時をかける少女のように -6ページ目

時をかける少女のように

なんとなく生きることも良しとします。

とりあえず一週間続いた。
また一週間続ける。


今年がもう終わろうとしている。
毎年、年の明ける瞬間に新鮮味が薄れていくのが分かる。
小学生の頃なんて、31日の夜は一時間が経つのが驚くほどゆっくりだった。
紅白を見ながら、何度も何度も時計を見て、1月1日がくるのを今か今かと待っていた。

1月1日になると何が変わるというわけでもないのに。




でも、来年は少しだけ変わる気がする。
仕事を休み始めてから、もう2ヶ月がたつけど、自分の内面をずいぶんとあなたに話してきた。
話しながら、気づいたことがある。
わたしは自分自身のことをどこまでも認めたり許したり愛したりするのが苦手な人間だということだ。

何かあると、自分を否定してしまう。
キレやすいし、自己中心的だ。
って、こうして自分自身のことを振り返りながらも、また自分を否定している。



来年は、せっかくブログであなたに話をしていることだし、少し変わってみたいと思う。
少し変わってみたいと自分が思っているってことは、来年は何かが変わるはずだ。

あなたに見守ってもらいながら、自分を認めたり許したり愛したりするのにチャレンジしよう。
一年の抱負なんて、もう何年も考えるのを辞めていたけど、今年は一人じゃないし、言ってみるのもいいかなって思って。

今年も終わりかけって頃から始めたブログだけど、あなたが見守っていてくれたから毎日何かを書こうって思えた。
あなたに感謝を伝えて一年を終わろうと思う。



今年も、どうもありがとう。


わたしの書く物語は、登場人物に魅力がない。
魅力っていうか、なんというか。
みんな、軸がぶれぶれな登場人物ばっかり。
やっぱり、書いている人間の軸がぶれていると、登場人物にまで影響してしまうのかもしれない。

わたしは登場人物にすら、他者からよく見てもらいたいという欲を働かせて、八方美人にさせてしまう。
せめて彼らはくらい、自由に生きさせてあげればいいのに。

八方美人にさせてしまうのは、登場人物が自分の分身だと考えてしまっているせいってのも、少なからずある。
自分の分身が嫌われるのは、自分が嫌われるのと同じ。
だから当たり障りない、悪いところがないような人格を作ってしまう。
そんな人格の登場人物、全く魅力がないのに。


そもそも、魅力って何だろう。
あなたは、どんな人が魅力的だと思う?

わたしが思うに、人の魅力は予想を裏切ったりギャップがあったりすると生じるものなんじゃないだろうか。
あくまで、わたしが思うに、だけど。

だって、予想通りなものや、当たり前のものって、手に入りやすいし、そんなに魅力を感じない。
魅力って、要するに希少価値だ。


そうすると、わたしは希少価値のないどこにでもいるような人間だから、魅力がないのも当たり前のことだ。
納得できる。
もし仮に、魅力ある人になりたければ、他の人と違うことをすればいいってことになる。

たったそれだけのこと。
でも、恐ろしいほどに「他の人と違うこと」をするのって難しいものだ。
だって、何年間も「他の人と同じであるように、他の人から逸脱しないように」って意識しながら生きてきたのだから。
今さらになってやっぱり他の人と違ってもいいか、って思っても、身体が「あ、そうですか」と素直に聞いてくれる訳がない。

秀吉は墨俣城を一晩で作ったっていうけど、魅力は一晩にしてならず、だ。
けど、全く無理ってほどでもない。
わたしが究極に苦手な「コツコツと取り組む」ことを続けていれば、できなくもないことだ。


続けていれば。
ああ、わたしが魅力的な人間になるには、分厚すぎる壁を壊さなければならない。


思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

マザーテレサの言葉らしいけど、よくぞ綺麗に繋げてくれた、と思う。
思考→言葉→行動→習慣→性格→運命
段々と影響をしていくっていうのは、身をもって体験しているから分かる。

じゃあ、運命を変えたければ、思考を変えればいいのか! って思うけど、そんなに簡単なものじゃない。
思考を変えるのは相当な訓練が必要だ。
刷り込んで、刷り込んで、刷り込んで、刷り込んで。
やっと思考が変わったと思っても、すぐに元通りになってしまうこともしばしば。
一度慣れてしまった思考のパターンは、パーマをかけた髪みたいに、癖がついて元に戻らなくなってしまっている。

わたしは、思考パターンがわたし自身を否定しているから、どうにも言葉にも否定的な要素が入ってきてしまう。
昔から、底抜けに明るい応援ソングがそんなに好きじゃないのは、こんな否定で構築された身体に馴染まないからだろう。

否定的な思考は、最終的には運命にまで影響が及んでいく。
結局どこに着地するのか分からないような人生を送っている今現在が、そのまま、影響が出ていることを現している。

でも、自分は、それでいいと思っているのかもしれない。
否定的なのに、それでいいって肯定するのは不思議なことだけど。
以前は、それすらも否定している自分がいた。
どうしたいかもどうなるのかも分からないような自分を否定して、何者かになろうともがいていた。

最近では、何者にもなれない自分でいいやって思えるようになってきている。
これは、肯定というより諦めかもしれない。
わたしが望んでいた「主人公」にはもうなれないけれど。
何者でもなくて、主人公を引き立てる役になれるのなら、それでいいかって。

でも、何者でもない、引き立て役がいないと、主人公が輝かない。
主人公を輝かせることって、ある意味すごい。

どこにでもいるようなわたしは、どこにでもいるようなわたしであり続けるのでもいいかもしれない。

 

 

 

 

 

もし人の人生を歩くことができたら、どんなに楽しいだろう。
あなたはそんなこと、考えたりしない?
 
わたしはよく、特別な人生を想像する。
物語の主人公だけが許されるような、特別な人生だ。
主人公は、その人しか持っていない力を必ず持っていて、それを必要としてくれる人に出会える。
主人公は輝いて見える。
 
でも、実際のわたしはというと、自分しか持ってない力なんてあるわけないし、当たり前だけど、そんな特別な力を持っていない人を必要としてくれる人もいない。
だから、わたしは取り立てて輝いては見えないんだろうな。
わたしが、自分って輝いてるじゃん。と思える日なんて来るのだろうかとすら思う。
 
自分のことを輝いていると思えるときって、どうなっているときだろう。
あなたは、「自分、輝いてるじゃん!」と思ったこと、これまでにある?
 
わたしは、きっといつか誰かがわたしも知らないような力を見出してくれて、わたしが輝けるんじゃないかって期待をしているけど。
それって実際には、白馬に乗った王子様が迎えに来てくれるのを待ってるくらいありえないことなんだろうな。
分かっているんだけど、してしまう期待ってあると思う。
 
宝くじ一億円があたったら、とか。
あるとき急に不思議な能力が備わったら、とか。
 
そういう特別な出来事は、物語の主人公にだけ許されるものだ。
その点において、わたしは自分が主人公ではないと分かっているから変な期待はしなくていい。
想像を楽しむだけ楽しんでいる。
 
でもひとつだけ、ずっと分からないことがある。
わたしの世界の主人公って一体誰なんだろう。
 
もしかして、あなたが主人公?
それとも、まだ見つけていないのか。
もう見つかっているのに、主人公だと気づいていないのか。
 
脇役なりに、立ち位置や役割を確認したいんだけどな。

 

 

天然だよね。

そう言われようとして、わたしは馬鹿を演じていると思っていた。

 

わたしは、ずいぶん昔のことだけど、「天然な子の近くにいると癒されるな」ということに気付いた。

そして、まわりの人をこんなふうに癒しながら生きていけるなんて幸せじゃないか、と思うようになった。

じゃあ、わたし自身が天然な子になってしまえばいい。

そう気付いたのは、中学校に入学したばかりの頃。

ちょうどまわりに知り合いもいないような学校へ入学したから、小学校の頃とは違うキャラで生きていこうと決意した。

 

天然キャラの掟は、自分の中で二つだけあった。

一つ目は、意識して空気を読まないようにすること。

二つ目は、自分が天然だということを決して肯定しないこと。

 

この二つを貫くことで、わたしは天然キャラを守り通そうとした。

結果は、成功だったと思う。

まわりの友達からは、「悩みなさそうだよね」とか「ほんとに天然だよね」「かわいい」と言われるようになった。

注意したのは、どの程度空気を読まないようにするかだ。

実際には空気だって読めるわけだから、どのタイミングにおいて空気を読まないことが正解なのか、それはもう探り探りやっていくしかなかった。

空気を読まなすぎてもまわりに完全に引かれてしまうから、嫌われない程度に空気を読まないよう、神経をかなり使った。

元来であれば、他人に気を使いすぎてしまうわたしだけど、空気を絶妙に読まないことが天然には必要だったから、時には自己中心的に振舞ったりもした。

 

そんなことをしているうちに、その行為はわたしに染み付いてきた。

わたしは自分を天然に見せるように、故意のバカな行為を繰り返し行っては、まわりの人を笑わせていたけど、今はそれをわざとやっているのか素でやっているのか、よく分からなくなってきた。

計算で物事を繰り返していくうちに、無意識でできるようになってきたのかも。

 

まわりの友達は、わたしのことを純真だとか、天然だとか、真面目だけど抜けている、というふうに評価してくれる。

そして、「一緒にいると癒される」とか言って笑ってもくれる。

 

わたしとしては、実はそれは計算し尽くされた自分の姿だけど、それでもまわりの人が笑ってくれたり、癒されてくれると嬉しい。

でも、それが自分の本質だとは思いたくない自分もいる。

 

本当はこんなに馬鹿なことなんてしないよ。

あなたたちが笑ってくれるからこうやって馬鹿を演じているんだよ、と思っている。

 

馬鹿を演じているというと、じゃあ実際は頭がいいのかと思われるかもしれない。

けど、頭がいいってわけでもない。

 

わたしは、なんでもないつまらない人間なんだ。

キャラを無理に作るのは、つまらない人間を隠すため。

 

 

 

わたしはキャラを作り上げているからか、人と接すると過剰に疲れる。

あなたは、親しい友達と遊ぶとき、疲れたりしない?

 

わたしは、どれだけ親しくても、あまり長時間一緒にいると疲弊してしまう。

休日、プライベートで誰かと遊びに行くってことも、実はわたしにとっては労働と同等にしんどいことだったりするのだ。

友達が嫌いってわけではないから、誤解されないようにこんなことは絶対言わないけど。

でも、休日くらい一人でじっと動かずに休んでたっていいじゃないか、と思う。

仕事だって人と合わずに済めばどれだけ楽なんだろう。

 

同じような人って、やっぱり世界は広いし必ずいるだろう。

そういう人は、どうやってこのジレンマと戦っているのかな。

 

演じている自分に疲れている人は、どれだけいるのかな。