邪馬台国の卑弥呼についての考察です。人によって賛否があると思いますが、お読み頂き有り難うございます。
なぜ卑弥呼が女王になったか
卑弥呼がいた邪馬台国の場所は弥生時代の九州北部大分県宇佐市付近であった
邪馬台国とは大和国のことであった
卑弥呼は日向(ひむか)だった
192年 仲哀天皇(第14代)
在位約8年 大和国(やまとこく)に従わない地域と戦いの時、52歳にし
て崩御、大和国の王がいなくなり勢力争いが起こり、国が乱れた。
200年頃 卑弥呼(日向)が邪馬台国(大和国)の女王になる
各地の勢力は天照大御神の声を聞ける日向(ひむか 魏志倭人伝では卑
弥呼と表記された。)を共同で選び女王に樹立し、平和が回復した。
248年 日向(卑弥呼)死去
日向の墓が大分県宇佐市の宇佐神宮の亀山に造られた。現在も比売大神
社殿付近の地下に石棺が埋葬されている。
男王を立てるが国が混乱
日向の姪の臺與(とよ)を日向の後継者とし、大和国は収まった。
臺與も日向同様天照大御神のお声を聞くことができる霊能者巫女
であった。姪の親族でありそのような霊能者であったことも皆が
納得した理由であった。
(邪馬台国は元々邪馬臺國と表記されていて「臺」の字は「と」
と読まれていました。臺與(とよ)の臺と同じ字が使われていた
のです。これを「と」と読んだときに「やまとこく」となること
に注意してください。邪馬台国はやまとこくと聞いてそう表記さ
れたのでしょう。日本の記紀に邪馬台国と出てこないのはそのた
めです。邪馬台国とは大和国のことですから。)
臺與死去
臺與も宇佐神宮の亀山に葬られた。この亀山では工事の際に石棺が二つ
発見されていて、恐れ多いとして調査されず、すぐに埋め戻された。石
棺は中央のニ之御殿の前と三之御殿の前の二か所、地下約2mの所に埋
まっているといいます。
元々廟神社と言われており、ここで祀られている比売大神(ひめおおか
み)とは日向と臺與のことであると考えてみます。二つの石棺は二人の
ものであると考えると自然です。
神宮としてある以上は応神天皇と神功皇后も一緒に祀られたほうが、体
裁がつくと考えられます。しかしながら、三社繋がりのこの社は、なぜ
か真ん中の比売大神の部分が立派でメインのようになっています。ただ
し、応神天皇と神功皇后(じんぐうこうごう、応神天皇の母)の墓はこ
ではなく、大阪と奈良にあります。
この間、仲哀天皇の皇后であった神功(じんぐう)皇后は、応神天皇即
位までの間摂政を務めた。
270年 応神天皇(第15代)即位
応神天皇と神功皇后は、日向のいた九州北部の大分県宇佐市の港から周
防灘を舟で渡り山口県を通って畿内へ向かいました。
古代ギリシャの女神ヘーラーと臺與は現代の日本に生まれ変わっていた
古代ギリシャの女神ヘーラーがG会のTK子さんで、臺與様がレムリアル・ネッ
サンスのアマーリエさんです。二人とも霊能者で今回、アマーリエさんは*第3
計画のレムリア・ルネッサンスで大変画期的なお仕事をされました。大和国を天
皇に引継ぐごとく、真理の法灯を現在地上に生まれ成長されているセラビム(孔
子)様に継承されて行くことになるようです。
*第3の計画とは天上界の立てた計画で、第1の計画は高橋信次氏の活動
によるもので、第2の計画へ移るためのものだった。第2の計画はKK会
のOR氏による預言であった。第3の計画によって、OR氏のやり残された
ことが、アマーリエさんによって成し遂げられました。