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ノルマンディー上陸作戦…1944年6月6日

 

ナチス・ドイツのユダヤ人迫害で、オランダの隠れ家にいたアンネ・フランク一家は、ひそかにラジオでこれを聞いて非常に喜んだそうですね。街をドイツ軍の大部隊が移動していったりして「アムステルダムがウワーンと鳴っているようだった」という雰囲気だったようです。6月6日早朝、報告しようにもヒトラー(夜型だった)も司令官の一人ロンメルも就寝中。その日から80周年。

 

 

とうとう米英連合軍が、対ソ連戦線に次ぐ第2戦線を開いた!という興奮は相当なものだったようです。オランダのみならず、映画「Dデイ」でも、フランス人が連合軍の艦砲射撃で家財を壊され、家を吹っ飛ばされても歓喜するさまが伝わってきます。海岸の要塞のドイツ兵は、急に水平線上に現れた大艦船群にキモをつぶし、我に返って司令部に電話するも「冗談だろう」と一笑に付されたものです。

 

この上陸作戦の書を読み映画を見ると、上陸作戦そのもの以外に、準備に多くのページ、場面が割かれていることに気づきます。

 

(チャーチル父さん、早く遠足“フランス上陸作戦”に行こうよう)

 

・ソ連のスターリンからの催促と、なかなか腰を上げられないイギリスのチャーチルの態度。

・総司令官は最初アメリカのマーシャル将軍だったが、のちアイゼンハワーに変更。その政治力。

・2年前の「疑似」上陸作戦は大失敗。それを踏まえて空挺部隊の活用と「怪獣戦車」の開発。
 

・“あの”パットン将軍が「ノルマンディーでなくカレーを攻めるぞ」とした欺瞞作戦。

・イギリスに来たアメリカの大兵力と市民の交流。文化の違う両国の交流と戸惑い。

・ドイツの防策。「大西洋の壁」長城の建設と防御網の構築。名将ロンメルと大兵力の配置。

 

(怪獣戦車の1つ、キャンバスでおおわれて水中も進めるDD戦車)

 

「史上最大の上陸作戦」はこの準備も含めて、第2次大戦中の壮大な叙事詩の1つ。映画にもなっただけあり、スターリングラードやヒトラーの最期、ミッドウェーや戦艦大和に匹敵する「物語」だったのです。15万の当初兵力、戦艦6隻始め5000隻の艦船部隊、1万機の航空機が、約30万の兵力を持つドイツ軍の正面に上陸したのです。

 

現実の作戦中の話題は以下の通りです。ノルマンディー上陸作戦は場所別に理解すると分かりやすいです。

 

・空挺作戦:アメリカ・イギリス軍担当。兵力1万1千、死傷140。

 

落下傘で敵の後方に降下、または爆撃機にけん引されたグライダーで降ります。主力部隊が上陸する前日、まずは偽装人形を偽装地点に降下させてドイツ軍の目を欺き、それから上陸予定地点の5か所の海岸をはさむように両端の湿地に平地に降りたのです。橋の確保と重砲を持つ要塞の破壊が任務でした。

 

グライダーには人員だけでなくジープや対戦車砲、軽戦車まであり、空挺隊員は何十キロもの重い装備でした。ドイツ軍も妨害し、湿地でおぼれたり、散り散りになったり、敵の真ん中に降りて射撃されたり、教会の屋根に引っかかった死んだふりをした隊員もいました。

 

しかし奇襲は成功し、ドイツ側の不手際もあって、死傷者を出しながら上陸地点からドイツ軍の目をそらして戦力を分散させることに成功したのです。またフランス国内のレジスタンスの攻撃もあり、連合軍を援助し、苛立ったヒトラー武装親衛隊「ダス・ライヒ」がオラドール・スール・グランで虐殺事件を起こすという尾ひれまで付きました。

 

(空挺作戦妨害用の“ロンメルのアスパラガス”)

 

・オマハ・ビーチ:アメリカ軍担当。兵力3万4千、死傷2,000。

 

最大の激戦地。迎え撃つドイツ軍は装備もよく訓練優れた部隊で、悪天候で波が高く、上画像のDD戦車を5両しか揚陸できなかったのです。攻撃を放棄して別のビーチに行くことも検討されたほどです。しかし物量で押し切り、人数を投下して銃火を避けられる位置から、トーチカを接近戦で前後から爆破し攻めて攻略しました。有名なロバート・キャパの写真もここで撮られたものです。

 

(有名なキャパの写真)

 

・ユタ・ビーチ:アメリカ軍担当。兵力3万2千、死傷200。

 

ドイツ軍の要塞が地理的に少なく、波も比較的穏やかで戦車も多く揚陸できました。セオドア・ルーズベルト大統領の57歳の息子が副指揮官。目標を外れて上陸しましたが、ルーズベルト准将の機転の利いた指揮で「我々はここから戦いを始めるのだ!」との英雄的な号令下、一番手薄なところから上陸できました。ただ艦砲射撃の駆逐艦が陸上砲火で沈没しました。連合軍唯一の沈没艦です。

 

(ドイツ軍の反撃も熾烈)

 

・ゴールド・ビーチ:イギリス軍担当。兵力2万5千、死傷400。

 

4年前のフランス撤退の雪辱に燃えたイギリス軍の主戦場。一部では激しい抵抗に遭っていましたが、海岸の防衛線を突破すると、順調に占領地を伸ばし、軍曹1人で100人以上のドイツ兵を殺害・捕虜にしたという武勇談も出ました。水陸両用戦車もここでは大量に揚陸でき、後で上陸したコマンド部隊も要塞を攻略しました。

 

(映画“Dデイ”より)

 

・ジュノ―・ビーチ:カナダ軍担当。兵力1万5千、死傷900。

 

オマハ・ビーチに続く防御の堅い海岸。海中障害物に阻まれ、第一波の306隻のうち90隻が撃破されてしまいました。突撃隊はさらに死傷を50%も出しながら勇敢に突撃し、DD戦車(水中でもイケる戦車)10両の援護もあり、ドイツ軍は急激に戦意を喪失して降伏しました。カナダ軍は1日でフランス国内奥深く攻め込み、上陸群では最大の進出線まで行きました。上陸作戦全体を通じて、カナダ兵が血を流して最初に攻略した家はまだ残っています。ただカーン市では「ヒトラー・ユーゲント」師団の防戦で停められることになりました。

 

(海中障害物)

 

・ソード・ビーチ:イギリス軍担当。兵力2万9千、死傷600。

 

イギリス軍コマンド部隊も加わった部隊。川や段差の多い地形で架橋戦車なども上陸しました。ここも最初は60人ほどの兵士が一度にやられるなど、苦戦しましたが、ドイツ軍の抵抗を短時間で制圧しました。先に行っていた空挺団の士気を高めるため、コマンド部隊である兵士がイギリスの民族楽器、バグ・パイプを弾き、士気を高めました。

 

(空に浮いているのは阻塞気球)

 

ドイツ軍はヒトラーが“カンで”予言してノルマンディー近辺に防御兵力を置いたのは当たっていたのですが、機甲師団を集中させるのは拒否したのです。海岸防塞で将兵が勇敢に防戦し、ロンメルたちが独裁者を説得しているうちに、連合軍は5つの上陸地点をつなぎ合わせ、空挺部隊が背後から連絡して橋頭保(上陸補給拠点)をつくりあげ、6月22日までに兵力40万、車両6万、兵器10万トンを陸揚げしたのです。

 

(キングタイガー=ケーニヒス・ティーゲル重戦車)

 

ドイツの誇るキングタイガー戦車12両が暴れまわって連合軍の車両25両をあっという間に撃破し、その性能を初めて見せつけたのはここノルマンディーでしたが、そんなものはごく一部の局面に過ぎなくするほど、洪水のような連合軍の物量がすごかったのです。

 

とにかくここから第2次世界大戦の終結へのスピードが速まることになりました。ドイツは東西2方面を戦わなくてはならなくなり、ヒトラー暗殺未遂事件なども起こりました。ただ補給線の伸び過ぎた連合軍が失敗したということもあり、1944年クリスマスまでに終わるといわれていた戦争は翌年5月まで続くことになりました。

 

当時本土まで攻め込まれたドイツも日本も必死で、バルジの戦いや硫黄島攻略戦などあって、1939年からこれまでの戦死者と同じ命が、1945年までの1年で失われる凄惨な戦いが繰り広げられたのです。