「ただいま。なんだか楽しそうだね」
「シヌさん、おかえりなさい。実は今日オッパと・・・」
いつの間に帰ってきたのか、振り向くとシヌが立っていた。いつもならそのまま今日あったことを話すのだが、自分以外にはテギョンの声は聞こえていないと言われたことを思い出し、言いかけた言葉を途中で止めた。
「あ、あの、ちょっと思い出し笑いを・・・」
ミニョは笑ってごまかすとテジトッキを抱きあげ、逃げるように二階へと行った。
「・・・・・・」
テギョンの部屋で閉めたドアを背にしたままミニョはしばらく動かなかった。
「どうかしたのか?」
「どうしたらオッパの声がみんなにも聞こえるんでしょうね」
A.N.JELLのファン・テギョンといえばトップアイドルで作曲家としても数多くのアーティストに楽曲を提供していて、一般人はもちろん同じ芸能人の中にもファンは多く、プライベートでは変装していてもオーラがにじみ出ていてすぐに見つかってしまうほどなのに、今はその存在はミニョにしか判らない。呟くような言葉は暗く沈んで聞こえた。
「俺の方が知りたいよ。まあ別にどうでもいいけどな。それよりも俺は汚れの方が気になる」
「はい、そうでしたね。えーっと・・・」
ミニョは気持ちを切り替えるように明るい声を出した。
汚れといっても水たまりにべったりとつかったわけではなく、湿った土の上を転がっただけ。表面についた砂は払ってるから白い毛が少し茶色になっている程度。水洗いをした方がきれいになるだろうがテギョンが拒否をしているので、表面だけを拭くことにした。
洗剤をしみこませた布で身体をなでるように汚れを取り、その後、洗剤を取るように濡れたタオルで拭いていく。そして毛に着いた水分を乾いたタオルで拭き取ったが、そこにたどり着くまでが思った以上に時間がかかった。
「おい、その洗剤はちゃんと薄めてあるんだろうな。俺の肌はデリケートなんだぞ」
「はい、大丈夫です」
「ごしごしこすり過ぎだ、もっと優しく扱え」
「判りました」
「そのタオル、もう少し絞った方がいいんじゃないか。中の方まで水がしみてきてる気がするぞ」
「そうですか?しっかり絞ったつもりですけど」
「ちゃんと全身きれいにしろよ」
一つ作業をするごとに文句を言う。もしテギョンが動けたら「もういい!」とミニョの手からタオルを奪い取り、自分で身体を拭いていただろう。しかし今のテギョンは自分の意思ではほんの少しも身体を動かすことができない。
自由にならない身体。
もどかしい気持ちやいら立つ気持ちがいつの間にか強めの言葉となって表れていたが、テギョンの当たり散らすような言い方も気にならないのか、ミニョは楽しそうにテギョンの身体をきれいにしていた。
ブォ~
最後にドライヤーをかけ仕上げる。
「熱くないですか?」
「・・・ああ・・・」
ミニョの膝の上で仰向けにされたり、うつ伏せにされたりと向きを変えられているテギョンの口数がさっきまでと違ってぐんと少なく、というより無口になっていることにミニョは少し不安になった。
「もしかして怒ってます?中の方まで濡れちゃいましたか?気をつけたつもりですけど・・・」
「違う、怒ってない、中も濡れてない、そうじゃない」
「よかった。・・・はい、きれいになりましたよ。毛もふわふわで、いい匂いです」
ミニョは愛おしそうにテジトッキを抱きしめた。
「どうしてそんな風にできるんだ」
「え?」
「俺は・・・俺の身体はもうどこにあるのかも判らなくて、今はこんなぬいぐるみの中に入ってるのに、どうしてミニョはそんな俺の相手ができるんだ。どうして優しくできるんだ」
自分からそばに置いてくれと言ったのに、本当にただそばにいることしかできない現実に、自分で言った言葉を後悔する。
「どうしてって聞かれても・・・う~ん・・・好きだから、じゃダメですか?」
ミニョはテジトッキを抱きあげ、まん丸の目をのぞきこんだ。
「好きだからおしゃべりしたいし、好きだから一緒にいたい。それ以外に理由がいりますか?それに私そんなに優しくないですよ。オッパの声がみんなにも聞こえたらいいのにって言ったけど、本当は聞こえない方がいいと思ってるんです。オッパを独りじめできるし私だけっていうのが特別な感じがして。そんな風に思ってるのがバレたら幻滅されて嫌われて、オッパがいなくなっちゃうんじゃないかってビクビクしてます」
真っ直ぐに見つめる目はミニョの正直な気持ちだろう。
「・・・ったく、どうして俺は動けないんだろうな。これがドラマなら自由に動けてその涙を指で拭って抱きしめてやれるのに」
ミニョは頬を伝ったひとすじの涙を手の甲で拭うと、すんと鼻をすすった。
「涙なら自分で拭けます。それに私がいっぱい抱きしめますから」
ミニョはテジトッキを優しく抱きしめた。柔らかく小さな身体は肌触りがよく抱き心地がいい。
「・・・鼻水、つけるなよ」
「汚れたらまた洗ってあげます」
再び鼻をすんとすすりながらくすくす笑っていると、ドアをノックする音がした。