そんな言葉を浴びて育った人も多いのではないでしょうか?
わたしも、敬謙なキリスト教の家族に育ったので、真面目であること、正しくあること(基準なんて疑問は当時はわかなかった)。自分に厳しいこと。
そんなことが、根底にあったのだろうと思う。
ある時期まで、心底楽しんだり、笑ったりできなかったのですよ。
仮に楽しかったとしても、それを、外からコイツ楽しんでやがるって客観的に外から見てる自分が常にいたから。。。
迷惑。
かけないですむならそれもいいだろう。
だが、孤島で自給自足でもしない限り不可能だ。
生きるということは、人間においても生存競争な側面もある。
そもそも、食べるという行為が、「生き物」を食するという行為なのだから。命は生き物によってしかつなぐことができない。
稼ぐということが、だれかを犠牲にしていると思っていた時期もあった。
でも、自分が稼げなくなって、誰かに頼らざるを得なくなったとき、迷惑を掛け捲った。いまもまだ借りなんてまったく返せてないだろう。
だから、決めた。
稼ぐというのは、ゼロサムゲームでも、パイの法則でもない。
お互いにハッピーになれるのが商売の基本だろうとおもう。
喜んで買ってもらえる。お金をもらって感謝される。
たぶん、実際に個人的に取引を何度も経験しないとわからないと思う。
実際たいした稼ぎにはなっていないが、ヤフオクを通して中古PCの販売をしている。まだ30台程度しか売っていないけど、基本喜ばれている。
そして、もう1台とお願いされたり、修理の依頼があったりもする。
昨日も、以前に私から中古PCを買った人から電話があった。
OSの領域を壊してしまって、リカバリーしたいとのこと。
最初はやり方を説明していたのだが、よくわからないみたいなので、往復送料先方持ちで、3000円で再インストールしますよ。と請け負った。
とても喜んでもらえた。
早速届くのだろう。HDDは壊れてないみたいだから、1時間放置して再梱包すればいいだけだ、とてもありがたい話。
そして、先方もありがたいという。
これが取引の基本。
だれも、損などしないし、だれかの富を奪ったりもしない。
交換が基本。お金というのは交換をスムーズにするための道具だ。
ブログでは何度も書いているが、道具というのは使いようだ。
有名なダイナマイトを発明したノーベルは、危険なニトログリセリンを安全にかつ便利に使える物としてダイナマイトを発明した。
それは、今でも十分に役にたっているが、発明後に一番つかわれたのは、第一次世界大戦だった。平和賞の設立はだいぶ後になるが、道具というのはそういうものだ。
つかわなければ、手入れをしなければさび付いてしまうというのも、また事実。手入れを怠った自動車なんて危険極まりない。同様に運転技術だって、やっぱりペーパードライバーになってしまって久しければ同様だろうと思う。
原子力も例外ではないだろう。ただ、現在の技術で御しきれてないのもまた事実。
3.11からほぼ3ヶ月経つが、福島の原発で良い話はまだない。後だしで悪い情報しかない。
便利で有用だから、ちょっと危険だけど使う。ってことは、原子力でなくても様々なところで行われている。
たとえば自動車。
首都圏では電車網が発達しているので、無くても生活できるし、無くても生活できるように経済圏が発達している。
しかし、ちょっと都心を離れれば、車が生活上必須になる。
それは、車があることが前提で、生活が成り立つように、便利になるようになってしまっているからだ。車ありきで成り立っている。
しかし車というのは決して安全な道具ではない。
数年前までは自動車事故で毎年1万人もの人が亡くなっていたのだから。
今回の東日本の震災ももちろん大変だし、波及範囲も大きいので比べるのはナンセンスだが、単純な死者で言えば、自動車事故だってかなりなものだ。
ただ、それが、あちこちで、バラバラにつながらずにおきているので、あまり波及してないだけで、当事者にとっては大問題だ。
人が普通に生活していれば、誰かを殺してしまうということは、殆どない。が、車は凶器にすぐになる。どんなに気をつけていても、飛び出してくることもあるし、信号を無視されることもある。防げない事故はありうる。
そういう意味では、危険だが、とても便利な道具だ。上手く使っていきたいとおもうし、そのための知恵や規制や決まりを作っている。
まあ、本当に許容範囲なのかは事故に逢ったり、起こしてしまったらかなり微妙な問題だが、原発反対は唱えても、車をなくせなどと、いまさら言う人は殆どいない。もちろん、電気だって省エネはするが、使うこと止めるなんていまさら不可能。
私が生きるということで、誰かに迷惑をかけている。それは間違いない。
だからといって、生きることを放棄することでは、もちろん何の解決にもならないし、今まで命をつないできた生き物を食してきたことに対して申し訳ないという気がする。仏教的なのかもしれないが、命をいただいてつないだ自分の命を有意義に生かすことが生命あるものにとっての成仏だと私はどこかで思っている。
迷惑を本当にかけたくないなら、雇用を生み出し、私が困っていたときになんだかんだと面倒を見てくれた多くの人たちに感謝をし、そして自分がだれかのためにささやかなできることをすればいい。
今はそう思っている。
そう、私は虎視眈々とそれでもあがいてどうにかできることをどうにかしたいと願い、前に進んでいく。
時には、また過ちや誤りをするだろう。だが恐れていては、結局何もできないのだ。
これから、いろいろなことをやっていくだろうけど、最終的には人材育成に関わる方面で活躍したいと思っている。
一人でできることなどたかが知れている。
だからこそチームが必要だし、必要な人材が必要だ。
テレビをみて、悲観的になっても結局なんの解決にもならないのだから。
知識や情報があっても、それを生かせなければなんの意味も、価値もない。
前に向かって歩いていくしか結局ないのだ。その1歩が大事だと思う。
次の1歩につながっていくのだから。