ヒトラー暗殺未遂事件:生き残った人々
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今日は、最大、そして最後のヒトラー暗殺未遂事件 から70周年です。
暗殺は失敗 し、多くのかかわったヒトが粛清されました。色々なサイトにまとめられています。何しろ20世紀1,2を争う強烈な独裁者、その組織は警察国家 と言われ、悪名高いゲシュタポはじめ、捜査網と粛清システムは厳しいものでした。
しかしそんな中で、深くかかわったにもかかわらず、生き残ったヒトもいました。そんな人を追ってみました。ドイツでは崇められている方々ですが、あまりネットで出てこないヒトもいます。
占領されたベルギーのトップ。明治末期に日本に来たこともあり、中国の軍事顧問だったこともあります。3国同盟で、日本より中国と結ぶべきだ!という主張でヒトラーに反対し、暗殺計画に加わりました。暗殺失敗後は証拠がなく、起訴されず強制収容所にいました。戦後も中国寄りで、蒋介石から80歳の誕生日を祝われました。
ヒトラー内閣の閣僚に近い人物でしたが、チェコ併合に反対して暗殺計画に参加しました。ヒトラー親衛隊の一員でもあり他の外交官たちに警告を与え続けました。ただし戦後は連合軍に戦犯として裁判にかけられ、有罪になりましたが、恩赦で釈放されました。息子はのちに西ドイツの大統領になりました。
早い時期からヒトラーの害に気づき、兵器局長の地位を利用してヒトラーに爆弾を持って近づき、ともに爆死しようとした人物。ヒトラーの気まぐれで実行できませんでしたが、後の暗殺計画でも爆弾の材料を提供しました。しかし他の同志が口を割らず、ドイツ敗戦まで国防軍にいました。
自殺した首謀者の副官で、反ヒトラー派の連絡役を務めました。捕まって尋問され、ゲシュタポの言語に絶する拷問の記録を残しています。自殺まで考えましたが、決して口を割りませんでした。裁判にかけられて簡単に処刑されるところを、途中で裁判長が空襲死し、強制収容所で終戦を迎えました。
☆ クライスト・シュメンジン中尉
ゲルスドルフ少将に続いて、ブッシェ大尉と共に、外套に隠した爆弾でヒトラーもろとも爆死しようとした人物。シェラブレンドルフ氏と共に裁判にかけられ、公然ナチ反対を叫びましたが、ちょうど空襲で裁判長が死に、公判記録がうやむやになって助かりました。父親も暗殺計画に加わり、イギリスの協力を得ようと尽力しました。
政財界の人脈や、ゲシュタポはじめナチス・ドイツの組織自体をウマく手玉に取って、収監されながらも拷問を免れて、助かった人物。“ドクトル”と呼ばれ他の暗殺者の面々に一目置かれていました。1954年以降ドイツ連邦議会の議長になりました。
☆ ミュラー牧師
ナチスはカトリックを迫害しました。ドイツ国内のイエズス会のトップ、ガ―レン神父やファウルフーバー大司教などが、安楽死計画などに猛然と反発したからです。その公然たる敵対心から暗殺計画に加わりました。牧師でも容赦されませんでしたが、彼は8年間収容所にいたプロテスタントのニーメラー牧師と共に、大変な環境の中、生き残りました。
ヤルマール・シャハト経済相の側近。警察を含む色々な行政組織に籍を置き、暗殺をたくらむドイツの各グループの連絡役を務めました。友人にゲシュタポの有力者がいて、彼をも計画に誘い込みました。シャハト氏はニュールンベルク裁判で無罪となり、ともども生き残りました。
☆ オットー・ヨーン
ものすごい“怪物”。うまくコネを使って、暗殺が失敗するとすぐにドイツから離れ、連合国との和平交渉を行いました。しかし戦後は、要職に就いていた当時の西ドイツから、突然東ドイツに亡命し、また西ドイツに帰ってきたという経歴の持ち主。
名将ロンメルの参謀長。最良の参謀長と言われるゆえんは、軍人にして哲学博士の論理で、並み居るゲシュタポの尋問を跳ね返し、ロンメル将軍を完全なクロにしなかった手腕です。収容所に入れられましたが脱走し、戦後はNATOの司令官になりました。
最大かつ最後の暗殺計画は、もう少しのところだったのですが、失敗したのです。これを見ると、元帥、大将、市長、貴族、提督レベルのヒトはあまり助かりませんでしたが、比較的若く、小回りの利く地位で、また行動力が広大なヒトが助かっているのが分かります。
それだけナチスの粛清が激しかったせいですが、この7月20日以降、ヒトラー自殺までの10か月で、それまでの5年間の大戦での戦死者と同じ数の人数が、戦火で失われたことを考えると、この計画が失敗したのは、実に残念だったと、歴史の後付けながら思います。