料理の記憶 42 「焼鳥編」 元店
次の話に行く前に私がヘルプに行ったお店を紹介していこうと思う。
当時の記憶が曖昧で、もしかすると多少の間違いはあるかもしれないが、登場人物、又は出来事自体はすべて事実なのでここに記録しておく。
既に退職している人も多くて、知っている人が見れば時代を感じるだろう。
それもそのはずである。この話は20年以上も前の話になるのだから。
まずは「元店」を紹介しよう。
元店は元町駅の近くにある店舗でチェーンとしては9号店目になる。
平成7年にオープンしているため、私が焼き鳥屋に務めた時には既に存在していた。駅から近い中型店舗でカウンターのほかにテーブル席が沢山あった。焼き台は2台あり、常に2人の社員が横並びに焼いている。
店舗によっては1人で焼いたり2人で焼いたりとキャパシティや忙しさに応じているが、元店の場合は大きな特徴があった。それは、ほかの店舗をはるかにしのぐ「お土産注文」の多さである。他の店舗が多い時でも一日500~600本に対して、元店は1000本近い注文が入る。圧倒的に多いのである。
当初はほかの店舗と違い住宅街の近くにあるからと会社も納得していたが、後にできる住宅街に近い店舗でも1000本のお土産注文を記録した店はない。なぜ元店だけがお土産注文が多い店なのかは店舗数を増やせば増やすほど謎になっていったものである。この頃から東区の住民たちは焼き鳥を家で食べる習慣があったに違いない。
一日1000本の注文となると焼く方も大変だが、注文を受ける方も大変になる。
営業開始時間の2時間前から電話が鳴り止まない。つくねを練っている社員やネタ分けをしている社員も電話が鳴るたびにいちいち手を止めなくてはならないため、中々仕事がはかどらない。このお店には電話番が必要であった。
さらに、注文自体が営業開始時間と同刻になることが多く、焼き手の社員は営業開始前からお土産分を焼き始めなければならなくなる。営業開始して、店内はまだガランとしているのも関わらず、焼き場だけは以上に忙しいというのがこのお店の特徴であった。
そんな中、このお店の店長に君臨していたのがハタサンである。
ハタサンと言えば、慰安旅行の時にマネージャーであるツチテンさんに対してものを言っていた人で、つまりは店長の中でも重鎮であった。私がヘルプに行ったあとすぐに、ハタサンは新店舗の店長になり、その後マネージャーとなった。
貴重なハタサンの店長時代を知っている人も現在は少ないだろう。いや、そもそもハタサンを知っている人も少なくなってきているに違いない。すでに退職していると聞いた。
ハタサンは元気だった。
この頃、めっちゃ元気だった。
オーダーが焼き上がり、ハタサンがそれを見て、座席が1番であると「ウィー!!イッチバーン!!」とスタンハンセンのものまねをしていた。しかし当時のアルバイトはおろか私でさえもスタンハンセンが全盛期でプロレスをしていたのが記憶に浅く、当時でさえも店内はかなり白けていた。そんな中、心の優しい社員のガーシーさんが唯一笑っていた。
私から見るとハタサンとガーシーさんはかなり仲が良く、息があっているように感じた。むしろその間にいたニャノ主任が店長と合っていないように感じていたが、それは私の思い過ごしだったのか。それとも...いや、何を言いたいのかというと、ハタサンが新店舗の店長を任されるにあたって社員のガーシーさんを連れて行くのだろうと多くの人が思っていたはずだが、実際は主任のニャノさんを連れて行ったのである。
つまりガーシーさんは一人元店に残されるような形になったのだが、その後の元店を支えたのはタックハーシーさんであった。タックハーシーさんは私と同じ店で主任として働き、元店の店長に昇格した。持ち前の明るさやツチテンさん仕込みの接客術でお客さんにすぐに受け入れられていた。しかし厳しさも同時にあった。ターゲットは主任に昇格したガーシーさんで、飲み会のたびに私に愚痴をこぼしていたのを憶えている。
タックハーシーさんが元店の店長になったので、私もヘルプや飲み会などで元店と交流があった。
アルバイトとも仲良くなったりと、雰囲気も良く本当にこの当時は良い時代だった。
元店の記憶といえばこのお土産と人事異動である。この後も多くの人事異動があり様々な歴史を作り続けている。
例えば向かいのパチンコ店にプロ野球日ハムに行ったダルビッシュがパチンコをしていただとか、真意はわからないがそういった話も聞いたことがある。後にお土産が1200本を超えたという話もあった。
現在は誰が元店で働き、誰が店長なのかはわからないが、元店はハタサンから始まったという事だけ記録しておこう。ウィー!