時をかける少女のように -7ページ目

時をかける少女のように

なんとなく生きることも良しとします。

とりあえず一週間続いた。
また一週間続ける。

 

 

また面倒になって人間関係を切ってしまった。

ネット上で知り合った人だ。

これで何度目だろう。

いつも関係を築くと同時に、この人もきっといつか音信不通になってしまうんだろうな、と予感している。

その予感が外れたことは一度もない。

その人と関係を築いていくのが面倒になって、いつも連絡を遮断するのはわたしだ。

 

どうして面倒になってしまうのかというと、相手にとって居心地のよい人間であろうと振舞っているからだ。

自分とは違う人間の振る舞いをし続けることは、なかなか疲れる。

しかも相手が疲れるのに見合うほどのリターンをわたしにくれるわけではない。

こう言ってしまうと最低の人間だけど(言わなくても元から最低の人間だけど)、関係を築くメリットが感じられないと、面倒になるのも仕方ないのだ。

 

 

自分が他人からどう見られるかを気にしすぎるのは、自分がメリット・デメリットで人間関係を構築していることからきているのかもしれない。

自分自身、他人をメリット・デメリットで判断するせいで、他人からもメリット・デメリットで判断されると思い込んでいる。

実際のところはどうなんだろう。

 

あなたは、人間関係を構築するときに、メリット・デメリットを考えたりする?

それとも、そんなことは関係なく、好きな人は好きだ、関係を築きたい! って思う?

 

うーん、それ自体も難しいところだ。

好きっていうことは、つまりその人といるだけで自分にメリットが与えられるってことになる。

だって、好きな人と一緒にいられると嬉しいものだし。

 

てことは、メリット・デメリットも無視して築く人間関係なんて、もともとありえないってことなんだろうか?

 

 

 

わたしがネット上で定期的に人間関係を築いては、面倒になってぷつっと音信不通になる。

これを繰り返すことによるメリットって一体何なのだろう、と考えてみた。

 

自分自身を偽って、他者から好かれるような人格になりきって、「他者から求められる感覚」を味わいたいのかもしれない。

水商売もそんな感じなのかな。

やったことないから、全く分からないんだけど。

ただ、ひとつだけ言えることは、水商売はそれで給料をもらえるのに対して、わたしは全くの無償でやっている。

だから、「お金」という要素をも排除して、純粋に「他者から求められる感覚」だけを求めていると言える。

 

そして、水商売よりも良い点は、プロフェッショナルとしてお金をもらうわけでもないから、責任も感じずに済むというところだ。

自分が少しでもストレスを感じたら、いつでも関係を切ることができる。

 

 

これって本当に、すごい娯楽だ。

人の時間を奪うだけ奪って、飽きたらその時間を無かったことにしてしまうわけだから。

ひどいことをやっていると、自分自身で理解している。

でも、やめられない。

こういう裏事情も分かって、相手してくれる人がいれば、一番楽なんだけどな。

そうはいかないのが、世の中うまく歯車の合わさらないところだ。



わたしが先日行ったスターバックスには、パソコンを開いて何かを打ち込んでいたり、読書をしていたり、色々なことをしながら過ごす人がいた。
どの喫茶店でもいいと思うんだけど、やっぱりスタバは格段に仕事してるぞ感がある。

大した作業もしていないのに、なぜか机に道具を広げていると作業が進んだ気がするのが不思議だ。
わたしはこの現象のことを「スタバマジック」と呼んでいる。
同じように飲み物が飲めて寛げるのに、ファミレスではこうはいかない。
不思議なことに。
だからこそ「マジック」なんだけど。

あなたは不思議と魔法がかかってしまう空間ってある?
そんな空間が自宅に作れるなら、それにこしたことはないと思うんだけど、そう簡単なもんじゃない。


今日は、わたしが魔法にかかる空間の条件を考えてみる。

まず、仕事をやる気にさせる居心地のいいソファ。
スタバにはこれがある。
注意しないといけないのは、このソファ、柔らかすぎてはいけないのだ。
若干硬めだからこそ、くつろぎすぎずに作業をしようという気になる。
それにこのソファの配色も落ち着いていて、余計な刺激を与えないようになっている。

配色と言えば、やっぱり木のテーブルだ。
木製のものは気分を落ち着かせてくれる。
仮に木のテーブルではなくても、色が黒に近く、できるだけ邪魔にならないような色使いになっているのがいい。

飲み物も重要な要素だと思う。
集中していると、いつの間にか口寂しくなってくる。
そんなときにいつでも手元に飲み物があるというのは有難い。
少しだけ口に何かを入れると、いいリフレッシュにもなる。

そして、外せないのが生活感の排除だ。
ちょっとでも洗濯物なんかが目の端にうつっていると、途端に生活感が出てしまう。
いつもの自分のテリトリーから出て、スイッチを切り替えているからこそ、作業をしようという気になるのかもしれない。


このような条件を満たして、家で同じように作業をするためには、もう一部屋必要だ。

増築?
いや、それなら近所の喫茶店へ行った方が安上がりか。

そんなこんなで、結局魔法にかかる空間を求めて家から出るわたしなのだった。


誰かが亡くなったとき、どんなふうに声をかけてもらいたいものだろう。
大事な友達の家族が亡くなって、声のかけ方に悩んでいる。
自分だったどう言ってほしいだろう。
それが分からない。

あなたなら、どんなふうに声をかけられると、心の傷が少しは癒える?
いや、分かってはいる。
大切な人を亡くしたときは、そんなに簡単に傷が癒えるものではない、と分かっているけど。
少しでも、と思ってしまう。


わたしが最後に親しい人を亡くしたのは、去年のこと。
子どもの頃にたくさん遊んでもらった叔父さんだ。
叔父さんは四十代だったから、まだ若い。

わたしは、叔父さんが息をひきとる瞬間をベッドの脇で見ていた。
死ぬことって、あっけないな、と思った。
今さっきまで息をしていたのに、次の瞬間には息をしなくなっているのだから。
こんなに簡単に終わるものなのかって、不思議な気持ちにすらなった。

あのときは、どう声をかけられたら良かったんだろう。
呆然としすぎて、あまり思い出せない。
結局、誰かを亡くしたときの傷って、時間しか解決するものがないような気もする。
誰かを亡くしたときは、気分が重く、引きずられているから、仕方ないのかも。


人の命が亡くなるのを肌で感じると、自分の命の儚さも思い出される。
だからこそ、重くなってしまうんだろうな。
「あ、そうだった。人ってこんなに簡単に死ぬものだったな」って。

で、なおさら、自分の人生の意味が分からなくなる。
何なんだ一体。
こんなふうに呆気なく消えてしまうなら、何をしたってしなくたって、同じだ。

あなたは、こんなふうに考えることはない?
わたしは、そうやって考えるときが一番無力になる。
だから困る。
人が亡くなるって、本当に、困ることだ。

 

誰かと話をしている最中に、「あー、今の自分って○○だな」って自分を別の視点から見ている自分がいる。

あなたは、そんな人が自分の中にいる?

 

じゃあ、いたとして、仮にそれを「Aさん」と呼ぶとするけど。

そのAさんが、頻繁に出てきて疲れるな、と思うことって、あなたはある?

 

わたしは、もうほっといてくれって思うほど、Aさんが頭の中で呟いている。

「あ、またその言葉喋ってる。癖なのかなあ」とか。

「あ、今、この人よりも上の立場に立とうとして偉そうな態度とってる~」とか。

人間なんだからさ、そういう小狡いところだってあるよ! と反論するけど、Aさんは許してくれない。

 

Aさんにとっては、きっと「人間こうあるべき」っていう完璧な理想像があるんだろう。

その像と少しでも違うところがあれば、「あれ? 今の行動違うよ? ダメだよ?」ってわたしに囁く。

 

 

わたしとAさんは、それはもう長い付き合いで、わたしがわたしだと認識した時には、Aさんも居たんじゃないかな。

よく心の中の天使と悪魔って表現がされるけど、わたしを理想像に近づけるための行いを促してくるから、Aさんはきっと天使だ。

けど、存在の疎ましさで言ったら、悪魔とも呼べる。

もうちょっと自由に人間させてくれたっていいのに! とAさんに憤慨することもある。

 

ひょっとして、Aさんが天使なら、わたし自身は悪魔なんじゃないだろうか。

だったら、Aさんに憤慨するのも納得できる。

だって、悪魔は天使が憎いものなんだ。考え方が合わなくても仕方ない。

 

元来、わたしは悪魔だったのか。

そう考えると、しっくりくることがたくさんある。

しかも、そう考えると「なんだ、わたしって悪魔の割にはいいとこもあるじゃん」とも見えてくる。

不良が雨の日に捨て犬を拾い上げて優しくしてやる姿に、意外といいヤツじゃんって思えるのと同じ原理だ。

 

わたしは、今の今まで、自分が悪魔だなんて考えもしなかったから、自分って本当に嫌なやつだな、と自己嫌悪に陥っていた。

Aさんの言うことを分かりつつも、素直に従わないことだってあるし、面倒だなと思うことだってある。

自分が人間だと思えば、それはAさんに従うべきなのに、どうしてそんなこともできないんだ! と責められるけど、悪魔なら仕方ない。

だって、悪魔なんだから。

嫌なやつが標準装備なんだ。

自己嫌悪に陥る必要もない。

 

これまでやってきた数々のわたしの嫌な行いも、悪魔なら当然の諸行だったのだ。

むしろ、Aさんに従ったり、気まぐれでやった良い行いの方が珍しい。

悪魔が自分の健康を気遣って「野菜一日これ一本」を飲むなんて、本当は可笑しい話なんだ。

 

あ、でも、悪魔だって苦しいのは嫌だ。

だから、自分の身体が不調であるよりは、好調である方がいいのは、立場がどうあれ変わらないことなのかな。

そういう点で言えば、Aさんとわたしの共通の目的は、二つくらいに絞ることができそうだ。

 

・自分が健康であること

・自分が幸せであること

 

この土台があった上で、AさんにはAさんなりの、わたしにはわたしなりの考え方や目指す像が乗っかっている。

 

 

 

うん、これなら納得できる。

近頃、Aさんの存在を本当に疎ましく思っていたけど、なんだかAさんを対等に扱えるような気がしてきた。

 

 

友達から、愚痴のような嘆きのような言葉を聞いて、なるほど、分かる分かる、と思った。

その友達曰く、人との距離感の縮め方が難しい、と。

 

まわりの人を見ていると、たくみに人との関係性をぎゅっと縮めることができる人もいる。

そういう人って、他人のことを上手にからかったり、自分がからかわれたりして、いかにもすぐに仲良くなったように見える。

自分にはそれが羨ましいけど、どうしてもできないんだよね、ということだった。

 

確かに、そういうのが異常に上手い人っているよな、と思う。

天然で、意識もせずにそういうことをやってのける人。

わたしはそういう人を見ると、この人はこうやって小さい頃からずっと上手に人間関係をわたってきたんだなあ、と感心する。

たぶん、人間関係を潤滑に、とか考えなくても生きていけるタイプの人だ。

 

じゃあ、そうじゃないわたしたちは何なのだろう。

いつかどこかで、他者から深く心に傷をつけられたから、こんなふうになってしまったのかな。

 

 

 

あなたは、誰かに深く心を傷つけられたことはある?

それは、今でも忘れられないほど大きい傷?

それとも、今ではもうかさぶたとか、跡にものこらないようなものになってる?

 

わたしは、心が引き裂かれそうになることってよくある。

身体的には平気でも、心だけを引き裂いていく言葉って、いろいろある。

心を引き裂く言葉を放つ人って、往々にして、「上がわに立つ人」だ。

人間関係を全体的に見ると、「ああ、この人って上がわに立つ人だな」と気付く瞬間がある。

それは、話していたり、ちょっとした行動を見たりしたときに分かる。

 

わたしの友達は、わ

たしのように「上がわに立つ人」を見つけるのが得意なタイプなんだろう。

そして、その人からまた昔のように虐げられることを、いつでも恐れている。

だからこそ、距離を縮めたくないと、心が拒否反応を起こしているのかもしれない。

 

 

と、書いてみたけど、誰かに深く心を傷つけられた人って、たくさんいるのかもしれない。

もしかして、傷つけられなかった人の方が少数派なのかも。

だから、世の中に出回る物語の中でも、上がわに立つ人を見返してやる、みたいなストーリーは人気だ。

わたしたちはいつでも、下の人間って辛いんだぞ! と叫びたいんだと思う。

 

「じゃあ、上がわの人間になればいいじゃん」

と言って、上がわの人間になれるほど楽なものでもない。

上がわの人間は、下にいる人間のことを気にかけてはいけないのだと思う。

うん、きっとそういうものだと、わたしは思っている。

だって、少しでも気にかけてしまったら、その途端に上になんて立っていられなくなるし。

下にいる人間の苦しみが見えない、知らないって状態じゃなければ、上に立つのは苦しい。

 

あ、でも。

上がわに立つ人の中にも、「苦しみが見えない」とは少し違う人もいるのかもしれない。

それは、下にいる人間の苦しみが見えてもなお、立ち続けられるってタイプの人だ。

理由として考えられるのは、こんな感じ。

 

①苦しみを見ることが楽しいと感じる

②その苦しみを犠牲にしても目指したい自分の目標がある

③その苦しみは、人々にとって幸せになる、という考え方の転換ができる

 

 

 

うーん。まだ他にもあるのかな。

わたしは、こうでも考えないと、上がわに立つ人の神経がよく分からない。

 

上がわに立つ人が別に嫌いってわけではないけれど、わたしとはタイプが合わないな、と思う人はいる。

③の人だ。

他人の幸せを決め付けてくる、その傲慢さに、一緒にいると必ず苦しめられる。

 

少なからず、わたしにもそういう面があるんだろうな、と思う。

「これがあなたの幸せなんでしょ?」という決めつけ。

怖い、怖い。

 

<他人の振り見て我が振り直せ>って言われるけど、本当にその通りだ。

自分は他人にそんな振る舞いをしていないか、常に気をつけておこう。