時をかける少女のように -9ページ目

時をかける少女のように

なんとなく生きることも良しとします。

とりあえず一週間続いた。
また一週間続ける。

 

続けることに少しずつ抵抗が無くなってきている。

 

 

このブログを毎日書くという取り組みを初めて、三週間ほどが過ぎた。

つまり、あなたに三週間も話しかけたということだ。

 

この文章を書くことについて、毎日続けられているのは、そこまで時間をかけなくてもいいし、そんなに気を使って書くものでもないからだろう。

それに、書き溜めてもいい、っていう特別ルールまであるし。

 

何より、一週間続けることができたら、いつ辞めてもいい、という決まりがある。

一週間、と決めていると、まあ週末までちょっとやってみるか! と思える。

毎週それが繰り返されるけど、スタートとゴールが一週間ごとに来るのが気負わなくてもいいためか、わたしとしては嫌な感じがしない。

 

 

誰が楽しみにしているというわけでもないのに、こうしてあなたに話しかけ続けているのは、それだけ自分にとってこの行為が自然にできているってことなのだろう。

 

それにしても、ブログを始めたときには、毎日あなたに話しかけていたら、どうせいずれは話すことがなくなってしまうだろうと思っていた。

だからこそ、期限も一週間にして続けば次の一週間、と考えていたのだ。

でも、結構、どうして、なんとまあ。

毎日何かしら、「これはあなたに話しておかなきゃ」と思うことがある。

 

こうして続けて書いてみて気づくけど、人に伝えたいことなんて何にもないわ! と思っていたのに、意外と話したいことはあるものだ。

ただ、口にはしないだけで。

そう。

こうしてあなたに話しかけているのに、わたしは全く口を動かさずに、両手の指を高速で動かしている。

 

おそらく、わたしは直接話すことよりも、こうして文字にして話すことの方が向いているのかもしれない。

人には向き不向きがあるというけど。そうか。

今日は一つ、わたしに向いていることを見つけた気がする。

 

 

なんにしても、物事を続けることが苦手なのは自分のパーソナリティーだと思っていたのに、三週間続いたのは、わたしにとっては快挙というべきことだ。

これからも自分の好きな自分のことについて、他者からの意見なんて関係なく、あなたに語り続けていこうと思う。

一週間だけ続けられるように。

 

 

 

 

わたしは今、概ね満たされた生活をしていると思う。

仕事も休職中なので、自分の好きなことに、好きなだけ取り組むことが出来ている。

あなたの現在はどうだろう?

今の生活は満たされている?

もう十分! これ以上ないくらいに! という人もいれば、もしかしたら、今は満たされていないって人もいるかもしれない。

 

もし満たされていない場合、あなたがこれまでの人生で充実していた瞬間って、どんなときかな?

わたしも、少しそのことについて考えてみようと思う。

 

 

わたしが最高に充実していたな、と思い出せることは、

①好きな物語に没頭していたとき。

②自分の好きな人、憧れの人の性格になりきって、誰か(ネットの顔も知らない人からよく顔を合わせる知人まで)と連絡をとったとき。

③カラオケで、一人で何時間も歌ったとき。

④妄想を広げて物語を書いたり、その書いたものをあとになって読み返すとき。

⑤書いた物語が誰かに良い評価をしてもらえたとき。

 

うーん。

結構、内に篭った充実だ。

というか、こうして挙げてみると分かるのは、現実世界とは少し離れたというか、あまりにも生々しい現実に触れているときには充実を感じづらいっていう共通点があることだろうか。

あなたもこうして挙げてみると、もしかしたらそこには共通点があるかもしれない。

やっぱり人間、好き嫌いがあるから、今って最高! という瞬間はその人の好みがよく現れるものなんじゃないかと思う。

 

だいたい、こういう自己分析は大学生のとき就活でするものだと、ネットの情報に書いてあった。

でも、わたしは就活をしたことがない。(教員採用試験を受けるだけだったため。)

だから、自分というものがよく分析できないままに仕事が始まった。

そんなだから、仕事をしている際にも、自分に一番合った仕事の仕方というのが理解できず、試行錯誤を繰り返した。

 

一年目は、本当に地獄だった。

これまで生きてきた人生で今が一番しんどいのではないか、と思った。

自分の軸と、周りの環境が合わず、軸がぶれぶれになる。

そもそも、自分には環境に合った軸なんて持つことができないんじゃないかと悲しくなる。

自己否定を繰り返す毎日が続いた。

 

それが一年以上続いた結果が、病気休暇につながった。

まわりの人からは、「この仕事をやめるのはもったいない」とか「最初は自分もしんどかったし、仕事は苦しいことも必ずある」とアドバイスをもらうことがある。

確かに、仕事は苦しいことをしてお金を得るものだと思う。

自分の仕事は楽しくて仕方ない! それでお金ももらえていて、最高だ! 天職! という人は本当に稀なんじゃないだろうか。

一度調べてみたい。

働いている人全員にアンケートをとって、今の仕事が天職、最高だ、楽しくて仕方ない、と思っているかどうかを聞いてみたいのだ。

一体、どのくらいの人がそう感じているんだろう。

 

心身ともに健康でいられる仕事ってあるんだろうか。

もしも、今の仕事が天職! と言っている人が居たとしても、わたしがその職について、最高! と感じられるとは限らない。

おそらくその人にとっては天職であっても、わたしにとっては違うものじゃないかと思う。

わたしの天職って一体?

 

仕事が恋愛と同じようなものだとすると、天職に出会うことは運命の相手と出会うくらいに難しいことだろう。

ネットで調べてみると、どれだけ正確なものかは分からないけれど、運命の相手と出会う確率を0.0000034%と書いてある記事もある。

ジャンボ宝くじの一等に当選する確率が0.00001%らしいので、どうやら運命の相手と出会うことは宝くじに当選することよりも厳しいようだ。

 

ただ、恋愛に関しては運命の相手を創作することはできない。

それは仕方ないことだ。人間は人間を創造することができないのだから。

これに対して、仕事はそれができる。

お金がちゃんと得られるかどうかは別にすれば、自分の理想の仕事を作ることは、誰にでも可能なことだ。

そこは、仕事の利点だと思う。

この利点だけで、天職に出会う確率をぐぐぐぐっと上げてくれる。

 

まあ、ここで問題なのが、「生活していけるだけのお金がちゃんと得られるかどうか」という点だ。

これは誰しもが解決しがたい課題なんじゃないかな。

あなたはどうだろう?

あなたの仕事に満足をしていますか?

充実した生活になっていますか?

 

わたしはこの課題、どうやって解決すればいいのか、ずーーーっと悩み中だ。

悩みすぎて眠くなってきたので、もう寝ることにするけど。

 

 

他人の悪口を言うことが苦手だ。

自分自身がドス黒いものに染まっていく気がするからだ。

 

あなたは、人の悪口をよく言う?

そもそも、悪口ってどんなものなんだ、ということなんだけど。

わたしとしては、定義づけるならば「救われないもの」だと思う。

まず、人間にとって時間は平等に与えられた貴重なものだ。

そんな貴重なものを、他人のことを貶すために使うことは本当にもったいない。

それに、わたしの場合、言ったあとに少なからず罪悪感が胸に広がる。健康的にもよくない。

 

 

そんなこと言ったって、悪口を言うとすっきりするんだもん! という気持ちはよくわかる。

わたしも耐え難い人が同じ職場にいた時に、その人の悪口を他で言ったことがある。

そうすると、言った瞬間、わりとすっきりした。

でも、今になってそのときのことを考えてみると、「悪口を言うこと」ですっきりしているんじゃなくて、実は「他人から共感を得る」だったり「どれだけ自分がその人と関わることで辛い状況になっているのかを知ってもらうこと」にすっきりしたんじゃないかと思う。

 

結局言ってから罪悪感を感じるくらいだったら、相手を楽しませながら、自分も楽しみながら悪口が言えたらいいのになあ。

いや、それってもはや、悪口ではない。

なんというか、他人を楽しんでいる。

 

これが悪口になってしまうのは、自分に余裕がないときなんだろうな、と思う。

余裕がないと、他人を楽しむ気持ちを生むことは難しいわけだから。

 

 

あなたの人生には、余裕がある?

うーん。余裕ってどうやって作ればいいんだろう?

わたしは仕事をしているとき、毎日に余裕なんて一ミリもなかった。

今は休んでいるから、心の余裕があるものの、働きながら心の余裕を満たす、っていう感覚が全く理解できない。

生き方が下手なのかな。

どうなんだろう。

 

たまに思ったりする。

悪口を言っても心が全くもやもやしないような人になれたら、もっとこの世の中生きやすいんだろうなって。

人が悪口を言っていても、「はあ? わたし別に悪くないし~」とか言って、全く気にしないような性格。

羨ましすぎる。

そういう人は、全く他者からの影響がなく、心に余裕を持つことができるんじゃないかな。

そんな人になったことがないから、分からないけど。

 

 

まあ、とにかく、何にしても、わたしはそんな性格ではないから悪口を言うことが苦手だ。

悪口にさらされない世界があるのならば、行ってみたい。

その世界では、悪口を言いたくなると、身体に埋め込まれているチップが作動して、面白い想像に入れ替わってしまう。

いつの間にか自分の考えが入れ替わっているっていうのも怖い話か。

うーん。でも、そんな世界だと悪口のもやもやからは解放されているんだろうな。

 

妄想が止まらなくなりそうなので、このへんで。

わたしは化粧ができない女だ。
大学生になっても、化粧道具の使い方すら知らない、もしくは持っていないという始末だった。

これではだめだと一念発起して、ニコニコ動画やYouTubeにあがっている化粧動画なんかを見てそれを一生懸命真似ようとしたけど、そもそも、化粧をするという行為がどうしても自分に不釣り合いな気がしてしまう。
他者の目を気にするあまり、似合いもしないのにお洒落しようと頑張っちゃって……ってな具合に見られるのが恥ずかしいのだ。

ちなみにこの考え方は、化粧だけではなく、洋服選びの際にも発動される。
柄にもない似合わない服着て、一生懸命お洒落しようとしている……服に着られている……。
まわりからそう見られることが恐ろしくて仕方ない。


ところが最近、服装の方は他人からの目という恐怖が落ち着いてきた。
もう若くはないからだろうか。
そこまでごてごてと着飾る年齢は過ぎ去ったでしょ。ユニクロなんかのシンプルかつ自分の体に合う服を来ていればそれでいいわ。
……という考えに至った。
考えていること(着たいと思う服)と、着る服が、やっと一致してきたように感じる。


でも、化粧は未だにつかめない。
むしろ、こちらは歳をとればとるほどしないとけないものになっていく。
世間様に見せるには申し訳ない部分(皺やシミ)を隠さなければならない。
そう思うと、幾分「化粧をしても許されるかな」という気にはなる。

これで大手をふって化粧ができる! と思いきや。
問題、発生だ。

そう。
わたしには、化粧技術がないのだ。
若い頃から化粧をしている人たちが短時間でこなせる作業を、悪戦苦闘してもできなかったりする。

あなたは、どう?
あなたが男か女かは知らないけど、最近では男も化粧やスキンケアをするそうだから、もしかしたらそんなの余裕、って言ってるかもしれない。

わたしの練習はこれから始まる。
そして、長い長い道のりになりそうだ。

 

随分前に、「逃げるは恥だが役に立つ」というドラマが流行った。

原作は海野つなみさんの漫画「逃げるは恥だが役に立つ」だ。

とても大好きな漫画で、読み始めると手が止まらなくなってしまうほど面白い。

 

でも、わたしにとってはいまいち「逃げる」という表現がしっくりこなかった。

「逃げる」のレベルが甘いっていうか、可愛いっていうか、なんというか。

それすら美しく見えてしまう。

だって、一人一人の登場人物が魅力的で、自分の信念に従って悩んで、「逃げる」ことを選んでいるっていう印象があるからだ。

この人の「逃げる」は、そりゃ、許されるでしょっていう。

やっぱり漫画の中の出来事だ。

わたしみたいな魅力的でもなんでもない人間が、ただ辛くてグダグダと「逃げる」ことは恥さえあれ、役には立たないと感じる。

 

 

 

わたしは最近、仕事から逃げ出した。

今も述べたように、魅力的でも何でもないわたしは、自分の信念に従うというよりも、自分の生きづらさに違和感を感じて、病気休暇という「逃げる」道を選択した。

そこで、逃げることっていけないことだろうか? ということを、今一度考えてみたい。

 

 

あなたは人生で逃げたことってある?

わたしは本当につい最近逃げ出したんだけど、実はこれまでにも何度か逃げ出したことがあるんだよね。

それは、付き合っていた彼氏から。

もしくは、働いていたバイト先から。

あるいは、所属していた部活から。

そして、耐えられなかった人間関係からも。

まだまだたくさんある。

 

あれ?

何度かっていうか、こうして思い返すと、自分の人生って逃げていることが多いんじゃない?

 

もちろん、逃げなかったことが、ないことはない。

でも、それだって期間満了で終わりになったから逃げる必要がないというだけで、今ではもう続けていない。

いつだって、自分には合わないと感じると逃げてきた。

 

逃げるは恥だが役に立つ。

この言葉のように、逃げることが<ときには>必要だというのは、まわりの人からも認められやすいことだと思う。

でも、やっぱり逃げてばかりっていうのは、マイナス要素になり得るんじゃないかな。

 

 

あーあ。

ってことは、今は休暇中、つまり逃避中なわけだけど、いずれは逃げてきたあの環境に立ち向かうべきなのかあ。

あの辛い日々がまた自分に訪れると思うと、不安がこみ上げてくる。

いっそ、逃げてしまいたいんだけどな。

 

なんとか逃げる自分を正当化できないものかと、ネットの海を漂っていたところ、「逃げることで、人は成長する。」というわたしが探し求めていた記事を発見した。

なんという幸運。

藁にもすがる思いでページを開いてみると、そこにはわたしのよく知る人がいた。

幼い頃から大好きだった絵本をかいた方、五味太郎さんだ。

 

五味太郎さんは、自分の趣味か、そうじゃないかという視点から話を進めている。

『そこの場所が気に入らない、自分にとってよくない、ピンチだ、あるいはつまらないっていうのに、その場所を変える努力、仲間を説得して、つまるようにしていく。そういう努力は、趣味じゃないね。』

 

趣味じゃないね。

そんな簡単な見方もあっていいの!? と、仰天した。

わたしはこれまでしてきた経験から、勝手に選択肢を1つに限定していたのかな、と思う。

五味さんが言うように、そこの場所が気に入らない、ピンチ! などといった問題がもしも起きたとしても、相手を変えることはできないので、なんとか自分が変わる努力をすること。

これに尽きる、と思っていた。

だって、自分を変えずにそこから逃げ出すなんて、選択肢として他者からあまり認められないことだろう。

 

他者から。

 

わたしはいつも他者からどう見られるかを気にする。

自意識過剰だ。

他者はそんなににわたしのことなんて見ていないんだから、そんな他者に認められるかどうかなんて、気にする必要もないことなのに。

それでも、気にしてしまうのがわたしだ。

 

そうやって、がむしゃらに「自分が変わる努力をする」という1つの選択肢を固辞し続けてきたけれど、それを意図も容易に「趣味じゃないね。」で片付けられるなんて。

もう、驚きを通り越して、逆に爽快な気分だ。

 

五味さんは、こうも言っている。

『俺が合うところは、世界は広いんだからあるだろうって。俺が動けばいいんだ。その日のために鍛えた足腰ってのがあるよね。』

 

なるほど~!

「逃げる」っていうか、「移動する」って捉えになっちゃうのか!!

もう、目から鱗、寝耳に水。

頭の中で魚でも飼っているんじゃないかって気分だ。

 

でも、考えてみればそうだ。

「逃げる」っていうのは、その環境にいる人たちから見た状態であって、自分から見れば、ただ「移動する」にすぎないことなのかも。

 

 

どうかな?

もし、あなたがどこかへ逃げてしまいたい、と思ったとき。

わたしと一緒に、どこかへ「移動する」と考えてみない?

 

わたしは、そろそろ移動をするつもり。