おもしろいと思う | 時をかける少女のように

時をかける少女のように

なんとなく生きることも良しとします。

とりあえず一週間続いた。
また一週間続ける。



見ているといつまでも飽きずに繰り返し見てしまうものがある。
音楽のMVだったり、好きな文章だったり、それは様々だ。

中でも、ゆうきゆう先生の人生岐路岐路クリニックというページは見ていて本当にスクロールする手が止まらなくなる。
ゆうきゆう先生は、漫画や本などもたくさん出されている精神科医の先生だ。

その岐路岐路クリニックのページでは、過去に寄せられた様々な相談に対し、ゆうきゆう先生が回答している。
この回答が、相談者の目的に沿っていて、かつ大胆で型にとらわれないような提案で、本当におもしろい。

特に随所に読者をほっと安心させてくれる笑いが散りばめられているところが素敵だと思う。
人を貶めるような笑いではないのが、また安心する。


あなたにとって、好みの笑いはどんなタイプだろう?
わたしは今述べたように、人を貶めないような笑いが好きなんじゃないかな、と思う。
それがゆえに、笑いの許容範囲が狭くて、多少損している気はするけど。
熱湯に入ったり、身体を叩くような痛いことをしたり、どっきりで誰かをがっかりさせたり。
昔からそういう笑いはあまり共感できなくて、まわりの人が笑っているのに合わせて笑うけど、結局あとでもやもやしてしまう。
この笑いって、もしかして誰かを傷つけてないかな、と。
もちろん、テレビの中の人たちはそれが仕事でそういうことをしながらお金をもらっているわけだ。
笑ってもらった方がいいのかもしれない。
でも、わたしのおもしろいな、と思う価値とは少しずれていると思う。
どちらの価値がいいとか悪いとか言うわけじゃなく。




さて、わたしの好きだと言った「人を貶めない笑い」ってどんなものだろう、と考えてみたい。

例えば、自分の失敗を笑い話に変えられると、人を貶めることもなく、自分のマイナスに捉えてしまっていた過去も昇華できる。
こういう笑いは誰も損をしないし、素敵だと思う。
ただ、これの難しいところは、誰かの失敗をところ構わず笑うのとは違う、というところだ。
本人が笑いに昇華できているものを笑うのと、まだ昇華しきれていないことを笑うのでは、笑われたときの受け取り方が全く違ってくる。
前者は笑ってもらえてよかった、と思うだろうし、後者は笑われて恥ずかしい、惨めだ、と思うだろう。

その他にも、言葉遊びで意外なものが合わさったときに面白さを感じるときもある。
これは少し高度な技が必要だ。
言葉の意外な組合わさり方を追求していく必要があるからだ。
ラーメンズというコンビの芸人さんがいたけれど(今も二人ともご活躍中。)、その人たちの笑いの感じが、まさにこの言葉遊びだったなあ、と思う。


わたしは人の価値観をあれこれ言うのもどうかと思うけれど、やっぱりこの世界にはもっと優しい笑いで包まれていてほしい、と願っている。