明日が来る、ということ | 作家・シナリオライター西村悠のブログ

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ラノベ作家・シナリオライター西村悠の近況報告とかです。

最近は頻繁な更新ですね。お世話になっております。西村です。
今回はちょっと、いつもとは違う事情でブログを更新いたします。

と言いますのも、先日このブログにメッセージをいただきまして。
内容は以下のような感じになります。

15年くらい前、どこかで公開されていた小説をずっと探しています。
タイトルは『明日が来る、ということ』。
作者は西村悠さんだと思うのですがいかがでしょうか?
思い入れのあるタイトルで、もう一度読んでみたいと思っています。
もしよければ、公開していただけないでしょうか。

※メッセージをいただいた方に内容を公表してもいいという
 許可をいただいた上で掲載しています。

メッセージをありがとうございます。
言及されている小説は、確かに僕が書いたものです。
アマチュア時代、まだ大学生の頃に書いた作品で、
大学4年生の男女4人が酒盛りをする、という話になります。

現時点の僕が読み直しても、書き方の拙さはどうしても感じてしまいますし、話の展開は地味です。けれど、今に通じる要素が、色々入り込んでいるような気がします。自分中心な書き方をしている分、テーマ性という意味では、プロになってからの作品より鮮明かもしれません。
ずっとこういうことを書いてるんだよな、とこれまでの道のりを思い返して、なんだか温かい気持ちになってしまいました。

まだプロにもなっていない頃の、今から十数年も前の作品を覚えていただいたことが本当に嬉しいですし、メッセージをいただけなければ、この作品を振り返るのは、もっとずっと先になったと思います。感謝しきりです。

リクエストいただいた作品を、十数年前に書き上げたほぼそのままの形で、このブログ記事にて公開しようと思います。

拙いところも多々ある作品ですが、僕にとっては、これもまた、自分の道のりを示す大切な作品でした。興味があるという方がもしいらっしゃったら、ご一読いただければ幸いです。

それでは、
引き続き何卒よろしくお願いいたします。

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明日が来る、ということ

 クリスマス前の、夕暮れのコンビニなんて、出来れば男二人で来る場所ではないな、なんてことを俺は、頭の隅で考えていた。だから大友の返事にも適当な相槌をしていたって、それは当然のことと言える。
「笹山さん来るのかー。そうかー。それはいいことだな。うん。実にそれはいいことだ。それは実に良いことだと思う。なあそうだろ」
 簡単に言ってしまえば俺は。
 別れ際の彼女の言葉が頭から離れなくて、大友の言葉なんて聞いちゃいなかったのだ。
「酒、何がいいかな」
 とその言葉だけ耳に飛び込んできたのだった。
「笹山は、酎ハイしか飲めなかった……」
「何! じゃあ、酎ハイオンリーにしなきゃ駄目じゃん!」
「……ような、そうでもなかったような……」
 無精ひげを生やして眼鏡をかけた大友は怪訝そうに俺の顔を見て、なんだよそりゃ、と言った。
 それから気を取り直したように笑ってみせた。
「まあた、例の女の子の事考えてるんだろ。おまえそれ、いい加減忘れちまえ」
「うるせえなあ」
 十二月二十一日。今日は内輪の仲間で飲み会。コンビニに流れる音楽はジングルベルで、いかにもクリスマスという感じが、本当に嫌だった。
「ま、まま、パーっと忘れようって。パーっと」
 縁のある眼鏡の下で大友の目が笑っていた。大友はいいやつだ、と思った。
 ツマミや缶ビールや酎ハイや酒や酒を割るジュースやお菓子。もろもろ買ったら4347円になった。
 コンビニを出ると、外はやっぱり夕焼けで、久しぶりに、見渡す限り真っ赤な世界だった。
「やっぱり寒いなあ。この間まで秋だと思ってたのになあ」
 大友は目を細めてまっすぐの続く幅の広い車道道を見つめた。
「ここで冬越すのも最後だな」
「当たり前だろ。そんなことはさあ」
 とか言いながら、吐き出すにごった空気が、沈む日に照らされて赤く染まっているのを見て、なんだか妙に、やっぱり冬なんだなあと思う。
「おい! 半分持て!」
 大友が二つあるビニール袋の一つを俺に渡した。
「はしゃぎすぎだろー」
 と俺は苦笑いしてそれを受け取った。ビニール袋は結構重かった。
「おまえ、だっておまえ、笹山さん来るんだぜ。これが喜ばずにいられるかっつう話じゃねえの」
 二人して大きな道路の歩道をとぼとぼ歩く。大きな街道なので車がひっきりなしに行ったり来たりしていた。
「笹山さんが来るんだよなー」
 大友は笑顔のまま、そうかあ、笹山さん来るんだよなあ、とまた言ってまたにやけた。
「なんていうかな。あからさまだよな」
 俺がそう言うと、大友はビニール袋を大きく振り回してまた笑った。
「恋はいいぞ。少年。人生に目標ができる」
 鈍感な大友は何にも気づいていないのだ。
 本当は大友に笹山のことを言っておいたほうがいいのかもしれないな、と片隅で思ったのだけど、やはりやめておくことにした。今日は楽しい気持ちで飲みたい。
 大友の笑顔は落ちかけた太陽で柔らかい赤色に染まっていた。
「はしゃぎすぎだよお前は」
 と俺が言うと、大友はまた笑う。
「いいじゃん。嬉しいんだから。だって笹山さんと飲めるんだぜ。笹山さんとさあ」
 俺も笑ってしまって、そうして、楽しそうでいいなあ、と思った。
 街道から少しそれた川の土手に入ってしばらく歩くと、もう車の音は聞こえなくなる。足音と川の音が混ざって耳に心地よかった。東京のくせに田舎だと言われる所以はこの辺りにあるのだろう。ススキが風にそよぎ、川は静かに流れている。それはありふれたどこにでもある風景で、立ち止まって見入るほどではないけれど、しかし、なんだか、意識の裏側をこそこそとくすぐっていくような気がした。
「なんだかなあ」
 俺は、そう呟いてみた。大友はそれに気づかずに少し先を歩いていて、急に立ち止まって、こっちを見ると、土手の先をさした。
「あれさ。笹山さんと志村じゃね?」
 逆光でよく見えないけれど、確かにそんな気がした。大友が手を振ると、向こうも振り返したから、やはり笹山と志村なのだろう。しばらく歩くと、おーい、と声がかかった。志村の声だ。相変わらず元気が良くて、おそらく目覚めてそのままであろう無造作なショートカットに、いかにも安物なジーパンと無地のTシャツにやはりいかにも安物ののジャンパー。女であることを忘れているのではないかと男の俺でさえ心配になる。
 志村とは対照的に、ベージュのロングスカートにコートにマフラーをつけた笹山はなんとなくお嬢様っぽい雰囲気をかもしだしていて、長い髪はきれいに整えられて、夕暮れの光に綺麗に輝いている。
 合流して四人になって、にぎやかに話しながら、大友の住むアパートに向かった。大友のアパートは川沿いにあって、部屋はその二階にある。大友が部屋のドアを開けると部屋に満ちていた夕暮れの光がさっと玄関先に差して、なんとも風情があった。
 それにしてもずいぶんと綺麗にしたものだ。昨日まであった玄関を埋め尽くす雑誌の山も、洗わずにそのままになっていた洗濯物も、全部さっぱり無くなっていた。
「大友君の部屋ってもっと汚いのかと思ってた」
 と笹山が呟く。大友が俺の顔を見てまた笑った。
「失礼な話だなあ。俺は意外と綺麗好きなのだよ。まあまま。入った入った」
 六畳の板の間に青いカーペットその上にコタツがちんまりと置かれていて、なんとシーツまで新調したらしく、真新しいものになっていた。
驚いた。昨日までの男臭さまで消えている。これはよほどの気合の入れようだ。
「ソウは?」
「まだだよ。まだバイトだって」
 大友が隅に積まれた座布団をひっぱりだしながら答える。
「バイトって、あれでしょ。漫画のアシスタント」
 志村が窓の外を見ながら言う。
「あいっつはすごいよなー」
 志村はそう続けて、座布団に座った。
「頑張ってるしな」
 と俺は言った。笹山も頷きながら、大友の用意した座布団に座る。志村が漫画家になることを諦めたのは、この場にいる全員が知っていた。一年も前のことで、周知の事実だったのだ。けれど、志村の悲しみの深さを推し量ることは俺には出来なかった。時折見せるさびしげな表情と、一緒に飲んだときの言葉が、ただ耳に残っているだけだ。
 あると信じて探していた才能が、どこにもなかったって気づいただけよ。
 彼女はそう言ったのだった。
「遅れるのね、ソウは」
「まあいいじゃんか。とりあえず、酒とつまみだー! だー!」
 大友がそう言って、ビニール袋から酎ハイやビールの類を持ち出してそれから缶を開けて、みんながプルタブを引くのを待った。
 外はまだ夕暮れだった。なんだかずっと夕暮れだったような気もするのだけど、多分今までも時間は過ぎてきたのだ。
 大友が立ち上がり、ビールを持つ手を挙げる。
「何に乾杯?」
 みんなの顔を見て、大友が聞いた。
「大学で過ごした四年間に」
 と志村。
「いいじゃんただの乾杯で」
 と俺。
「私は、みんなとの思い出に、がいいな」
 と控えめに笹山。
「では、みんなとの思い出に」
 と大友は当然のごとく言った。
「乾杯」
 俺や笹山や志村も「乾杯」と続いて、缶と缶の当たる音が聞こえて。
 大学四年生の年末。学生生活最後の忘年会は地味に始まったのである。

「あーしっかし、大学生活も振り返ってみればあっという間だったわねえ」
 志村が缶ビールの七缶目を飲み干しながらそう言った。
「ありがちな台詞だな。それ」
 俺はそう答えながら、ちびちびと缶に残ったビールをすすった。
 反対の壁際に座った大友が、ハタから見ればすべり気味の会話を笹山としていて、それでも笹山は楽しそうに話を聞いている。
「……やっぱりウルトラマンはおかしいんだよ。だってビームが当って爆発するって、どんなビームだよ」
 何を話しているんだ大友は。
「違うよ大友君。あれはビームが爆発するんじゃなくて、怪獣が爆発するの。なんか、こう、化学反応が起きてるのよ」
 日はもう山の向こうに消え去って、東の空は紺色に染まりつつあった。気分はだいぶ良くなっていて、大して強くもないのにこんなピッチで飲んでいたら、すぐに沈んじまうな、などとぼんやり考える。カーテンの隙間から見える窓の外の風景は、とても寒そうに見えた。
 志村は小さくため息をついた。
「もう少しさ。何かやっとけば良かったなあって、思うわ。そう思わない? 毎日毎日がなんだか、気がつかないうちに通り過ぎていって、いつの間にかもう社会人なのよ。もっと何か出来たはずだって、いつも思うわ。もっとすごい何かをさあ」
 他の缶ビールに手を伸ばしながら志村は言った。
「そうかね」
「そうよ」
「おまえは頑張ってたじゃんか。好きだったぜ俺。あのペンギンの話」
 志村の最後に描いた漫画は、ペンギンが北極で、魚を取ったり、白熊から逃げたりしながら毎日暮らしていて、ある日、他のペンギンがいかだで海に出ないかと誘うのだけど、でもペンギンには勇気がなくて、ずっとずっと悩んだ末に結局海には出ない。
 そうして、外に向かっていったペンギンを見送ると、なんだか泣けてきて、でも次の日から、また日常に戻る、とかそんな話だった。
 驚くことも、事件も、すごい悲劇も起こらない作品なんだけれど、なんだか俺は、その作品がとても好きだった。
「ああいうのはね、努力とはいわないの。単なる浪費、徒労、骨折り損」
「ふーん」
「聞いてないでしょ」
「うん、まあ」
 本当は聞いていたのだけど、でもどうやって反応していいか分からなかったから、俺は結局聞いていない振りをするしかなかったんだ。
 志村が怪訝な顔をしてこちらを見て、それから、あんたねえ、と言った。
「なに? 振られてからずっとその調子なわけ? 世界が終わったような鬱々とした態度。苦手だねー、そういうのは。たかが恋愛ごときで何言ってんのよ」
 そうではない、と言いたかった。問題はもっと、ずっと深いところにあった。
別れ際の、彼女の言葉が耳を離れない。
「そういうのってあれだよな。恋愛してない人間の物言いだよな。もう全然他人事な」
 俺が適当にそう答えると、志村は何が面白いのか大笑いを始めて、なんだかその顔が面白いので俺も笑ってしまう。今日はよく笑う日だな、と俺は思う。
 笑ってるうちに誰かの携帯が鳴った。着メロが演歌だった。大友だ、と俺と志村は口をそろえて言った。
「大友、携帯鳴ってる」
 大友は全然気づかずに笹山と話していて、俺はもう一度、大友、と声をかけなければいけなかった。
 大友はうっとおしそうに携帯を取った。
「もしもし。……なんだ、ソウかよ。みんな先飲んでるぜ? おまえも早く来いって! たーのしーぞー! ……ん。どうしたのよ?」
 大友の表情が曇った。
「何? これない? なんだ。ああ。うん。そうか。いや、いいんだ。それならそれで。分かった。いや、ほんと気にするなって。仕事頑張れ! じゃ、また」
 大友はそう言って電話を切り、俺たちに向かって、ソウは来れないってさ、と言う。一瞬皆黙ってしまって、なんだかそれが不愉快だった俺は、思い切り酒を一気飲みすることにした。缶を開けて、手に取って高くあげた、斜めにして、それを少しずつ上にしていく。他の連中が、おーと口々に叫ぶ中一気に飲んで、机に置いた。
「うまい!」
 俺が叫ぶと拍手が飛んだ。
「やるねやるね。いけるくちだね」
 大友が笑顔で言う。
「……あー、ビール、もうなくなったわね」
 と志村が空の缶を振りながら言った。
「ちょっくら買いに行ってくるわ」
 志村が立ち上がり壁にぶつかりそうになると、笹山も慌てて立ち上がった。
「佐紀ちゃん、足元ふらふらじゃない。私が買ってくるから待ってて」
「私は酔っ払ってなどいなーいのだ。買いに行くぞ。ビール!」
「だってさあ」
「そんなに心配するとは、さては貴様私のことが好きだな!」
 と志村は言って笑う。笹山は困ったような顔をしてため息をつく。
「もう。いいわ。一緒に行こう」
「あ、買い物なら、俺が行くよ」
 と大友は言ったけれど、笹山は手を振って、大丈夫だから、と言って、外に出て行った。
不意に二人だけになって、俺たちはお互いに顔を見合わせた。
「可愛いなあ。笹山さん。ほんと可愛い。可愛いし優しいし可愛いよ」
 コタツに頭を乗せ、玄関の方を見つめ続けながら言う大友は幸せそうだった。
「なー。優しくて可愛くて優しいんだよ。分かるかなー。分かんないだろうなー。おまえには全然彼女の良さが分かってないんだよ」
 あんまり幸せそうだったから、俺は最初、黙っておこうと思ったことを口に出す決心をした。
「あのな、大友。笹山って彼氏いるんだぜ」
 なるべくさりげなく言ったが、大友はしばらく動きを止めて、反応を見せなかった。
 やばいなあ、泣いてるのかな。
 玄関のほうを見ていたので表情は分からなかったが、しかしずっと、答えようとも動こうともせずにいた。俺はその後頭部をしばらく眺め、それから、テレビでも見るかな、と呟いてリモコンを探そうとした。
「知ってるしー」
 と突然大友が言った。
「んなもんなー。百も承知やっちゅうねん」
 なぜかエセ関西弁でもう一度大友が言った。それから大きく息をするように背中が動く。
「でも、好きなのもんはしょうがないんだよー。四年間好きだったしー。付き合ってたからってー、嫌いになれるわけでもないしなー」
 大友は薄ら笑いを浮かべながら、うつむき加減にそう言う。
「……奪っちゃうとか、どうよ」
 と、俺も我ながら適当なことを言うな、と少し思った。
 ただ、なんだか見ていられなかったから、そう口にしたくなっただけだ。
「俺はー幸せそうなー笹山さんがー好きなんであってー、そんなごたごたに巻き込ませたくないっちゅー話だね。だいたい俺、かっこよくないしさー。見たことあんだよ。笹山さんの彼氏。かっこうよかったぜー。なあ。なんかなあ、青年実業家なんだってさあ。かなわねえよう。俺なんかじゃさあ」
 大友は偉いなあ、と俺は言った。
「そうだよ? 俺は偉いんだよ? 実業家じゃないし、夢だってないけどさー。偉いんだよ。分かってるのかね。君はあ」
 ふと沈黙が訪れると、蛍光灯やコタツのジリジリいう音が聞こえてきた。
「早く春が来て、みんなばらばらになって、それぞれがそれぞれに幸せにやっていけたらいいのになあ」
 と大友は言って、しばらくただ息をしていた。それから突然こちらを向いた。
「おまえ! おまえだって、人のこと言えるほど幸せな立場か? この間振られたんだろう? まったくしょうがねえなあ。この負け組みめ!」
「からむなよ」
「大体さ。なんでまた別れたんだ?」
「いいだろなんだって」
「良くないだろー。なんでだよー。教えろよー。あれか、体の相性の問題か」
「精神の相性の問題だ!」
 大友は下品な笑い声を上げた。
 玄関の戸が開いて、志村が眉をひそめながら中に入った。足取りは先ほどよりはしっかりしていた。夜気に酔いが、少し冷めたのだろう。
「なーに、変な声だして笑ってんのよ。外まで聞こえてたわ」
 そう言って小さくため息をつくと、コタツの上にまたビニール袋を置く。
「やっぱり中は暖かいね」
 と笹山が目を細めて言った。
「飲みなおしだ! こちとら寒くてしかたねーのよ!」
 と志村は言う。笹山がビニールから酒やら菓子やらを丁寧に取り出して机の上に置いて、そうしましょう、と言った。大友も笑って飲もう飲もうと言った。
 俺は大友を見て、それからやっぱり飲もう飲もうと言った。
 たくさん飲んだ。四年分飲んだような気がした。
 笹山が一番先に酔いつぶれて、志村に介抱されながら、なんで私はいつも人に頼ってばかりなのだろうと、寝言とも独り言ともつかない声で呟いた。
 宴もたけなわ。俺は一人で酔いを醒まそうと外に出た。
 夜の川べりの空気は、志村が言ったようにとても冷たくて、吐く息は白くて。土手から見える大友の部屋とはまったく違った静かな世界だった。
 案外空は暗くて、だから、星が光っていた。
 俺は静かにしていた。携帯を取って、彼女に電話をかけることにしたのだ。
 別れ際の彼女の言葉がずっと頭を離れなかったのだ。
 二十回鳴って、彼女は出た。
『どうしたの?』
 冷たい声で、思わず気後れしてしまった。
「いやあ、なんつうか」
『酔ってる? 私、よりを戻すつもりなんて……』
「そうじゃなくて、そうじゃなくてな。ただ、話をしたかっただけなんだ」
『……でも、私は、あんまり話すことないわ』
 彼女は迷惑そうに言って、それはまったくそうだよな、と俺は思う。別れた彼氏から電話が来たって、それは、ただ気持ち悪いだけなんだろうと思う。
 少し前まで、電話をしてきたのは彼女だったのになあ。
 しばらく、俺も彼女も話さずにいて、俺は、どうして、電話をしようと思ったのか、思い出した。
 深く息を吐いて、それは白く濁っていた。
「なあ、君は」
 俺は付き合う前と同じように、君は、と言った。
「君は、俺に惰性で生きてるだけだって言ったんだ。君は絵描きになりたくて毎日頑張ってて、それで毎日なんとなく過ごしている俺が嫌だと言ったんだ」
 彼女の息遣いが受話器の向こうから聞こえる。
「それで、俺はそうかもしれないって思ってたけど。そうでもないって、今日思ったんだ。別に、惰性なんかで生きてないんだ」
 酔っ払ってるからこそ言えるような恥ずかしいことを俺は言った。
「俺、頑張ってるんだよ。それは確かに君ほどじゃないかもしれないけど。目標だってないし。特別なことが出来るわけでもないし。平凡で、かっこいいことなんて何にもなくて。でも頑張ってるんだ」
 まだ言いたいことがたくさんあったような気がしたのだけど、自分でも何を言っているのか良く分からなくなって、みっともないから話すのをやめてしまった。
 彼女は一度小さく、うん、と言った。ちょっと沈黙があって、今日はずいぶん冷え込むね、と彼女は言った。
『例年に無い冷え込みだって。なんかいつもニュースはそんなこと言ってるような気がするけどさ』
「うん」
『毎年同じくらい寒くて、毎年毎年変わらない冬だよね』
 それから少しの間、また別れる前のように世間話をして、不意に彼女は沈黙した。
『もうあなたのアドレス、携帯から消すから、あなたも私のアドレスを消してね。そうしたらさっぱりして、お互い無かったことに出来るわ』
 彼女はそう別れ際に言って。
『ごめんね。でも、わたしとあなたは違うの。やっぱり、無理なのよ』
 と言って静かに電話を切った。声が少し涙ぐんでいたのは、気のせいではないと思った。
 俺はしばらく携帯の画面を見ていて、その光に照らされて吐く息が白くにごるのを見ていた。
 携帯の時計を見ると十一時を回っていた。
 もうすぐ明日が来て、次の日もまた明日が来る。俺はなんの目標もなくただ毎日を過ごしているだけで、いつの間にか学生じゃなくなって、社会人になって歳をとって……。なんだかそれはとても怖いことのように思えた。
 でも、だけど、俺だって皆と同じように、毎日がんばって生きてる。
 そういうことに、価値があるのかどうかは分からないけど。
 でも、頑張って生きてる。
「うおーい!」
 と間抜けな声がして、振り返ると、窓から身を乗り出して大友が手を振っていた。俺は笑って、大友の部屋に戻ることにした。
 部屋の中は暖かくて、四人で楽しく酒を飲んでいて、でもみんなどこかで、何かにしこりのようなものがあった。
 志村がふと時計を見て、あー、十二時を過ぎちゃったなあ、と言った。
「まあた、明日が来ちゃいました。明日もきっと、明日が来るんでしょうねえ」
 志村が少し、お茶らけた調子で言った。
 なぜか皆黙ってしまった。
「まあ、飲みなおそうか」
 そう言って俺は立ち上がった。
「乾杯しようぜ。乾杯」
「今更かー? 何にだよー。何に乾杯するってんだよー」
 大友が言った。俺はしばらく考えた。
「昨日は明日だった今日に」
 俺は言って、なんだか恥ずかしくなって笑ってしまって、それから、皆顔を見合わせて笑った。
「はずい、はずいわ。夜の酒のテンションは怖いわー」
 志村が体を抱えて笑いながら言った。自分で顔が赤くなるのが良く分かった。
「うん。でも、まあ」
 みんな笑いながら飲みかけの缶を持ち上げた。
「乾杯」
 と半ばやけになりながら言うと、
「乾杯!」
 さっきまで笑っていたくせに、みんな、やけに真剣にそう声を合わせたのだった。
 うん、と俺は一度うなずいた。
 そうさ。
 つまり、そういうことさ。
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