随分前に、「逃げるは恥だが役に立つ」というドラマが流行った。
原作は海野つなみさんの漫画「逃げるは恥だが役に立つ」だ。
とても大好きな漫画で、読み始めると手が止まらなくなってしまうほど面白い。
でも、わたしにとってはいまいち「逃げる」という表現がしっくりこなかった。
「逃げる」のレベルが甘いっていうか、可愛いっていうか、なんというか。
それすら美しく見えてしまう。
だって、一人一人の登場人物が魅力的で、自分の信念に従って悩んで、「逃げる」ことを選んでいるっていう印象があるからだ。
この人の「逃げる」は、そりゃ、許されるでしょっていう。
やっぱり漫画の中の出来事だ。
わたしみたいな魅力的でもなんでもない人間が、ただ辛くてグダグダと「逃げる」ことは恥さえあれ、役には立たないと感じる。
わたしは最近、仕事から逃げ出した。
今も述べたように、魅力的でも何でもないわたしは、自分の信念に従うというよりも、自分の生きづらさに違和感を感じて、病気休暇という「逃げる」道を選択した。
そこで、逃げることっていけないことだろうか? ということを、今一度考えてみたい。
あなたは人生で逃げたことってある?
わたしは本当につい最近逃げ出したんだけど、実はこれまでにも何度か逃げ出したことがあるんだよね。
それは、付き合っていた彼氏から。
もしくは、働いていたバイト先から。
あるいは、所属していた部活から。
そして、耐えられなかった人間関係からも。
まだまだたくさんある。
あれ?
何度かっていうか、こうして思い返すと、自分の人生って逃げていることが多いんじゃない?
もちろん、逃げなかったことが、ないことはない。
でも、それだって期間満了で終わりになったから逃げる必要がないというだけで、今ではもう続けていない。
いつだって、自分には合わないと感じると逃げてきた。
逃げるは恥だが役に立つ。
この言葉のように、逃げることが<ときには>必要だというのは、まわりの人からも認められやすいことだと思う。
でも、やっぱり逃げてばかりっていうのは、マイナス要素になり得るんじゃないかな。
あーあ。
ってことは、今は休暇中、つまり逃避中なわけだけど、いずれは逃げてきたあの環境に立ち向かうべきなのかあ。
あの辛い日々がまた自分に訪れると思うと、不安がこみ上げてくる。
いっそ、逃げてしまいたいんだけどな。
なんとか逃げる自分を正当化できないものかと、ネットの海を漂っていたところ、「逃げることで、人は成長する。」というわたしが探し求めていた記事を発見した。
なんという幸運。
藁にもすがる思いでページを開いてみると、そこにはわたしのよく知る人がいた。
幼い頃から大好きだった絵本をかいた方、五味太郎さんだ。
五味太郎さんは、自分の趣味か、そうじゃないかという視点から話を進めている。
『そこの場所が気に入らない、自分にとってよくない、ピンチだ、あるいはつまらないっていうのに、その場所を変える努力、仲間を説得して、つまるようにしていく。そういう努力は、趣味じゃないね。』
趣味じゃないね。
そんな簡単な見方もあっていいの!? と、仰天した。
わたしはこれまでしてきた経験から、勝手に選択肢を1つに限定していたのかな、と思う。
五味さんが言うように、そこの場所が気に入らない、ピンチ! などといった問題がもしも起きたとしても、相手を変えることはできないので、なんとか自分が変わる努力をすること。
これに尽きる、と思っていた。
だって、自分を変えずにそこから逃げ出すなんて、選択肢として他者からあまり認められないことだろう。
他者から。
わたしはいつも他者からどう見られるかを気にする。
自意識過剰だ。
他者はそんなににわたしのことなんて見ていないんだから、そんな他者に認められるかどうかなんて、気にする必要もないことなのに。
それでも、気にしてしまうのがわたしだ。
そうやって、がむしゃらに「自分が変わる努力をする」という1つの選択肢を固辞し続けてきたけれど、それを意図も容易に「趣味じゃないね。」で片付けられるなんて。
もう、驚きを通り越して、逆に爽快な気分だ。
五味さんは、こうも言っている。
『俺が合うところは、世界は広いんだからあるだろうって。俺が動けばいいんだ。その日のために鍛えた足腰ってのがあるよね。』
なるほど~!
「逃げる」っていうか、「移動する」って捉えになっちゃうのか!!
もう、目から鱗、寝耳に水。
頭の中で魚でも飼っているんじゃないかって気分だ。
でも、考えてみればそうだ。
「逃げる」っていうのは、その環境にいる人たちから見た状態であって、自分から見れば、ただ「移動する」にすぎないことなのかも。
どうかな?
もし、あなたがどこかへ逃げてしまいたい、と思ったとき。
わたしと一緒に、どこかへ「移動する」と考えてみない?
わたしは、そろそろ移動をするつもり。