高速巡洋艦「第6戦隊」コンプリート! | 新労社 おりおりの記

高速巡洋艦「第6戦隊」コンプリート!

当ブログをご訪問頂き、ありがとうございます。

 

○ 日本法令DVD

  「東京都と厚生労働省の助成金の比較でわかる活用の仕方」はこちら

○ 中小企業福祉事業団DVD 

    「助成金活用の第一歩!『事業内職業能力開発計画』作成のススメ」はこちら

○ 助成金の無料診断、最新状況はこちら

○ メルマガ「新労社が贈る、人事のツボ!」(無料)はこちら

=================================================

(左から重巡洋艦、青葉・加古・衣笠・古鷹)

 

第6戦隊というのは、大東亜戦争時の重巡洋艦「青葉」「加古」「衣笠」「古鷹」の4艦の巡洋艦戦隊のことです。このたび最後の「古鷹」を造り、太平洋を駆け回り、第1次ソロモン海戦に代表される、日本海軍の誇る赫々たる武勲を上げた戦隊が20年がかりで完成しました。最初の「加古」を造ったのは21世紀に入ってばかりのころです。

 

「古鷹型」「青葉型」というのは古鷹と加古が最初は20cm単装砲6門から出発したものだったからで、最初から20cm連装砲6門で完成した方を「青葉型」というのです。同じ大きさ、攻撃力と防御力でした。古鷹も加古も完成後10年ほどで、昭和14年に青葉・衣笠に準じる大改装をしました。ここで4隻揃った戦術単位として太平洋を暴れまわったのです。

 

もっとも私のことですから、昭和17年中に沈んだフネも含め「荒唐無稽でないくらいの大戦末期仕様」にしてあります。

 

🚢 「青葉」(開戦時旗艦)

 

 

これは改造せず、キットモトモト。実際の歴史でも終戦に至るまでその雄姿がありました。レーダーも完備し艦橋は観測所を重ね重装備、機銃も魚雷発射管のクレーンにまで付けてあります。昭和17年から毎年のように砲撃や潜水艦の魚雷などで大破し、その都度修理し、満身創痍で日本に帰り着いて最後は昭和20年夏、呉軍港近くで空爆で着底しましたが、私は幸運の巡洋艦に入れています。

 

 

🚢 「加古」

 

 

艦橋をやや重装備にした古いキット。双眼鏡や防弾板などで「大戦末期仕様」にしてしまいました。艦載機もあり得なかった零式観測機2機。簡易戦闘機代わりのつもりです。もともと軽巡「熊野」の3連装15.5㎝砲3基で軽巡化したことがあります。

 

(15.5㎝砲9門の加古)

 

昭和16年より前、「青葉」が旗艦になる前はこの「加古」が戦隊旗艦でした。前後のマストが離れていて、通信がよくできることからだったでしょう。長い間の第2艦隊旗艦、重巡「愛宕」と同じです。1940年の観艦式では吉川英治などの文士を乗せました。しかし第6戦隊の中では一番早く、大戦果を挙げた後、1942年8月に潜水艦により沈みました。

 

(双眼鏡を付けた防空指揮所が拡大された艦橋)

 

🚢 「衣笠」

 

 

最新のキット。機銃が12丁しかないので増強してあります。レーダーも前部後部のマストに取り付けてますが、艦橋は開戦時の通り。見張りの双眼鏡なども省略されています。空想と現実の隙間を埋めるために、連装、3連装機銃は最小限にして、ナノドレッドの単装機銃を多く付けてあります。サボ島沖海戦で他の2隻が沈んだり大破する中、奮闘しアメリカ艦隊に一矢報いて駆逐艦を撃沈破しました。その後4隻のうち唯一、ガダルカナル飛行場砲撃に成功し、直後の第3次ソロモン海戦で敵機の空爆で沈みました。

 

 

🚢 「古鷹」

 

 

これも最新のキット。史上なかった機銃の増強に、前部マストは青葉と似たような4脚スタイル。レーダー室を設置してあります。水偵はちょっと古くして、小柄な95水偵と大柄な94水偵を積んでいます。「青葉」「衣笠」に比べると、上部構造物が少なく、機銃の増強がしにくいです。カタパルト付近に3連装機銃など付けて良いものか?青葉・衣笠がやや貫禄があるのに比べ、古鷹・加古は20㎝単装砲6門から始めたので、ややスマートで大口径砲がアンバランスな印象があります。

 

 

「古鷹型」「青葉型」の4艦は昭和2年の落成。大きさはイギリスの「クラスB重巡洋艦」(エクセター、ヨーク)に相当し、やや建造費がかかり、小さいせいか居住環境が悪かったようです。量産されたのは一回り大きい妙高型でした。戦前は戦隊名を変えながら、交代で皇室のお召し艦などを務めていました。

 

以後「条約型重巡洋艦」の嚆矢となり、米英も含めて20㎝砲が8~10門、1万トンクラスへと増える中でも、攻撃力は少ないながら、小回りの利く中型艦として重宝しました。乗り心地が良かったと見え、高松宮(昭和天皇の弟)は退艦後も随分懐かしがったそうです。

 

(加古と青葉、96陸攻と)

 

ただ英国の士官は「日本人にとってもこんな余裕のない艦はゆくゆく我慢ならなくなる」と感想を述べています。艦内の雰囲気はよく、しかし度重なる改造により余裕のない作りに見えたのでしょう。最初は「威力のある軽巡洋艦」だったのが「やや軽武装の重巡洋艦」と、用途が変わったのですから。

 

開戦後は4隻揃って南洋トラックへ進出してグアム島、ウェーク島、ラバウル、ニューギニア攻略作戦を支援し、珊瑚海海戦で敵の弾雨の洗礼を浴びました。その後第1次ソロモン海戦に参加。 その帰途、1942年8月9日、加古が潜水艦で沈没。さらにガダルカナル飛行場砲撃の任に就いた3隻のうち10月12日、サボ島沖海戦で古鷹が砲戦で魚雷発射管に被弾し沈没しました。

 

(ワレ青葉)

 

この戦いで青葉も司令官が戦死するなど大破して戦場を離れました。ただ1隻健闘した衣笠は第6戦隊から第8艦隊直属となり、10月14日に重巡鳥海とともに、4隻の中で唯一ガダルカナル飛行場砲撃に成功。11月14日、戦艦比叡・霧島が沈没した第3次ソロモン海戦で、別動隊としてガダルカナル砲撃隊の支援中に空襲で沈没。青葉一隻となった第6戦隊は解隊しました。

 

 

残った青葉はその後、旗艦任務や高速輸送艦、防空艦改造の話もありましたが、応急の輸送任務等果たしているうちに1943年4月にラバウルで空襲で大破し、修理後は輸送任務に就き、インド洋で第8戦隊の利根・筑摩と通商破壊作戦に従事後、レイテ沖海戦中のフィリピンで輸送作戦中に潜水艦の雷撃で3度目の大破。日本までたどり着いて終戦を迎えました。

 

 

この青葉含め「青葉型・古鷹型重巡洋艦」は8~10門の20㎝砲を備えた1万トン級重巡に比べても遜色ない活躍で、30ノット前後の高速+ソコソコの大きさで重宝された第6戦隊の巡洋艦4隻、その歴史永遠なれ!