういう思いが感じられないんです。


僕とは愛情の定義が違うのだと思います。
子供には親の愛が必要で、そのためには親の自分は子供の僕を愛さなければいけないと、果たしてどれだけ思っているのか。
それか、その概念は知っていても、自分が親であるということをさほど感じていないのだと思います。



これらの現実は受け入れ難いものでした。
でも、僕にはどうすることも出来ません。
僕を愛する親はいません。
言葉にすると寂しい響きです。

ですが、僕はもう親から愛されたいとは思っていません。
親が望まないことを要求し続けるのは、とても虚しい作業だったので。

もし、100縮められて適度な距離に出来たとしても、きっと許せないんです。
それが、現実的には親の寿命まで50~60がいいところ。
冷静に考えたら、労力に見合わない骨折り損なんですよね。

それで諦めがつきました。


それまでは、愛されない自分が可哀想で自己憐憫に浸っていたかったんだと思います。
でも、それにも飽きて今はさっぱりした気持ちです。
不思議と寂しさはありません。


こればかりは、本当に読者の皆さんのおかげです。
ここで、リアルでは言えないようなことも一杯吐き出して、沢山の人に聞いてもらえました。
とても大きかったと思います。
ただただ居場所を作ってもらったと思っています。
それが確実に大きな勇気になりました。


僕が共有したいと思っていた愛は、親の中にはありませんでした。
だけど、ここには沢山あると思っています。


続き

『誰が』今を変えたいのか③ 目的は私が正しいと証明することではない