「これまでで、一番辛かった恋愛って、どんなの?」

麻衣子が、なんの脈略もなく、突然、訊いた。

修一は、スポットライトが当たっているボルドーのワイングラスを眺めながら、しばらく黙って考えた。
多分、ほんの1、2分。

隣で麻衣子がクスクス笑い出した。
そして、
「もういいわ、分かったから」
と言った。

修一はなんだか自分が小馬鹿にされたみたいな気がして、それを素直に顔に出した。

「ホント、分かりやすいわね」
相変わらず麻衣子は笑って言った。

「年下だからって、そんなバカにしなくてもいいじゃない」
修一が言うと、
「バカになんかしてないわ。嬉しいだけよ」
麻衣子が言った。

麻衣子は修一より六歳上の33で、約8ヶ月前、イタリアワインの試飲会で出会った。
たまたま、修一の目の前の席に座ったのが輸入食材のビジネスをしている麻衣子だった。
修一は学生の頃から、趣味が高じてフードライターをしている。
主にレストランの紹介や、たまに料理のレシピも書いたりする。

「どうしてシェフにならなかったの?」
試飲会で麻衣子にそう尋ねられ、
「あくまで、料理は趣味に留めておきたかったから」
と答えると、麻衣子は、
「そうね、あまり好きなことを職業にしない方いいもんね」
と言った。

「単に、そういう才能みたいなものがなかったから」
と、修一が返すと、
「上手い言い方だわ、それ」
麻衣子は軽く笑ったあと、「是非、食べてみたい。あなたの料理」
と言った。

修一の父はかなり有名なフレンチのシェフだ。
しかし家ではまず、キッチンに立つことはない。
そんな父を見て漠然と料理の世界への憧れはあったものの、同じ道を目指すことはしなかった。

麻衣子を初めて部屋に呼んで、リクエスト通り手料理を振る舞ったとき、
「キミ、シェフにならなくて、正解」
麻衣子は言った。
修一は、一瞬、気分を害した。
そしてそれはちゃんと、顔に表れた。
「それって・・」
と、修一が言いかけるのを遮るように、麻衣子は、
「だって、こんな美味しいものは、職業にしたら作れないでしょ」
と、魅惑的な微笑みと共に、言った。
「言ったじゃない、好きなことを職業にしない方がいいって。キミはちゃんと分かってるのね、そういうこと」
修一はなんて返していいか、多少、困惑した。

「私、そういう人が好きなの。好きなことでお金を得たりしない人」
麻衣子の顔を見ているうちに、修一は笑い出してしまった。
なんだか、意味もなく、可笑しかったからだ。

食事が終わって、デザートを食べながらエスプレッソを飲む頃には、二人はすっかりいい感じだった。

ごく自然にキスして、ごく自然にセックスした。

お互い共通の話題もあったし、なにより麻衣子は修一を夢中にさせる要素をいくつか備えていたから、当たり前に、付き合うようになった。
お互いの部屋を行き来したり、デートしたりして。

6つ上の麻衣子は修一にとって初めてのタイプだった。
趣味が良く、食材やワイン、料理にも詳しく、特にフランスやイタリアについては、何度も訪れているだけあって知識が豊富で、修一にとって一緒にいて会話が弾み、刺激的な相手だった。

そして、いろんな意味で、大胆だった。
麻衣子の大胆さは時に修一を翻弄し、戸惑わせもしたけれど、次第に年上の女と一緒にいるラクさのようなものに巻き込まれるように、はまっていった。

「手の平の上で転がされてるっていうのかな、こういうの」
修一がベッドの中で冗談ぽく言うと、
「イヤ?」
麻衣子は誘惑するみたいに、訊く。
「全然、イヤじゃない。実は、最初は結構まいったけど、今はむしろ、いいかなって」
「そう」
修一は、その時、このままいったらいつか、そう遠くないいつか、麻衣子と結婚するかもしれない。
そうなるのは悪くないな、むしろ、すごく素敵なことかもしれない、と、思えてきた。
合っていると感じていたからだ。
いろんな意味で、合っている、と。

だからその夜、その店で、修一は麻衣子にそれとなく訊いてみた。
「俺たち、知り合って8ヶ月だけど、このままいったら、一緒に暮らしたりするのかな」

でも、麻衣子の口から出た言葉は、
「これまでで、一番辛かった恋愛ってどんなの?」
だった。

修一ははぐらかされたことになんだか腹が立ってきた。

「じゃあ、麻衣子はどうなの、自分は?」
「私は、随分年上の、身勝手な男に振り回されて、32のとき、やっと別れた」
「えっ? そうなの、それってもしかして、相手は妻子持ち?」
「もちろん」
「何年くらい付き合ったの?」
「約、7年」
「それは、結構長いね」
「そうね。でも、修一のおかげで、すっかり過去の男よ」
そう言って、麻衣子は笑った。

その店を出て、タクシーを拾おうと考え、修一はいつものように、
「今夜、うちでいい?」
と訊くと、麻衣子の表情が一瞬、曇った。
そして、数秒の間があいた。

「ここで、いいわ。ここで、終わりにしましょう」
突然だった。
修一には意味が分からなかった。

「なに、終わりって・・」
「恨んでもいいわ、私のこと。でも、悪気とか、騙すとか、そういうつもりはなかったの。あの試飲会で会ったのも、本当に偶然」
「なんのことか、分かんないよ。なに言ってるのか・・・」
明らかにうろたえていた。「騙すとかって・・」

「ごめんね。でも、本当にキミのこと、好きだったんだ。今さら言っても遅いけど」

修一には目の前で起きていることがにわかに信じられなかった。

「こんなこと言うのすごい失礼かも知れないけど、キミの作るものの方がずっと、美味しい。お父さんが作るものなんかより」

そう言うと麻衣子は、くるっと後ろを向いて、まっすぐに歩き出した。

修一は、ただ、その場で、遠ざかる背中をぼんやり見ていた。

そして、視界から消えそうになる寸前、走り出した。
酔っているのに全力で走ったせいか、つかまえたときには息が切れて、すぐには言葉が出なかった。

「バカ」
と言う麻衣子の顔を下から覗きこんで、やっと修一は、笑って、言った。

「泣いた顔、初めて見た」


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