「で、学校の方はどうなんだ?」

別に興味があるわけでもなさそうにパパが訊く。

「普通」
言ってあたしはティラミスを口に運ぶ。
なんでこんなものが好きなんだろう、この人。食べられなくもないけど、あたしはクレームブリュレの方が好きだ。
あの、表面を覆う薄いガラスみたいな、焦げたお砂糖をスプーンの裏側で密やかに割るのが好き。
割ってしまえば中は、ねっとりとしたクリームだ。

「十六歳の誕生日プレゼント、何がいい?」

あたしは考える振りをするためにフォークを口にくわえ、斜め四十五度あたりをしばらく見つめる。

「ヴィトンの、モノグラムデニムのバッグ」

「じゃあ、来週末、一緒に買いに行こう。銀座で待ち合わせしようか」

うん、と言ってあたしはさも嬉しそうに微笑んであげる。
ママにも同じ物をリクエストしてあるから、買ってもらったらそのままパパとは別れてユカリと落ち合う。
買値の二割引きで譲るって、もう約束してある。

広尾のイタリアンを出て、タクシーで自宅に戻ったのは夜11時半、ママはまだ帰宅していない。
あたしがパパと会う日は決まってママはデートで遅くなる。

自分の部屋に戻って、ベランダに出て、ヴァージニアスリムを取り出し、火をつけ、軽く肺まで吸い込む。
もう初めてのときみたいにむせたり喉が痛くなったりしない。
きっとセックスもそんなもんなんだろう。

ケータイを出してメールをチェック。
マサトから二通。
マメだな、と思う。多分、ヤルまでは。

あたしは左手でヴァージニアを持って右手で短い返事を打つ。

― I miss you ―

四年前までは三人で住んでいた高層マンションの25階から眺める夜空。
今夜は月が大きい。でも、まだ満月じゃない。

「マミちゃーん、まだ起きてる?」
ママの声が聞こえる。男とやってきましたよ、って言ってるみたいな、声。

「うーん、おかえりー」
 ヴァージニアを消して、一呼吸して、部屋から出て行く。

あたしはまるで犬のしっぽみたいに、パパとママの間を、ゆらゆら揺れながら行ったり来たり、見事にバランスを取ってる。
ずっと前から、多分、生まれたときから。

「パパ、元気だった?」
今夜のママは随分、機嫌がいい。

「うん、相変わらずだよ」
あたしとママはまるで共犯者みたいに視線を合わせ、ちょっとだけ微笑む。

「ねぇ、マミちゃん、明日の日曜だけど、一緒にお出かけしない?」
「どこへ?」
「篠原さんが葉山の別荘に連れてってくれるって言ってるの。目の前が海なんですって。お庭もあってバーベキューしようって。葉山なんてステキじゃない? それに、ほら、来週の水曜日、お誕生日だし、マミちゃんのお誕生日祝い、是非したいって言ってくれてるのよ」

どんな顔するんだろ、あの最中、この人。

「あたしはいいよ。カレシと渋谷行く約束してるし。なんだったら泊まってくれば? 平気だからこっちは」
「えー、でも、そういうわけには」
言いながらはにかむ41歳のママは、完全に恋する乙女だ。
あたしなんかよりずっと。

部屋に戻ってケータイを見ると、マサトから返事が来ていた。

― I miss you, too ―

あたしはもう一度、夜空を眺める。
動きの速い雲が、ときどき、明るすぎる月を恥ずかしそうに隠す。

「ねぇ、あしたは満月なのかなぁ」
独りごとを、声に出して言ってみる。

「十六歳になっちゃうよー」
バカみたいだ。

「あたしはバランスの名人だ」
幾らだって、一人でしゃべれる。台詞みたいに。

― あした、うち、来ない? だれもいないし ―

あたしはメールの返事を打つ。

送信して二分も経ってないのに、着メロが鳴る。
「いいの?」
「うん」
「だれもいないって」
「ママ、デート、男とお泊まり」
「マジ?」
「うん」
「・・・」
「来る?」
「もちろん! オレも泊まっちゃおっかな」
「ははは」
あたしは笑う振りをする。

大切なものなんか、なにもない。

「ねぇ、コンドームとか、持ってる?」
あたしは台詞みたいに、言う。

「まかしてよ」
マサトの弾んだ声が、どこか遠くで響いている。


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目があった瞬間、恋に落ちる、なんて、ありえないと思っていた。

二十八にもなって、ちゃんと分別もあり、一応大人の女であるという自負もあり、常に表の自分をコントロールし、日々戦っている。

その日の、その瞬間が訪れるまで、映画やドラマや物語の中の、都合の良いシチュエーションだと信じていた。

祐二と会ったのは、深夜のタクシー乗り場だった。いつもの会社の単なる惰性的飲み会の帰り、タクシー待ちの列は二十人ほどだった。
私の前に彼がいて、不意に、
「どこまで?」
と訊いた。
敬語でもないのに、嫌な感じは全く、しなかった。
私が行き先を伝えると、
「同じ方向だから、一緒に乗らない?」と言った。
私は、同意した。

迷いは、なかった。

タクシーの中で、口づけた。
ずっと、そうしていた。

次の日、待ち合わせて、会った。
その夜、私の部屋で抱き合った。

私たちは目があった瞬間、お互いに、気づいた。
「信じられないわ、こんなの」
「ボクは、一目で分かったよ」

―死んでもいいと思えるほどの、セックス。

私たちは、あまりに合ってしまっていた。
麻薬中毒者のようになるのは、すぐだった。

祐二は、二歳上で、既婚者だった。

私たちは、週三日は、一緒にいた。
できれば毎日でも一緒にいたいと、お互いが感じていた。
何度抱き合っても、むしろすればするほど、私たちは益々良くなっていった。
もう、何もかもがどうでもいい、と思うくらい。

約一年後、祐二の妻が興信所を使って調べ、二人のことを知った。

彼も私との情事の余韻を隠し通して過ごすことは不可能だったんだろう。

「もう、美樹以外は抱けない」
ある日、祐二がぽつりと言ったことがあった。
それは甘い言葉というより、ある種の悲しみを含んでいるようだった。

「私も、あなた以外はもうダメだわ」
そう答えた途端、涙が出た。

きりがない――ということの空しさ。
底がない――ということの怖さ。
追い詰めて、突き詰めてしまったら、その先は、死、しかない世界。

知らないほうが、幸せかもしれない。

私は、祐二に抱かれ、理性も思考も、激しい快楽以外なにもかも完全に失う瞬間、ふと、そう思った。

祐二の妻は、離婚はしない、と言った。
二人だけで会った時に。
「あなたは、今だけ必要な人。でも、私は、彼の人生に必要な人間です」
私は、そうかもしれない、と思った。
「人は、セックスだけで生きてはいけませんから・・・」

「終わりね」
私が言うと、祐二は、
「自信がない」
と言った。「美樹を忘れる自信がない」

そして、私の唇を塞ぎ、溺れる者のように、砂漠で乾ききった人のように、激しく求めた。

貪り合う、という言葉のように。
その夜のセックスは、それまでの中でも、一番だった。
私はその最中、気が触れていた、と思う。

どんなことでも、極み、は、命を縮める。
その瞬間があまりに濃密で、それ以外の、薄さ、を、耐えられない、と感じてしまうから。

別れて約二年、私は、抜け殻のように、枯れ葉のように漂っている。

死ぬか、別れるか、しかなかった。
このまま続けていれば、間違いなく、私たちはいくとこまでいってしまう。

どちらが幸せだったんだろう――。

決定的な何かを奪われてしまった私は、思う。

もう、誰かに激しく揺さぶられることはない。
感じることが出来ない。

二度と波の立たない、湖のように、大海から切り離され、人生が終わる日まで、淀んでいくだけの時間。

あのまま、死んでしまうまで快楽の海で溺れてしまったほうがよかったんじゃないか、そんなことを今でも、思う。

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ママ~と甘えてくる五歳の息子、一樹を両腕に抱き寄せながら、その顔をあらためて眺めると、日に日に父親に似てくると気づく。
たとえ混じり合った血でも。

手を繋いで歩くとき、まだ小さな手で握り返してくる驚くほどの力強さに私は生かされていると感じる。

一樹に父親はいない。
正確にいうなら、父親は一樹の存在をしらない。

私が一人で産んだから。

パパは遠い国にいる。
一樹は、だから会えないと信じている。

私と一樹の父親とは深く愛し合っていたと思う。
今でも忘れることはできない、もう、誰も愛せないと思うほどなのに、
私はあの人から遠ざかった。

怖かったのかも知れない、いつか失うのが。
その愛が私だけに向けられなくなる日が来るのが。

国籍も、育った環境も違う。
置かれている立場もどんどん離れて行く。

時々一樹の父親のことを、何かの拍子で目にしたり、耳にしたりすることがある。
そして、一人、罪の意識を持つ。
私が引き裂いた父と息子。
決してお互いを知ることはない。

ショーン その人は、嵐のように、隕石のように私の人生にある日突然ぶつかった。

私が二十四で、彼は二十三だった。

NYのギャラリーで働く私と、偶々LAから来ていた彼。

あるアーティストの個展が開かれていて、その日はとても忙しかった。
なのに私たちは、その日、三回、偶然会った。

一度目は朝食のために立ち寄ったいつものカフェで、彼は隣に座っていた。

二度目は午後、そのギャラリーで、お互い朝会っていることに気づいて挨拶を交わし、
私は彼に個展を案内した。

三度目は深夜、ナイトクラブで。
お互いを見つけたその瞬間、恋に落ちたんだと思う。

多くの会話は必要無かった。

「やあ」と彼が言い、
「すごい偶然ね」と私が言い、
「運命っていうんじゃない、普通」と彼が言って魅力的な笑顔を浮かべ、
私はそれにしばらく見とれ、
「運命を信じたことは、これまで一度もなかったんだけど」と言い、
「じゃあ、これを機会に信じるのもいいかもしれない」と彼が言って、
私を抱き寄せ、そっとキスした。

その夜、彼は私のアパートメントに泊まった。
そしていくつかの映画に出たことがあると、話した。
「そんなたいした役じゃないけど」

約二年、彼がNYとLAを行ったり来たりして、バカみたいに浮かれた恋をした。

そして妊娠したとき、私はメールだけでサヨナラを言って日本に帰った。

一樹を抱いて、その柔らかい頬にキスするとき、ショーンとのことが鮮やかに蘇る。

永遠に褪せることのない、美しい写真のように。
私はその記憶の中で、生き続ける。


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誰かを、好きで好きでしょうがない、という感覚を、三十過ぎて初めて知った。

それまでも一応、沢山、恋愛してきた。
思い出せば、両手の指では足りないくらいは。

結婚だって、一回した。
といっても、一年ちょっとしか持たなかったけど。

でも、そのどれもが、好きで好きでしょうがない、ってものでは、なかった。

これまで関わりをもってきた相手、その全員に対して、私は、付き合った理由と別れた理由をちゃんと言える。

ルックスが好みだったから、でも、だらしなかったから。

頭が良かったから、でも、センスが悪かったから。

お金持ってそうだったから、でも、性格サイテーだったから。

やたら優しかったから、でも、なんにも自分で決められない人だったから。

話が面白かったから、でも、セックスが合わなかったから。
って感じで。

尚人 ― に対してだけ、私は理由を言えない。
好きで好きでしょうがないから、としか言えない。

尚人は、私より五歳上で、いつもあちこち世界中を、写真を撮るために回っている。

だから、会えるのは、不定期。

尚人が行くあちこちは、かなり危ない所 ― 爆弾テロや、クーデターや、戦争や、ウイルスや、大量殺人や、飢餓や、干ばつや、革命や、暴動やらがあるところ。

「そんなことは、世界中どこにだって、日常的にあるよ。まるで食事したり、呼吸したりするくらい当たり前に」
尚人が日に焼けた笑顔で言う。

「誰かがどうにか出来るほど、物事は、人間は、シンプルじゃないんだ」
私は、黙って尚人を見つめる。
どんな些細なことも見逃さないように。
「それをフィルムに納めるのは、きっと、自分の、人間の非力さを確認するためなのかもしれない」


「怖くないの?」
私が訊くと、尚人は少し黙ったあと、
「怖くはない」
と言った。

「怖い、っていうのは、そういうこととはまた、別のことのような気がする」
「別のことって?」
「死ぬことは、怖くないんだ。僕が本当に怖いのは、止まってしまうことなんだと思う」

なにが? と、訊こうとして、やっぱりやめた。
代わりに、
「私も、死ぬのは怖くないな」
と言った。

好きで好きでしょうがないから、私はいつも尚人を待つ。
多分、それだけのために、生きている。
尚人とまた会える、ということ。それだけが、私を生かしている。

そして、私は尚人を通して、世界を見る。

尚人と一緒の時は、ずっと抱き合っている。
抱き合っていると、私は私に戻った気がする。
私の手とか、脚とかが、世界に出かけていって、また、私の身体に戻ったみたいな、気がする。
戻ったことを確かめるため、私たちは何度も、その感覚を味わう。

「ちゃんと、亜美に返さないと」
尚人は出かけるときに、そう言う。
――ちゃんと無傷で返さないと。
いつか私は、自分の手や、脚を失うかも知れない。
尚人から言われるとき、いつも、そう思った。

好きで好きでしょうがないから、私はちゃんと送り出す。
私の身体の一部を、切り離して、笑顔で送り出す。

尚人が私の元を笑顔で離れ、世界に向かう時、私は、自分を、好きで好きでしょうがない、と思える。

だから私はずっと待つ。
私の一部が世界から消えても。
いつか私の全部が消えるまで。

だって、好きで好きでしょうがないんだから。


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すれ違いざま、なんの前触れもなく、突然、その手のひらが、あたしの頭上に、ぽんっ、とおかれた。

あまりに自然に、完璧なタイミングで、ほとんど完全犯罪といえるほどの美しさで。

だからあたしは、激怒した。

振り返るとその男は、「じゃあ」、と言いながら玄関の重いドアを開けて、出て行った。
あたしは一瞬見えた、背の高い男の背中と、ゆっくりと閉まるドアを、しばらく見ていた。

「じゃあ」、とほぼ同時に、「おう」、という兄の声がリビングから聞こえたから、
その会話にあたしは入っていないということだろう。

「だれ?」

制服姿のまま、リビングのソファに座ってギターなんかをいじっている兄に向かって、訊いた。
はっきりと怒りを込めた声で。
でも三つ上の、大学二年の兄は、いつも勝手に、トンチンカンなコメントを返してくる。

「アイツ? アイツ女いるよ」

しかし私は名探偵のごとく冷静に、情報収集した。
兄と同じ大学の同年で、名前は、コウジで、夜は広尾のアジアンカフェでバイトしていると言うことを。
そして、一人暮らしをしていることも。


いつものように学校が終わって、カレシと待ち合わせて、小さな公園で、いっぱいキスして、今週末のデートのプランをたて、でもどうせ、会って数時間後にはラブホでしょ、と思ったりしながら、帰宅し、玄関のドアを開け、靴を脱いで、部屋の中に上がった、その瞬間、あたしは、なにかを略奪された。

ー奪われたものは、取り戻さなければいけない。

カレシとの週末デートは、
「キャンセル」
と伝えた。
「のっぴきならない用事が出来たから」
あたしが言うと、カレシは、
「のっぴきー?」
と、素っ頓狂な声を上げて、笑った。
しばらくその、「のっぴきー」が気に入ったらしく、何がのっぴきならないのかまでは、訊かなかった。
あたしはこいつの、そういう、ちょっと足りないところ、が、結構、気に入っている。

土曜日の、夜八時四十二分、あたしは、コウジがバイトするアジアンカフェに来ている。
外国の探偵小説を読みながら、アジアのどこかの国のビールを、もうかなり涼しくて誰も座らないテラスを陣取って、一人、飲んでいる。

「ハードボイルドだな、キミは」
コウジは、あたしに向かってそう言った。
「お腹、すいてる?」
あたしは、首を横に振った。
「十時半に終わるから」
あたしは、黙ってうなずいた。

そして、また、探偵小説に戻っていく。
殺された美人の妻の捜査を依頼する容疑者の夫。
もう、決して取り戻せないものを捜している。

バイトが終わったコウジと地下鉄で、二人で部屋まで帰る。
もちろん、無言で。

「あなたは、犯罪者。だからあたしは、あなたを裁く」
店に入って、あたしはコウジに向かって真顔で言った。

一瞬驚いて、でもすぐ薄い笑みを浮かべて、
「光栄だ」
コウジは言った。

部屋に入って、明かりもつけさせず、ブラインドから漏れるわずかな光の中で、あたしはコウジの服を脱がせる。

ベッドに仰向けに寝かしつけ、全裸の身体の上に、服を着たまま乗り、コウジはあたしに裁かれる。

「奪われたものを、取り戻させてもらうから」

それだけ言って、あたしはコウジの身体に唇を這わせる。
その手であたしを抱き寄せようとするなら、あたしはその腕を押さえつける。
そして黙って首を振る。
その目をきつく見つめながら。

十七歳のあたしがこの男から奪えるもの、それは、なんだろう。

あたしは、全裸でベッドに横たわるコウジを一瞥し、黙ってドアに向かう。

「奪われたものは、必ず取り戻す」

うしろでコウジが言った。

「つぎは俺の番だ。キミは犯罪者だ。それもそうとう重罪だな」

あたしは何も答えない。
黙秘権ってのがあるんだから。

「ミズノ サキ」
コウジが、抑揚のない声であたしの名前を読み上げる。

あたしは、笑って、部屋を出る。

一件落着ではないけれど、でも、あたしはちゃんと、罰を与えた。

奪われたものがたとえもう二度と、戻らなくても。



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その人は無遠慮に私を見つめている。


でも、少しも不愉快な感じがしないのは、きっとその目が、まるで幼子のように、小動物のように、悲しげに澄んでいるからかもしれない。


だから私もしばらく視線を外さない。


ホテルの1階、ロビーフロアにある、天井の高い清潔感のあるカフェ。

太陽の日差しが壁一面のガラス窓から容赦なく降り注ぐ、明るすぎる空間。


私と彼はまるで、森の中に棲むリスやウサギのように、
息を潜め、耳を澄ませ、視線を合わせて、言葉を交わさずに、語らう。


見た目から、日本人じゃないのは分かる。

でも、どこから来たのかまでは、分からない。


私は想像する、彼の人生を。


ヨーロピアン。
ダークブラウンの柔らかそうな髪、目の色もブラウン。
年齢は30前後、痩せていて、背は多分180センチくらい。

そこそこ成功していて、でも恋人と別れて、孤独。
そして一人、旅をしている。

読んでいるのは短編集。
コーヒーにはお砂糖だけ。
ワインを好むけど、ビールも飲む。
熱い食べ物は苦手、だけど辛い物は好き。

結婚したことはないし、この先も、多分、しないだろう。

とても静かに、穏やかに振る舞うけれど、
内面には激しさを秘めている。
エピキュリアンのくせに、世の中を憂いてみせる。
滑稽さの中に、悲しみを見つける。

自分は、どうしようもなく愚か者だと分かっていて、
でも、完璧だと思っている。

彼が、私に向かって微笑む。

キミは、もちろん、日本人。
ここは東京で、キミもこの街に住んでいる。
年齢は、ボクより少しだけ若い。
独身で、もちろん、恋人がいる。

仕事は、多分、人に接すること。
それもかなり多くの人に。

今、読んでいるのは、とても悲しい恋愛小説。
主人公の恋人が死ぬ話。

コーヒーはミルクがないと飲めない。
もちろん、シュガーも入れないとダメだ。
熱い物も、辛い物も食べられるけど、脂っこい物は苦手。

とても真面目で慎重だけど、そんな自分をどこかで嫌っている。

そして、恋人からそろそろプロポーズされるかも知れないと、恐れている。

私は、彼に向かって微笑む。

森の中はいつの間にか、しーんと静まりかえっている。

視線をはずし、お互いに手に持っている本に向かう。

あなたが今読んでいるのは、パートに出ている妻が浮気をしているんじゃないかという妄想にとらわれている、昼間からウイスキーが手放せないアル中夫の話ね。

キミが今読んでいるのは、死んだ恋人を忘れるため、他の男に抱かれようとしている女が葛藤しているところだ。

私たちは、本に視線をやったまま、クスっと笑い合う。

駄目だ、集中できない。
そうね、無理みたいね。

ここは明るすぎる。
ほんと、まぶしすぎる。

ボクたちみたいな小動物は、もっと森の奥の、木陰の、木の根の影のような場所が似合っている。
ひっそりと、誰にも見つからないような、安全な場所ね。

私と彼は、ふさわしい場所を見つけるために、そのカフェをあとにした。

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彼は、私が19歳の時から2年間だけ恋人だった。
同じ歳の。

私が短大の英文科で、彼は美大の建築科と、二人とも学生だった。
私たちはお互い地方出身でそれぞれアパートで一人暮らしをしていた。
部屋を行き来きするのが億劫になり、やがてー 確か、三ヶ月後には ― 私が彼のアパートに入り浸りになり、自分の部屋を引き払い、一緒に暮らし始めた。
仕送りはあったけれど十分とは言えず、二人とも夜はバイトし、終電前には帰宅し、昼間はよくゴロゴロして、抱き合った。

時には子供みたいに、時には動物みたいに。

私たちは、お互いに、夢中だった。

私は一年後短大を卒業し、就職もしないでお金を貯めるため昼も夜もバイトした。
コンパニオンとか、キャンギャルとか、割の良いのを選んで。

そして一年後、NYに語学留学した。

私が留学すると伝えた時、彼は、言った。
「ボクを捨てて行くなら、ちゃんと別れてから行って欲しい」と。
私は彼の望み通りにした。

約2年間NYで暮らし、新しい外人のボーイフレンドを作り、別れ、日本に帰って中堅の商社に就職した。
主にアパレルなどを扱う部署だった。

あんなに好きだった彼を捨ててまで留学したのに、通訳や翻訳が出来るほど、英語は上達しなかった。

彼と付き合っている2年の間に、私は一度妊娠し、中絶した。
それが自分の意志であり、彼の希望でもあると、そう思ったからだ。
私が手術を受けた日、彼は少し泣いた。私は全く、泣かなかったのに。

その後、32で今の夫と結婚し、5年目になる。
商社は三年ほど前に辞め、今は、近所のペットショップで週四日働いている。

そして今、その彼は私と夫の目の前で、私たち夫婦の為の新居の間取りを図面やイメージを見せながら説明している。
私が依頼したからだ。

家を建てると夫が言い、いい建築家を探しているとき、私たちはその名前を見つけた。
彼はすでにかなり売れっ子だった。

彼のこれまでの仕事を気に入ったと言ったのは、夫だった。
いい建築家がいると。世代も同じでセンスが合うと。
もちろん、私の過去のことなど知らずに。

私はうろたえた。顔色一つ変えず、眉一つ動かさずに。
「あら、よさそうじゃない」と。
「佐和子からちょっとコンタクトしてみてよ」
夫は笑顔で私に言った。「とりあえず話だけでも、って感じで」と。

夫は仕事で忙しいから、私は言われたとおりにした。

「相変わらずだな、キミは」
私からメールをもらい、電話をかけてきた彼は言った。
「相変わらず、残酷だ」
と、笑いながら。

私は自分から彼のオフィスを訪ねた。
約16年振り。

私はこれまでの人生の中で、愛した男は彼だけだ。
その事実は今も変わらず、私の中に密やかに、でもどこか誇らしげに、モニュメントのように建っている。
奥村篤史 ― それが彼の名前だ。

32で結婚したときすでに私は、その生活に、熱病のような愛やら恋やらはあまり関係ないと知っていた。

「随分、昔の事でしょ。それにお互いもう別の人間だと思うわ」
私が言うと、
「そうだね」
と答えた。

彼は、一度結婚し、数年前の離婚し、息子が一人、元妻のところにいる。と言った。

私は、子供はいない、代わりに犬がいる。オスのフレンチブルドッグが一匹。と話した。

「あの時、ボクと引き替えにキミが得たものは大きかった?」
優しい笑顔だった。
私は、静かに首を横に振った。
「そうかな、すっかり欲しい物を手に入れた女性に見えるよ」
と彼は言った。
「あの頃から、キミはそういうひとだった」
私は、軽く微笑んで、そうね、とだけ答えた。

その時、彼は自分の道を歩いていて、私は、ただ生きているだけだ、と思った。

数日後、彼は私たちの住むマンションを訪れ、夫と会った。
的確に希望を聞き、夫がほぼ購入を決めている土地の話を丁寧に聞き、ある程度の概算見積もりを出しましょう、と、あくまでプロだった。

夫は彼を気に入った。
信頼できる、と高く評価した。

私は、そうね、とだけ、答えた。

その夜、本当に久しぶりに、夫は私を抱いた。

行為のあと、すっかり寝入っている夫を横目にベッドを抜け出し、一人、ベランダに出た。
ななめ右上半分以上が欠けた月が、赤かった。

「下弦の月・・・」
そう聞こえるか聞こえないかぐらいの声で囁いたとき、
私は急に泣き出してしまった。

何が悲しいとか、そういうことではないと、ちゃんと分かっていた。

私は自身が失ってしまった、自分の手で損なってきたものたちのために泣いた。
それは、後悔、とも違う、もっと生々しいもの。
生きるために動物を殺し、その肉を食べる、ということに、少し似ているようなこと。

まさに、私自身のために、私はその夜、号泣した。


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「これまでで、一番辛かった恋愛って、どんなの?」

麻衣子が、なんの脈略もなく、突然、訊いた。

修一は、スポットライトが当たっているボルドーのワイングラスを眺めながら、しばらく黙って考えた。
多分、ほんの1、2分。

隣で麻衣子がクスクス笑い出した。
そして、
「もういいわ、分かったから」
と言った。

修一はなんだか自分が小馬鹿にされたみたいな気がして、それを素直に顔に出した。

「ホント、分かりやすいわね」
相変わらず麻衣子は笑って言った。

「年下だからって、そんなバカにしなくてもいいじゃない」
修一が言うと、
「バカになんかしてないわ。嬉しいだけよ」
麻衣子が言った。

麻衣子は修一より六歳上の33で、約8ヶ月前、イタリアワインの試飲会で出会った。
たまたま、修一の目の前の席に座ったのが輸入食材のビジネスをしている麻衣子だった。
修一は学生の頃から、趣味が高じてフードライターをしている。
主にレストランの紹介や、たまに料理のレシピも書いたりする。

「どうしてシェフにならなかったの?」
試飲会で麻衣子にそう尋ねられ、
「あくまで、料理は趣味に留めておきたかったから」
と答えると、麻衣子は、
「そうね、あまり好きなことを職業にしない方いいもんね」
と言った。

「単に、そういう才能みたいなものがなかったから」
と、修一が返すと、
「上手い言い方だわ、それ」
麻衣子は軽く笑ったあと、「是非、食べてみたい。あなたの料理」
と言った。

修一の父はかなり有名なフレンチのシェフだ。
しかし家ではまず、キッチンに立つことはない。
そんな父を見て漠然と料理の世界への憧れはあったものの、同じ道を目指すことはしなかった。

麻衣子を初めて部屋に呼んで、リクエスト通り手料理を振る舞ったとき、
「キミ、シェフにならなくて、正解」
麻衣子は言った。
修一は、一瞬、気分を害した。
そしてそれはちゃんと、顔に表れた。
「それって・・」
と、修一が言いかけるのを遮るように、麻衣子は、
「だって、こんな美味しいものは、職業にしたら作れないでしょ」
と、魅惑的な微笑みと共に、言った。
「言ったじゃない、好きなことを職業にしない方がいいって。キミはちゃんと分かってるのね、そういうこと」
修一はなんて返していいか、多少、困惑した。

「私、そういう人が好きなの。好きなことでお金を得たりしない人」
麻衣子の顔を見ているうちに、修一は笑い出してしまった。
なんだか、意味もなく、可笑しかったからだ。

食事が終わって、デザートを食べながらエスプレッソを飲む頃には、二人はすっかりいい感じだった。

ごく自然にキスして、ごく自然にセックスした。

お互い共通の話題もあったし、なにより麻衣子は修一を夢中にさせる要素をいくつか備えていたから、当たり前に、付き合うようになった。
お互いの部屋を行き来したり、デートしたりして。

6つ上の麻衣子は修一にとって初めてのタイプだった。
趣味が良く、食材やワイン、料理にも詳しく、特にフランスやイタリアについては、何度も訪れているだけあって知識が豊富で、修一にとって一緒にいて会話が弾み、刺激的な相手だった。

そして、いろんな意味で、大胆だった。
麻衣子の大胆さは時に修一を翻弄し、戸惑わせもしたけれど、次第に年上の女と一緒にいるラクさのようなものに巻き込まれるように、はまっていった。

「手の平の上で転がされてるっていうのかな、こういうの」
修一がベッドの中で冗談ぽく言うと、
「イヤ?」
麻衣子は誘惑するみたいに、訊く。
「全然、イヤじゃない。実は、最初は結構まいったけど、今はむしろ、いいかなって」
「そう」
修一は、その時、このままいったらいつか、そう遠くないいつか、麻衣子と結婚するかもしれない。
そうなるのは悪くないな、むしろ、すごく素敵なことかもしれない、と、思えてきた。
合っていると感じていたからだ。
いろんな意味で、合っている、と。

だからその夜、その店で、修一は麻衣子にそれとなく訊いてみた。
「俺たち、知り合って8ヶ月だけど、このままいったら、一緒に暮らしたりするのかな」

でも、麻衣子の口から出た言葉は、
「これまでで、一番辛かった恋愛ってどんなの?」
だった。

修一ははぐらかされたことになんだか腹が立ってきた。

「じゃあ、麻衣子はどうなの、自分は?」
「私は、随分年上の、身勝手な男に振り回されて、32のとき、やっと別れた」
「えっ? そうなの、それってもしかして、相手は妻子持ち?」
「もちろん」
「何年くらい付き合ったの?」
「約、7年」
「それは、結構長いね」
「そうね。でも、修一のおかげで、すっかり過去の男よ」
そう言って、麻衣子は笑った。

その店を出て、タクシーを拾おうと考え、修一はいつものように、
「今夜、うちでいい?」
と訊くと、麻衣子の表情が一瞬、曇った。
そして、数秒の間があいた。

「ここで、いいわ。ここで、終わりにしましょう」
突然だった。
修一には意味が分からなかった。

「なに、終わりって・・」
「恨んでもいいわ、私のこと。でも、悪気とか、騙すとか、そういうつもりはなかったの。あの試飲会で会ったのも、本当に偶然」
「なんのことか、分かんないよ。なに言ってるのか・・・」
明らかにうろたえていた。「騙すとかって・・」

「ごめんね。でも、本当にキミのこと、好きだったんだ。今さら言っても遅いけど」

修一には目の前で起きていることがにわかに信じられなかった。

「こんなこと言うのすごい失礼かも知れないけど、キミの作るものの方がずっと、美味しい。お父さんが作るものなんかより」

そう言うと麻衣子は、くるっと後ろを向いて、まっすぐに歩き出した。

修一は、ただ、その場で、遠ざかる背中をぼんやり見ていた。

そして、視界から消えそうになる寸前、走り出した。
酔っているのに全力で走ったせいか、つかまえたときには息が切れて、すぐには言葉が出なかった。

「バカ」
と言う麻衣子の顔を下から覗きこんで、やっと修一は、笑って、言った。

「泣いた顔、初めて見た」


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まさか、35になって、初めてラブホテルに来ることになるなんて・・・。
と、心の中で自嘲気味に笑った。

それも、元夫と。

心地よい脱力感の中、腕を絡ませて、わたしを見つめている目の前の男、タカシ。

26のとき、3つ上のタカシと結婚し、二年前に離婚した。
理由はありふれたこと ー 彼に女ができたから。
でも、そんなことが起きるもう何年も前に、とっくに終わっていた。
もしかして、始まってすらいなかったのかもしれない。

離婚するとき、わたしの心は荒れなかった。
その事実の方が、ずっとわたしを傷つけた。

タカシに抱かれるのは、六年振りだった。
一緒に暮らしていたときには、何も感じなかった。
ほんとうに、なんにも。
ただ、時が、静かに正確に流れていくだけの、生活。
ルーティーン、のような。
言い争うことすら、ない。

「不思議だな」
タカシが、欲望を滲ませた目で、顔を近づけで、言った。
「なにが?」
タカシは、その問いには答えず、もう一度、わたしを抱いた。
さっきよりもっと情熱的に。

一度きり、では、すまなかった。
いつの間にか、そのホテルの常連になっていた。
わたしは、元夫を一人住む部屋には入れたくなかった。
元夫は、その女と暮らしていた。

「たんに、男と女になったからよ」
「えっ?」
「不思議、の理由」
わたしが言うと、タカシは、苦笑いのような、照れのような、どこか罪人のような顔をした。

「後悔してる」
そして次の瞬間、そう言った。
吹き出しそうになった。
「なんに? 後悔してるの? こうしてわたしと寝てること? それとも・・」
「別れたことにだよ、もちろん」
その姿を見て、ああ、と、そのとき、思った。
タカシに離婚を決意させた一緒に暮らしている女は、これを見ていたのね、いつも。

色気。
そんなものがあるとすら知らなかった、夫だったときには、それ以前にも。
きっとタカシも、同じようなことに気づいているんだろう。

わたしが勤める会社の取引先の営業だった。
当時、その会社で営業事務をしていて、よくタカシに電話を入れた。
受注数の確認とか、書類の送り先とか、そんな些細なことのために。

爽やかなひと、第一印象だった。
運動部にいそうな感じ。
男仲間に囲まれていて、裏表のない、いいヤツ、みたいな。
誘い方もそう、爽やかだった。
下心なんて、ない、みたいな、学生時代からの友達のように。
デートに会社の後輩を連れて来たりもした。
多分、デートのつもりすらなかったのかも知れない。

だから、どういうキッカケでそういう、男女の関係になったのか、強い印象がない。
たしか、結構酔っていて、遅くなって、彼の部屋についていった。
週末だったし、いいかげん、じれったかったから。

それから一年後には結婚していた。
わたしは一旦、その会社を辞めて、失業保険をもらったあと、別の会社に再就職した。
そして今でも、そこに勤めている。
オーガニック系の食品を扱う会社で、チーフ、という役職までもらっている。

「どうしたの? ぼっとして」
行為のあと、ベッドの中で、元夫は優しく、訊いた。
「思い出してたの、あなたと会った頃のことを、どうして結婚したんだっけ、って」
「それは、オレがミエに惚れてたからだろ」
嘘。
わたしは、目だけで、そう言った。
嘘、お互い結婚してみたかっただけ。
そうしなければ、と、思い込んでいたから、当たり前に、ごく自然なこととして。

わたしたちには結婚以外、なかった。
結婚しなくても続けていけるほど、お互いに、恋、してはいなかったから。

「別れようと思う」
タカシが唐突に言った。
「彼女とは、別れる」
初めてラブホテルに来て、四ヶ月が過ぎていた。
「もう一度、ミエとやり直したいから」
そう言ったあと、唇を重ねてきた。
でも、もう、ダメだった。
その言葉を聞いた途端、わたしの身体は冷えてしまった。
もう、なにも感じない。

ラブホテルを出て、元夫と別れる。
もうここに来ることは、ない。
一人、賑やかな街の中を早足で抜けていく。

これも、恋、だったんだろうか。
わたしは自分に訊いてみる。
多分、恋、だったんだと思う。
もうひとりのわたしが、答える。

そのとき、やっと終わったんだ、と、思った。
すがすがしいほどの気持ちで。













「中毒」
エリが言った。

「えっ?」

「男には許されて、女には許されないもの」

「なんだよ、それ」

「あるいは、男がなるとある種の魅力に、女がなると醜態になるもの」
エリは何も身につけていない姿で、オレに絡みつくように耳元でそう言った。

「だって、男が薬物中毒である日突然死んじゃったりしたら伝説になるけど、女の場合、惨めなだけじゃない」

「まあ、そうだけど」

「あと、女が男に、取り憑かれたみたいに夢中になってる状態も醜い。だから既婚男と独身女の不倫はダメなのよ。倫理的に、って意味じゃなくて、絵的に。でも、男が女でもなんでも取り憑かれたみたいに夢中になっている状態は、そう悪くは無いわ。あなたみたいな男ならむしろ、ステキだわ」

「それって、暗にオレたちのことを、自分のしている事を肯定したくて言ってるの?」
そう言うとエリは、クスッ、と笑って、
「馬鹿ね、肯定なんかしたいわけ、ないじゃない」
と言った。

「そんな必要ないでしょ。それにあなたは別にわたしに夢中でも、中毒でもないわ」

「そうかな、オレだって、キミが旦那といるところを想像すると、やりきれない気持ちになったりするよ、それって・・・」
言うのを遮るように、
「そう思いたいなら、その方があなたにとって都合がいいなら、そう思えばいいだけよ」
と言って、唇を塞いだ。

オレは、エリを胸の中に入れて、腕に力を込めた。
「あなた、悪くないわ。そのままでいいんじゃない? ずっと」
「キミは? そのままでいいの?」
「いい悪いじゃなくて、普通、そのまま、ではいられないものよ。だからあなたみたいなのは、貴重」

もう一度抱き合ったあと、服を着て部屋を出て行くエリを見送るとき、オレは、
「今度、いつ会える?」
と、訊いた。

「いつでも、あなたが会いたいときに」
「オレは、いつも会いたいよ」
そう言うとエリは、
「嘘つき。でも、そういうとこもわりと好きよ」
と言い残し、ドアの向こうに消えた。

エリとは半年前、とあるバーで知り合った。

オレが知っていること ー エリ、という名前と、メルアドと、結婚している、ということだけ。

ー それ以外になにが必要?
初めてオレの部屋に来たとき、ベッドの中で、エリはそう言った。

ー 今、あなたの目に写っているものが、すべて、なのに。

ー でも、いくつか、ってことぐらい、訊いてもいいでしょ。
裸で、エリに軽いキスをしながら、言った。
ー あなたと、同じ、くらい、恐らく。
微笑みを浮かべて、言った。

ー オレは、28、だけど。
ー 同じ、そう。

ー 結婚して、何年?
ー 十年、くらい。

ー 相手、年上?
ー 随分、 年上。

ー しあわせ?
そう訊くと、ちょっと驚いた表情を浮かべた。
ー そんなこと、訊かれると思わなかったわ、あなたから。
そして、笑った。高らかに。

ー しあわせなわけ、ないじゃない。不幸、でもないけど。
ー しあわせじゃないんだ。
ー あなたは、どうなの?
ー オレは、今この瞬間は、けっこういいかな、って。
そう言うと、
ー そういうとこ、好きよ。すごく好き、って言ってもいいくらい。知ってた?わたし、あなたにしか抱かれたくないって。
と、エリは言った。

ー 今日、初めて会ったのに?
ー 初めて、会ったのに。

エリはオレを深く見つめた。

ー 言葉って、もどかしいわ。言葉なんていっそのこと、消えちゃえばいいのに、この世界から。そうすれば物事はもっとシンプルになるのに。
ー シンプル?
ー そう、感覚だけに。

ー じゃあ、もう黙るよ。なにも訊かない、キミの望み通りに。
ー 知ってるの? わたしの望み。
ー 多分、知ってる。

オレたち ー 少なくともオレ ー は、二人で過ごす濃密な時間の中に身を落とすこと、に、夢中になった。

オレは、エリにメールを入れて、会いたい、と、伝える。

エリは、いつ? と、返す。

オレは、日時を書いて送る。
そしてエリを待つ。

エリは、その通りに現れる。

エリは部屋に入ると、黙って服を脱ぐ。
「全部脱いじゃうと、楽しみがなくなるから」
と、下着だけの姿で、オレにくっつく。

「とっておいてくれてるんだ」
「そう、いつも、少しだけ、とっておくの。全部、使い果たさないように」
そう言ったときのエリの目は、笑っているようで、でも、泣いているようにも、見えた。

週3日。約1日おき、オレはエリと、3時間ほど一緒に過ごす。
ほとんど何も着ず、何も食べず、少しのワインと、少しの会話で。

時間帯はまちまち。
午前中のときもあれば、夜のときもある。
オレが指定する日時がエリにとって都合が悪い、ということは、なぜか、一度もなかった。

オレの仕事は、基本的に自宅でできる、ある専門分野のライター、なので、比較的自由で、仕事の合間をエリとの時間にあてていた。

エリが訪れるようになってから、オレの、その部屋は、まるで ー 異次元 ー みたいだった。
別の時間が流れ、別の空気が漂い、別のリズムが刻まれ、別の鼓動が聞こえる。

だから、エリが来ない日は ー 空っぽの惑星 ー のような気がした。
かつてそこには、確かに生物がいた ー そんな微かな痕跡だけを残した。

「わたし、家事は一切、しないの」
エリが唐突に言った。
「する必要もないし、洗濯はほとんどクリーニング、掃除は専門業者がくるから」
「食事は?」
「家では食べないの」
「まったく?」
「そう、匂いがダメなのね、彼」
「匂いって?」
「料理の匂いが、玄関のドアを開けたときにするのが、耐えられないひとなの」
クスクス笑って、言った。「可笑しいでしょう?」

「じゃあ、普段はなに、してるの?」
「とくに、なにも」
「なにもって言っても・・・」
「テレビも映画も観ないし、本も読まない。しいていえば、音楽聴いてる」
「どんな?」
「最近は、スクリャービン」
そう言って、オレを見た。

「わたしがこの世界に生きてるって感じるときって、スクリャービンを聴いているときと、こうしてあなたと抱き合ってるときだけなの。それ以外は、もう、飽きてしまったの。だから、これ以上、何かをするのは、イヤなの。言ったでしょ? とっておかないと、って」

「そのうち、オレの、オレとのことも飽きるのかな、キミは」
「飽きたら、返事、ださないから」
と、微笑んだ。

「いつ? ってやつ?」
「そう、いつ? っての」

「でも、キミからの返事がこなくなったら、きっと耐えられない。うろたえる」
そう言うと、えりは嬉しそうに笑って、
「ステキ、男の特権ね」
と、言って、キスした。
「うんと、うろたえてね。そのときだけでいいから。しばらく泣いて、そして、また、誰かを好きになって」

ある夏の日の午後、セミの声が、どこからか、息苦しいほど周囲を取り巻いていたとき、オレはエリに訊いた。

「どうして結婚したの? そんな若いときに」
「多分、決まってたから」
「誰かが決めてたの? 両親とか」
「誰か、は、分からないけど、決まっていたのよ。そうとしか言えない。会って、しばらくして分かったの、この人と結婚するって、感情とはほとんど無関係に」
「なんだか、よく分からないな」
「そうでしょう、そりゃ、ほかの誰かには分からないことでしょう。彼とわたしにしか分からないことよ。あなたとわたしのことだって、ほかの誰かには絶対、分かりっこないでしょう?」

「感情とは無関係って、好きだったんじゃないの?」
「あなたほど、好きじゃないわ。あなたと、みたいに、ピッタリじゃない。でも、多分、あいしてるの。そういうことなんだと、思うの」
「あいしてるんだ」
「それって、漠然と、ってのにかなり近いのよ。好き、みたいに、明確じゃないの。もっとぼんやりしていて、でも、確かにそこに漂ってる。そんな感じなのよ」
「でも、オレにはなんだか、そっちの方が大事。みたいに聞こえるけど」
そう言うと、エリは、
「なんにも分かってないのね、あいしてる、っていうのは、少し悲しいのよ。少なくともわたしにとってのそれは」
と、涙ぐんだ。

オレはエリを抱き寄せ、頬に唇をあて、
「じゃあ、好き、は? どうなの?」
と、優しく訊いた。
「好き、は、全部丸ごと、の、好きよ。そこには混じりものは何もないの。輪郭がはっきりしていて、ちゃんとあるのが分かるの。目に見えて、手で触れることができるの」
エリの涙は、オレの舌の表面を覆って、ゆっくり染みこんでいく。
淡い塩の味がする。

「本当にいじわるだわ」
「誰が?」
「本当にいじわるだわ、こんなの、なんのためなの? なんのために繰り返さなくちゃいけないの、こんな苦しいこと」
そう言うと、エリはオレにしがみついて、できるだけその隙間をうめるように、肌をくっつけた。
オレの肩に頬を乗せて、唇を首筋に這わせる。

「どうして、好き、だけじゃ、生きられないんだろう」
エリが言った。
「オレは、好き、だけでいいよ。エリの言う、好き、だけで生きられる」
「だからあなたは、貴重、なのよ。自分を誇っていいわ」

そのあと、オレとエリは深く、長く交わった。
数え切れないくらい、好き、と言い合って。

どんなことも、なにをしても、記憶、でしかないなんて。
なんて残酷なんだろう、この世界は。

「どうして結婚したのかって、さっき、訊いたわよね」
帰り際、エリが言った。
「彼、わたしの夫、医者、脳外科医なの、わたしを奇跡的にこっちの世界に留めさせた。彼がいなかったら、出会ってなかったらとっくに、あっちに帰れたのよ。わずか十五年で」

オレは、咄嗟にエリを強く抱きしめた。

「わたしもあなたみたいに、なれたら、楽しめたのかも、この世界を。でも、無理ね」
「エリ」

「中毒 ー 男には許されて、女には許されない」

腕の中で、聞こえるか聞こえないか、くらいの、小さな声がした。
そして、その日を境に、エリからの返事は途絶えた。