彼は、私が19歳の時から2年間だけ恋人だった。
同じ歳の。

私が短大の英文科で、彼は美大の建築科と、二人とも学生だった。
私たちはお互い地方出身でそれぞれアパートで一人暮らしをしていた。
部屋を行き来きするのが億劫になり、やがてー 確か、三ヶ月後には ― 私が彼のアパートに入り浸りになり、自分の部屋を引き払い、一緒に暮らし始めた。
仕送りはあったけれど十分とは言えず、二人とも夜はバイトし、終電前には帰宅し、昼間はよくゴロゴロして、抱き合った。

時には子供みたいに、時には動物みたいに。

私たちは、お互いに、夢中だった。

私は一年後短大を卒業し、就職もしないでお金を貯めるため昼も夜もバイトした。
コンパニオンとか、キャンギャルとか、割の良いのを選んで。

そして一年後、NYに語学留学した。

私が留学すると伝えた時、彼は、言った。
「ボクを捨てて行くなら、ちゃんと別れてから行って欲しい」と。
私は彼の望み通りにした。

約2年間NYで暮らし、新しい外人のボーイフレンドを作り、別れ、日本に帰って中堅の商社に就職した。
主にアパレルなどを扱う部署だった。

あんなに好きだった彼を捨ててまで留学したのに、通訳や翻訳が出来るほど、英語は上達しなかった。

彼と付き合っている2年の間に、私は一度妊娠し、中絶した。
それが自分の意志であり、彼の希望でもあると、そう思ったからだ。
私が手術を受けた日、彼は少し泣いた。私は全く、泣かなかったのに。

その後、32で今の夫と結婚し、5年目になる。
商社は三年ほど前に辞め、今は、近所のペットショップで週四日働いている。

そして今、その彼は私と夫の目の前で、私たち夫婦の為の新居の間取りを図面やイメージを見せながら説明している。
私が依頼したからだ。

家を建てると夫が言い、いい建築家を探しているとき、私たちはその名前を見つけた。
彼はすでにかなり売れっ子だった。

彼のこれまでの仕事を気に入ったと言ったのは、夫だった。
いい建築家がいると。世代も同じでセンスが合うと。
もちろん、私の過去のことなど知らずに。

私はうろたえた。顔色一つ変えず、眉一つ動かさずに。
「あら、よさそうじゃない」と。
「佐和子からちょっとコンタクトしてみてよ」
夫は笑顔で私に言った。「とりあえず話だけでも、って感じで」と。

夫は仕事で忙しいから、私は言われたとおりにした。

「相変わらずだな、キミは」
私からメールをもらい、電話をかけてきた彼は言った。
「相変わらず、残酷だ」
と、笑いながら。

私は自分から彼のオフィスを訪ねた。
約16年振り。

私はこれまでの人生の中で、愛した男は彼だけだ。
その事実は今も変わらず、私の中に密やかに、でもどこか誇らしげに、モニュメントのように建っている。
奥村篤史 ― それが彼の名前だ。

32で結婚したときすでに私は、その生活に、熱病のような愛やら恋やらはあまり関係ないと知っていた。

「随分、昔の事でしょ。それにお互いもう別の人間だと思うわ」
私が言うと、
「そうだね」
と答えた。

彼は、一度結婚し、数年前の離婚し、息子が一人、元妻のところにいる。と言った。

私は、子供はいない、代わりに犬がいる。オスのフレンチブルドッグが一匹。と話した。

「あの時、ボクと引き替えにキミが得たものは大きかった?」
優しい笑顔だった。
私は、静かに首を横に振った。
「そうかな、すっかり欲しい物を手に入れた女性に見えるよ」
と彼は言った。
「あの頃から、キミはそういうひとだった」
私は、軽く微笑んで、そうね、とだけ答えた。

その時、彼は自分の道を歩いていて、私は、ただ生きているだけだ、と思った。

数日後、彼は私たちの住むマンションを訪れ、夫と会った。
的確に希望を聞き、夫がほぼ購入を決めている土地の話を丁寧に聞き、ある程度の概算見積もりを出しましょう、と、あくまでプロだった。

夫は彼を気に入った。
信頼できる、と高く評価した。

私は、そうね、とだけ、答えた。

その夜、本当に久しぶりに、夫は私を抱いた。

行為のあと、すっかり寝入っている夫を横目にベッドを抜け出し、一人、ベランダに出た。
ななめ右上半分以上が欠けた月が、赤かった。

「下弦の月・・・」
そう聞こえるか聞こえないかぐらいの声で囁いたとき、
私は急に泣き出してしまった。

何が悲しいとか、そういうことではないと、ちゃんと分かっていた。

私は自身が失ってしまった、自分の手で損なってきたものたちのために泣いた。
それは、後悔、とも違う、もっと生々しいもの。
生きるために動物を殺し、その肉を食べる、ということに、少し似ているようなこと。

まさに、私自身のために、私はその夜、号泣した。


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