時をかける少女のように -8ページ目

時をかける少女のように

なんとなく生きることも良しとします。

とりあえず一週間続いた。
また一週間続ける。

 

 

ネットの歌詞を集めたサイトで好きな歌手の歌詞を読んでいると、美しいな、と思うことがある。

以前、人の発する言葉が美しいな、と思うことがあるってブログを書いた。

今日は、その歌詞バージョン。

 

どうして、歌詞ってこんなに美しいな、と思ったり、そのフレーズにはまってしまったりするんだろう?

 

 

いくつか考えてみたけど、まず一つ目は、メロディに乗せられているためか、その言葉の伝えたいニュアンスが文字以外からも伝わってくるから。

二つ目は、短い言葉で、極限まで無駄が削ぎ落とされているから。

三つ目は、二つ目と少し似ているけど、歌詞は文章と違って多少前後バラバラになっていても、それなりに伝えたいって気持ちが分かるから。

 

中でもすごいと思うのが、二つ目だ。

余分に付け足していくことは難しいように見えて実は簡単で、本当に難しいことって、いらないものを削ぎ落としていくことなんじゃないかと思う。

その場所に入る一番しっくりくる言葉を見つける作業の繰り返し。

もしかしたら、漢文もそんな感じなのかな。

無駄を削いだり、韻を踏んだり、そういうところが似ている気がする。

 

 

あなたは、これはすごい、と思う歌詞のフレーズってある?

 

わたしは、BUMP OF CHICKENのfire signという曲の冒頭を見ると、何故か毎回涙が出てくる。

 

 

 

『誰かの為に生きる という 思いを込めた旗を抱き  拾ってきた笑顔の中に 自分の笑顔だけ 見当たらない』

 

 

 

八小節の中にぎゅっと詰め込まれた歌詞で、いくつもの場面や人の機微、表情や温度などがぐわーっと2時間の映画を観るように伝わってくるのが不思議だ。

 

例えば、この人って、たくさんの笑顔をどんなふうに拾ってきたんだろう、とか。

誰かの為に生きるっていう旗を抱くに至ったエピソードって相当強烈だろうな、とか。

自分の笑顔が見当たらないっていう絶望、とか。

でも、誰かの為に生きるっていう思いには背いていないっていう矛盾する気持ち、とか。

そこで旗を抱えたまま立ち止まろうか悩んでいる人の表情、とか。

とか、とか。

 

考えだしたら、この八小節だけでも人一人の人生が語れてしまうんじゃないかっていう情報量になる。

 

同じように、椎名林檎のこの人生は夢だらけという曲も、冒頭からすごい。

 

 

 

『大人になってまで 胸を焦がして 時めいたり 傷ついたり 慌ててばっかり』

 

 

 

これは、言葉の入り方が絶妙だと思う。

大人になって「まで」というところで、子どもの頃からずーっと重ねてきた時間を想像できる。

 

その後の四つの動きは、誰しもが必ず持っているようなことなのに、自分とは離れたキャラクターの特徴のようにも見えるところが、言葉の選び方の絶妙なところだ。

こういう物語の人物がいるんです。

でも、ちょっとまって、あなたにもどこか似ていませんか? っていう感じで。

 

そして、最後に「ばっかり」を入れている。

ちょっとマイナス要素に聞こえる言い方から、決してそれでは満足していない様子も見える。

だからと言って、「ばかり」ではなく「ばっかり」っていう表現が少し子供っぽいことから、無理に飾ろうとはしていないんだろうな、ということも分かる。

 

 

 

そう考えると、言葉ってすごい。

たった数文字の違いで、がらっと世界観が変わったり、違う物語ができてしまったりする。

それが、制限された中で無駄を削ぎ落としながら並べられているのは、どう考えても美しいとしか思えない。

 

 

 

あなたの好きな歌詞は?

その中でも好きなフレーズは?

 

きっと、そのフレーズにも、たくさんの物語や見方が隠れていて、受け取る人の数だけ、その解釈が違ってるんだろうなあ。

 

寝起きの悪い自分にできることは何か、考えたい。

 

 

というのも、いつも寝起きが悪く、人が一緒にいたり、寝起きに何かを伝えようとしてくれたりする場合の態度が良くないからだ。

ある程度関係性の薄い人であれば、もう嫌われてもいい。

態度が多少悪かろうが、寝起きで話しかけてくる方が悪いと思ってしまうこともできる。

でも、大抵寝起きで何かを伝えようとしてくれる人は、関係性の深い人のことが多い。

 

で、あれば。

関係性の深い人に失礼な態度をとることは、自分にとってマイナスになることじゃないだろうか。

例えば、失礼さのあまり気分を害してしまうかもしれない。

こいつには寝起きに何を伝えてもダメだ、と大事な情報を回してもらえなくなるかもしれない。

最悪、せっかく関係性が深い人と、縁が切れてしまうことも考えられる。

 

 

だからこそ、自分にできることは何かを考えたい。

 

あなたは、寝起きが良いタイプ?

それとも悪いタイプ?

 

わたしの場合は、常に寝起きが悪い、というわけでもない。

むしろ、気持ちよく起きることができたこともある。

だから、何が原因でそうなっているのかということも、もう分かっている。

 

寝起きの状態を左右するのは、絶対的に睡眠時間の長さだ。

 

短ければ短いほど、起きた瞬間に「まだ眠れるのに何で覚醒しようとしているんだ」と自分の身体に腹が立ってくるのだ。

しかも、判断力が鈍っているせいか、その腹立たしさが、たまたま話しかけてきた人にも飛び火してしまうことがある。

 

判断力が鈍っている、というのは、本当に罪なことだ。

普段ならば理性でもって抑えている感情が、何のためらいもなしに相手にぶつけられることになる。

 

わたしは、これはもうあなたに話したかどうか忘れてしまったけれど、それはもう、自慢じゃないほど性格が残念だ。

どう残念なのかというと、何事も自分本位に考える自己中心的なところがある。

それが故に、他者の目が異常に気になってしまうこともある。

まあ、今はその話は置いておこう。

問題なのは、その残念な性格のままで相手と接することになるということだ。

 

かと言って、今日明日で性格を変えることは難しいように思う。

自分の考え方の習慣を変えてしまうということにもなる。

A:自分の考え方の習慣を変える、B:関係性の深い人と縁が切れてしまう。

この二つが天秤に乗ってゆらゆらしている状態だ。

理性的に考えれば、Aに傾く。そう決まっている。

これでBに傾くということは、一人で生きていくことも苦にならないような人なのかもしれない。

でも、わたしはそうじゃない。

そんなに孤独に生きることはできない。

 

不思議なのは、それが分かっているのに、どうしてわたしの天秤はこんなにゆらゆらと悩んでいる状態なのだろう、ということだ。

Aに傾けたとして、本当にそこまで自分にとって得るものがあるのだろうか。

そう確信している証拠は一体なんなのだろうか。

 

まず、一つ。絶対に分かっているのは、自分の考え方の習慣を変えるということは、少なからずしんどい。

だからこそ楽な方に流れているのだろう、ってことだ。

ただ、それ以外に何が? と考えても、思い浮かんでこない。

もしかして、自分本位の性格を変えてしまったら、何かを無くしてしまうと思っているのだろうか?

今は少なくとも自分で自分のことを大事にしているのに、唯一の自分を大切にしてくれる人が消えたら、もう自分は大切にされなくなってしまう! って。


……でも、今この仮説を書いてみてもあまりしっくりこなかったから、きっと違うんだろうな。

自分が何を考えているのか、よく分からなくて困る。

 


楽な方に流れている、怠惰、というのは、ひしひしと感じる。

わたしは、少しでも自分の身体を休めよう、自分を甘やかそうとすることに必死だ。

これって、今が楽しければそれでいい、という考え方には……一応、合致していることになるのか。

合致しているどころか、何もかも(親しい人すら)を投げ打って、自分の「今が楽!」に神経を注ぎ込んでいるとも言える。

それはそれで、ちょっと虚しい。

本当に今だけでいいの? と問いたくなる。

 

 

今が楽しければそれでいい、っていうのも考えものだなあ。



人間として生まれたからには、何か爪痕を残して死にたい。
そう思っていたけど、一体、自分が死んで何かが残ったとして、何になるのだろう、と最近になって考える。
なんだか焦って生きているわりに、爪痕を残してどうなるのかってことにまで思い至っていない自分がいる。

だって、死んだらもう爪痕が残っていようがどうだろうが、何も感じないし何も分からない。
死ぬ前に爪痕を残したとしても、どうなるというのだろう。
いつも他者から認められたい、という欲求があるはず(というかそれに支配されてるんじゃないかってくらいこの欲求が強い。)のわたしなのに、リアルに想像してみても、あまり嬉しくない。

だって、もしも何か作品を作ったとして。
それが他者から認められたとして。
それ自体はやっぱり嬉しいことかもしれないけど、その先に何があるかっていうと、次の作品への期待とかもっと多くの他者の目に触れることだろう。
それって、本当にわたしが望んでいるものなのか。
あ、そもそもそんなに強烈に認められることができるのかっていうのは別にして。


望んではいたけど、なんで望んでいるのかが曖昧だ。

そんな曖昧なものに憧れたりそのために苦しんだりするのは、時間がもったいないような気がしてくる。



とにかく、いつ死ぬかも分からないわけだ。
今が一番楽しめたらそれでいいって考え方にしていかないと。
平均寿命で考えたとしても、残り少なくなってきたこの人生が、むしょうにもったいない気がしてきた。

あなたは、あとどのくらい生きるつもり?
そして、その間をどうやって過ごすつもり?
先のことなんて誰もが分からないけど、ぼんやりとは考えていたりするのかな。



さあ、今日は、わたしの残り少ない人生、一瞬一瞬が楽しくなるにはどうすればいいかを考えてみたい。
こういうのって、別にいくら考えても損にならない気がする。
だって、何パターンも自分の楽しみ方を持っていたら、いつでも楽しめるわけだし。


わたしが時間も忘れて没頭できるような楽しいことって何だろう。
そもそも飽き性だから、いくつものことに手をつけたくなってしまうけど。
それでもやっぱり、楽しいと感じられることには偏りがある気がする。

以前、紙粘土を使って好きな漫画のキャラクターを作ったことがあった。
そのときには、こうかな? もっとこうしたらいいかも、と考えながら細かいパーツを作っていくのが楽しかった。

今日も、物語を書いたり小説を読んだり曲作りをしたり、没頭ってよりもいろいろなものに手をつけて楽しんでいる。
中でも、音楽アプリで曲作りをしたのが、意外と時間があっという間に経っていて楽しかった。

こう見ると、何かを「作る」というのが、自分の楽しみの重要な鍵なのかもしれない。
確かに、自分が納得できるように何度も組み立てたり、またバラバラにしたり、そういうのをしているときって、本当に楽しい。

「作る」に関してこれまでやってきたのって、どんなことだろう。
・物語
・編み物
・ガラス細工
・料理、お菓子
・曲、歌
・ネタ
・劇の小道具、背景
・絵本
・漫画
・縫い物
・パラパラ漫画
・陶器
・雑貨(あんまり使い道のないような、クリスマスツリー、リースとか。)


他にも何かあったかな。
今思い付くのがこんなものだ。

もしかしたら、こういう要素を日々の生活に入れていけば、もっと毎日が楽しいでいっぱいになるかもしれない。

そういえば、こうしてあなたにとりとめもない話をすることも、毎日楽しい。
「作る」とは違うのかもしれないけど、あるいみ文章を作ってるということにはなるのだろうか。

毎日が楽しいと思える人がたくさんいれば、もっと楽しくなりそうだけどなあ。


見ているといつまでも飽きずに繰り返し見てしまうものがある。
音楽のMVだったり、好きな文章だったり、それは様々だ。

中でも、ゆうきゆう先生の人生岐路岐路クリニックというページは見ていて本当にスクロールする手が止まらなくなる。
ゆうきゆう先生は、漫画や本などもたくさん出されている精神科医の先生だ。

その岐路岐路クリニックのページでは、過去に寄せられた様々な相談に対し、ゆうきゆう先生が回答している。
この回答が、相談者の目的に沿っていて、かつ大胆で型にとらわれないような提案で、本当におもしろい。

特に随所に読者をほっと安心させてくれる笑いが散りばめられているところが素敵だと思う。
人を貶めるような笑いではないのが、また安心する。


あなたにとって、好みの笑いはどんなタイプだろう?
わたしは今述べたように、人を貶めないような笑いが好きなんじゃないかな、と思う。
それがゆえに、笑いの許容範囲が狭くて、多少損している気はするけど。
熱湯に入ったり、身体を叩くような痛いことをしたり、どっきりで誰かをがっかりさせたり。
昔からそういう笑いはあまり共感できなくて、まわりの人が笑っているのに合わせて笑うけど、結局あとでもやもやしてしまう。
この笑いって、もしかして誰かを傷つけてないかな、と。
もちろん、テレビの中の人たちはそれが仕事でそういうことをしながらお金をもらっているわけだ。
笑ってもらった方がいいのかもしれない。
でも、わたしのおもしろいな、と思う価値とは少しずれていると思う。
どちらの価値がいいとか悪いとか言うわけじゃなく。




さて、わたしの好きだと言った「人を貶めない笑い」ってどんなものだろう、と考えてみたい。

例えば、自分の失敗を笑い話に変えられると、人を貶めることもなく、自分のマイナスに捉えてしまっていた過去も昇華できる。
こういう笑いは誰も損をしないし、素敵だと思う。
ただ、これの難しいところは、誰かの失敗をところ構わず笑うのとは違う、というところだ。
本人が笑いに昇華できているものを笑うのと、まだ昇華しきれていないことを笑うのでは、笑われたときの受け取り方が全く違ってくる。
前者は笑ってもらえてよかった、と思うだろうし、後者は笑われて恥ずかしい、惨めだ、と思うだろう。

その他にも、言葉遊びで意外なものが合わさったときに面白さを感じるときもある。
これは少し高度な技が必要だ。
言葉の意外な組合わさり方を追求していく必要があるからだ。
ラーメンズというコンビの芸人さんがいたけれど(今も二人ともご活躍中。)、その人たちの笑いの感じが、まさにこの言葉遊びだったなあ、と思う。


わたしは人の価値観をあれこれ言うのもどうかと思うけれど、やっぱりこの世界にはもっと優しい笑いで包まれていてほしい、と願っている。

 

 

今、「やりたいことがわからない」からたった1日で卒業する方法、という無料メール講座をとっている。

これは、毎日1通ずつ届くメールに書かれてある質問に答えながら、自分のやりたいことを見つめていく講座だ。

なぜ、このような講座をとっているのか。

 

 

今、自分のできることが分からないからだ。

自分のことなのに、迷子になっているのかってくらい分かっていない。

 

今日は、講座を受けて4日目。

そのメールで分かってきたことによると、わたしは人生の中で「自分の存在を忘れて、自分の憧れるものになりきる」ことが大事だと思っているようだ。

何だろう。

「自分の存在を忘れて」というのは、自分が他者からどう見られているのかを意識するのに疲れているからかもしれない。

自分の存在を忘れることができたら、他者からどう見られているのかも気にしなくて済む。

心の底では、他者からどう見られているかを気にしたくはないのだろう。

 

おそらくわたしの身体には「他者からどう見られているかを気にしない人間になると、自分にとって不都合だ!」という思い込みが染み付いているのかもしれない。

だから、他者の目を気にしない人間になりたいという気持ちとは裏腹に、身体はどうしても他者の目を気にする働きをする。

 

 

そして、わたしは未来的な観点で見ると、「居心地のよい場所で、ひとりでのんびりしていたい」という気持ちが強い。

あまりにも自分の発想がニートのそれで撃沈。

でも、その通りだ。

居心地の悪い場所からは移動するに限るし、他人と関わるのが疲れているならば、ひとりでのんびりしているのが一番だ。

わたしが生きた証拠をこの世界に爪痕として残すんだ、というのはもはやどうでも良くなっているのが面白い。

これまで、わたしは何とか爪痕を残して死んでいきたいという考えにとらわれていた気がするけど。

実は爪痕を残すことなんてどうでもよくて、今生きているわたしが楽しければ、そうやって死んでいくこともいいじゃないか、と思っていたのかもしれない。

 

 

その他にも、自分の好きなこと、という観点から掘り下げていくと、どうやらわたしは心の奥底で一番「北欧に行ってそこのデザインに触れ合いたい」と思っているらしい。

らしいって言うと、他人事のようだ。

だって、あまりにも突飛すぎて、自分のことだって忘れそうになってしまう。

 

 

そして、この他の講座では、自分の過去の観点から掘り下げていって、自分が子育てに関係することや、絵本や小説をかくことなども、好きだったと分かった。

 

子育てに着目しているは、わたしが心のどこかで「やっぱり新しく命を授かって生まれてくる人たちが、より幸せになっていけばいいよな」と思っているからかもしれない。

というのも、子どもの頃って、自分の人生を楽しくする方法や自分が幸せになる方法をしっかり分かっていた気がするのだ。

でも、いつの間にか年を重ねていろいろな経験をしていく中で、わたしのように迷子になってしまうことがある。

どうすれば子どもの頃には持っていた大切なことを、手放さないままで大人になれるんだろう。

それがわたしの不思議に思っていることの一つだ。

だからこそ、子育てに関することには興味がある。

 

 

 

もうすぐ自分の中に隠された種を探す旅は終わる。

残り3日間で、どのような種が発見されていくのか。

そして、それはわたしはこれから生きていく中で、その種を育てていくことができるのか。

 

全く分からないけど、とにかくやってみよう。