キリスト最後の聖地めぐり | 新労社 おりおりの記

キリスト最後の聖地めぐり

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クリスマスはキリストの降誕記念日ですが、キリスト教が信じられるようになったのは、その34歳くらいの死からです。

 

キリスト教はキリスト生前の名言や業績もあるのですが、何といってもその伝説は、死の前後、周りの非難を甘受し、人間の罪を全部引き受けて処刑され、その後甦ったという前後4日間ほどのできごとに由来します。その場所を巡ってみました。

 

 

・上の部屋

 

最後の晩餐が行われた場所。ユダヤ教では「過ぎ越しの祭り」(災いを過ぎ越すために羊の肉やパンなどを食べる)があり、キリストはある家屋の2階を指示しました。そこで夕食を摂る会話の中で、最後の予言をしたのです。キリストは弟子に向かって「お前たちのうち1人が裏切って、私は逮捕され、お前たちは逃げ散るだろう」といい、パンを自分の体に、葡萄酒を血に見立てたのです。それ等を広範な人類にキリストは与えたもうた、という伝説になりました。

 

いろいろな絵になっていますね。13人写っているもの、召使がいるもの、裏切り者ユダだけテーブルの手前にいるもの・・・ただこの部屋がどこの家なのかはハッキリしていないのです。

 

(一番有名なダ・ヴィンチの絵)

 

・ゲッセマネの森

 

キリストが逮捕された場所。晩餐の後、自宅へ戻らず、弟子たちとこの森でちょっと過ごしたのです。弟子たちは朝からの疲れで寝てしまい、しかし自分に訪れる運命を見通したキリストは1人、死の恐怖におびえました。「なんでオレ1人がこんな死に方をせねばならないのか!」しかし苦悩の結果「自分は神の子として天に召されるのだ」と2~3時間のうちに啓示をもらい、サッパリとしたのです。

 

その苦悩の間、弟子たちはスヤスヤ眠って、悟りを得たキリストに「寝るな!こら!」と、雷を落とされたようです。弟子は裏切り者がいたとしても、これが最後の晩になるとは思わず、のん気だったのです。話をするうちに、銀貨30枚でキリストを売った裏切り者のユダと、ユダヤ教の「宗教警察」がやってきたのです。ユダが「この男です」とキリストにキスして、捕まりました。弟子たちは斬りかかるものあり、逃げるものあり、しかしキリストを守るものはなく、さっきの晩餐の予言通りになりました。

 

ゲッセマネの地名は残っているようで、エルサレムの東郊の丘陵、標高818mのオリーブ山の北西のふもとです。第一次中東戦争でヨルダンに占領されましたが、第三次中東戦争でイスラエルにより奪還され、墓地になっています。ただ今はゲッセマネというと、ヒトというヒトから見放された孤独の苦悩の試練、というエピグラムになっているようです。

 

・ユダヤ教大祭司の官邸

 

逮捕されれば警察で取り調べられるのですが、この時代は祭祀と立法、行政、裁判が一緒でした。だからまずは「坊さんのトップ」がいきなり裁判したのです。ましてやユダヤ教に反対する「政治犯」でした。ここでキリストは、自分は「ユダヤ人の王様」「神の子である」と言ったのです。もう神のもとに行くと悟ったのだから、自分の気持ちを偽る必要はありません。

 

自分の権威を傷つけられたと思った大祭司は怒りました。周囲の兵士たちも怒ってからかいに、キリストにトゲの付いた冠をかぶせ、唾を吐きムチ打ちました。そして大祭司は死刑であると宣告しました。政治犯の運命はきついものです。しかしユダヤ人には死刑の判決を下す権限がなかったので、当時の属州ユダヤの最高機関、ローマの総督ピラトに判決してもらうことにしたのです。今で申せば最高裁でしょうか。

 

・ピラトの官邸

 

「最高裁長官」ピラトは果たしてキリストの命を絶つ最終判決を下したのか?そうでないのか?というのは2千年も論議の対象になってきました。彼はしかし妻ともども、どう考えてもこの男はユダヤの王とか、神の子とか勝手に口で言ってるだけでしょ?言うだけなら殺すほどじゃない、反乱を起こしたわけでもないし、人を殺めたわけでもない、と考えて死刑を回避しようとしました。

 

殺人犯バラバとどちらを許そうか?と努力しましたが、結局群衆の叫びに屈して、死刑の許可を出したのです。この人を見よ!もうこんなにひどい目に合っているではないか!という当時の最先進国、ローマの代理人の叫びも、群衆の狂気の前には無力だったのです。しかしこれでユダヤ人は以後2,000年近く、発展したキリスト教徒に散々な目に遭うことになりました。

 

ユダヤの大祭司やピラトの官邸はエルサレム市内。鞭打ちの教会、宣告の教会として聖地になっています。ここから悲しみの道(ヴィア・ドロローサ)を経て、ゴルゴダの丘で処刑されるのです。キリストを死に至らしめた直接の責任者にもかかわらず、このピラト総督はそれほどキリスト教徒に悪いヤツと思われているフシがなく、スイスの山の名前にまでなっています。

 

(ピラトとキリスト「この人を見よ!」)

 

・ヴィア・ドロローサ

 

判決を受けた場所から、処刑地のゴルゴタの丘に至る、キリストが十字架を運んだ道のりです。キリストが倒れた、2度目に倒れた、3度目・・・さらに嘆き悲しむヒトに言い聞かせた、母マリアに会った、十字架を代わりに担ぐ人がいた、キリストの顔を拭いた人がいた・・・と何かあったごとに伝説があります。

 

この道のりは中世に推測して作られたものだそうで、実際にキリストが歩いたかどうかは分からないそうですが、動画画像映画を見るに、その感覚は素人でも分かります。エルサレムに行けば定番の観光散歩になります。

 

・ゴルゴタの丘

 

処刑された場所です。キリストが他の2人と十字架にかけられ、2日間で刺殺されたとも餓死したとも、また窒息死したとも言います。強盗犯で同じところで処刑された脇の2人はキリストを否定したヒト、肯定したヒト、相反する発言をしたそうですが、肯定したヒトは「信じる者は救われる」を地で行ったと伝えられています。

 

この丘もホントに丘だったのか?人が大勢通る街道沿いだったのか?教会の境内だったのか、墓地の中だったのか、いろいろな説があります。今では「聖墳墓教会」としてキリストを打った釘などが発見されたところが比定されているようです。聖遺物がけっこう残っている、というのはロンギヌスの槍とか、十字架に打った釘とか、聖者の血がかかったものに対する伝説がそうさせたのです。

 

・カルバリ山のお墓

 

キリストの遺骸は十字架から降ろされて、墓に安置されました。3日後にマグダラのマリアが墓の様子を見に行ったら、キリストの横たえられた毛布はそのままで、その脇に立って「復活」していた、というものです。遺体に着ていた衣服の抜け殻があって、振り向くとキリストがいた、マリアが触れようとすると「私に触れてはならない、復活を皆に知らせよ」と言って、いろいろ復活のしるしを残した後、昇天した、というものです。

 

これまでの話だけなら、カリスマ的人気のあった男が無実の罪を着せられて殺された、という歴史上よくあることなのですが、この「復活」のありえないような奇跡の感動からキリスト教の強烈な伝播が始まったのです。

 

ちなみにカルバリ山とはゴルゴダの丘を含む一帯の山地のことのようです。どこが墓の穴だったか?というのは2000年もの昔、肝心なことですがよくわからないのです。

 

復活とは何もキリストだけのものでなく、どんな死に方をした善人でも悪人でも「裁き」を受けるために復活するというのです。ただキリストは人類の罪をすべて背負うという公共心を発揮したから天使に迎えられたのです。科学的には分からないにしても「何か変わったことがあったのだ」と書いてある本もあります。

 

キリスト教に関係ないところでも「死者の復活」はあります。奈良時代の日本霊異記にさえ、ガメツイ金貸しが「復活」したハナシがあります。こっちはあまり美しくない復活ですけどね。死んでその後を知ることというのは、宗教のみならず人類のあこがれかもしれません。

 

墓の位置はエルサレムであることは間違いなさそうですが、その後2世紀に戦争によって焼け野原になり、再開発されているので墓の位置は分からなくなってしまいました。 3世紀に磔刑に使われた十字架やキリストの身体を打ち付けた釘などの聖遺物を発見され、ここだろうと見当をつけたのが現在の聖墳墓教会です。

 

人間は基本死んだら終わりですが、この「死んでも復活」する論理に、キリスト教はじめ宗教の原点があります。死の恐怖を克服するための「復活神話」。その復活をよくするためにはいい行いをしないと、宗教を信じないといけませんよ、という論理で大勢の人を引き付けてきたのです。

 

思えば文明の発展でキリスト教が合理性に負けそうになった時期もありましたが、文明に疲れ果てる昨今、宗教の役割もキリストの昔を見直す方向に行く、その本質は人間の生死の定義に行くような気がします。